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数時間が、いつの間にか過ぎていた。
昼間あれほど明るかったオフィスは、いつの間にか影に包まれている。
窓の外では空が色を変え、ビルの明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。
――そろそろ、帰れる。
「……はぁ」
私はデスクチェアに深くもたれかかり、小さく息を吐いた。
肩は重く、目の奥がじんと痛む。
今日一日、ずっと落ち着かなかった。
会社で導入され始めたAIのことが、頭から離れなかった。
効率化。
生産性向上。
理由は分かっている。
理屈も、正しいのだと思う。
それでも――
胸の奥がざわつく。
このままいけば、数か月後には。
あのAIは、あまりにも重要な存在になってしまう。
補助ではなく。
代替でもなく。
私はモニターを見つめる。
画面上で点滅するカーソルが、何かを書けと促しているようだった。
周囲では、まだ数人が作業を続けている。
疲れた表情、無言のキーボード音。
すべてが、いつも通り。
だからこそ、怖かった。
やがて私は席を立ち、オフィスを後にした。
エレベーターで一人、静かに下降する。
表示される数字が一つずつ減っていくたび、今日の体力も削られていく気がした。
ロビーを抜け、ビルの外へ出る。
夜空には月がはっきりと浮かんでいる。
静かで、綺麗で、あまりにも現実離れしていた。
「……疲れた」
その言葉が、今度ははっきりと口からこぼれた。
朝降りたのと同じバス停へ向かう。
今はもう、帰路の始点だ。
バス停には人が多かった。
同じ会社の同僚たちも何人か見える。
皆、似たような顔をしていた。
その中に、見知った姿があった。
――健太さん。
「健太さん、どこ行くんですか?」
声をかけると、彼は少し驚いたようにこちらを見た。
「あ、七海さん。大宮駅行きのバスを待ってて」
「え? 健太さんの家、そっちじゃないですよね?」
「うん。ちょっと、親戚のところに用事があって」
「そうなんですか……。じゃあ、私も一緒に行っていいですか?」
「え……本当に?」
「はい」
自分でも、不思議なくらい自然に出た言葉だった。
やがてバスが到着し、私たちは並んで乗り込む。
ICカードをタッチし、隣同士に座った。
車内は揺れながら、夜の街を進んでいく。
しばらく沈黙が続いたあと、健太さんが口を開いた。
「……実は、七海さん。さっきの話、少し嘘です」
私は驚いて彼を見る。
「え? 嘘って……?」
「親戚の家に行くっていうの。
本当は……七海さんと話したくて」
胸が、少しだけ締め付けられた。
「今朝のAIの話。
デザイン部では、もうかなり使われ始めてて……正直、怖いんです。
速くて、正確で……置き換えられる未来が、はっきり見える」
私は静かに頷いた。
――同じだ。
「誰かに話したくて。でも昼は会議で……」
健太さんは少し困ったように笑った。
「迷惑でしたよね。すみません」
「……いいえ」
私は首を振る。
「私も、同じこと考えてました」
バスは変わらず進む。
満員の車内なのに、私たちの間だけ、妙に静かだった。
健太さんは本来、あまり話す人じゃない。
だからこそ、この言葉の重みが分かる。
気づけば、大宮駅に到着していた。
「健太さん」
降りる前、私は声をかけた。
「よかったら……少し、カフェに寄りませんか?」
彼は一瞬目を見開き、そして小さく頷いた。
「七海さんが、よければ」
正直、体は限界だった。
本当はすぐに家に帰って、シャワーを浴びて、眠りたかった。
でも――
それ以上に、吐き出したかった。
人と話して、理解し合うこと。
それが一番、心を軽くする方法だと、私は知っている。
少しの身体的な疲れで、
この重たい気持ちが和らぐなら。
それは、悪くない交換だ。
私たちは静かなカフェに入った。
コーヒーの香りが漂い、照明は柔らかい。
まるで、疲れた人間のための場所だった。
「コーヒーにします?」と健太さん。
「……眠れなくなりそうなので、私はジュースで」
「じゃあ、僕も」
注文を済ませ、飲み物が来るまでの間。
私たちは黙って向かい合っていた。
外では夜が深まっていく。
この時間が、特別なものになりそうな予感だけがあった。
「……あの」
健太さんが、ためらいがちに口を開く。
「七海さん……」
私は顔を上げた。
「はい?」
そのとき、ちょうど飲み物が運ばれてきて、
彼の言葉はそこで途切れた。
けれど、私は確信していた。
この先の話は――
きっと、簡単なものじゃない。
そして、
今夜を境に、
何かが少しだけ変わってしまうことを。




