その二十九 宋江、再び空を飛ぶのこと
「他の誰に見えるってんだ。それとも俺の顔を見忘れたか?」
「いや、そうじゃなくて突然だったから……ってそんなことより! 今までどこに行ってたのさ! 連絡も寄越さないで!」
「連絡寄越さなかったのはお前もだろ」
「僕は一回手紙出したよ! って、それはどうでもいいから! 呉用さんだって心配してたんだよ!」
「うるせーな。ピーピーと。このまま投げ捨てるぞ」
「ごめんなさい。とりあえず縄を外してもらえると助かります。晁蓋様」
「気持ち悪い頼み方すんな」
と言いつつも、晁蓋はまるで紙紐でも扱うかのような調子で宋江の手と足に結んでいた縄をあっさりと引きちぎった。それを待っていたかのように、ぶるるんと先ほどまで宋江とつながれていた馬が走り去っていく。あるいは気づかなかったが晁蓋が押さえつけていたのかも知れないが。
「で、だ……おっと」
と話し始めたところで、前触れも無く晁蓋が風のように消える。
「ちょっと晁蓋!?」
慌てて左右を見渡す。が、彼の姿はどこにもない。なおもキョロキョロとしているとややあって、背後から鈍い打撃音と悲鳴が聞こえた。慌てて、そちらの方向を見ると、のそりと晁蓋が何かを引きずって現れる。そしてその引きずっていた何かをぴょいっと上空に向かって放り投げた。
(人……?)
もはや晁蓋のすることにいちいち驚く気はせず、その人影をぼんやりと見上げる。上空およそ15メートルほどで一瞬停止したそれは、当たり前だがすぐに地面に向かって一直線に落ちてくる。
「う、わああああああああああーーーーー!」
その声で、ようやく宋江はそ人影が河清だと言うことに気づいた。どうやら、自分から少し遅れてこの場にやって来たらしいが、よりにもよって最悪のタイミングで追いついてしまったらしい。
約15メートルの高さから、地面に激突しようとした寸前の河清をまるで人形でも扱うかのように晁蓋がその足首を掴む。ぎりぎりのところで激突は免れたわけだが、それを救いとは誰も表現しないだろう。
「お前の事は覚えてるぜ。あのでかいのの片割れだろ。多分お前結構偉いやつだよな。あのデカ物はどこだ、おい」
「……ひょっとして河濤って人のこと? その人なら死んだって聞いたよ」
なんとなく、晁蓋の探している人物について感づいた宋江は横からそう口を挟んだ。
「なんだ、つまらん。まあ死んじまったもんはしかたない。となると……おい、お前知ってるだろ。あいつが俺のとこから持ってったものがどこにあるか」
言いながら、晁蓋は河清の足首を握っていた手を放した。どさりと無抵抗のまま河清が字面に横たわる。
「………」
晁蓋を見上げる河清の目からはまだ戦意が失われてないように見えた。それに対して晁蓋は彼が腰に差していた剣を器用に蹴り上げると、河清の体を踏みつけて、その剣を彼の肩口につきつける。
「両腕が無くなったら、この先、苦労すると思わないか」
それでも河清は口を開きはしなかった。と、そこに集団が走り込んでくる音が響いてくる。
「あ、どうしよ……」
「好きにすりゃいいじゃねえか」
自分が追われている立場だと急に思い返した宋江に対し、晁蓋は無感動に告げる。確かにもう自分をしばる枷は無いのだから逃げても良いのだが、結局宋江はそのままそこに棒立ちのままでいた。軍勢が思いの他、早く現れたというのもあるが、何よりなんだかんだと言っても、晁蓋のそばに居るのが一番安全だからだ。
「か、河清様!?」
「晁蓋!?」
馬に乗った先頭の男と複数の兵士が引きつった叫び声を上げる。晁蓋を知っていると言うことは済州から来た兵士なのかも知れない。一方、馬に乗った男はもう少し違う格好、というか上等な鎧を身にまとっている。おそらく、河清と一緒に開封から派遣された兵士なのだろう。
一瞬、沈黙が辺りを支配する。破ったのは河清の声だった。
「殺せ! こいつらを!」
「し、しかし……」
「とっととしろ!」
河清と彼の部下と思しき男との間でそんな会話を交わす。晁蓋はその二人の様子を妨害する事も無ければ、口さえ挟まず眺めていた。
河清の部下が戸惑うのも無理は無い。突撃するにしろ、矢を遠巻きに撃つにしろ、攻撃を加えたら、晁蓋のすぐそばにいる河清が巻き添えになるのは明らかだ。まして、晁蓋の事を多少でも知っているなら中途半端な攻撃を加えたところで、彼を討つことがどれほど難しいか知っているはずである。
一方で、河清からしてみれば、こうなってしまった以上、部下がうまく自分を避けて晁蓋を倒すことを祈るしか無いのだろう。降参という手段を執らないところを見ると、言動から受ける印象に反して、割とプライドの高い人間なのかも知れなかった。
「ふうん」
と晁蓋は何か感心したように言って、河清を押さえつけていた足を外した。河清は、当たり前だが、予期していなかったのだろう。ぱちくりと目を見開いた。
「十数える間だけ待ってやるぜ。十、九、八……」
晁蓋に言われて河清はがばりと跳ね上がると味方のいる方へと一目散に走り去って行く。
「晁蓋!?」
宋江も河清と同じく晁蓋の行動は理解できず思わず声を上げる。
「……六、五……何だ? 後にしろよ。どこまで数えたのか忘れちまったじゃねーか。えーと五までだっけか 五、四……」
(ああ……)
一瞬こちらを振り向いたときに見えた晁蓋のうれしそうな表情を、そう、まるで大好物を目の前にした少年のような表情を見て、宋江は全て悟った。
何故、わざわざ河清を解放したのか? 決まってる。河清があのままだったら、敵が自分と戦ってくれないじゃないか。
「二、一……」
「撃て!」
晁蓋が十を数え終わるより早く、味方の元にたどり着いた河清がそう叫び、宋江は咄嗟に近くにあった荷車の陰へ飛び込んだ。
直後、矢がひゅんひゅんと宋江の上空を超えて飛んでいく。と言っても矢が飛んできたのは最初の数秒のことですぐさま攻撃は止み、激突音と金属のひしゃげるような音、そして馬のいななきと兵士の悲鳴がすぐに宋江の耳に届いた。
「に、逃げろ逃げろぉ! 殺されちまう!」
「どけっ、どけよっ! 早くどけっていってるだろうが! あいつが! あいつが来る!」
「こ、こら貴様ら! 勝手に逃げるなど許され、げふっ!!」
宋江のいる位置からは離れていることもあって、聞こえてくる音は若干不明瞭だった。それでも、何が起こっているのか把握するには十分だったが。
(ああ、せめて、せめてあの河濤って人が生きてたら、晁蓋もあそこまで好き勝手しなかったろうに)
その場合、宋江達の脱出は数倍困難なものになっていたのだが、宋江は晁蓋と相対している兵士達に思わず同情するあまりそんなことまで考えていた。それほどまでに聞こえてくる音は一方的なものだった。
ふと横を見れば、さきほどまで自分をひきずっていた馬に乗っていた兵士は兵士は、哀れなことに味方からの流れ矢が見事に喉に刺さったらしく、事切れていた。
(……と、河清は?)
さすがに彼から目を離すのは危険だと思い直し、荷車の陰から顔を出し、辺りを伺う。河清はすぐに見つかった。晁蓋の突進する先で定期的にぽーんぽーんとお手玉のように空に放り投げられている人影がそれに違いなかった。
「で、改めて聞くが、あのでかぶつが俺のところからもってったものはどこにある」
一分も経たないうちに兵士達はすっかり逃げてしまい、辺りには再び、晁蓋、宋江、河清の三名だけが残された。その状況で晁蓋は改めて河清に問い直す。
「……俺の天幕にある」
さすがの河清も観念したかのようにそう答える。むしろ晁蓋にあれだけされていて、今まで戦意がよくもった方だと宋江は思っていたが。
「案内しな」
と言って晁蓋は河清の襟を、まるで猫でも掴むようにして持ち上げる。
「……あの、晁蓋? 晁蓋が探してるものって?」
「後で見せてやる。どこだ?」
「そこを右だ」
話について行けず、宋江は口を挟んだが、晁蓋は宋江にそうとだけ言うとすたすたと河清とともに、すぐそばにあった通路、というか天幕の間に向かって歩き去って行く。
「ちょっと待って、僕も……」
と、宋江はついていこうとして、疲労とそして何より緊張が解けたせいなのだろう、何も無い場所であっさり転んでしまった。もちろん晁蓋は宋江が立ち上がるのを待ったり助け起こすような男では無いので、あっという間に姿が見えなくなる。
「……待ってくれたっていいじゃんかよぅ」
よろよろと起き上がりつつ、むなしい要求を口にする。無論、視界から消えた晁蓋から言葉は返ってこない。が、
「宋江! 無事なの!?」
背後から声がかけられる。声の主は花栄だった。彼女はいつになく必死な様子でばたばたとこちらに走ってくる。
「これ、どういう状況……? ってまあいいや。無事なら無事ですぐ秦明さん達のいる船へ行こう!」
「え? あ、うん。でも、ちょっと待って欲しいんだ。さっき晁蓋が……」
「待てないよ! さっきみたいなことが無いとも限らないし! 今はどういうわけか敵がいないっていうかぶっ倒されているみたいだし、……縄も解かれてるの? ああもう! わけわかんないけど、とにかく全部後回しで、早く行こう! こんな千載一遇の機会、逃せないんだから!」
「いや、そんなに焦らなくとも大丈夫だと思うけど……」
「どうして、そんなに落ち着いてるのさ!! あんた、敵に捕まってたんだよ! 死ぬとこだったんだよ!」
「ああ、えーと、うん。そうだった」
晁蓋が現れた事を知らない、というより実際の晁蓋を目にしたことの無い花栄からすればそう思うのも無理は無い。だが。逆に晁蓋の一連の行動を見て、何より彼のことを知っている宋江としては花栄の気持ちは理解できても、自分でもどうかと思うほど、それに共感することができなかった。
「でも、もう大丈夫なんだよ」
もう少し言えば、このまま花栄の言うとおり帰っていいかもしれない。別に晁蓋にここで待ってると約束したわけでもないし、帰ったところで彼も怒ったりしないだろう。が、それだとまた、晁蓋は糸の切れた凧のようにどこかへ行ってしまう。宋江はできることなら彼と一緒に梁山泊へ帰りたかった。
「大丈夫って何で?」
さすがに宋江の落ち着きっぷりが尋常で無いと気づいたらしい花栄が聞いてくる。
「晁蓋が来たんだよ。なんでだかは全然知らないけど、多分ここにいたらすぐ戻ってくるはずだから」
「いや、晁蓋って人が頼りになるとは聞いているけど、だからってこの状態が危険なことには変わりないでしょ!?」
と言ってると、
「宋江! いるか! いるなら返事してくれ!」
「宋江くん!」
と林冲と秦明の声が聞こえた。
「林冲さん! 秦明さん! こっち!」
と答えたのは花栄だったが。いずれにせよ、花栄の声に反応して宋江の前にすぐさま二人が現れた。
「無事なのか? これは……花栄がなんとかしてくれたのか?」
「無事なんかじゃ無いわよ、もう。手だって皮が剥けてるし、他にもいっぱい傷ができてるし!」
「傷?」
宋江は改めて自分の体を見下ろした。おそらくは馬に引きずられた最中にできたものだろう。皮の剥けた手首周辺とは別に露出していた腕や胸にはそこかしこに傷や青あざができていた。直接傷口は見えないが、ズボンもそこかしこで血が滲んでいるのがわかる。
なにより、今まで意識する暇すら無かったが、動かすとそれらの部分が痛みを訴えてきた。
と、自分の状態を確認していると近づいてきた秦明がぎゅっと自分の体を抱きしめてきた。秦明の柔らかい体と汗の混じった彼女の香りが宋江の脳を刺激する。
「でも良かった。宋江くんが来ないから、敵に捕まっちゃたのかと」
「え、ええと、そういうことじゃないんですけど……すみませんちょっと色々ありまして……」
秦明に抱きすくめられながら咄嗟に嘘をついたのは、ここでその秦明の懸念を肯定すると彼女がより一層悲しむと思ったからである。
「あ、あの、秦明さん、服に血がついちゃいますよ」
「もう、そんなこと気にしなくて良いの! ぐすっ……ごめんね、肝心なときに私、怪我して一緒にいれなくて……」
「いえ、そんな謝られることじゃないですよ。この傷も見た目はひどいですけど、そんなに深刻なものじゃないですから」
体を震わす秦明を落ち着かせるように背中をぽんぽんとたたく。
「秦明さんこそ、無事で良かったです。林冲さんの事は信じてましたけど、やっぱり会えるまで不安でしたから」
「……うん、ありがとう。宋江君のおかげでみんな無事だよ」
ようやく少し落ち着きを取り戻したらしい秦明は腕を緩めてこちらとの距離を開けると改めてしげしげと自分の体を見下ろして秦明が尋ねてくる。
「本当に怪我は大丈夫なの?」
「ええ。痛まないわけじゃ無いですけど、多分数日すれば完治すると思いますし……」
「そう。なら本当に良かった。……ところで、この傷どうしたの?」
「え? あ、えっと、その……ちょっと馬にひかれて」
「馬に?」
ぴくりと秦明の表情が微かに変わると同時、彼女の纏う雰囲気が微妙に変わったことに宋江は気づいた。
「ひかれて……? 引きずられてってこと? うん、確かに傷の状態からしてそう……」
ぶつぶつと、秦明は何事か呟くとやにわに顔をこちら向けて言った。
「ねえ、宋江君。その馬に乗ってたのはどこの誰? 今、どこにいるのかしら」
秦明は笑顔で言う。だが、その笑顔は今まで宋江が見たことのあるどの表情とも異なっていた。笑っているのは間違いない。口角をあげて、目を細めて笑っているのは。だが、それは何か強大な感情を隠すための仮面に過ぎないと、鈍い宋江でもわかるほどに、秦明の周囲の空気は渦巻いていた。
「え、えーと、それをした人は、その、もう死んじゃって……」
代わりに河清を突き出すという方法もあるが、彼は晁蓋が連れて行ってしまったし、何より秦明に河清を引き出した場合、彼女が何をしでかすか宋江は純粋に怖かった。秦明の背後にいる林冲が顔を引きつらせているのを見ると多分、自分の予感はそう間違ったものでは無いのだろう。
(……そういえば、怒ってる? 秦明さんを見るのってこれが初めてかも)
「そう……? それなら、まあ……仕方ないわね」
と秦明がまとっていた雰囲気がいつもの柔和なものへと次第に戻っていく。
「あ、あの、秦明さん」
「うん。何? やっぱりどっか痛む?」
「いえ、そうじゃないんですけど、えっと……手、握ってもいいですか?」
「え? 手を? 別に良い……けど」
秦明が素直に両手を差し出してくるので、それを握る。そしてにぎにぎと動かす。
「な、何? なんか、改まってこういうことされると、なんだか、その……恥ずかしいわ」
そして、そのまま彼女の手を触っていると秦明は彼女にしては珍しく顔を赤らめる。
「秦明さん、この体勢で我ながら卑怯だと思うんですけど……ごめんなさい。心配かけてしまって」
「え? い、いいのよ。そんなこと。宋江君が謝ることじゃないもの」
「これから気をつけるようにしますね」
「う、うん……あの、そ、そろそろ放してもらっても?」
「あ、ごめんなさい」
言われて宋江はぱっと手を放す。だが、こちらの目論見通り、彼女の攻撃的な雰囲気はきれいさっぱり消え去っていた。
「あ、違うのよ! その、嫌とかじゃ無くて……なんか、この落ち着かないって言うか……そのどきどきしちゃってっていうか……」
と秦明は自らの服の裾をぎゅっと掴む。
「あ、あのね、宋江君、その、もう一回……」
「この、ド阿呆! 何ぼさっと突っ立ってるの、こんなところで!」
と秦明が言いかけたそのタイミングでかぶさるようにそんな台詞が響くと同時に、宋江は頭をはたかれた。
「あだっ!! ろ、魯智深さん?」
おおよそ、声で察しはついていたが、改めて見上げて涙目で確認する。彼女は全速力で走ってきたのか、ぜーぜーと荒い息を吐いていた。
「敵陣の真ん中で! 何をぼさっとくっちゃべってるの! あたし達がどんな気持ちでここまで来たのか一から説明しないとわかんないの! ねえ!」
怒鳴られながら、襟を掴まれ、ガクガクと前後に揺さぶられる。
「ご、ごめんなさい! 謝ります。謝りますから! 許してください」
「そんな言葉一つで済ませようっての! あんた!」
「ちょっと魯智深さん。その位にしてよ。宋江くん怪我してるのよ」
「こんだけしゃべれてりゃ平気でしょ! それよりあたしは言いたいことが……」
「平気じゃ無いもん! いっぱい血が出てるし! 体中傷だらけだし!」
「あのお二人とも落ち着いて……」
「「宋江は黙ってて!」」
「……すいません」
魯智深と秦明に同時に怒鳴られて宋江は思わず縮こまった。
「……だから早く戻った方が良いって言ったのに」
呆れたような花栄の声がものすごく耳に痛かった。
「良かった」
と不意に腕が捕まれる。見ればいつの間にか、近づいてきた楊志だった。
「あ、楊志さん、これは……その」
「帰って……帰ってこないからひょっとし、ぐすっ、思っちゃって、うえ、うえええええええ……」
安心しきったのか、こちらの服に顔を埋めて楊志は子供のように泣き出す。
もう宋江はいたたまれない気持ちで一杯だった。強いて言うなら勢いをそがれたのか、魯智深と秦明が大人しくなったのが、唯一の救いだったが。
「……これ、どういう状況なの?」
と、そこに遅れてやってきた雷横が不思議そうに辺りを見渡しながら尋ねてくる。その後ろにいる朱仝も、声にこそ出さないが同じ疑問を抱いているのは一目瞭然だった。
彼女らの疑問はもっともだったが、宋江は自分で説明しきれる自信が無かった。と、そこに。
「なんだ? ずいぶんと人数が増えてんな」
と怪訝そうな表情で晁蓋が現れた。一緒にいたはずの河清はおらず、代わりに小脇に人の頭ほどの大きさの包みを抱えていた。どういうわけか、微妙に血がついている。
「ああ、なるほど……」
「晁蓋さんが……来てしまったのですね」
大半の人間が状況を把握できず、辺りを見回してる中で、雷横と朱仝だけが悟りきった表情を見せていた。
(何が何なんだか……)
最後にようやくその場に到着した黄信は頭を抱えていた。
みんなに遅れてついて行けば、秦明はおろおろとしているし、楊志は泣いてるし、魯智深は怒りを露わにしている。花栄と林冲は珍しく憔悴しきった様子で、雷横、朱仝、索超の三人は露骨に苦虫を潰したような顔をしていた。
その中心にいる宋江は弱り果てた表情をしているが、黄信としては彼にこの場をまとめて欲しかった。と、それとは別に宋江の横にいる大男も気になる。
「……宋江殿、そちらの方は?」
どうも自分が黙ったままでは話が進まないと判断し、黄信は宋江に尋ねた。
「ああ、そっか黄信さんも会ったこと無いよね。この人が晁蓋だよ」
「こちらが……」
黄信は改めて、その男を見上げた。ぼさぼさの服と無精ひげからすると、ここ数日、野宿でもしていたのだろうか。
だが、それよりも目立つのは長身の体と、袖や胸元などわずかに露出した部分からも察しがつく鋼のような肉体だった。加えて猛禽類のような鋭い瞳に、後ろで乱暴にまとめられた長い黒髪。立っているだけで見るからにただ者では無いと感じさせる何かがあった。
「なんだ、朱仝に雷横。お前らまでなんでこんなとこいるんだ? 公孫勝や劉唐と一緒にどっか行ったんじゃねえのか」
「……そういえばそうでしたね。晁蓋さんにはそこから説明しないといけないんでしたね」
と言って朱仝は何もかも諦めたような長い長いため息を吐いた。
「とりあえずさ、河に船があって阮小二さん達が待ってると思うから、晁蓋も一緒に帰ろうよ」
「そうだな。目的のものも手に入れたし」
「すまない、二人とも。ちょっと話をさせてもらえるか?」
と宋江と晁蓋の間に果敢にも割っていったのは林冲だった。
「誰だお前」
「林冲という。宋江に恩があって彼に力を貸してる」
「ふーん……」
「晁蓋、さすがに今は止めてね」
値踏みするように林冲を見る晁蓋に宋江がそう釘を刺すように言った。
「……わかったよ。で、何だ?」
「ああ……こちらに来るときは敵は混乱してたせいもあってか、あっさりとこちらを通してくれたが、帰りはそう簡単に通してくれるとは思わない。おまけにこちらは怪我人も多いんだが……晁蓋殿、あなたに戦力的に期待してもかまわないか?」
「期待? お前何か勘違いしてねえか? おれ宋江の部下でもお前の部下でもねえぞ」
「む……確かにそれもそうだな。失礼した」
「わかりゃいい。でなんだ、要はお前ら全員、河まで行きたいって事で良いんだな?」
「ああそうだが……」
「あの林冲さん、そういう言い方すると……」
宋江が何か言いかけたそのときだった。
「追いついたぞ、貴様ら!!」
と背後で大声と地響きがした。
「逃げ出したと思ったらまさか戻ってくるとはな! 裁きを受ける気になったか、賊どもめ! その心意気やよし! 今なら寛大な処罰となるよう取りなしてやってもいいが、さあどうする!」
先頭にいる馬上の男が興奮気味にそう叫ぶ。ややあって、黄信はそれが先ほど、自分たちの船を取り囲んでいた一隊の指揮官だと気づいた。岸からここまでご丁寧に追いかけてきたらしい。
「こいつが手頃かな」
とそんな敵の様子を完全に無視して晁蓋が近くから持ってきたのは箱形の荷車だった。食料が満載されていると思しきそれを、彼は玩具でも扱うように片手でひっくり返して中身を空ける。
(……あの荷車、積載されてる荷物だけでも、どう少なく見積もっても百斤(約60キロ)はありそうなものだが……)
それをあっさりと片手で扱う晁蓋の様子を見るに、今まで聞いていた彼のでたらめな強さはどうやら完全な法螺話でも無いらしい、と黄信は判断した。
「おい、こいつに乗んな」
「何? 運んでくれるの?」
と魯智深がまずのそのそと無警戒に、次いで林冲が続いて乗り込む。
「あの、晁蓋……まさかと思うけど……」
「嫌なら別に良いぜ。置いていくだけだしな」
「……わかった。みんな乗ろう」
迫ってくる敵と晁蓋という男を交互に見て、宋江が諦めたように乗り込む。それを皮切りにどやどやと残る全員も乗り込む。最後にどういうわけか心底嫌そうな顔をした朱仝が乗り込むと宋江が叫んだ。
「全員、荷車の縁に捕まって!!」
「縁を? どうしてです?」
疑問に思いながらも、黄信は言うとおりに縁を掴んだその次の瞬間、ぐっと視界が高くなる。
「も、持ち上げられた!?」
花栄や雷横のような小柄な女性も含むとは言え、八人もの人間がのった荷車を、あっさりと持ち上げた事に驚愕する。だが、本当に驚いたのは次の瞬間だった。
「あらよっと」
足下からまるで小石でも放るような軽い声。だが、次の瞬間、黄信を襲ったのは猛烈な横からの重圧だった。と同時、前方に居た花栄がこちらにふっとんできて押しつぶされる。
「ちょっと何これ!!」
「まさか……飛んでるの!?」
ややあって魯智深と秦明の叫び声が狭い車内に響いた。黄信は外の様子を見たかったが、花栄に押しつぶされてそれすらままならない。
「やっぱり、こうなったかぁ……」
「予想通りでしたね。当たって欲しくなかったですけど……宋江さん。恨みますからね」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
「朱仝さん、宋江を責めるのは後にしましょう。というか、私たちこのまま、河まで飛んでくの!? でもこんな速度で落ちたらただ事じゃ済まないわよ!?」
「もうやだもうやだ! あたしあの人の顔、二度と見たくない!!」
「どうでもいいが、どいてくれ花栄!」
「どけるもんならどいてるよ!」
「なるほど。宋江はあの御仁と付き合っていたのか。これなら、多少のことでは動じなくなると言うものだ」
狭い車内はてんやわんやだった。やがて体にかかる重圧が無くなると、黄信は花栄を多しのけて荷車の外を見る。もっとも、車輪はどこかでとうにばらけたのか、自分たちの乗っている代物は荷車では無く木箱と言ったほうが適切だったが。
「飛んでる……」
下を見下ろして改めて呆然と呟く。自分たちの高さは二丈(六メートル)ほどだろうか。ぽかんとこちらを見上げる軍勢が一瞬目に入るが、それをあっという間に通り越し、やがて黄河の泥の混じった水が視界に入る。
「河に突っ込みます!!」
「この中で泳げる人居たっけ!?」
魯智深の問いに宋江だけがおずおずと手を上げる。
「全員、宋江に掴まるのよ!!」
「ちょっと待って。さすがに全員は無理!!」
「うるさい! あんたの知り合いが起こした事態でしょうが!! 責任取んなさいよ!」
「ぶつかるぞ!!」
「ああもう、せめて接地面を増やせれば、少しは!」
宋江が言ってばんと床をたたく。床の裏側で何かが起こっていたかはわからない。だが、どのみち箱はばらばらになって吹っ飛び、乗っていた人物達も上空に放り上げられる。ふんわりと気持ち悪い浮遊感があった後に黄信は水面に落ちていった。予想以上に速く自分の体が沈んでいくことに本能的な恐怖を覚える。
(溺れる……!?)
と思った次の瞬間、ぐいっと体が持ち上げられた。
「黄信! こっち! 登れる!?」
「げほっ、げーほげほっ!」
問いかけてきたのは秦明だった。返事する余裕も無くむせかえっていると、ぐいっと持ち上げられる。さらにそこで数回むせた後、周りを見渡すと自分は小さな透明の船に乗っていた。
「氷? これは、楊志殿の?」
透明の船体に触れて冷たいことに気づく。
「げほっ、今日一日で一番命の危機を感じたぞ」
同じく秦明に引っ張り上げられて林冲が上がってくる。その向こうでは宋江が雷横を背に乗せながら器用にこちらに泳いできていた。
「あとあがってきてないのは誰だっけ?」
秦明が周りを見渡す。
「花栄さんがまだですよ」
と答えたのは宋江だった。見れば少し離れた場所で花栄は大きめの木の破片を掴みながらぷかぷかと浮いている。うまいことそれで浮力を確保しているのか、憎たらしいほどに彼女は落ち着いていた。
「……寒い」
雷横のぽつりとした呟きに黄信も改めて自分の体を見下ろす。当たり前だが、自分の体はずぶ濡れの上に、周りは氷で覆われた船なのだ。寒くないはずが無い。
「火を起こすわけには……いかないものね……」
秦明がはあとため息をつきながら言う。
「皆さん、大丈夫ですか!?」
と、そこに聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「阮小二殿! 助かった!!」
割と本気で黄信はほっと息を吐く。せめてあちらの船に移れば体を拭くものも、着替えも多少はあるはずだった。
「全員おるか? おるようじゃな。はよ、こっちに移れ!」
公孫勝が言って船が近づくと、一人ずつ順に木製の船に乗り込む。最後に花栄を抱えた宋江が阮小二によって水中から気功で直接、直接船の甲板に持ち上げられた。
「もう一度確認するが、これで全員じゃな?」
「えっと、一、二……うん。全員居ます」
最後に宋江がそう確認するのを聞いて、黄信もようやくその場に座り込んだ。
「それで……何があったんじゃ?」
「……晁蓋が来まして」
宋江の説明はたった一言だった。が、阮小二と阮小五と公孫勝はしばし顔を見合わせて言った。
「災難でしたね」
「災難だったな」
「災難じゃったのう」
もはや今となってはなぜ宋江のたった一言で彼らからそういう反応が返ってくるのか、黄信は十二分に理解しきってしまった。




