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朝の空気がやけに冷たく感じるのは、首に嵌められた鉄の輪のせいかもしれない。
「歩け。止まるな」
兵士の槍の石突きに背中を小突かれて、俺は前の男の背中を見ながら足を動かした。
鎖で数珠つなぎにされた二十人の借金奴隷と罪人が、巨大な縦穴の縁を一列になって歩いている。
奈落迷宮。
大陸の真ん中に口を開けた底の見えない穴だ。
中では蘇生魔法も転移石も効かず、一度死ねばそれで終わりになる。
生きて第十層の帰還門までたどり着けるのは千人に一人と言われていた。
だからこそ俺たちのような連中が放り込まれる。
運よく遺物を持ち帰れば借金は帳消しで、死ねばそれまで。
国にとっては損のない取引というわけだ。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……」
後ろで泣いているのは、ひょろりとした体に大きな背負い袋をかついだ若い男だった。
荷物持ちとして無理やり連れてこられたらしい。
「落ち着け坊主。泣いても穴は浅くならん」
白髪まじりの老人が静かにたしなめる。
元は衛兵だったのか、背筋だけは妙にまっすぐだった。
「へっ。どうせみんな死ぬんだ。だったら最後に宝の一つでも拝んでやらぁ」
前を歩く中年男は卑しく笑っている。
怯える者もいれば開き直る者もいて、反応は人それぞれだ。
そんな中で俺は、自分でも不思議なほど落ち着いていた。
理由は分かっている。
この景色を知っているからだ。
縦穴の縁に刻まれた螺旋階段も、崖から突き出た黒い岩の角度も、底から吹き上がってくる鉄錆に似た匂いまで全部見覚えがある。
正確に言えば画面越しに何千回も見てきた。
『アビス・クロニクル』。
前世の俺がやり込んだ死にゲーだ。
ハードコアモードは一度死ねばセーブデータごと消える鬼仕様で、公式発表のクリア率は〇・一パーセント。
その舞台がそっくりそのまま目の前に広がっている。
前世の記憶が戻ったのは三日前のことだった。
借金取りに殴られて床に転がった瞬間、頭の中に知らないはずの知識が一気に流れ込んできたのだ。
おかげでこの三日間はほとんど眠れていない。
最初は夢だと思った。
けれどこの穴の深さも罠の配置も、俺の記憶とぴったり合っている。
それならまだ勝ち目はある。
この世界の誰も知らないことを俺だけが知っているのだから。
ハードコアモードにはセーブがない。
少なくとも公式にはそういうことになっていた。
だが実際には、開発者がテスト用に仕込んだ隠しセーブポイントが各階層にこっそり残されていたのだ。
背景に紛れたガラクタに触れて血を一滴垂らし、決まった言葉を唱えれば記録される。
見つけたのはデータを解析していたバグ検証勢で、俺はその情報を元にタイムアタックを走っていた。
ネットの片隅で細々と共有されていただけの裏技だから、知っている人間なんて世界に百人もいなかったと思う。
そしてこの世界には一人もいないはずだ。
「おい、止まれ」
階段を下りきった先で、列の先頭にいた男が振り返った。
熊のような大男だった。
使い込まれた革鎧を着て腰には二本の手斧を下げ、顔の左半分を古い火傷が覆っている。
「俺様がお前らの案内役のガルド様だ。ギルドに雇われて、てめえらを奥まで連れてってやる」
ガルドはにやりと笑った。
「安心しろ。俺様は第三層まで潜って生きて帰ったことがある。言うことを聞いてりゃ少しは長生きできるぜ」
おそらく嘘ではないのだろう。
帰還門を使わずに第三層から戻ってくるのは相当な腕がいる。
けれど俺はこの男の顔にも見覚えがあった。
ゲームの序盤に出てくる案内役で、強制探索部隊を罠の毒見役として使い潰す悪名高い男だ。
……最悪だな。
ゲームのガルドは、罠がありそうな場所に来るたびに部隊の誰かを先に歩かせる。
そいつが死ねば罠の場所が分かり、生きていれば安全な道だと分かる。
奴隷を物差しにして自分だけ生き残る、実に効率のいいやり方だ。
できればこの男には近づきたくない。
だが第一層の最初のセーブポイントは入口のすぐそばにあって、ガルドの後ろを歩くしかたどり着く方法がなかった。
まずは記録を取る。
話はそれからだ。
兵士たちが鎖を外していくが、首輪だけはそのまま残された。
逃げ出せば首輪に刻まれた紋が肌に焼きつく仕組みらしい。
「よーし行くぞ。俺様の後ろについてこい」
ガルドが迷宮の入口へ歩き出す。
岩壁にぽっかりと開いた暗い穴の左右には、崩れかけたガーゴイル像が二体並んでいた。
一歩踏み込んだだけで外の光が急に遠くなる。
壁に埋め込まれた魔石がぼんやりと青く光っているものの、足元を照らすには心もとない明るさだった。
湿った空気が肌にまとわりつき、どこか遠くで水の滴る音が響いている。
荷物持ちの若い男が小さく悲鳴を上げ、老人に肩をつかまれていた。
俺は歩きながら頭の中で歩数を数えはじめた。
一。二。三。
周りの連中は誰も気にしていない。
みんな自分の足元と目の前の暗闇しか見ていなかった。
三十。三十一。三十二。
三十三。
右側のガーゴイル像は翼が欠け、台座が苔に覆われている。
その左目に細いひびが入っていた。
あった。
心臓が大きく跳ねる。
ゲームとまったく同じ場所に同じひびがある。
俺はつまずいたふりをして像に手をつき、人差し指をそっとひびに当てた。
隠し持っていた錆びた釘で親指の腹を突き、にじんだ血を一滴ひびの中へ垂らす。
そして口の中だけで唱えた。
「――ヴェル・ネ・システマ・ノン・エラータ」
開発者がふざけて作った古代語風のパスワードで、意味は「仕様です。バグではありません」。
初めて見た時は腹を抱えて笑ったものだが、今は少しも笑えない。
これが動かなければ、俺の命綱は最初から存在しなかったことになるのだから。
一秒。
二秒。
やがて指先がほんのりと温かくなった。
石の目の奥でかすかな光が瞬いて消える。
同時に体の芯へ薄い膜のようなものが貼りつく感覚があった。
……動いた。
今この瞬間の俺が、どこかに記録されたのだ。
膝から力が抜けそうになるのをこらえながら、思わず口元が緩む。
「おい。何してやがる」
背後から声がした。
振り返るより先に背中へ衝撃が走る。
蹴られたのだと気づいた時には、もう体が前へ飛んでいた。
石畳の上を二歩、三歩とよろめいた先で、空間がほんのわずかに揺らいで見える。
ああ、知ってる。
不可視のギロチン。
入口から三十六歩目に仕掛けられた最初の初見殺しで、ゲームでは何も知らないプレイヤーの首をここで確実に刈り取っていた。
分かっていても体は止まらない。
ひゅん、と風を切る音がして、首筋に冷たい線が走った。
痛いと思う暇すらなかった。
視界がくるりと回る。
天井が見えて床が見えて、最後に首から下だけになった俺の体が見えた。
主を失った体がゆっくりと膝を折っていく。
「ほらな。こうやって罠の場所を教えてもらうのよ」
遠くでガルドの楽しそうな声が聞こえた。
「さて。次はどいつが先頭を歩く?」
誰かの悲鳴と泣き声が重なる。
そうだった。
こいつはこういう奴だった。
なんで忘れていたんだろう。
セーブが成功したことに浮かれて、よりにもよってこの男に背中を見せてしまった。
馬鹿か俺は。
視界が端から黒く塗りつぶされていく。
音が遠ざかり、光が消えて、最後に残ったのは首の冷たさだけだった。
死亡回数、一。




