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 姫を部屋までお送りし、主治医の診察に立会い、お休みになられるだろうからと席をはずそうとした時、姫が小さな声で僕を呼んだ。

「少しお時間あるかしら」

 それまで一言も口を開かなかった姫の言葉に、僕は間髪いれずに「はい」と答えた。

 どうにも様子がおかしいんだ。

 体調が悪いだけじゃなくって、どこかふさぎこんでいるみたいで。

 僕に何が出来るかって言ったら、きっと何にも出来ないんだろうけれど、でも姫のお力になりたかった。

 ほら、話を聞くくらいなら僕にも出来るし。

 僕に本音を言うような方じゃないけれど、でもそれでも話すだけでも楽になるかもしれないし。

 ベッドに半ば横たわるように座る姫のお傍に寄り、床に跪いた。

 そんな僕を見て、姫はふっと口元を緩ませた。

 やっと、笑ってくれた。それだけでも嬉しかった。

「そんなに畏まらなくていいわ。その椅子にお座りなさい」

 もう一度「はい」と答えて、僕は嬉々として椅子に腰掛ける。

 姫の目線と僕の視線が丁度同じ高さになる。

 ベッドの反対側に目をむけ、姫が女官に声を掛ける。

「何かあれば呼びます」

 それだけで十分だったみたいで、王宮から連れてきた女官が一礼し、他の女官たちに目配せをすると、全員退出していく。


 こんな風に姫と二人っきりになるのなんて、初めてだ。

 うわー。どうしよう。

 なんだか胸が急にドキドキと高鳴って、緊張して手に汗をかいてきた。

 考えてみたら、こんなに間近で姫を見ることなんてめったに無いぞ。

 やばい。何がどうやばいのか、それすらわからないくらい、やばい。

 僕、正気でいられるのか。

 舞い上がって変なこと言わないように気をつけなきゃ。

 扉を閉める音がして、足音が遠のくのと比例して、僕の鼓動は大きくなる。

 大丈夫かな、姫に聞こえちゃうんじゃないか。その位でかい音だぞ。

 どうしよう。

 口を開いたら、絶対にとんでもない事言いそうだ。

 ごきげんいかがですか。いやいや、今さっきお医者様に診てもらったばっかりだし、悪いに決まってるだろ。

 そろそろお休みになられては、って言っちゃったら僕も退出しなきゃいけなくなるじゃん。

 えっと、えっと本当に何を話せばいいんだ。

 僕の頭の中、真っ白だー。

 もうだめだ。ありきたりの事しか出てこない。

 あわあわしながら、でも精一杯顔に出さないように、緊張のあまりギシギシと音を立てる首をゆっくりと巡らせて、姫の方を見た。

 姫は僕の変な様子なんて、全然気にする素振りもなさらず、険しい表情で何か考えこまれているようだった。

「あの、どう、なさいましたか」

 たったその一言を言うのにも、全身から汗が噴き出してきた。

 口の中は乾きまくりで、思わずつばを飲み込んだ。

 その音がやけに大きく聞こえて、僕はやっちゃったーって思ったんだけれど、姫は全く気にも留めていない様子で僕のほうを見た。

 険しい表情は少し緩んだものの、いつものような微笑みはない。

 ただ、執務室にいらっしゃった時のような、狂気めいた激しさもない。

 どちらかというと、淡々と書類に目を通していらっしゃる時のような真剣なような冷静なような感じがした。

「わたくしは、何を間違ったのかしら」

 その問いが何のことなのか、僕にはさっぱりわからない。

 鈍いとかどんくさいとか言われる所以なんだろうけれど、でもあんまりにも唐突過ぎて、姫の顔を見返すことしか出来なかった。

 僕の顔には疑問が浮かんでいたのかもしれない。

「どうして巫女を、水竜様を怒らせてしまったのかしら」

 きっと僕が理解していないってお気づきになられたのだろう。そう言い直して下さった。

 けれど、僕はその問いに対しての答えを持っていない。

 だから、姫の顔から目を逸らすように俯いて、こぶしを握り締めた。

 僕はあの場にいたのに、何一つ理解していない。

 何が起こったのかすら実のところ、よくわかっていない。

 姫の様子がおかしい、その一言で、そういう思い込みと色眼鏡で見てしまったから、真意を見極めようなんてしていなかった。

 ただ姫が、こういう言い方は嫌だけれど、錯乱していらっしゃったと思ったんだ。

 第三者の目で見て、どう思ったのかを姫はお知りになりたいのに、僕はどうしてああいう流れになったのかも、よく覚えていない。

 焼きついているのは、あのお嬢の視線と威圧感。

 姫が僕の言葉を待っているのに、何もいえない自分が情けなくてもどかしい。

 わざわざ女官たちを人払いしてまで、僕の話を聞こうとしてくれたのに。

「ごめんなさいね、こんな事を聞いて」

 呆れられてしまったのだろうか。溜息混じりに、姫が苦笑いをする。

「あのっ。えっと……すみません」

 情けない。

 何か気のきいたことを言おうとして、でもそれ以上何も言えなくて、恥ずかしくて俯くしかなかった。

 僕の意見を姫が聞いてくれるなんてこと、滅多に無いのに。

 こうやってお話をさせて頂く機会も、もう無いかもしれないのに。

 なんて馬鹿なんだ。

 きっと失望させてしまった。僕は何の為に姫付きの神官なんだ。くそっ。情けない。

「僕は……。すみません、よく、わからなくて」

 無能だと自分で言うようなもんだけれど、下手に取り繕ってもボロが出るし、それに姫の問いに何て答えるのが一番いいのかわからなくて、馬鹿正直にそう言った。

 姫の反応を見るのが怖くて、顔を伏せたままで。礼儀作法としては最低だってことはわかっていたけれど。

 本当に穴があったら入ってしまいたい気分だ。

 だって、僕は本当に、あの時姫がおかしいんだって思い込もうとして、何一つまともに受け取ってなかったんだから。

 僕がもっとも尊敬し大切にしている姫の事なのに。

 こんなの姫じゃないって、心の底で思っていて、認めたくなかったんだ。あんな姫の姿を。

 馬鹿だ。本当に僕は最低の大馬鹿もんだ。

 どんな事でも先入観なく見ることが大切だと、姫付きになる時に長老からも言われていたのに。何でそういう大事な事忘れちゃうんだろ。

 だけど、本当に認めたくなかったんだ。

 姫が僕らと同じような醜い姿を持っているなんて。

「気にしなくていいわ。聞かれても、困るわよね」

 その言葉に救われたような、更に奈落に突き落とされたような複雑な気分になり、顔をあげて姫にもう一度謝罪した。

 そんな僕に姫は笑いかけて下さったけど、本当に情けなくて、涙が出そうになる。

「あなたが悪いわけじゃないわ。わたくしが、水竜様のお気持ちを推し量る事が出来なかったのよ」

 哀しげなその瞳には、涙が浮かんでいるかのように見えた。

 潤んだ瞳を窓の方に向ける。


 真っ白な雪で覆い隠されているけれど、その先には水竜様の座すところ、奥殿がある。

 巫女だった頃から、姫はいつもそうやって窓の向こうの奥殿を目を細めるようにして見つめている。

 気付くといつも、姫の視線の先には奥殿がある。

 今はもう水竜様の声は聞こえないのに。

 その稀有なる力は、お嬢へと受け継がれてしまったから。

 声も聴こえないのに、雪の向こうの水竜様へ語りかけていらっしゃる姿は痛々しさすら感じた。

 巫女でなくなってからも、幾度となくそうやって永遠に返ってくることの無い言葉を待っている。

 せめて神殿を出ていたら、巫女であった頃を思い出にすることは容易かっただろうに。

 水竜様のいらっしゃる奥殿を、巫女であった時と同じ場所から眺め続けていたら、忘れたくても忘れられないんじゃないか。

 しかも、水竜様の声を聴くことの出来るお嬢を目の当たりにして毎日を過ごすことは、辛くは無いんだろうか。

 もし僕がその立場だったら、すごく嫌だと思う。

 だって、自分の欲しいものを持っていて、ましてそれが自分のもので奪われてしまったもので、目の前で見せびらかされたら、多分僕ならものすごく、お嬢のこと邪険にしちゃうだろうな。

 別にお嬢が無理やり奪っていったわけじゃないんだけれど、絶対にいい感情なんて持てやしない。

 きっと「こいつさえいなければ」って思っちゃうだろうな。

 姫はそんな風にお嬢のことを邪険にしたりはしていないけれど、胸のうちでは複雑なものを抱えていらっしゃるかもしれない。

 ましてご自身に比べて明らかに誰が見ても、巫女としての資質に劣っているお嬢を目の前にしたら。


「わたくしは水竜様に呆れられてしまったのかしら」

 奥殿のほうを見たまま、ポツリと姫が呟く。

 そんなこと無いですよって言えば、姫のお心は晴れるだろうか。でもきっと、姫が欲しいのはそんな慰めの言葉なんかじゃない。

 でも僕は今にも泣き出しそうな姫の横顔を見ていることは出来なくて、ありきたりな言葉を口にしてしまった。

「大丈夫ですよ」

 苦笑いを浮かべ、姫が僕のほうを見た。

 やっぱり、大丈夫なんていうんじゃなかった。もっと気の利いた言葉を探せばよかった。

「ありがとう」

 穏やかな声に、僕の気持ちが少し軽くなる。

 けれど、またすぐに姫は表情を曇らせて、奥殿のほうを見る。


 長い、長い沈黙が続く。

 きっと姫は心の中で水竜様に語りかけていらっしゃるのだろう。

 どんな事を話しているのだろうか。

 巫女だった時は必ず返答があったけれど、今は絶対に欲しい言葉は聴こえてはこないのに。

 どうか、水竜様に姫のお気持ちが届きますように。

 たとえ声が聴こえなくても、せめて姫のお心が伝われば、きっと少しは姫のお心も救われるだろうから。

 きっと僕が想像する以上に、姫は水竜様を大切に思っていらっしゃる。

 どんなに具合の悪い日でも、こうやって奥殿をずっと眺めていらっしゃるし。

 そういえば、お嬢を水竜様だって言ったときの姫は、とても愛しい相手を見るような表情をされていた。



 あ、そっか。

 姫は水竜様のことがお好きなんだ。

 それは多分、親愛の情とかっていうものじゃなくって、恋しいという意味で。

 だからあんなふうに喜んでいたんだ。

 いつも見せないような少女のような微笑みを浮かべて。頬を真っ赤に染めて。

 多分、姫はその事を口にはなさらないだろうけれど、きっと僕の推測は間違っていない。

 大分前に姫が先代の神官長様に、一生分の恋をした、というような事を言っていたことがある。

 その時は何で? 相手は誰なんだ? って思ったけれど、真偽はともかく、水竜様を前にした神官長様のご様子を見てしまったから、それは本当の事で、姫は水竜様に恋をしているんだと、僕は確信した。

 報われない思いは、姫をずっと苦しませ続けるんだろうか。

 それともいつか昇華して、こんな風に奥殿を見つめる事もなくなるんだろうか。

 少しでもお傍にいたいって僕が姫に対して思うように、姫も水竜様に思っているんだろうか。

 本当なら先代の神官長様がそのまま神官長としての任に就いているはずだったのに、姫がどうしても巫女を辞めた後すぐに神官長になりたいと言って引かなかったのは、そのせいなんだろうか。

 まあ先代も大分お年を召していたから、王家側もそんなに強く姫が神官長になる事を反対していなかったし、寧ろ好都合だったんだろうけれど。

 

 それにしても、普段は感情の起伏をあまり見せることのない姫に、こんな情熱的な一面があったなんて。

 まあ、僕の推測に過ぎないから間違っているかもしれないけれど。

 でもこう考えた方が辻褄が合うかなっていう気がするんだよね。

 まあ、でも、きっと僕の考えは誰にも受け入れられないよな。

 だって目に見えない神様に恋をしてる、なんて普通に考えたらおかしいじゃん。

 絶対他の奴に言ったら笑われそう。ありえないって。

 だから姫と僕の名誉の為に、この考えは僕の心の中に秘めておこう。


「あなたにはあの時、水竜様のお声が聴こえたかしら」

 姫は奥殿の方から目を背けずに、僕に尋ねる。

 あの時、というのは恐らく姫の様子がおかしくなった時、お嬢を水竜様って呼んだ時、だよな。

 僕にはお嬢にしか見えなかったし、お嬢の声にしか聞こえなかった。あそこにいたのは、お嬢以外の何者でもなかった。

 何て答えるのが一番適切なのか、これで否定したら、姫の方が変だって言うようなことにはならないか。

 うーん、でもなあ。あれは確かにお嬢だったしなあ。雰囲気は多少違っていたけれど。

 考えぬいた挙句、僕の出した答えは「いいえ」だった。

 姫が小首をかしげ、僕のほうをじーっと見る。

 こんな手を伸ばせば簡単に届いてしまうような至近距離で、そんな風な仕草でお美しい姫に見つめられると、かーっと頭に血が上るような、のぼせたような気持ちになる。

 なんだか、すごく落ち着かない。

「誰の声に聞こえたのかしら」

「あ。え。あの。み、みこ、巫女様の、声、でした」

 上手く舌が回らなくて、つっかえて噛みまくってカッコ悪い。

 澄み切った姫の声とは大違いだ。

「そう。ではきっとわたくしにだけ聴こえたのね」

 口元を緩ませ、柔らかな表情で微笑む姫は、なぜかとても幸せそうに見えた。

「もう二度と聴くことのない声を聴くことが出来たのね。わたくしの願いが叶って、奇跡が起きたんだわ」

 嬉しそうな姫に、僕は書ける言葉が見つけられなかった。

 あの時のお嬢の声が、姫には確かに水竜様の声に聴こえたんだろう。

 それは姫の言うとおり奇跡が起きたのかもしれないし、もしかしたら姫の願望が見せた幻なのかもしれない。

 本当のことはきっとお嬢にしかわからない。

 でも、奇跡であって欲しいと僕は思う。

 そしていつかまた、姫の上に奇跡が舞い降りてくれたらと思う。

 だってこんな風に嬉しそうに笑うんだもん。

 いつも見せるような整った微笑みよりも、もっともっと綺麗に見える。

 僕はいつだって姫にこんな風に笑って欲しい。

「水竜様が、お好きなんですね」

 姫の様子を見ていたら、なんだか微笑ましくって、いじらしくて、僕は口にするつもりの無かった言葉を言ってしまった。

 あっと思って口元を手で押さえたけれど、姫はただ笑うだけで何もおっしゃらなかった。

 この美しい方の胸の内に秘められているものを、ほんの少しだけ垣間見たような気分になり、僕の中の「王家出身の深窓の令嬢で完璧な巫女」っていう姫の虚像が崩れたような気がした。

 本当は可愛らしい方なんだと、思った。

 守って差し上げたいと思う。いつでもこうやって笑って頂けれるように。


「はじめて水竜様のお声を聴いた時に、とてもとても美しくて優しい声だと思ったわ」


 僕はこの後語られた、長い長い思い出話を聞き、姫のたった一人の共犯者のような気持ちになった。

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