5
私は女だ。
そして、だからこそ――自分を卑下したくない。
正直に言えば、
もし私が無鉄砲で、狂っていて、プライドなんてどうでもいいと思える人間だったら、
身体を売って金を得ることもできただろう。
この世界には、そういう道はいくらでも用意されている。
でも、私はやらない。
できないからじゃない。
まだ、私の中に「モラル」が残っているからだ。
そんな私の目の前に、皮肉にも立っているのが、
人々がよく「ワークスパウス」と呼ぶ存在だった。
能力もないくせに上司に媚び、
自分より立場の低い人間を平気で見下し、
そして無自覚なまま、自分の尊厳の低さをさらけ出している人間。
……はぁ。
正直、心の底から苛立った。
仕事を愛するプログラマーとして。
そして、まだ心を持った人間として。
私は、黙っていられなかった。
一歩、前に出る。
「山田さん」
声は落ち着いていた。
でも、はっきりと。
「分かっていますよね。あなたは、何も助けていません」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
山田さんは振り返り、眉を少し上げる。
爪をいじりながら、まるで些細な雑談でもするかのような表情だった。
「助けてないって、どういう意味?」
軽い口調だった。
「私はちゃんと手伝ったでしょ。
締切、もうすぐなんだから」
「でも、今そのプログラムはエラーだらけです」
私は言い返す。
「あなたが、コードの文脈を理解しないまま指示を出したからです」
周囲の視線が集まり始める。
キーボードを打つふりをする人。
俯いて息を殺す人。
「だから言ったじゃない」
山田さんは小さく笑った。
「ユキが、そもそもコーディングできないだけなんじゃない?」
その言い方は――
はっきりと、侮辱だった。
私は拳を握りしめる。
「ユキは間違ったコーディングをしていません」
強く言った。
「問題は、検証もせずに使われたAIです」
「AIが間違う?」
山田さんは笑った。
わざとらしく、周囲に聞こえるくらいの声で。
「会社が高いお金出して買ったAIが、
バグを生むわけないでしょ?」
「冗談言ってるの?」
何人かが、唾を飲み込むのが分かった。
部屋に、緊張が広がっていく。
「AIはね、あなたたちを助けるためのものなの」
山田さんは続ける。
「簡単な方法があるのに、
どうしてわざわざ面倒なことを選ぶの?」
髪を軽く払う。
「ほんと、頑固よね」
それ以上何も言わず、
山田さんは背を向けて歩き去った。
静まり返ったオフィスに、
ヒールの音だけが響く。
誰も止めなかった。
誰も私を庇わなかった。
誰もユキを守らなかった。
私は、ユキの方を見る。
ユキは硬直したまま立っていた。
肩が小さく震えている。
震える手で眼鏡を外し、
溜まっていた涙が、頬を伝って落ちた。
同僚たちは、
必要以上にモニターを見つめ、
見ないふりをし、
居心地悪そうな表情を浮かべながら――沈黙を選んだ。
私はユキに近づく。
「ユキ」
小さな声で、彼女だけに聞こえるように。
「あなたは間違ってない。
あの人の言葉を信じないで」
ユキは小さく頷いた。
それでも、涙は止まらなかった。
そのとき、私は気づいた。
この部屋で冷たいのは、
AIだけじゃない。
人間の沈黙の方が、ずっと痛い。
正直、失望した。
私はこの会社で長く働いている。
人の本性を知らないほど、短くはない。
ここには、いろんな人間がいる。
野心的な人間。
日和見主義者。
顔色ばかり伺う人間。
表では笑い、裏で刺す人間。
エゴイスト。
偽善者。
それでも、私は彼らを完全には責められなかった。
この世界は、そういうものだから。
純粋すぎれば踏みつけられる。
抗えば、たいてい無駄に終わる。
「七海、ちょっと私の部屋に来なさい」
マネージャーの声がした。
……分かっていた。
あの小賢しい狐は、
もう虎に泣きついたのだ。
そうやって生き延びる。
権力者の前で被害者を演じ、
裏で他人を蹴落とす。
私は立ち上がり、マネージャーについて行った。
虎は、恵まれている。
地位があり、
妻がいて、
子どももいる。
それでも、
狐と関係を持つ。
狂っている?
違う。
それが、現実だ。
部屋の中で、マネージャーの声が荒くなる。
態度の問題。
「チームワーク」。
言い方がなっていない。
私は、ただ聞いていた。
反論しない。
感情も見せない。
隣で狐は、
俯き、ため息をつき、
完璧な被害者を演じていた。
そのとき、私は思った。
こんな生き方を続ければ、
私は正気を失う。
だから、一つだけ選んだ。
あの虎の怒りは、覚えておかない。
弱いからじゃない。
負けたからでもない。
どうでもいいからだ。
私には、もっと考えるべきことがある。
無表情のまま、部屋を出る。
足取りは、静かだった。
頭の中には、ただ一つ。
――ケンタに話そう。
「一緒に、投資を学ぼう」と。
安っぽい復讐のためじゃない。
今すぐ誰かを貶めるためでもない。
いつか――
彼らの手が届かない場所に立つために。
そして、そのとき、
もし彼らが今と同じなら。
私は知ってほしい。
見下していた人間は、
壊れたわけじゃない。
ただ、自分の道を選んだだけだ。
私は自分の席に戻った。
なぜか、この職場がさっきまでとは違って感じられる。
より冷たく。
より狭く。
周囲の視線が、妙だった。
慌てて目を逸らす人。
遠慮もなくこちらを見つめ、言葉もなくこう言っているような人。
――「あいつ、ちょっとおかしいんじゃないか」
……まあ、いつものことか。
上司に叱られた後は、だいたいこんなものだ。
何もかもが敵に見える。
たぶん、私の気のせいなのに。
そんな中で、ひとりだけ違う存在がいた。
「七海さん……」
振り返ると、ユキちゃんが立っていた。
申し訳なさそうな顔をしている。
「ごめんなさい……私のせいで、七海さんが怒られて……」
「謝らなくていいよ、ユキ」
私は静かに答えた。
「これは、よくあることだから」
「でも……それでも……私のせいで――」
私は手を伸ばし、彼女の口をそっと塞いだ。
「ユキ」
まっすぐ目を見て言う。
「あなたが優しい人だって、私は知ってる。
だからこそ、自分を責めてほしくない」
ユキは黙り込んだ。
私は一度、深く息を吸ってから話し始めた。
2030年のこと。
やって来るかもしれない危機のこと。
ケンタの考え。
私自身の不安。
そして、こんな生き方を続けたくないという気持ち。
「今、小さな輪を作ろうとしてるの」
私は言った。
「生き残りたい人たちの。
この流れから抜け出したい人たちの」
ユキは、目を大きく見開いて私を見た。
「論理的に考えればね」
私は続ける。
「一緒に貯金する人が増えれば増えるほど、
集まるお金も大きくなる。
その分、安全で、強くなれる」
少し間を置いて、私は静かに尋ねた。
「……どう? ユキ」
ユキは服の裾をぎゅっと握った。
数秒の沈黙のあと、
彼女は小さく、でも確かに頷いた。
「……やります」
声は小さかったけれど、迷いはなかった。
「それが、生き残る方法なら……私も、やりたいです」
私は小さく微笑んだ。
「じゃあ」
そう言って、
「仕事が終わったら集まろう。
私がケンタに連絡する」
「はい、七海さん」
私はスマホを取り出した。
これが、私からケンタにメッセージを送る最初かもしれない。
入社した頃、連絡先は交換した。
でも三年間、まともな会話は一度もなかった。
変な話だ。
でも、今は――それでいい気がした。
私は文字を打つ。
ケンタさん、七海です。
仕事終わりに、会社近くの公園に寄れますか。
話したいことがあります。
少しして、返信が届いた。
七海さんから連絡なんて。
……ついに、興味を持ってくれたんですね。
私は、スマホの画面をしばらく見つめていた。
胸の奥で、何かがゆっくり動き出す。
大きな希望でもない。
確かな勇気でもない。
でも、きっと――
これは、何かが変わり始める合図なのだ。




