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空を見てはいけない街

作者: 神城ラグ
掲載日:2026/07/10

街には、生まれたときから決まっている四つのルールがあった。


一、空を見てはいけない。

二、地下以外で長時間立ち止まってはいけない。

三、サイレンが鳴ったら、すぐに家へ入る。

四、高い建物を建ててはいけない。


理由を尋ねると、大人たちはみな同じ顔をして言った。

「昔からそう決まっているんだ」

それ以上のことを、誰も知らなかった。


少年はその街で生まれ、その街で育った。空を見上げるということが、どれほど恐ろしいことなのか、誰かに教わったわけではない。


ただ、物心ついたときから、それはこの街で最も重い禁忌だと信じていた。考えることすら、許されていないはずのものだった。

その日、街に一人の商人がやってきた。

荷馬車に積んだ布や香辛料、道具の類を、隣街から運んできたのだという。

少年は役所の手伝いで、荷物検査に立ち会うことになった。


木箱を一つずつ開け、中身を確認していく。

布地、乾燥した豆、薬草の束。単調な作業の途中、少年は箱の底に紛れていた一冊の本に気づいた。


表紙には、見たこともない色が広がっていた。淡く、澄んだ、何か。

「これは……」

商人がひょいと覗き込んで言った。


「ああ、それか。前の街で預かった荷物に混ざってたんだろうな。売り物じゃない」

少年はそっとページを開いた。

今日は雲ひとつない青空だった。

空は青く、とても綺麗だった。

そんな一文が、丁寧な字で綴られていた。


「……空、ですか」

「そうだよ。綺麗なもんだぞ、空ってのは」

商人は特に気にする様子もなく笑った。少年は首をかしげた。


「綺麗……?」

その言葉の意味が、うまく像を結ばなかった。恐ろしいはずのものが、綺麗だと言われている。その矛盾だけが、頭の中に小さな棘のように残った。

商人はその日のうちに荷を届け終え、翌朝には次の街へ向けて発っていった。荷馬車に乗り込む間際、思い出したように振り返って言った。

「君もいつか、空を見られるといいな」


少年は笑った。

「そんな日は来ませんよ」

商人はそれ以上何も言わず、ただ軽く手を振って、街を出ていった。特別なことは何もない。ただの、いつもの仕事だった。


だが、少年はあの本のことが気にかかり、役所へ確認に行った。

「昨日の商人の荷物に、本が一冊混ざっていたんですが」

窓口の職員は、書類から顔を上げないまま答えた。


「そんな本はなかったよ」

「でも、確かに——」

「なかった」

職員はそこで初めて顔を上げた。一瞬だけ、目が泳いだように見えた。それから、何事もなかったかのように、また書類に視線を戻す。


少年はそれ以上何も言えなかった。ただ、あの一瞬の揺らぎだけが、妙に引っかかった。

その日の夕方、少年は役所の資料室で古い棚を整理する手伝いをしていた。埃をかぶった箱の奥に、色褪せた一枚の紙を見つけた。


持ち込み禁止品一覧

その中に、こう書かれていた。

・空に関する書物

少年は紙を持つ手を止めた。

見ることだけでなく、知ることまで、禁じられている。


それは、これまで一度も疑ったことのないルールに、初めて小さな穴が開いた瞬間だった。

少年は資料室の隅で、古参の職員である老人に声をかけた。

「昔から気になっていたんです。空を見てはいけない理由、ご存じですか」


老人は手を止め、少しだけ笑った。

「私も、若い頃に同じことを聞いたよ」

少年の胸に、小さな期待が灯った。

「それで、何と?」

老人は首を横に振った。

「『昔からそう決まっている』——それだけだった」


少年は、その言葉の重みにようやく気づいた。

理由を知っている人間が、どこにもいない。何十年も前から、ずっと。ルールだけが、まるで理由を必要としない生き物のように、街の中で生き続けていた。

その夜、少年は資料室に残り、古い書庫を一つずつ調べた。

役所の記録には、ルールの条文だけが並んでいた。図書館の蔵書は街の歴史を細かく記していたが、どういうわけか、ある時期の前後だけがすっぽりと抜け落ちている。


地下室の古地図には、街の輪郭だけが残り、そこに暮らした人々の姿は何一つ描かれていない。黄ばんだ新聞の綴りをめくっても、“空”という文字が現れるたび、その先の説明だけが途切れていた。


どこにも「空を見てはいけない」という一文はあった。だが、なぜだけが、どの資料からも抜け落ちていた。


理由だけが、不自然なほど残されていなかった。

少年は棚を戻し、また別の箱を開けた。本当に、理由なんてどこにも残っていないのだろうか。それとも、自分が見落としているだけなのだろうか。


夜が更けたころ、少年は書庫の最も奥、長らく開けられた形跡のない引き出しの中に、一通の手紙を見つけた。半分が焼け焦げている。

震える手で、それを開いた。


今日も空から火が降った。

娘が空を見るたび泣く。

だからお願い。空を見ないで。

いつか平和になったら、思う存分見上げてください。


少年は、その場に立ち尽くした。

手紙を握りしめたまま、震える声で、繰り返した。

「空から、火が降った……」

少年は、床に散らばったままの資料をもう一度かき集めた。


地下へ続く古い避難路の図面。役所の棚にしまわれていたサイレンの設置記録。高い建物の建築を禁じる、色褪せた古い通達。

一つひとつが、頭の中で音を立てて繋がっていく。


そうか。

この街は、かつて空から焼かれ続けていたのだ。

空を見るな。恐ろしいものを、二度と思い出させないために。

地下へ避難しろ。命を守るために。

サイレンで知らせろ。逃げる時間を作るために。

高い建物を建てるな。狙われないために。

それはすべて、子どもたちを守るために生まれたものだった。


戦争は、やがて終わったのだろう。

けれど、理由だけが少しずつ忘れられ、ルールだけが、まるで空っぽの器のように、次の世代へ、また次の世代へと受け継がれていった。

翌朝、少年は誰にも告げず、街の外れにある丘へ向かった。

風が頬を撫でる。草を踏む音だけが響く。

丘の上に立ち、少年はゆっくりと顔を上げた。


生まれて初めて見る、空。

風が吹き抜け、遠くで鳥が羽ばたいていた。どこまでも続く、澄んだ青が、そこにはあった。


「そんな日は来ませんよ」

そう笑った、あの日の自分の声が、ふと耳の奥をかすめた。


少年は、小さく呟いた。

「……これが、青色」

少しだけ、口元が緩んだ。

「とても……綺麗だ」

風が、答えるように吹いた。

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