ガラスの靴は落ちなかった
むかしむかし、ある国に、シンデレラと呼ばれる娘がいた。
本当の名前は、ほかにあった。けれど、朝はかまどに火を入れ、夜はその灰を片づける暮らしのうちに、継母もふたりの姉も、彼女を「灰かぶり」としか呼ばなくなった。
シンデレラは心のやさしい娘だった。自分のパンが小さくても、台所にやってくる鼠には、端を少し分けてやった。洗濯物に虫がついていれば、庭まで運んで逃がしてやった。
ただ、仕事は少しも減らなかった。
「シンデレラ、床を磨いておいて」
「シンデレラ、お湯を運んで」
「シンデレラ、薪がないわ」
三人とも、自分が最後に頼んだ仕事しか覚えていないので、彼女が何かをしていると、必ず別の誰かが怒った。
「まだやっていないの?」
シンデレラは、いつか自分が三人に増えることを夢見た。
その場合、仕事が三倍になる可能性については、考えないようにした。
そんなある日、お城から舞踏会の招待状が届いた。
王子が花嫁を探しているという。国じゅうの若い娘が招かれ、身分を問わず参加してよいと、美しい文字で書かれていた。
「わたしも、行ってよろしいでしょうか」
おそるおそる尋ねると、継母は、ちょうどよい棚を見つけたときのような顔をした。
「もちろんよ。洗濯と掃除と薪割りと、水瓶をいっぱいにするのが終わったらね」
シンデレラは朝から働いた。
井戸と家を何度も往復し、積まれた丸太を割り、家じゅうの床を磨いた。姉たちのドレスにアイロンをかけ、髪を結い、靴の留め金を直した。
夕方には、すべて終わっていた。
継母は少し驚いたあと、彼女の服を見た。
「まあ。その格好で行くつもり?」
姉たちが笑った。
それは、シンデレラが今朝から着ていた服だった。朝の段階でも、継母には見えていたはずだった。
三人を乗せた馬車が去ったあと、シンデレラは裏庭の切り株に腰を下ろした。
手のひらに、小さな豆ができていた。指の節は硬く、爪の間には、洗っても落ちない灰が残っている。
王子に選ばれたいとまでは思わなかった。
ただ一度、きれいな服を着て、音楽を聴いてみたかった。何かを運ぶためではなく、踊るために、広い床の上に立ってみたかった。
「それで、泣いているんだね」
顔を上げると、とんがり帽子のおばあさんが立っていた。
「どなたですか」
「魔女さ。事情はだいたい聞いていたよ」
「魔法で、わたしを舞踏会に行かせてくださるんですか」
「その前に、あの家の仕事の割り振りはおかしいね」
魔女は家を一度にらんだが、今夜は時間がなかった。
杖を振ると、畑のかぼちゃが金色の馬車になった。鼠たちは馬になり、庭のトカゲは立派な髭の御者になった。ぼろぼろの服は、夜明け前の空のような青いドレスに変わった。
足元には、ガラスの靴が輝いていた。
「まあ……」
シンデレラがそっと片足を上げると、靴は水でできているかのように光を透かした。
「割れませんか」
「特別製だよ。踊っても走っても割れないし、途中で脱げたりもしない」
「すごい」
「靴ずれもしない」
「すごい!」
魔女は、そこが一番うれしいのか、という顔をした。
「ただし、十二時の鐘が鳴り終わったら、魔法は解ける。馬車もドレスも元どおりだ。靴だけは贈り物だから、そのまま残るけどね」
「わかりました」
「いいかい。十二時だよ」
「はい」
シンデレラは何度もお礼を言って、馬車に乗った。
*
お城の舞踏会は、夢よりも明るかった。
天井には無数の灯がともり、楽団の弓がいっせいに動くたび、音楽が高い窓まで満ちていく。色とりどりのドレスが大理石の床を流れ、テーブルには、名前も知らない料理が並んでいた。
シンデレラは、しばらく入口で立ち尽くした。
それから、ケーキの前で立ち尽くした。
白いクリームに包まれたもの。いちごを載せたもの。艶やかな蜂蜜が、薄い層の間からのぞいているもの。
小皿は一枚しかない。
重大な問題だった。
「殿下! 娘の持参金について、もう一点だけ!」
広間の向こうから声がした。
顔を上げると、立派な礼服を着た若者が、こちらへ歩いてきた。歩き方は優雅だったが、速さはかなりのものだった。
若者はテーブルから小皿を取ると、ちょうど柱の陰になる位置で足を止めた。
「失礼」
ケーキを見つめたまま、小声で言った。
「何か、とても大切な話をしていただけませんか」
「大切な話、ですか?」
「できれば、途中で誰も割り込めないような」
柱の向こうを、着飾った紳士が通り過ぎた。
若者は、ケーキを見る角度を少し変えた。顔がきれいに柱へ隠れた。
シンデレラは、ようやく事情を察した。
「逃げていらしたんですか」
「休憩です」
「追われているようでしたけど」
「まだ、認められていない休憩なんです」
困り果てた声だった。
シンデレラは笑いそうになって、いったん唇を結んだ。それから、自分の小皿を見下ろした。
「では、本当に大切なお話なのですが」
「ぜひ」
「この六つのうち、どれが一番おいしいのでしょう」
若者は、初めて彼女の顔を見た。
それから、六種類のケーキを見た。
「それは、難しい問題ですね」
声から、さっきまでの切迫した響きが消えていた。
「昨日も調べたのですが、まだ結論が出ていません」
「王子様でも、わからないことがあるんですね」
「ええ。特に、五つ目あたりから判断が怪しくなります」
「食べすぎでは?」
「その可能性も、指摘されています」
シンデレラは、とうとう笑ってしまった。
王子も笑った。柱の向こうをうかがっていた肩が、少し下がった。
「半分ずつなら、全部試せます」
「そんなに食べてもよろしいんですか」
「主催者として許可します」
「休憩の許可は下りていないのに?」
王子は一瞬、困った顔をした。
「そこは、内密に」
ふたりは柱の陰で、世界の重大事を相談するようにケーキを分けた。
いちごのケーキには酸味があり、蜂蜜のケーキには胡桃が入っていた。白いクリームのものを食べたとき、王子の袖口に少しだけクリームがついた。
シンデレラが指摘すると、王子は慌てて拭いた。
「今日、二度目です」
「昨日も調べたのに?」
「調査には危険がつきものです」
また笑った。
姉たちと一緒にいるときとは違う、自分のための笑い声だった。
「お名前をうかがっても?」
そう尋ねられたときだけ、シンデレラは返事に詰まった。
灰かぶり。
このドレスで、その名前を口にしたくなかった。名前を言えば、かまども、水桶も、洗いかけの皿も、いっせいに戻ってくる気がした。
「今夜だけは、何も聞かないでいてくださいますか」
王子は少し考え、それからうなずいた。
「では、ケーキに詳しい方、と覚えておきます」
「いま詳しくなったところですけど」
「僕より、いちごの評価が的確でした」
空になった小皿を置いて、王子は手を差し出した。
「一曲、お相手をお願いできますか」
シンデレラは、その手を取った。
最初のダンスでは、足を置く場所を間違えた。王子も一度、間違えた。どちらが先に間違えたかで小さく言い合い、結局、ケーキを食べすぎたせいにした。
踊るたび、ドレスの裾からガラスの靴がのぞいた。
「きれいな靴ですね」
王子が言った。
魔女にも聞かせてあげたいと、シンデレラは思った。あのおばあさんは、きっと、とても得意そうな顔をする。
音楽が終わっても、次の曲が始まった。
もう一曲だけ。
そう思うたびに、夜が少しずつ短くなった。
だから、時計塔の鐘が鳴りはじめたとき、シンデレラは息をのんだ。
十二時だった。
「帰らなくては」
「馬車を呼びましょう」
「間に合わないんです」
裾を持ち上げ、前庭へ続く脇の扉に駆け寄った。
取っ手を回した。
開かなかった。
もう一度回した。
やはり開かなかった。
「ああ、その扉は古くて、ときどき金具が引っかかるんです。向こうの廊下から――」
王子の説明の途中で、二つ目の鐘が鳴った。
「うちの台所と同じですね」
シンデレラは、なぜか少し安心した顔になった。
「少し、離れていてくださいね」
王子が一歩下がった。
シンデレラは、毎朝、台所でしているように、扉の脇へ右の拳を向けた。
こつん、とやるつもりだった。
その瞬間、背後でまた鐘が鳴った。
ほんの少しだけ、力が入った。
拳が壁に入った。
扉が開いた。
近くの窓も開いた。
それを見ていた侍従の口も開いた。
楽団は演奏を止めたが、太鼓だけが一拍遅れて鳴った。太鼓ではなかったかもしれない。
白い石の粉が、王子の肩にぱらぱらと降りかかった。
シンデレラは、壁と、自分の右手を交互に見た。
「あっ」
鐘が鳴った。
「あの」
また鳴った。
「ごめんなさい!」
シンデレラは走り出した。
王子が、我に返って追いかけた。
「待ってください! せめて、お名前だけでも!」
階段を駆け下りながら、娘が振り返った。
「弁償します!」
王子が何か言うより早く、もう一言、夜空に響いた。
「一度には無理ですけど!」
馬車が走り去った。
ガラスの靴は、片方も脱げなかった。
城門を曲がり、人目から隠れたところで、御者が急いで手綱を引いた。
馬車が止まるのと、最後の鐘が鳴り終わるのは、ほとんど同時だった。
馬は鼠に、御者はトカゲに、馬車はかぼちゃに、青いドレスは元の服に戻った。
シンデレラは、道端にぺたんと尻もちをついた。
残りの道は、かぼちゃを抱えて歩いた。
途中で一度休んだが、靴ずれはしなかった。
魔女の仕事は、説明されたとおりに完璧だった。
*
翌朝、王子は大臣を呼びつけた。
「昨夜の女性を捜してほしい」
大臣はうやうやしく一礼した。
「承知しております。すでに衛兵には、逃走した娘の特徴を――」
「逃走ではない」
「では、立ち去った娘の特徴を」
「僕は、あの方に結婚を申し込みたい」
大臣の筆が止まった。
「……修繕費の請求ではなく?」
「結婚だ」
大臣は手元の書類を見下ろした。
しばらくして、「容疑者」を二重線で消し、「花嫁候補」と書き直した。
本文はほとんど変わらなかった。
「何か、お心当たりはございませんか。お名前や、お住まいなど」
「聞けなかった。ただ、珍しい靴を履いていた。ガラスでできた、とてもきれいな靴だ」
王子は、昨夜の階段を思い出した。
「あの階段に、ガラスの靴は落ちていなかったか?」
「ございません」
「よく探したか? 片方だけでも」
「階段も前庭も確認いたしましたが、何も」
「あんなに急いでいたのに、脱げなかったのか」
「靴としては、申し分ない品だったようです」
王子は黙った。
生まれて初めて、靴の出来のよさを恨んだ。
「では、ほかに。ハンカチや髪飾りなど、あの方が残していった物は?」
「物ではございませんが、跡ならば」
大臣は王子を、昨夜の扉へ案内した。
白い壁に、小さな右拳の跡が残っていた。
王子は、しばらくそれを見つめた。
やがて、自分の拳をそっと近づけた。大きさも、指の節の位置も違った。
「これだ」
王子の顔が明るくなった。
「この跡にぴったり合う拳の持ち主を捜すんだ」
「なるほど」
「この部分を切り出して、国じゅうの娘たちに合わせてもらおう」
大臣は壁を見た。
厚みを確かめた。
それから、深く頭を下げた。
「もう一度、靴を探してまいります」
靴は、やはりなかった。
大臣は、石膏で型を取れば軽くなると提案したが、王子は首を振った。
「これが、僕たちの思い出なんだ」
大臣は壁を見た。
王宮としては、破損だった。
しかし恋をしている者に、建物の立場を説明しても仕方がない。
石工が呼ばれ、拳の跡を含む壁の一角が切り出された。
こうして、赤いビロードを敷いた荷車に、壁が載せられた。
王国始まって以来、初めての花嫁捜しが始まった。
娘たちが待ち受ける家の前に馬車が止まり、王子が降り、大臣が降り、そのあと屈強な兵士たちが、後ろの荷車から壁を降ろした。
「王子殿下がお探しです。この跡に、お手を合わせていただきたい」
最初の家の娘は、優雅に右手を差し出した。
「失礼。握ってください」
娘は、戸惑いながら拳を握った。
「そうです。そのまま、壁へ」
横で母親が小声で言った。
「笑顔よ」
娘は笑った。
拳を壁に差し込みながら笑うのは、初めてだった。
残念ながら、跡は合わなかった。
次の家でも、その次の家でも、娘たちの拳は、小さすぎたり、大きすぎたり、指の節の位置が違ったりした。
王子が訪れるという噂は、たちまち広まった。
その途中で、「王子は、壁を殴れる花嫁をお探しだ」という話になった。
花嫁修業に、急遽、踏み込みが加わった。
刺繍の先生が帰ると、退役した騎士が呼ばれた。娘たちは、挨拶のお辞儀から滑らかに構えへ移る練習をした。
「お母様。これで王子様の心を射止められますか」
「まず壁よ」
一方、城下町の大工たちは、突然増えた修理の依頼に首をかしげていた。
王子は、そのような国民の努力を知らず、ただひとりの娘を捜し続けた。
あの人となら、王子という肩書を少し脇に置いて、笑っていられる気がした。
名前も家も教えてもらえなかった。
それでも、確かにここにいた。
壁が、そのことを証明していた。
*
捜索が始まって数日、シンデレラは台所で貯金を数えていた。
銅貨が七枚あった。
二度数えても、七枚だった。
魔女が窓からのぞいた。
「何をしているんだい」
「修理代を」
「王子は、あんたに求婚したいそうだよ」
シンデレラは顔を上げた。
頰が赤くなりかけ、それから、七枚の銅貨を見て青くなった。
「求婚するって言えば、出てくると思われているのでは」
「ずいぶん手の込んだ取り立てだね」
「でも、結婚を申し込まれることと、壁を壊したことなら、後者のほうに心当たりがあります」
魔女は返す言葉を探した。
確かに、証拠があった。
「会いたくないのかい」
「会いたいです」
その答えだけは、すぐに出た。
シンデレラは指先で銅貨を寄せた。
「でも、あんなふうに逃げてしまって。王子様のお召し物にも、粉をかけてしまいましたし」
「それも請求されるつもりかい」
「洗濯なら、自分でできます」
魔女はため息をついた。
ドレスを変えるより、この娘の考え方を変えるほうが難しそうだった。
そうしているうちに、家の表で車輪の音がした。
続いて、男たちの声がした。
「せーの」
「そっちを上げろ」
「指! 指が入ってる!」
シンデレラは窓の隙間から外を見た。
王子がいた。
大臣がいた。
壁もいた。
「持ってきた……」
逃げられない、と思った。
破損した箇所をわざわざ持参するほど、怒っているのだ。
「ほら、迎えに来たじゃないか」
魔女が言い終わる前に、廊下から足音が近づいた。
「シンデレラ!」
継母だった。
魔女は窓の下へさっと身を引き、そのまま裏庭の向こうへ消えた。
継母が台所へ飛び込んできた。
「あなたはここにいなさい。絶対に出てきてはいけませんよ」
「はい!」
シンデレラは、生まれて初めて、継母の命令に心から感謝した。
扉の向こうで、鍵の回る音がした。
応接間では、上の姉が拳を合わせていた。
姉は指先のお手入れを念入りにしていたので、長い爪が邪魔だった。
「爪を切れば合うかもしれませんわ」
「指の長さも違います」
「そちらを少し、調整できませんの?」
「お嬢様と壁の、どちらをでしょうか」
上の姉は黙った。
下の姉は、手を斜めにしたり、親指の位置を変えたりしていた。
「ここまでは入ります」
「途中まででございますね」
「結婚してから、残りが入る可能性も」
「何年計画でお考えですか」
下の姉も黙った。
継母は気まずい空気をどうにかしようと、笑顔で手を打った。
「まあ、殿下。お茶もお出しせずに。シンデレラ、お茶を!」
言ってから、顔が止まった。
長年、何もかも人に頼んできた口は、人を隠したくらいでは止まらなかった。
台所から、反射的な返事がした。
「はい、ただいま」
大臣が顔を上げた。
「ほかにも、お嬢様が?」
「あれは、その、うちの――」
台所では、シンデレラが茶葉を量っていた。
やかんのお湯を茶器に注ぎ、盆へ載せる。客人の数だけ、カップを並べる。その手順には、迷いがなかった。
やがて、台所の取っ手が、がちゃがちゃと鳴った。
沈黙があった。
それから、控えめな声がした。
「すみません。少し、扉から離れていてくださいね」
王子が立ち上がった。
大臣は、王子の動きより先に下がった。
ごん。
食器棚の中で、皿がいっせいに鳴った。
台所の扉が開いた。
錠前は、もうあまり錠前らしい形をしていなかった。
シンデレラが、お茶の盆を持って立っていた。
「今日は少し、立てつけが悪くて」
来客があれば、お茶を出す。扉が開かなければ、叩いて開ける。
自分が隠れていたことを思い出したのは、王子と目が合ってからだった。
王子は、まっすぐに彼女を見た。
青いドレスはなかった。宝石もなかった。
けれど、驚くと少し丸くなる目も、困ったように下がる眉も、ケーキを分け合ったあの夜のままだった。
「あなたでしたか」
王子の声がやわらかくなった。
シンデレラは、もう逃げられないと思った。
「申し訳ございませんでした」
盆を置いて、両手を差し出した。
大臣が慌てた。
「お縄ではありません。片手で結構です」
右手を握り、壁の跡へ入れる。
幅も、指の節の位置も、ぴたりと合った。
兵士たちが、深いため息をついた。
ようやく、この壁を持ち歩かずに済む。
大臣は、ふと台所の入口を見た。
古い木の柱に、似たような拳の跡がいくつも並んでいた。
手元の石を見た。
柱を見た。
「照合資料が、急に増えましたな」
シンデレラは、ますます小さくなった。
「お城の壁が、あんなふうになるとは思わなくて。うちでは、あれで扉が開くものですから」
「ええ。よく開いていました」
王子は笑った。
責める笑いではなかった。
それでもシンデレラは、エプロンのポケットから銅貨を取り出した。
「今日は、これだけしか」
「修理代はいりません」
「でも」
「本当に。あなたに、もう一度会いたかったんです」
シンデレラは王子の顔を見た。
王子も、彼女を見た。
しばらくして、娘は小さな声で尋ねた。
「修理代がいらないというところだけ、書いていただけますか」
大臣は、その日初めて、この娘に強い親しみを覚えた。
「すぐにご用意いたします」
王子が署名し、大臣が証人になった。
書面を受け取って、ようやくシンデレラは、胸いっぱいに息を吸った。
「……わたしも、お会いしたかったです」
その言葉に、王子の耳が赤くなった。
舞踏会で何十人もの娘に囲まれていたときより、ずっと頼りない顔だった。
「それなら、またケーキを調べるのに付き合っていただけますか」
「まだ結論が出ていないんですか」
「ひとりでは、難しくて」
シンデレラは笑った。
王子は、その笑顔を見てから、彼女の手を取った。
硬くなった指の節に、そっと唇を触れさせた。
「そして、もう一度、僕と踊ってください。今度は、十二時を過ぎても」
シンデレラはうなずきかけた。
それから、少しだけ心配そうに尋ねた。
「お城の扉は」
「全部、直しておきます」
大臣が、手帳を開いた。
今度は最初から、修繕費の欄だった。
*
やがて、王子とシンデレラは結婚した。
結婚式では、国じゅうから集まった人々が、花嫁の美しさと、王子の幸せそうな顔をたたえた。
来賓の娘たちは、練習の成果で、たいへん足腰の安定したお辞儀をした。
継母と姉たちも招かれた。
三人は以前より静かになっていた。シンデレラがいなくなってから、あの家の一日には、思っていたより多くの仕事が含まれていると知ったのだった。
お城の扉は、どれも指一本で開くようになった。
シンデレラは人を殴ったことなど一度もなく、腹を立てたときも、ちゃんと言葉で話す娘だった。それでも、王宮の建築担当者は、彼女が廊下で立ち止まるたび、少し緊張した。
あの拳の跡は、花で飾られ、ふたりの出会いを記念する品として、お城に残されることになった。
「僕たちの部屋の近くに置きたいな」
結婚式のあと、王子がうれしそうに言った。
兵士のひとりが、そっと尋ねた。
「お部屋は、何階で」
「三階だよ」
兵士たちは壁を見た。
それから、階段を見た。
後日、その話を聞いた魔女は、ガラスの靴の作り方を少しだけ変えた。
それ以来、彼女の作るガラスの靴は、片方だけ、ほんの少し脱げやすくなったという。
靴なら、ひとりで運べる。




