空を見てはいけない街
街には、生まれたときから決まっている四つのルールがあった。
一、空を見てはいけない。
二、地下以外で長時間立ち止まってはいけない。
三、サイレンが鳴ったら、すぐに家へ入る。
四、高い建物を建ててはいけない。
理由を尋ねると、大人たちはみな同じ顔をして言った。
「昔からそう決まっているんだ」
それ以上のことを、誰も知らなかった。
少年はその街で生まれ、その街で育った。空を見上げるということが、どれほど恐ろしいことなのか、誰かに教わったわけではない。
ただ、物心ついたときから、それはこの街で最も重い禁忌だと信じていた。考えることすら、許されていないはずのものだった。
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その日、街に一人の商人がやってきた。
荷馬車に積んだ布や香辛料、道具の類を、隣街から運んできたのだという。
少年は役所の手伝いで、荷物検査に立ち会うことになった。
木箱を一つずつ開け、中身を確認していく。
布地、乾燥した豆、薬草の束。単調な作業の途中、少年は箱の底に紛れていた一冊の本に気づいた。
表紙には、見たこともない色が広がっていた。淡く、澄んだ、何か。
「これは……」
商人がひょいと覗き込んで言った。
「ああ、それか。前の街で預かった荷物に混ざってたんだろうな。売り物じゃない」
少年はそっとページを開いた。
今日は雲ひとつない青空だった。
空は青く、とても綺麗だった。
そんな一文が、丁寧な字で綴られていた。
「……空、ですか」
「そうだよ。綺麗なもんだぞ、空ってのは」
商人は特に気にする様子もなく笑った。少年は首をかしげた。
「綺麗……?」
その言葉の意味が、うまく像を結ばなかった。恐ろしいはずのものが、綺麗だと言われている。その矛盾だけが、頭の中に小さな棘のように残った。
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商人はその日のうちに荷を届け終え、翌朝には次の街へ向けて発っていった。荷馬車に乗り込む間際、思い出したように振り返って言った。
「君もいつか、空を見られるといいな」
少年は笑った。
「そんな日は来ませんよ」
商人はそれ以上何も言わず、ただ軽く手を振って、街を出ていった。特別なことは何もない。ただの、いつもの仕事だった。
だが、少年はあの本のことが気にかかり、役所へ確認に行った。
「昨日の商人の荷物に、本が一冊混ざっていたんですが」
窓口の職員は、書類から顔を上げないまま答えた。
「そんな本はなかったよ」
「でも、確かに——」
「なかった」
職員はそこで初めて顔を上げた。一瞬だけ、目が泳いだように見えた。それから、何事もなかったかのように、また書類に視線を戻す。
少年はそれ以上何も言えなかった。ただ、あの一瞬の揺らぎだけが、妙に引っかかった。
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その日の夕方、少年は役所の資料室で古い棚を整理する手伝いをしていた。埃をかぶった箱の奥に、色褪せた一枚の紙を見つけた。
持ち込み禁止品一覧
その中に、こう書かれていた。
・空に関する書物
少年は紙を持つ手を止めた。
見ることだけでなく、知ることまで、禁じられている。
それは、これまで一度も疑ったことのないルールに、初めて小さな穴が開いた瞬間だった。
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少年は資料室の隅で、古参の職員である老人に声をかけた。
「昔から気になっていたんです。空を見てはいけない理由、ご存じですか」
老人は手を止め、少しだけ笑った。
「私も、若い頃に同じことを聞いたよ」
少年の胸に、小さな期待が灯った。
「それで、何と?」
老人は首を横に振った。
「『昔からそう決まっている』——それだけだった」
少年は、その言葉の重みにようやく気づいた。
理由を知っている人間が、どこにもいない。何十年も前から、ずっと。ルールだけが、まるで理由を必要としない生き物のように、街の中で生き続けていた。
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その夜、少年は資料室に残り、古い書庫を一つずつ調べた。
役所の記録には、ルールの条文だけが並んでいた。図書館の蔵書は街の歴史を細かく記していたが、どういうわけか、ある時期の前後だけがすっぽりと抜け落ちている。
地下室の古地図には、街の輪郭だけが残り、そこに暮らした人々の姿は何一つ描かれていない。黄ばんだ新聞の綴りをめくっても、“空”という文字が現れるたび、その先の説明だけが途切れていた。
どこにも「空を見てはいけない」という一文はあった。だが、なぜだけが、どの資料からも抜け落ちていた。
理由だけが、不自然なほど残されていなかった。
少年は棚を戻し、また別の箱を開けた。本当に、理由なんてどこにも残っていないのだろうか。それとも、自分が見落としているだけなのだろうか。
夜が更けたころ、少年は書庫の最も奥、長らく開けられた形跡のない引き出しの中に、一通の手紙を見つけた。半分が焼け焦げている。
震える手で、それを開いた。
今日も空から火が降った。
娘が空を見るたび泣く。
だからお願い。空を見ないで。
いつか平和になったら、思う存分見上げてください。
少年は、その場に立ち尽くした。
手紙を握りしめたまま、震える声で、繰り返した。
「空から、火が降った……」
少年は、床に散らばったままの資料をもう一度かき集めた。
地下へ続く古い避難路の図面。役所の棚にしまわれていたサイレンの設置記録。高い建物の建築を禁じる、色褪せた古い通達。
一つひとつが、頭の中で音を立てて繋がっていく。
そうか。
この街は、かつて空から焼かれ続けていたのだ。
空を見るな。恐ろしいものを、二度と思い出させないために。
地下へ避難しろ。命を守るために。
サイレンで知らせろ。逃げる時間を作るために。
高い建物を建てるな。狙われないために。
それはすべて、子どもたちを守るために生まれたものだった。
戦争は、やがて終わったのだろう。
けれど、理由だけが少しずつ忘れられ、ルールだけが、まるで空っぽの器のように、次の世代へ、また次の世代へと受け継がれていった。
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翌朝、少年は誰にも告げず、街の外れにある丘へ向かった。
風が頬を撫でる。草を踏む音だけが響く。
丘の上に立ち、少年はゆっくりと顔を上げた。
生まれて初めて見る、空。
風が吹き抜け、遠くで鳥が羽ばたいていた。どこまでも続く、澄んだ青が、そこにはあった。
「そんな日は来ませんよ」
そう笑った、あの日の自分の声が、ふと耳の奥をかすめた。
少年は、小さく呟いた。
「……これが、青色」
少しだけ、口元が緩んだ。
「とても……綺麗だ」
風が、答えるように吹いた。




