ループ×山荘×殺人事件 ――何度やっても死ぬんだが、犯人誰なんだよ
「ヴッ……ギャァッ!!」
喉が潰れたような声が、短く弾けた。
くそ、なんで俺がっ!!ヴぁァ!!絶対にゆるさない――。
叫んだはずなのに、音にならなずに息だけが漏れる。
終わる……
その感覚だけが、はっきりと分かる。
――彼の意識は、ぷっつりと切れた。
静寂が、部屋を支配する。
指から滑り落ちたマグカップが、ゴトリと床に転がる――
光がなくなった彼の目は、一点を睨みつけている。
【男は確実に死んだ】
【ユースケの生前に、時を巻き戻し書き示すことにしよう】
はめごろしの窓の向こう、雨がやたら主張してくる。
滲んで、叩きつけて、また滲む。山と木々がぼやけて、距離感もよう分からん。
「すごい雨やなぁ」
キャップをひねって、スポドリをちびり。
なんでやねん、このタイミングで山奥て。帰り、どないすんねん。
外を見てるだけやのに、落ち着かん。雨のせいか、それとも――
まあええか、とりあえずもう一口。
旅行、いうても気軽なもんのはずやった。山荘なんて聞いたときは、ちょっとテンション上がったんやけどな。
叔父の別荘らしい。音楽が趣味で、防音がええとかなんとか。
実際、ここもやたら静かや。外、あんだけ雨が暴れてんのに、ほとんど聞こえへん。
……いや、待てや。
音楽が趣味なんて聞いたことあらへんけどな……
オーディオも楽器も見当たらん。ほんまに音楽好きなんか。
なんか別の用途ちゃうんかこれ。隠しカメラとか――いや、さすがにそれはないか。
ないよな?
なんとなく部屋を見回す。
デスクの上にスマホと鍵、アナログの置時計。
濃紺のカーテンがやけに重たそうで、白い壁が余計に素っ気なく見える。
「どうしたの?」
声に振り向く。ベッドに腰かけた彼女が、首をかしげてる。
「べつになんもないけど、あっさりした部屋やなおもって」
「ふふ、確かに」
ミユキ。大学生にして、もうプロの小説家。
肩にかかるくらいの栗色の髪が、光の加減でやわらかく揺れる。
目はすっと通ってて、なんかこう、見透かされてる気がするのに嫌やない。
細身やけど、ちゃんと女のラインしてて、肌はやたら白い。
「雨、ひどいね」
「せやな。道も崩れとるらしいし、しばらくは帰れんやろな」
来る途中で、いきなり山道が崖崩れで塞がれてな。あれはほんま、笑えんかったわ。
「せっかくの旅行なのにね」
ミユキが、ちょっと困ったように笑う。
その笑いは、長くは続かなかった。
すぐに、何かを思い出したように視線が揺れる。
ほんのわずかな沈黙。
「しかも、締切近いの思い出しちゃった」
「うわ、最悪のタイミングやな。旅行中くらい忘れとけへんの?」
「無理だよ、編集さんこわいもん。連絡も来てるはずなんだけど……」
ミユキはスマホを見て、ちょっと眉を寄せる。
「圏外だし。これ、天気のせいかなぁ」
「山やし、もともと弱いんちゃう?雨でさらに死んどる感じやな」
「うーん……まあいいや」
ミユキが軽く肩をすくめる。
少しだけ考えてから、ふっと息をついた。
「どっちみち、やらなきゃだし」
スマホをしまいながら続ける。
「部屋でちょっと書いてくるね。ノートPCあるし」
「え、ここちゃうん?」
「ちょっと落ち着かないかも。自分の部屋のほうが集中できるし」
「なるほどな。さすがプロや」
「ふふ、がんばります」
軽く手を振って、立ち上がる。
「おう、いってら」
ドアが閉まる音がして、ふっと静かになる。
……いったか。
なんとなく、そう思いながら、改めて部屋を見渡す。
さっきと同じはずやのに、どこか違って見えた。
置時計に目が止まる。銀の針は、13:30を指している。
「……ほんま、ええ子やな」
小さく漏れた声は、自分でも驚くくらい軽かった。
窓の外では、雨が変わらず降り続いている。
同じリズムで、静かに窓を叩いていた。
さっきと同じ光景のはずやのに、なんやろ、うまく重ならへん。
音も、景色も、どこか遠くにあるみたいで。
ぼんやり眺めてるうちに、だんだんどうでもよくなってくる。
……まあ、ええか。
そう思ったあたりで、意識がゆっくり沈んでいった。
――気づけば、まぶたが重くなっていた。
「……ん?」
「寝てた?」
自分でも、はっきりせえへん。
意識がまだ沈んだままで、うまく浮かんでこん。
体がやけに重たい。動こうとしても、ワンテンポ遅れてついてくる。
なんやこれ……。
さっきと同じ部屋のはずやのに、なんかうまく噛み合わへん。
……いや、変わってるわけないやん。
窓の外も、ベッドも、デスクも同じや。
――デスクの上。
スマホと鍵……と、マグカップ……やんな?
……いや。
あれ?
こんなん、あったっけ。いやいや、なかったやろ。
気づいたら、手が伸びてた。
「なんや、さめてるやん」
ミユキが入れてくれたんやろか。
……そいや、部屋戻る言うてたよな。
ほんま、気つかわんでええのに。
14:30――
さっき、何時やったっけ。
13時過ぎとった気がする。
1時間くらいウトウトしてたんか。
いや、これ普通に寝てたな。
「つかれてるんやろな……」半日くらい歩いたし。
雨に、土砂崩れに――ほんまなんでやねん。
軽く息をついて、カップを見る。
ま、ありがたく頂こか。
【こうして、冷めたコーヒーを飲み――死んでしまった】
っっっつ!!
一瞬、白く弾けた光が視界を焼いたかと思った次の瞬間、窓がドシャ!と震える。
けど、そのわりに音は小さい。くぐもった雷鳴が、遅れて耳に届いた。
「……っ、はぁ……っ」
強引に引き戻されたみたいに、体が跳ねた。
夢……か?
なんや、やたらと気持ち悪さだけ残ってる。
拳がぎゅっと握られてる。
手のひら、じっとり汗ばんでるし、呼吸も荒い。
首元に触れて、口元に手をやって、落ち着かへん。
え?
なんや今の……。
頭はまだぼやけてるのに、妙に緊張だけが残ってる。
ここ、どこや?
……ああ、ちゃう。旅行や。山荘。
そこまで思い出して、ふと視線が上に向く。
同じ天井や。
シンプルなライトが、変わらずそこにある。
ゆっくり視線を落とす。
デスク。鍵。スマホ。置時計。自分の見慣れたリュック。
ベッドは――空や。
「あれ……ミユキ?」
返事はない。
……そらそうや。自分の部屋や。
夢と現実の境目が、まだ曖昧なままや。
なんやこれ……。
時計に目が止まる。
14:30――
そのすぐ近く。
デスクの上に、マグカップ。
「マジでなんなん……」
思わず声が漏れる。
さっき――いや、夢か?
あれ、なんやったんや。
うとうとしてたんは覚えてる。
けど、その先が妙に引っかかる。
「……きっつい夢やで、ほんま」
震える手で、ペットボトルを掴む。少なくなったスポドリを口に含む。
ぬるい。
けど、喉を通る感覚で、少しだけ現実に戻る。
落ち着け。
落ち着くんや……。
ゆっくり息を吐いて、もう一度吸う。
……よし。
冗談きついで、ほんま。
気を紛らわせるように、窓のほうを見る。
雨粒がにじむ向こうに、山と木々。
その瞬間、脳裏にあの光景がよみがえる。
来る途中の、土砂崩れ。
確か、200メートルくらい後ろやった。
山のほうから、パキパキって小枝折れるみたいな音がして――次の瞬間、轟音。
振り返ったときには、道が丸ごと消えてた。
何も考えられんまま、雨の中、必死で走った。
「……よう無事やったな」
ぽつりと呟く。
デスクに目を戻す。
マグカップ。
「……ないない。気分ちゃうで、さすがに」
苦笑して、視線を外す。
まだやりたいこと、山ほどある。
やっと内定も決まったとこや。
あの就活、どんだけ苦労した思てんねん。
大手の建築会社やぞ。
これからやろ、ほんまに。
それに――
ミユキ。
あいつと出会ったの、旅行サークルの歓迎会やったな。
チェーンの焼き鳥屋。
未成年やのに酒回ってて、めちゃくちゃやった気するわ。
けど、あのとき見た瞬間、もう決まってた。
一目ぼれや。
半年かけて、ようやく付き合えた。
容姿も性格も、正直出来すぎやろって思う。
「……釣り合ってへんよな」
小さく笑って、首を振る。
いやいや。
俺がそんなこと言うてどうすんねん。
まだまだ、これからや。
行きたいとこも、やりたいことも、いくらでもある。
ゆっくり息を整える。
さっきまでのざわつきが、少しずつ引いていく。
……大丈夫や。
部屋の隅。
雨に濡れたカーキ色のリュックが、そのまま置きっぱなしになってる。
来るとき背負ってたやつや。
着替えくらいしか入ってへんけど――
ミユキと買い物行ったときに選んだやつで、なんとなく気に入ってる。
ぼんやり見てた視線が、そのまま横に滑る。
無難なデザインの置時計。無印で買ったんやろか。
……14:30のままやん。
電池か?
そういや、電池の重さで中身分かるとか聞いたことあるな。
半信半疑のまま、指を引っかけてボックスを外す。
小さいくせに妙に固くて、ちょっと力を入れてようやく外れた。
中の電池をつまみ上げて、軽く持ち替える。
んー……。
「ちょい軽い……んか?」
「……えーと」
自分で言うて、思わず苦笑する。
「いや、分かるわけないやろ」
そのまま電池を戻して、ぱちんとはめる。
……まあええか。
ポケットからスマホを取り出して、時間を確かめる。
14:40。
「……あれ?」
一瞬だけ引っかかる。
いやいや、おうてるやろ。まだボケてるな。
自分を落ち着かせるみたいに、ゆっくり息を吐く。
ベージュのスリッパに突っ込んだ指先を、軽く動かす。
……問題あらへん。
そう思ったはずやのに、なんか気になる。
ふと、足元に意識が向く。
フローリング。
「……きれいすぎへん?」
思わず口に出る。
しばらく使ってない山荘って聞いた気がするけど、それやのにホコリ一つないやん。
リビングにつながる玄関と、小さなキッチン、それに個室。
来たとき、一通り見て回った。
「……まさか、誰か……隠れて……」
口に出しかけて、すぐに首を振る。
「マジあほくさ」
こんなとこ、隠れる場所なんてあらへん。
「建築のプロが言うんや、間違いないで」
一拍おいて、
「……まぁ、まだプロちゃうけどな」
「なんてな」
まあ、事前に掃除してくれたんやろ。
それか……なんかヤバいもん運び出しに来たとか。
――いやいや、ないない。
――多分。
いや、ありえへんて。
ビビりすぎや。
そう思い直して、軽く息を吐く。
不意に。
トントン、と扉が鳴った。
「っぉう!」
肩がびくっと跳ねる。
「……マジか。びびるやん」
苦笑が漏れる。
……ミユキやろ。
ほんま、俺どないしたんや。
そう思いながら、ゆっくり立ち上がる。
「っと、あぶなっ」
ヒザが無意識に折れて、バランスを崩しかける。
とっさに手をデスクに突いて、なんとか踏みとどまる。
……なんやねん、今の。
一瞬だけ息を整えて、軽く頭を振る。
大丈夫や。
ちょっとふらついただけやろ。
「どしたん?」
「ちょい待ってや」
自分でも締まらん声やと思う。
苦笑しながら、扉のほうへ歩く。
手を伸ばして、レバーに触れる。
白いクロスと同じ色の扉。
見た目は軽そうやのに、指先に伝わる感触が重い。
そのまま押し下げると、じわっと沈む。
力を入れた感覚はないのに、妙に手応えだけが残る。
これ……自分の力なんか、重さなんか。
そのまま、扉がゆっくり開いていく。
次の瞬間。
何かが、もつれるように中へ倒れ込んできた。
「……は?」
視界が揺れる。
何事や――
天井のシーリングライトは、変わらん光を放ってるはずやのに。
……こんなやっけ。
なんか、暗ないか。
視界の端から、じわりと闇が寄ってくる。
――静かや。
何も聞こえへん。
腹部。
そこに、刃物がある。
ほとんど根元まで、深く沈み込んでいる。
呼吸に合わせて、わずかに揺れる。
現実味がない。
なんやこれ、ヤバいな。
自分でも驚くくらい、冷静や。
痛みも恐怖も、あるはずやのに。
波のように来るはずの感覚が、弱い。遠い。
視界の端から闇が広がり、天井の光が少しずつ削られていく。
一瞬の出来事が、やけに長く引き伸ばされる。
「……なんでや……」
声にはならへん。
『カチリ』
扉が閉じる音だけが、遅れて届く。
低く、重たい響き。
窓の外で、雷が光る。
一瞬、部屋の輪郭が浮かび上がる。
【こうして、刃物で腹部を刺され――死んでしまった】
窓の外で、雷が光る。
遅れて、低い音が空気を揺らした。
ベッドに腰かけたまま、ぼんやりと外を見る。
雨は相変わらず強い。
にじんだ景色が、ただ揺れている。
……もう、たくさんだ。
こんなことになるなら、来なければよかった。
思考がまとまらない。
おかしくなったのは、いつからだ。
土砂崩れのときか。
いや、そもそも――この旅行自体が。
ふと、スマホに目を落とす。
14:45。
「……やれやれだな」
小さく息を吐く。
まだ、ここに来てから二時間も経っていない。
それなのに、この状況だ。
どうしてこんなことになった。
……ミユキだけは、信じていたのに。
「……どうすればいい」
呟きながら、部屋の隅のリュックに手を伸ばす。
衣類をかき分ける指先に、硬いものが触れた。
取り出す。
ウイスキーのミニボトル。
安眠用に持ってきたものだ。
「……こんなときくらい、いいだろ」
キャップをひねり、そのまま口をつける。
ぐびり、と喉に流し込む。
焼けるような感覚が、口内から広がる。
その熱だけが、妙に現実を伴っていた。
――生きている。
そう思えるのは、この瞬間だけだった。
そろそろか……。
扉のほうに意識が向く。
自然と、肩に力が入っていた。
手元のウイスキーは、もう半分も残っていない。
喉の奥に、かすかな熱だけが残っている。
何をするでもなく、外を見る。
雨は変わらない。
景色も、何も。
……気が狂いそうだ。
そのとき。
こんこん、と扉がノックされた。
一瞬で、頭の中が静かになる。
さっきまでのぐちゃぐちゃが、嘘みたいに消えた。
「……わたしだけど。少し、いいかな?」
扉の向こうから、声。
……白々しい。
思考が冷える。
もう、分かっている。
元には戻れない。
「悪いけど、話すことはない」
間を置かずに返す。
少しの迷いも、出さないように。
「え……どうして、そんな……」
声が小さく揺れる。
「……また、来るね」
足音が遠ざかる。
「……出直しても、一緒だ」
小さく、呟く。
誰に向けたわけでもない。
深く息を吐く。
酒の匂いが、鼻についた。
床には既に、ウイスキーの空瓶が転がっている。
さすがに飲みすぎた。
腰かけたベットから立ち上がり、デスクに置かれたペットボトルに手をやる。
封を切り、スポドリを喉に流し込んだ。
ー
ーー
ーーー
ーーーーー。
雨は、変わらず降り続いている。
ベッドの上。
男が、静かに横たわっている。
その表情は、どこか安らいでいるようにも見えた。
彼の首から始まる鮮やかな赤色は
白いシーツの上に広がっていた。
時計の針は16:30を刻んでいる。
【彼の時間は、もう刻まれることはない】
【次にミユキが部屋に戻ってからを、時を巻き戻し書き示すことにしよう】
白い扉が、ゆっくりと開く。
ミユキが一歩踏み入れた瞬間、背後で――
カチリ。
音が閉じる。
ぴたり、と。
外の気配が、途切れる。
静か。
雨も、遠い。
「……いいかも」
書くには、ちょうどいい。
デスクに近づき、ノートPCを取り出す。
電源を入れると、画面が淡く光った。
Wi-Fi圏外。
――ほんと、どうしようもない場所。
指を軽くほぐして、キーに触れる。
今書いているのは、クライマックス。
犯人と、探偵の対決。
ここまで積み上げたものを、全部ぶつける場面。
できれば、このまま一気に書ききりたい。
「ここ、外したくないんだよね」
独り言のように、やわらかく。
――当然でしょ。ここが一番“見せ場”なんだから。
指が動き出す。
一定のリズムで、軽やかに。
画面の向こうで、場面が立ち上がる。
閉じられた空間。
対峙する二人。
位置、距離、視線。
頭の中で、角度を変えながらなぞる。
「……うん、いける」
小さく息を吐く。
高校の頃から書き始めて、ここまで来た。
出版、新人賞。
順調。
「ありがたいよね、ほんと」
――まあ、当然だけど。
有名作家に師事できたのも、運だけじゃない。
掴める人間が、掴んだだけ。
そして――
「……ふふ」
口元が、少しだけ緩む。
先日、婚約した。
「いいタイミングだったなぁ」
――全部、予定通り。
勝ち組。
その言葉が、静かに浮かぶ。
視線が、少しだけ揺れる。
「……で」
指は止まらない。
キーを打つ音だけが、部屋に残る。
――ほんと、うっとうしい。
男の顔が、ぼんやり浮かぶ。
「なんで分かんないかなぁ……」
軽く笑う。
――どう見ても、釣り合ってないでしょ。
最初から、終わってる関係。
それを、まだ続くと思ってる。
「ちょっと困るよね」
やわらかい声のまま。
――バカすぎて、話が通じない。
整理するだけの話なのに。
大学の関係なんて、切ればいい。
それだけ。
「……ほんと、面倒」
指が止まることはない。
リズムは、一定。
――いっそ、消えてくれたら楽なのに。
一瞬だけ、思考が沈む。
すぐに浮かぶ。
画面の中の対決が、動く。
言葉が連なっていく。
……。
ふと、視線が上がる。
モニタの黒い部分。
そこに、自分の顔が映っている。
口元に、うっすらと笑み。
目は、冷たい。
「……ふふ」
軽く息を漏らす。
「気をつけなきゃね」
指先が、もう一度キーに戻る。
……と、ふと。
「コーヒー、飲みたいかも」
小さくつぶやく。
リュックに、インスタントは入れてある。
――さっき、キッチンにケトルもあったよね。
頭の中で、場所がすぐに浮かぶ。
一瞬だけ、指が止まる。
「……もうちょいだけ」
軽く息を吐いて、視線を画面に戻す。
細く白い手首。
ピンクゴールドのスマートウォッチに、時刻が浮かぶ。
14:45。
……ちょうどいい。
――逃す理由、ないでしょ。
小さく息を整える。
嫌なことは、先に片付ける。
食事もそう。
好きなものは、最後に残す。
順番は、間違えない。
扉の前で、足を止める。
リビングを一瞥し、そのままゆっくり整える。
呼吸。
服の乱れ。
表情。
「……うん」
――問題なし。
指先で、軽く扉を叩く。
こんこん。
「……わたしだけど。少し、いいかな?」
声を落とす。
柔らかく。
――弱く、優しく。これでいい。
……と。
「悪いけど、話すことはない」
扉越しの声。
どこか、ろれつが怪しい。
まどろんだような響き。
「……え?」
――なにそれ。
――私が来てあげてるのに。
……昼から飲んでる?
最悪。
小さく息を吐く。
――乱れるな。
表情を戻す。
声も。
「……また、来るね」
やわらかく。
何もなかったみたいに。
足音を、静かに引く。
――ほんと、バカ。
振り返らない。
でも、このままじゃ終わらない。
どうにかする。
視線が、リビングへ向く。
ほんの一瞬だけ、鋭く。
――落ち着け。
自分に言い聞かせる。
そのまま、自室へ向かう。
閉じた扉の向こうから、低い声がかすかに滲んだ。
振り返ることはなかった。
部屋に入る前は――17:30だった気がする。
ふと、そんなことを思う。
デスクの上。
白い置時計。
そして、湯気の残るマグカップ。
――さっき、入れたコーヒー。
白い扉。
白い壁。
青いカーテンとはめごろしの窓。
雨は、少しだけ弱まっている。
部屋の隅。
見覚えのあるリュック。
床のフローリングは、不自然なくらいきれいで。
チリ一つ、落ちていない。
ベッドのシーツも、ぴんと張られたまま。
しわ一つない。
……。
天井のシーリングライトが、静かに照らしている。
椅子に座ったままの、女。
胸に、刃物が深く沈んでいる。
力の抜けた手首。
下がった腕。
そこにある時計は――
18:00。
「……」
男は、何も言わない。
ただ、満足そうに見下ろしている。
そのまま、ゆっくりと手を伸ばす。
マグカップへ。
――。
――――。
【部屋にあるものは、これですべてである】
【彼らの身に起きたことは、これですべてである】
【誰が殺したかを示すことは容易だが――無粋であろう】
――。
――――。
【ただし、説明は不足している】
【蛇足ではあるが、ここに整理し書き示そう】
――。
――――。
激しい雨が地面を叩きつける。
【13:00。山荘前】
大学の旅行サークルで来た山の途中。
後ろで土砂崩れが起きて、道は完全に塞がれた。
引き返すこともできず、必死で走って――
どうにか、この山荘までたどり着いた。
木々がぽっかり開けた場所に、ぽつんと建つ建物。
玄関の前で、全員ずぶ濡れだ。
「さっきは、ほんま終わった思たわ」
ケンタが息を吐く。
「マジでな。あれ洒落ならんて」
シンジも苦笑する。
「ほんと、みんな無事でよかったね」
ミユキが、ほっとしたように笑う。
その横で、シンジと一瞬だけ目が合う。
――よくやる。
こんな状況でも。
ミユキはハルオと付き合っている。
そのうえで、シンジとも関係がある。
……ついでに言えば、ケンタとも。
どうしようもない。
倫理観が壊れている。
「いや、これはそんなに簡単な問題じゃないだろ」
ハルオが、周囲を見回す。
「帰り、どうするんだこれ」
冷静な声。
現実的な疑問。
――もっとも。
その心配は、必要ない。
ここから先、誰も山を下りることはない。
【山荘のリビング。13:15】
ペットボトルのスポーツドリンクを、順に手渡していく。
「マジ助かるわ」
シンジがすぐにキャップをひねって、口をつける。
「サンキュ。……何も入ってないだろうな」
ハルオが、冗談めかして受け取る。
「うそやん! もう飲んでもたで!」
ケンタが笑いながら言う。
「ありがとう」
ミユキも軽く受け取る。
――問題ない。
「ほな、晩飯は六時くらいでええやろ。シャワーも浴びたいし、各自ゆっくりしよや」
ケンタの一声で、空気がほどける。
それぞれ、自然に部屋へ散っていく。
……。
ひとつ、息を吐く。
ペットボトルには、事前に用意したものを混ぜてある。
ネットで手に入れた。
何度か試している。
飲んで三十分ほどで効き始める。
長くても二時間ほどで覚醒する。
個人差はあるが、目安にはなる。
深く落ちなくても、動きは鈍る。
それで十分だ。
ケンタとシンジが飲み込んだのは、確かに見た。
――ここまでは、予定通り。
【13:30 山荘のリビング】
ミユキが、ケンタの部屋から出てくる。
表情は、いつも通り。
――こんな状況でも、か。
たいしたものだ。
心臓に毛でも生えているんじゃないか。
……いや、もっと質が悪い。
【14:00各部屋】
扉を軽く叩く。
反応はない。
――効いてる。
ケンタの部屋。
続けて、シンジの部屋。
どちらも、小さないびきだけが返ってくる。
手にしたマグカップを置く。
――あとは、飲むかどうか。
ミユキが入れたと、思い込めばいい。
それで十分だ。
失敗しても、やり直せばいい。
あの二人も、同じだ。
分かっていながら、関係を続けている。
――同罪だ。
【14:30 ケンタ個室前】
外では、雷鳴が低く響いている。
そろそろ、効き目が切れる頃だ。
――もっとも。
あの状態なら、すぐには動けない。
扉を軽く叩く。
反応はない。
右手の感触を確かめる。
そのまま、ゆっくりと扉を開ける。
中。
椅子に座ったまま、動かない。
カップは空。
――飲んでいる。
近づいて、呼吸を確かめる。
問題ない。
デスクの上。
スマートフォンの電源を落とす。
鍵を取り、外から施錠する。
音は、最小限に。
――これでいい。
【14:45 シンジ個室前】
再び、雷が鳴る。
扉を叩く。
間を置く。
「どしたん?」
くぐもった声。
「ちょい待ってや」
締まりのない返事。
――起きている。
右手に力を込め、呼吸を整える。
タイミングを待ち扉が開く。
その瞬間、距離を詰める。
――十分。
抵抗はない。
床に倒れたまま、動かない。
結果は、明らかだ。
デスクの上に、鍵。
……不用心だ。
二人とも。
だが、都合がいい。
扉を閉じる。
静かに、確実に。
施錠する。
――ここまでは、順調だ。
【16:00 リビング】
一瞬、視線が合う。
ミユキ。
何事もない顔で、そのままハルオの扉へ向かう。
こんこん。
「……わたしだけど。少し、いいかな?」
柔らかい声。
「悪いけど、話すことはない」
扉越し。
どこか、まどろんだ響き。
――飲んだか。
判断はつかない。
そのまま言葉が続くが、はっきりとは聞き取れない。
拒まれているのは分かる。
別れ話か。
ふ、と息が漏れる。
――気づいている。
ハルオは、知っている。
シンジとミユキの関係を。
自分が先に付き合っていたという意識もあるだろう。
裏切られた、と思っているはずだ。
だが、順序は曖昧だ。
結局、転がされている。
そんなハルオも、ケンタとの関係は知らない。
……もう遅い。
二人は動かない。
扉も閉じてある。
視線を戻す。
一瞬だけ、鋭くぶつかる。
すぐに逸れる。
そのまま、部屋へ戻っていく。
……ふ。
三人どころじゃない。
作家の男とも、つながっている。
全部、見えている。
全員が、ミユキと関係を持っていた。
全員、同じだ。
どこかで、自分だけは例外だと思っている。
――違う。
すべて同じだ。
静かに息を吐く。
ここで終わらせる。
【16:30 リビング】
そろそろ頃合いか。
ペットボトルを飲んでいなくても、さっきの様子なら問題ない。
強引にいっても、なんとかなる。
ハルオの部屋の前で足を止める。
中の気配はない。……遮音か。
シンジのときの感触が、頭をよぎる。
自然と、手に力が入る。
――できる。
軽くノック。
反応はない。
扉を開ける。
ベッドの上。
仰向けに、動かない。
床には、ウイスキーのミニボトルが二本。
空だ。
ペットボトルも転がっている。
……ふ。
笑いが漏れる。
――勝手に崩れてくれる。
手にした刃を、そっと当てる。
抵抗はない。
ふと、息を吐く。
その前に、シャワーでも浴びるか。
デスクの上。
時計は17:30を指している。
【自室】
――あとは、ミユキ。
どうとでもなる。
ケンタ。シンジ。ハルオ。
思えば、みな同じだ。
……自分も含めて。
最初に出会ったときの光景が、ふとよぎる。
だが、浮かぶのはそれだけだ。
残るのは、別の感情。
――裏切り。
作家の男と、うまくやるつもりらしい。
それでも構わない。
もう関係ない。
手に入らないものに、価値はない。
――それだけだ。
……。
終われば、すべて片付ける。
燃やしてしまえばいい。
日常に戻る。
……いや。
道が復旧してからの方がいいか。
熱いシャワーのせいか、頭は妙に冴えている。
……。
こんこん。
扉が鳴る。
「……私。ちょっと話あるんだけど」
声。
――遠慮がない。
内心で、笑う。
……とっくに終わった関係。
口止めか。
そんな必要はない。
扉を開ける。
視線が合う。
鋭い目。
その手に、マグカップ。
湯気が、ゆらりと揺れている。
「まぁ、座れよ」
中へ促す。
静かに扉が閉まる。
……。
――そして、誰もいなくなる。
【18:00】
満足げに、ミユキを見下ろす。
ユースケは、手を伸ばす。
マグカップへ。
「せっかくやから、もらっておくわ」
初執筆、初投稿になります。
まだまだ至らないところや、力不足も感じていますが、
同時に「書くことの楽しさ」を初めて実感しました。
そして、作家の方や投稿されている皆さまのすごさも、改めて……。
ほんとに、すごいなあって思います。
今回、関西弁のやりとりは個人的に気に入っていて、
もし次を書くことがあれば、
日常系のショートにも挑戦してみたいなと思っています。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




