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昨日、どこへ沈んでいったのかも分からない太陽が、今朝また昇ってきた。
それは、私のような人間にとっての合図だった。
――また起きろ、と。
起きて、心から嫌いな一日を始めるために。
私はベッドの端に腰を下ろし、しばらく動けずにいた。
朝になると、いつも同じ考えが頭に浮かぶ。
もし私が、小説や漫画の登場人物だったら……
こんな退屈を感じることはなかったのだろうか。
答えは分かっている。
逃避なんて、現実には存在しない。
人は、生きるためだけに、
退屈や疲労、虚しさを受け入れなければならない。
「……はぁ」
私は立ち上がり、洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗い、無理やり目を覚まさせる。
歯ブラシを手に取り、歯を磨き、そして外へ出る。
次はキッチン。
冷蔵庫を開け、いくつか果物を取り出して朝食にする。
小さなテーブルに座り、テレビをつけて天気予報を見る――
まるで、それが重要であるかのように。
着替えを済ませ、パジャマを脱ぎ、仕事用の服に袖を通す。
すべてが、自動的だった。
ほどなくして、私はアパートを出た。
出勤の準備。
出勤のための――
……多くは語りたくない。
要するに、私は会社に着いた。
そこで、健太と会った。
「おはようございます、七海さん」
「おはよう、健太さん」
私たちは並んでオフィスへ入る。
まるで、昨日カフェで交わした長い会話などなかったかのように。
まるで、私が今も答えを出せずに迷っていることなど、なかったかのように。
実際、私はまだ答えを出せていなかった。
廊下で、ケンタが口を開く。
「七海さん……昨夜、2030年の危機が本当に来た場合、どうやって生き残れるかを考えてみたんです」
私は彼を見た。
「それで?」
「結論としては……できるだけ早く、財務の基盤を強化する必要がある。借金を返して、投資を分散させることです」
「借金の返済と……分散投資?」
「はい」
彼は静かだが、確かな口調で続けた。
「投資についても、少しずつ勉強し始めました。
そして、ようやく分かったことがあります」
健太は歩みを止め、前を見つめた。
「僕たちみたいな人間は、どれだけ必死に働いても、決して本当の意味で豊かにはなれない。
いつだって、一番先にダメージを受ける側なんです」
私は黙ったまま、聞いていた。
「給料は最初から、次の月まで生き延びるための分しかもらえない」
再び、私たちは歩き出す。
「学校でもそうです。経済は教えられる。でもそれは、お金を“理解する”ためだけ。
増やし方なんて、教えてもらえない。
投資なんて、僕たちには縁遠い世界です」
「……そうだね。ケンタさんの言う通りだと思う」
彼は小さくうなずいた。
「だから」
その声は、少し冷たくなった。
「僕は、投資を学びます。――身勝手かもしれませんが」
私は彼を見る。
「それは……迷っている七海さんを置いていく、ということかもしれません」
私たちは、廊下の分かれ道に着いた。
健太はそれ以上何も言わず、別の方向へ歩いていった。
私は数秒、その場に立ち尽くし、彼の背中を見送った。
世界は、誰も待ってくれない。
昨日まで隣にいた人が、今日には先へ進んでいる。
そして私は――
まだ、同じ場所に立っていた。
ケンタの言葉は、ずっと頭の中で反響していた。
本来なら重要なはずの朝のミーティングでも、上司の声は遠く感じられた。
それよりも、あの一言が何度も繰り返される。
「身勝手かもしれませんが……」
私は理解した。
私は、来るべき危機が怖い。
でも、それ以上に――始めることが怖い。
それは、怠けているからじゃない。
無関心だからでもない。
これは、私一人の問題じゃないからだ。
人間は、利己的だ。
それは分かっている。
それでも――
一人では、生きていけない。
「……仕方ないか」
私は、ある決断をした。
健太に伝えよう。
投資を学ぶことに、興味があると。
でも、何も考えずに飛び込むつもりはない。
法律はある。
必要なら、契約だって結べる。
私は仕事用のノートパソコンを開き、キーボードを叩いた。
契約、法律、詐欺から身を守る方法――
皮肉な話だ。
信頼を語る人たちの横で、私は「裏切られない方法」を探している。
きっと、私は人に疲れている。
――いや、正確には、信じすぎた過去に疲れている。
記憶が、過去へと流れた。
なぜ、今一人で暮らしているのか。
実家はまだある。東京からも遠くない。
それでも、私は距離を選んだ。
干渉されないために。
学生の頃、私はよくアルバイトをしていた。
自分の欲しいものを、自分の稼いだお金で買いたかった。
でも、貯まるたびに、両親が言った。
「少し貸して」
私は貸した。
家族だから。
でも、返してほしいと言うと、決まって返ってくる言葉があった。
「あなたは私たちの子でしょ? それくらい、お金だと思う?」
その一言が、すべてを変えた。
それ以来、私は――
「七海さん?」
名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
不安そうな表情の若い女性社員が立っていた。
入社して、まだ数か月の後輩。
「どうしたの、優希ちゃん?」
「その……健太さん」
彼女は少し俯き、ノートパソコンの画面を指した。
「書いたコードが、全部エラーになってしまって……
しかも、私が書いた覚えのない部分もあって。
もしお忙しくなければ、見てもらえませんか……?」
「大丈夫。今は忙しくないよ」
私は立ち上がった。
「仕事は終わってるから。手伝う」
優希ちゃんの席に移動し、モニターを見る。
「どこまでが、君のコード?」
「最初の部分だけです。
あとは……どうして書かれているのか、私にも分からなくて」
「大丈夫」
私は小さく微笑んだ。
「経験者に任せて」
「ありがとうございます、七海さん」
私は一行ずつコードを確認した。
構造、ロジック、構文――
すべてチェックした。
それでも、エラーは消えない。
三十分が過ぎた。
「……おかしい」
「どうですか、七海さん……?」
ユキちゃんの声は、小さく震えていた。
「まだ……見つからない」
「締め切りが近くて……
またマネージャーに怒られるかもしれなくて……」
「大丈夫」
私は深く息を吸った。
「もう一度、集中する」
その時だった。
「優希〜、仕事どう? もう終わった?」
背後から、女性の声がした。
振り返ると、余裕のある笑みを浮かべた女性が立っていた。
「昨日、AIでコード書くの、手伝ってあげたんだけど?」
私は立ち上がった。
「……山田さん」
「優希ちゃんのコードを変更したのは、あなたですか?」
山田は肩をすくめ、勝ち誇ったように言った。
「エラー?
それはユキがコーディングできないだけじゃない?」
優希ちゃんは、何も言えなかった。
「動きも遅いし」
「締め切り前なのに、全然終わらないし」
言葉が、鋭く刺さる。
「こんな人」
山田は、さらに声を張り上げた。
「AIに置き換えたほうがいいでしょ。
安いし、優秀だし、早い」
その言葉が、オフィス全体に響いた。
私はユキちゃんを見た。
眼鏡の奥で、彼女の目は涙で揺れていた。
その瞬間、私ははっきりと怒りを感じた。
コードの問題でも、AIの問題でもない。
――安全な場所にいる人間が、簡単に誰かを踏みつける、その現実に。




