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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第一話 邂逅編
10/110

その九 呉用、はかりごとを露わにするのこと

 帰りの旅は馬に揺られているだけだったので快適だった。最初に登るのだけ少々苦労するが後は馬が勝手にすすんでくれているので足の痛みも顔の痛みもほとんどなくなってきている。馬に乗ることに最初は恐怖感があったが、幸い宋江(そうこう)の乗る馬は気性も穏やかでそれほど苦労はしていない。


「いやぁ、途中はとんでもねぇことに巻き込まれたと思ったが終わってみりゃ中々の儲けになったな」


陳安(ちんあん)を退治して四日目の夜である。晁蓋(ちょうがい)は焚き火の横で上機嫌で酒を飲んでいた。この四日間で樽を二つあける勢いで飲んでいるので宋江は他人事ながら彼の健康が心配になっていた。


「うん、そうだね」


適当に相槌を打ちながら宋江は杯に入った酒をちびりと飲んだ。


 宋江は酒のうまみはまったくわからないが、晁蓋がしきりに飲め飲めと言うのでちびりちびりとなめるようにして付き合っている。とはいえ、宋江が四日間で飲んだ量はお猪口ひとつ分あるかどうか、といった按配だ。


 ただ、さすがに郭清に勧めようとしたときはとめた。その郭清(かくせい)は今はぐっすりと寝ている。その姿をちらりと見て宋江は前から疑問に思っていたことを晁蓋に聞いた。


「ところでさ、晁蓋」


「ん?」


「郭清のことだけど、どうするの?」


村に連れて行くのはいいが、宋江が気になるのはその先だ。もちろん、彼女が一人で生きるのは難しいので誰かが面倒をみてやらねばいけないだろう。だが晁蓋にこの年頃の娘の面倒を見る気概があるかと言えばとてもそうは見えなかった。


呉用(ごよう)さんに任すとか?」


「いや、無理だろ。あいつはそんな余裕ないし」


呉用がいたら、その余裕の無さを作り出しているのはお前だ、と指摘しただろうが、彼女は、今ここにいない。


「じゃあ、まさか晁蓋が……」


「なんでまさかってつけるんだよ。まあ、そんなつもりは俺も無いけどな」


「それじゃあ、丁礼(ていれい)さんたちとか他の村の人とか?」


「何言ってんだよ、お前が面倒見るんだよ。お前が」


「僕ぅ!?」


言って自分の声の大きさにはっとなる。心配になって傍らの郭清を見るが起きた様子は無い。


「なんだって、そんな」


「お前に懐いてるんだから、それが一番いいに決まってるだろうが」


「いや、言いたくないけど、僕、晁蓋の居候だよ」


面倒を見るといっても身の回りの世話ではないことはさすがに宋江もわかる。つまり、彼女の食い扶持を稼がなければならないのだ。


「そういや、そうだったな。んじゃ出てけ」


「容赦ない!」


「まあ、住む場所ぐらいは用意してやる。後はそうだな……こんなに馬が増えたんだ。馬屋番として俺が雇ってやるからなんとかしろ」


晁蓋が今まで持っていた馬は二頭だけである。それがいきなり九頭になるのだから、確かに世話役が必要だった。


「それ、今までとなんか違うの?」


ここに来る前も宋江は馬だけではないが、食べさせてもらっているお礼として色々手伝いはしていた。


「そりゃ違うさ。今までお前はあくまで客だったがこれからはうちの雇われ人だ。仕事しなきゃ給料は払わん」


今までボランティアだったのが金をもらってやる仕事に変わったと言うことらしい。それ相応の責任が発生するということだった。


「でも、なんで僕が……」


「なんだ、納得できないんなら娶ればいいだろ。それなら自然だし」


「メトレ?」


「結婚しろってことだ」


「ぶーっ!!」


思わず酒を噴出す。慌てて郭清を見るが起きた様子は無い。


「ちょっと僕たちまだ子供だよ」


宋江は十六、郭清は十二だ。


「まあ、ちょいと早いが別にいいだろ」


「よかないよ!」


「三年もすりゃ、十九と十五だ。別に普通だろ」


なんとなく宋江もこの時代が自分のいた現代よりだいぶ結婚が早いのはなんとなく察していた。だが彼自身は結婚なんてするつもりなどさらさら無い。まだ早いとかそういうのもあるが、なんだかそんなことをしたら後に引けなくなりそうになるからだ。宋江の、宗田幸一郎の気持ちとしてはここにいるのはあくまで一時的なものでいずれ、元の日本に(方法は分からないが)帰るつもりでいる。


「んなこと言うなら晁蓋はどうなのさ」


とりあえず話題をそらす作戦に宋江は出た。


「何がだ」


「僕より年上でしょ。結婚しないの」


「しねぇよ」


「どうして?」


「どうしてって……あんなことして何が楽しいんだか俺にはわからん。家事なら家政婦を雇えばいいし、子供なんかいらねぇしな。遊ぶ時間も無くなるだろ」


まあ、マイホームパパな晁蓋など想像しにくい。言ってはなんだが、DV夫の方がしっくり来る、と失礼とは承知しながら宋江は思う。


「でも、ほら、呉用さんとかどうなの?」


なんとなく呉用なら晁蓋と夫婦になっても大丈夫な気がする。というか現時点で既に尻に敷いているような関係だし。


 だが、晁蓋は自分の入り込もうとした寝所に馬糞を見つけたような顔つきをした。つまり、信じられないものをみた驚愕と嫌悪感が混ざり重なったような表情だ。


「俺はもう少し、女の趣味はいいつもりだ」


「………」


二人の間に一体、過去何があったのか聞きたくなるような回答だったが、なんとなく聞くのはためらわれた。


「そういえば、丁礼(ていれい)たちって独身?」


「ん、ああ……」


「丁礼たちも結婚なんかどうでもいいって思ってるのかな」


「いや、あいつらはいつかは結婚したいって言ってたな」


杯を持ち上げながら気だるげに晁蓋は言った。


「まあ、結婚したら今迄みたいに好き勝手やつらを引っ張りまわすってわけにもいかなくなるな……」


そういった晁蓋の顔は珍しく寂しそうだった。


「ふーん、なんだか、意外。晁蓋ってそういう他人の状況とか結構、無頓着そうなのに」


だがよくよく考えてみれば郭清をあの村から引っ張り出してきたのも晁蓋である。恥ずかしいが自分は周りの状況に対処するだけで精一杯でそこまで気が回らなかった。普段、傍若無人に見えるのは周りの状況に気づいてないのではなく、気づいていてあえて無視しているのかもしれない。


「おいおい、これでも俺は名主だぞ。そのくらい考える。ま、言ってもあいつらが結婚するなんて、ずっと先の話だろうがな」


そう言って晁蓋は愉快そうに酒をこちらに差し出してくる。


(そういえば……)


村の皆のことが話題になったからか、ふと宋江は思い出した。


(呉用さん、晁蓋が村に戻るのなるべく遅くしてくれって言ってたな……)


なんだかんだですっかり忘れてたが村まで後一日という距離に来てはどうしようもない。咎められたら呉用には素直に謝ることにした。







「兄貴! 俺たち、結婚することになりやした!」


村に帰るなり訪ねてきた丁礼たち三人組に声をそろえてそう報告されて晁蓋と宋江はきょとんと顔を見合わせた。


「……その、幻覚とかじゃなくてか?」


「兄貴ぃ、いくら兄貴でもそりゃちょっとひどいですぜ!」


「いや、わりぃわりぃ。冗談だよ。しかし三人そろってかすげぇな」


「へい。呉用先生のご友人とかいう方が紹介してくださって……」


「呉用さんが?」


宋江はパチクリと目を瞬かせた。


「そりゃめでてぇこった。式は田植えの後かい?」


「へ、へぇ。そのつもりです」


「そうか……」


のんびりと脱力したように晁蓋は言葉を吐いた。そしておもむろに横においてあった酒樽を持ち上げた。


「兄貴……?」


「餞別だ。持って行きな。宋江、三人の家は知ってるだろ。郭清に村を案内するついでに酒を三人に配っとけ」


「う、うん……いいけど、晁蓋は来ないの?」


「改めて行くさ。まあだいぶ家を放っておいたから、その様子を見てからな。じゃあ頼んだぜ」


どこか覇気のない口調で晁蓋は手を上げると奥へ引っ込んでいった。


「宋江、まさかと思うが、兄貴どこか怪我でもしたのか?」


「ううん。そんなことないと思うけど」


李堅(りけん)の質問に宋江も曖昧に答える。確かに今の晁蓋はびっくりするほど元気がなかった。


 おそらく昨日の会話からまるで出来すぎのようにその状況が訪れて、ちょっと驚いているだけなのだろう、と宋江は思った。


「多分、明日になれば、いつもどおり元気になってると思うからとりあえず今日はこれ、運ぶよ」


「おう、ありがとうな」


それから宋江は晁蓋の言うとおり、酒樽を馬に運ばせると、郭清に村を案内しながら三人の家を順に回っていった。三人の奥さんは美人ではないが気立てがよさそうな人たちだった。三人の家に酒を配ると宋江は郭清に話しかけた。


「これで大体、村は全部まわったけど、もう一軒だけ寄りたいところがあるから来てくれる?」


「はい、もちろん」


宋江が最後に訪れたのは呉用の家である。


「呉用さん、いますか」


「あら、宋江。帰ってきてたの? という事は晁蓋も?」


「あ、はい。すいません、なるべく引き延ばしていてほしい、っていう話だったのに」


「ああ、そう言えば……でも、気にしなくていいわよ。やることは予想以上にトントン拍子で進んでもう終えたし。まあ、立ち話も何だから、中に入ってきたら? 隣の子の事も聞きたいしね」


そう言って呉用は郭清にちらりと視線を走らせた。








 宋江は向こうの村で何があったのか、つまり、郭清がどうしてこの村に来ることになったのかを、ざっくりと説明した。


「そう、それは大変だったわね」


全てを話し終えた後、呉用はしみじみと郭清をいたわった。


「ええ、でも結局、晁蓋様や宋江様に助けて頂けましたから。それに村に住むのも許してくださいましたし」


「ふーん、そういや郭清ちゃんはどこに住むの? とりあえず晁蓋のところ?」


とこれは宋江に向けた質問だったので宋江が答えた。


「だと思うんですけど、晁蓋は僕に面倒見ろって言ってます」


言いながら、郭清をちらりと見た。このことは今朝、晁蓋から郭清に直接伝えられていたが、彼女はすんなりとそれを受け入れていた。今も特に動揺する様子もなく落ち着いて話を聞いている。


「え、じゃあ、あなたたち結婚するの」


「ぶーっ!!」


呉用の言葉に二人は茶をユニゾンで噴出した。


「な、なな、なに言ってるんですか、呉用さん。僕は十六で郭清は十二ですよ!」


「そ、そうです! それにろくに財産も無い私のような娘が宋江様のお嫁になど恥ずかしくていけません!」


「いや、宋江だって無一文みたいなもんでしょ。それに全く無関係の男女二人が一緒に住んでるってすごく不自然よ。周りに説明できるようにしとかないと」


「ま、周りに説明?」


「そうよ。どうしたって皆聞きたがるじゃない。特に、宋江。あなたは来た経緯が経緯だし」


娯楽の少ない農村である(この村は晁蓋と呉用のおかげで多少あるが)。他人の家に変化が起こったとなれば噂として広がるのは自明の理だった。


「で、でも結婚はちょっと、なあ、郭清……」


「え、ええ……」


宋江がそう水を向けると郭清もあいまいに頷いた。


「うーん、二人にその気が無いなら、兄妹ってことにする?」


「兄妹?」


「まあ、義理の兄妹が一緒に住んでるなんて相変わらず不自然だとは思うけど、一応、説明くらいはできるでしょ。養子ってことにしてもいいけと、年齢的にちょっと不自然だし」


「じゃ、じゃあ」


「えっと、え、ええ、宋江様がよろしければそれで」


再び、顔を二人で見合わせる。義理の妹。なんだかこれはこれで危険な響きがしているがそれについては宋江は考えないことにした。


「じゃあ、私が見届け人になるわ。ちょっと待ってね」


といって呉用は席を立っていった。


「ええと、その、改めてよろしくね、郭清」


なんとなく黙っているのも気まずいので宋江は声をかけた。


「は、はい。宋江様。あ、名前変えなきゃいけませんね」


「え、そうなの? 別にもとのままでもいいんじゃない?」


「私なりのけじめ、というか吹っ切りですので」


そう言って少しさびしそうに笑った。彼女にとってあの村のことを思い出すのはまだ気持ちの整理がついてないのだろう。一旦切り離すということならば名前を変えるのにも意味があるのかもしれない。


「まあ、郭清がそれでいいなら僕はいいけど」


「では、これからは郭清ではなく、宋清ですね。(せい)とお呼びください。宋江様」


「う、うん。でも兄妹なのに様づけは変じゃない?」


「え、でも……、それでは兄様(にいさま)と呼ばせて頂きますね」


「あ、うん。え、えっと(せい)……でいいんだよね」


「はい、兄様。えへへ、なんだか恥ずかしいですね」


「そ、そうだね。なんでだろうね、あはははは……」


「ふ、不思議ですね、えへへへへ……」


はやくもテンパリ気味の二人である。そんなときに限って呉用は中々帰ってこない。


「お待たせ」


呉用が帰ってきたときには不気味にひきつった笑みを貼り付けた二人が居た。当人同士は必死なのだが。


「呉用さん、何してたんですか!」


「なんで怒られるのよ」


声を上げる宋江に呆れ気味にいう呉用が手に持っているのは小さな二つの杯と徳利である。


「何ですか、それ」


「何それって兄弟盃よ。義兄弟の契りを結ぶなら必要じゃない」


徳利を左右に揺らしながら呉用は腰を下ろした。


「かく……じゃなかった、清はまだ十二ですよ」


「わかってるわよ。ちょこっとよ、ちょこっと」


 呉用は軽やかに笑うと二つの杯に酒を入れる。やり方は簡単で杯に入った酒を途中まで飲んで相手に渡すだけだ。


「はい、これでおしまい」


「なんかあっさりしてますね」


「結婚式ならもう少し豪華よ」


悪戯っぽい笑みを浮かべながら呉用は言う。


「そこからいい加減離れましょうよ」


言いながら宋江は郭清、いや、今はもう宋清か、をちらりと見る。酒のせいか、顔が真っ赤だ。


「清。もしつらいなら、少し休ませてもらったら? いいですよね、呉用さん?」


「ええ、もちろん。奥にある寝所、つかってもらってかまわないわよ」


「す、すみません。お言葉に甘えさせて頂きます」


宋清はそういってふらふらと呉用につれられていった。やがて呉用だけが戻ると宋江は改めて呉用と対面した。


 改めて彼女と対面すると色々と聞きたいことが浮かんでくる。出て行く前に受けた指示の真意。丁礼たちの結婚の経緯。晁蓋のあの様子。呉用が意図したことなのかどうなのか。関係しているのかどうか。どう聞いたらいいものか、宋江がそれを考えて沈黙していると呉用から口を開いた。


「言いたいことがありそうね」


「言いたい、というか聞きたいことですね」


「なにかしら?」


「……つい先ほど、聞きましたよ、丁礼さんたちの結婚の話」


結局、中途半端なところから宋江は話題を始めてしまった。自分では感情を抑えて淡々と話したつもりだが、それが却って寒々しさを際立たせていたかもしれなかった。


「怒っているの?」


呉用は出してきた白湯(さゆ)をすすりながら静かに問う。


「いえ、そんなことはないです」


嘘ではない。ただ、昨日の夜も晁蓋との会話と、先ほど見た彼の背中が自分の心を少しだけ不安定にしていた。


「晁蓋を、長期間、村の外にいさせて欲しかったのはこの縁談のためですか?」


「そうよ」


あっさりと呉用は頷いた。


「でも言い訳をさせて貰えば、まず縁談が先にあったのよ。誰か未婚の若い男を紹介してくれないか、というね。私はあの三人を紹介したけど、これは別に晁蓋が村を留守にしていようがしていまいがやってたわ。もちろんいない方がうまくいくとは思っていたから、君に協力を依頼したけどね。結果としては、まあ、話が早く進んだからそんな必要は無かったのだけれど」


「縁談を進めたかった理由は教えてもらえますか?」


 呉用は少しの間、沈黙した。答えをためらっているというよりは答えを考えているかのようだった。彼女自身もはっきりとしていないのかもしれない。


「縁談を進めたかった理由は二つある、と言えばあなたなら概ね察しはつけてくれると思うわ。どちらが一番というのは言えないわね。自分でもわからないから」


「そのうち、一つというのは……」


「もちろん、晁蓋の暴走が少しでも収まるようにだよ。まあ、効果があるかどうかは疑わしいけどね」


一緒にばかをやる人間がいなくなれば、少し落ち着きが出てくるかもしれない、と考えてのことだろう。


「呉用さんは今の状態が良くないと思っているのですか?」


「少なくとも私にとっては、ね。あいつがもう少し名主の仕事をきちんとやってくれれば私の負担も減る。元の頭は悪くないのだから」


呉用がこうストレートに晁蓋を褒めるのは少し意外に感じられた。


「そう言えば、晁蓋さんと呉用さんてどういう関係なんですか」


「どういう関係……? ああ、ただの腐れ縁よ。まあ、昔からこの村にお互い住んでるから付き合いも長いけど」


「幼なじみというやつですか?」


「そう言われると仲が良さそうに聞こえるから、かなり抵抗があるけど……まあ、間違ってはいないわね」


そう言って呉用は窓の外に目を向けた。


「まあ、私もいつまでもこの村にいるわけじゃないしね」


「え? そうなんですか?」


それは宋江にとって意外な発言だった。


「引越しするんですか?」


「引越しっていうか、私、一応、科挙(かきょ)の合格、目指してるし、今年の試験に受かったらそりゃここにはいないでしょうね」


科挙、とは現代風に言えば国家公務員試験である。受かればすくなくともこんな小さな村ではなく国の何処かに派遣されることになるか、(みやこ)に行くことになるだろう。


「役人になるんですか?」


「何の力もない女が一人で生きていく手段は少ないもの」


「というか、女の人でも受けられるんですか?」


なんとなく、宋江は意外だった。中国史にあまり詳しくはないが女性官僚というのは中国の古代においては聞いたことがない。やはり自分の知ってる歴史とは若干違うのだろうか、と思いながら白湯をすすった。


「まあ、うるさく言う奴らも大勢いるけどね。儒学者とか」


あいつら、女は子供を産めれば他はどうでもいいと思ってるのよ、と呉用は憎々しげにつぶやいた。


「話はそれたけど、そういうわけだからいつまでも、晁蓋にあのまんまでいられると困るのよ。本人が誰かと結婚してくれれば多少落ち着くと思ったけど、本人にその気はないからまず周りを攻めれば何か変わるかと思ったのよね」


「呉用さんが晁蓋さんと結婚する気はないんですか? お似合いっぽいみたいですけど」


そう言うと呉用は昨日の晁蓋に同じ話題を振った時とそっくりそのまま同じ顔をした。


「私、男の趣味はもう少しいいつもりなんだけど」


コメントまで一緒だった。本当にどういう関係なのか、よくわからない。


「そう言えば聞くけど、晁蓋の様子はどうだった?」


「……なんかすごく落ち込んでましたけど」


「落ち込んでた?」


それを聞いて呉用は心底、意外そうな顔をした。


「なんかの間違いじゃなくて?」


「多分ですけど、呉用さんのその作戦、想像以上に効いてるみたいです」


「あいつがそんな細やかな神経しているとは意外だわ。でも効いてるなら私にとってはいいことよ」


「そうでしょうね」


「まあ、あなたはしばらくこの村にいるんでしょ。厄介事をおしつけるようだけど、晁蓋のこと、よろしくしてやって」


「僕が……ですか」


「あなたとあの子で晁蓋が村人を殺すの止めたんでしょ。自慢のつもりは無いけど、私の知る限り、今まであいつの意見を変えられたのは私以外ではあなたが初めてよ」


呉用はそういって白湯を飲み干した。








 晁蓋の母親が死んだのは五歳のときだった。正直、十五年たった今ではあまり記憶に残っていない。顔もおぼろげだった。だが、自分が武道をはじめたのはその頃だったと記憶している。父親はわざわざ武術の教師を町から呼んで来て晁蓋に覚えさせてくれた。天性の才能があったのだろう。晁蓋はめきめきと力をつけていった。十二歳の時、背が五尺を超えた晁蓋の武芸にその教師は完全に敗北した。


「もう、息子様に私が教えられることは何もございません」

負けたその日にそう言ってせめて一晩だけでもとまっていけという父の引きとめもかまうことなく辞去していった。教師でも無いのに世話にはなれないということだった。武術の腕はあまりよくなかったが、人物的には立派だったと思う。


 その男の残してくれた紹介状を元に晁蓋は町にあるさらに大きな道場へ出かけた。ここでも敵はほとんどおらず、あっという間に並み居る門下生を抜き去っていった。丁度、成長期に差し掛かり、ぐんぐん体も大きくなり、自分ができることはどんどん増えていった。


 さらに三年後の十五の時、晁蓋はその道場を出た。晁蓋にかなう人間は師を含めて誰もいなかった。直接対決はしなかったが師が晁蓋を見る目は明らかに怯えてた。師は晁蓋に軍人になることをすすめ、晁蓋もそれに同意した。晁蓋はさらに大きな町に行き、そこで武官として採用された。


 増長していた、と今の自分なら言える。だが昔の自分はそう考えていなかったし、周りもそうは思っていなかった。何せ、その誇りの裏には鍛えられた自分の強さが確かにあったからだ。そして、ある意味それは増長ではなかったろう。晁蓋は自分の強さに自信を持っており、事実そこでも晁蓋に勝てる人間は誰もいなかった。晁蓋の増長はそれだけでなんでも解決できると思っていたことだった。


 軍で上に行くには強さだけではだめだった。金が必要だった。おろかにも晁蓋がそれに気づいたのはかなり後になってからだ。出世には興味が無かったが自分よりはるかに技能に劣る連中に上官というだけで見下されるのは我慢ならなかった。結局、三年ほどしたところで晁蓋は権力をかさに無理難題を女性武官や兵士に押し付けていた上司をぶん殴って免職となった。


 故郷に帰ると父親は何もいわずに晁蓋を出迎え、そしてあっさりと死んでいった。


 父の死と同時に名主の仕事を引き継いだが今までと勝手の違いすぎる仕事に四苦八苦だった。父の生前から仕事を手伝っていた呉用に時に怒鳴られ、時に呆れられながらなんとか仕事をこなしつつ、その鬱憤を晴らすように近くの山賊やらなにやらに喧嘩を売ってはぶっ飛ばしていった。やはりここでも彼は負けなかった。


 だが、その圧倒的な強さを誇る自分に少しずつ、あせりのようなものがまとわりついてきていた。


 一体、自分は何をやっているのだろう?


 この山東(さんとん)地方では並ぶもの無し、天下無双とも称えられた力を持ちながらやっていることは山賊退治、それもこそこそと生きているようなけちな山賊の退治だ。


 自分はもっとすごい人間ではなかっただろうか。このままこうやって田舎の一名主としてだらだらと生き続けるのか。


 今日聞いた丁礼たちの結婚報告は今までふつふつと感じていた晁蓋の焦燥をよりはっきりしたものにした。


 周りの連中が少しずつ、『真っ当な』道を歩んでいく。俺もそうなるのか? いずれは結婚し、子供を作り、他の大多数と同じようにこの世界に埋もれていくのか?


 嫌だった。晁蓋はずっと特別な存在でありたかった。普通の、どこにでもあるような人生など過ごしたくなかった。おべっかや賄賂がうまく使えないなどと言う理由で片田舎に引き込んでいたくはなかった。


 それは傲慢な願いだった。呉用が聞けば間違いなくそういっただろう。与えられた職分もまっとうせず、自分の好き嫌いで軍から追い出されながら何をほざくのか、と。


 確かに傲慢な願いだ。だが、彼にとっては切実な願いだった。彼は彼のまま生き、何か満足できるものを残して死にたかった。そのための力は確かに手にしているのに。そしてそれは断じてけちな山賊退治などではない。







「……晁蓋?」


気づくと宋江が後ろに居た。村の案内から戻ってきたらしい。


「どうしたの? なんかぼーっとしてるみたいだけど」


「いや、なんでもねぇ。それより酒配りと案内、終わったのか」


「うん。馬もとりあえず厩の近くの柵につないだよ。しばらくは雨も降りそうにないし、藁も運んだから大丈夫だと思う」


「あー、そうだな馬小屋、大きくしなきゃいけないな」


今まで、晁蓋の家には馬は二頭だけだった。それが九頭にふえたのだから、馬屋の増築は急務だった。


「呉用さんが言ってたけど、村の人に貸し出したらいいんじゃないかな? その方が新田の開拓も効率いいんだって」


「そうだな。そうするか。……ああ、明日の朝、お前らが使う家に案内するわ」


「……なんか元気ないね、大丈夫?」


「ああ。別に大丈夫だ」


「丁礼さんたちのこと、そんなに驚いたの?」


宋江は意外そうに小首をかしげた。


「そうだなー、なんつーか、今まで一緒に馬鹿やってた連中がよ、真っ当な道を歩み始めて、取り残されたっつーか、俺もいつかそうなっちまうのかなー、と柄にもなく悩んじまってよ」


「……そう。でも丁礼さんたちの奥さん、みんな晁蓋に会いたがってたよ。丁礼さんたちがそればっかり話すからって」


「ま、そのうち、改めて挨拶にはいくわ」


「何がそのうちよ!!」


 その時、ズバーン!とものすごい音を立てて扉が開き部屋に三人目の人物が入ってきた。


「ご、呉用……?」


「え、呉用さん?」


一瞬、宋江がつれてきたのかと思ったが、傍らの宋江も意外そうな顔をしているのを見るとどうもそうではないようだ。


「信じられない! 村のろくでなしどもに嫁が来てくれたって言うのに、名主が挨拶もしてないなんて!」


ずんずんと歩を進めて呉用は晁蓋に近づくとこちらの耳をつねりあげてくる。


「いて、いてーよ、この馬鹿女!」


「あんたにそんなこと言われる筋合い無いわよ! 帳簿の計算間違えないようになってからせめてそういうことは言いなさいよね!」


そのまま呉用はぐいぐいと引っ張っていこうとするので晁蓋はそれを乱暴に振り払った。


「うっせーな! おめーなんかに言われなくても行くわ、このブス!」


「ブスで結構! 馬鹿よりよっぽどましよ!」








 唖然として宋江はぎゃーすかぎゃーすかと言い合いながら部屋から出て行く二人の様子を見送る。廊下に出た時には既に二人して屋敷を出たらしく、門が乱暴に開けっ放しにされていた。耳を澄ませばまだ二人の言い争う声が遠くからきこえてきた。


「あの……呉用さん、来てたんですか? すごい声響いてましたけど……」


と別室の休んでいたはずの郭清……いや、宋清が現れて声をかけてきた。


「まあ、元気づけに、来たの……かなぁ」


自信なさげに宋江はそう言った。

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