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その朝は、よく晴れていた。

大きすぎず、小さすぎもしないアパートの一室で、

二つの人生が外出の準備をしていた。

私と、姪っ子。

今日は学校へ行く。

入学手続きのためではない。

ただ、話を聞くためだ。

手続きについて。

条件について。

そして——

数日前に母親が姿を消した子どもを、

どうやって学校に通わせればいいのか。

重たい話ではない。

でも、軽くもない。

なぜなら、

これは役所の問題であり——

未来の話だから。

私は、花波が用意していたバッグを開けた。

中身は……とても簡素だった。

フーディーが数着。

長袖のTシャツ。

ジャージの長ズボン。

私は眉をひそめた。

「宙、」

服を一枚ずつ取り出しながら言う。

「フーディーか、長袖か、ジャージばっかりだけど……

他の服、ないの?」

私は宙をちらりと見た。

これは、

女の子の服……?

それとも、男の子の服?

宙は小さく肩をすくめた。

「それだけだよ、ビ。」

無邪気に答える。

「ママ、男の子の服ばっかり買うの。

そのほうが安いって。」

私は黙り込んだ。

心の中で、思う。

花波は自分のためには

あんなにフェミニンな服を買うのに——

娘には、一度も買ってやらなかった。

私は小さく息を吐いた。

「……まあ、いいか。」

そう言って、

「今日はこのフーディーでいいよ。」

「そのうち、

ビがちゃんと女の子っぽい服、買ってあげる。」

宙は小さくうなずいた。

しばらくして、

二人なりにきちんと身支度を整え、

私たちはアパートを出た。

駅へ向かう道。

人が行き交い、

皆、忙しそうだった。

仕事へ向かう顔。

慣れた朝の風景。

なのに、なぜか私は

変な気分になった。

心の中で、

ちょっと意地悪な声がする。

——ははは。

ざまあみろ。

みんな仕事で、

私は今日は有休だ。

思わず、

一人で笑いそうになる。

でも……

すぐに現実に戻る。

有休は、給料が減る。

まあ、今夜は在宅で残業すれば

多少は取り戻せるけど。

やがて、駅に着いた。

目的地は、大宮駅。

そこで健太と合流する予定だ。

彼が勧めてくれた学校は、

私の職場からそれほど遠くない。

そう考えると、

なんだか少し不思議な気分になる。

想像してみる。

同僚たちは普通に出勤しているのに、

私は会社の近くを

のんびり歩いている——

しかも、仕事じゃない。

……へへ。

「ビ、なんか変。」

宙はきっと、

私が急にニヤけたのを見たのだろう。

やがて、目的の駅に到着した。

電車を降り、

改札へ向かう。

そして——

「健太さん、おはようございます。」

私が声をかける。

「おはようございます、七海さん。」

健太は笑顔で答えた。

そして、宙に目を向ける。

「この子が、姪っ子さんですね?」

宙はすっと背筋を伸ばし、

丁寧にお辞儀をした。

「はじめまして、健太おじさん。」

小さいけれど、はっきりした声で。

健太は一瞬驚いたような顔をして、

私のほうを見る。

「七海さん……」

少し困ったように言う。

「姪っ子は女の子だって聞いてましたけど……

見た感じ、男の子みたいですね。」

私はくすっと笑った。

「ああ……それは。」

肩をすくめて、軽く答える。

「母親が、女の子の服を買うのケチなんですよ。

ははは。」

学校へ向かう前、

健太はふと足を止め、こちらを振り返った。

「七海さん、」

「もう朝ごはんは食べましたか?」

私は反射的に「食べました」と言いそうになった。

けれど——宙のほうが早かった。

小さく首を横に振って、

「まだです、健太おじさん。」

私は一瞬、宙を見た。

……そうだ。

今朝は慌ただしかった。

「それなら、」

健太は道路の向こうを指さした。

「先に少し食べましょう。

このあと、手続きがちょっと長くなりそうなので。」

私たちは駅近くの小さな食堂に入った。

高級な店ではない。

会社員や、子どもを学校へ送る途中の親たちがよく立ち寄る、

ごく普通の店だ。

三人で席に着く。

宙は背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いて、静かに待っていた。

私は横目で宙を見る。

この子は……

お腹が空いていても、決して騒がない。

料理が運ばれてきて、

私たちはゆっくりと食事を始めた。

ほんの数分間、

空気がとても自然だった。

まるで——

一日の始まりに朝食をとる、小さな家族のようで。

「健太さん、」

私は箸を止めて言った。

「正直に言うと……

どこから始めればいいのか、まだ分からなくて。」

健太はうなずいた。

「それは当然です。」

彼は箸を置く。

「だから、あとで学校の職員さんと話すとき、

たぶん三つの大事なことを説明されると思います。」

私は顔を上げた。

「三つ……?」

「はい。」

戸籍こせき住民票じゅうみんひょう

それから——児童相談所じどうそうだんじょ。」

宙は私たちを交互に見た。

意味は分かっていない。

それでも、必死に聞こうとしている。

私は小さく息を吐いた。

「……なんだか、

大変そうですね。」

健太は苦笑した。

「大変です。

でも、ちゃんと進められます。」

そして、できるだけ分かりやすい言葉で説明を始めた。

「戸籍というのは、

家族関係を記録した正式なものです。

親と子の関係を示す書類ですね。」

私はすぐに眉をひそめた。

「じゃあ……

宙はまだ花波の子どもとして——」

「そこが、」

健太は静かに遮った。

「一つ目の問題です。」

そして続ける。

「次が住民票。

これは、今どこに住んでいるか、という正式な登録です。」

私はすぐに察した。

「……宙が、

私のアパートに住むなら。」

「変更が必要になります。」

健太は低い声で言った。

「少なくとも、暫定的には。」

私はテーブルを見つめた。

やっぱり。

学校に行って、そのまま申し込めるほど

簡単な話じゃない。

「そして最後が、」

健太は言葉を選びながら続けた。

「児童相談所です。」

宙の指が、ぎゅっと握られる。

「……そこは、

どんなところ?」

宙が小さな声で聞いた。

健太は宙のほうを向き、

とても優しい笑顔を浮かべた。

「子どもの相談をする場所だよ。」

慎重に、ゆっくりと。

「状況が……少し特別な子のための。」

私は体がこわばる。

「特別、って……?」

健太は目を逸らさなかった。

「親に放置された子。」

「暴力を受けた子。」

「実の親と一緒に暮らしていない子。」

宙はうつむいた。

私はすぐに、

宙の頭に手を置いた。

「宙が悪いわけじゃない。」

私はすぐに言った。

「これは、ただの手続きだから。」

健太もうなずく。

「そうです。」

「むしろ、宙を守るためのものです。」

しばらく、沈黙が流れた。

食事を終え、

私たちは立ち上がり、学校へ向かった。

校門の前で、

一人の職員が私たちを迎えた。

落ち着いた雰囲気の、

プロフェッショナルな笑顔をした中年の女性。

小さな相談室に通され、

彼女は説明を始めた。

——ほとんど、

健太が話してくれた内容と同じだった。

「このようなケースでは、」

職員は言った。

「通常の入学手続きとして、

すぐに処理することはできません。」

ファイルを開く。

「まず、保護者の立場を確認します。」

「戸籍の確認。」

「お子さんの住民票。」

「そして——

七海さんには、

児童相談所での相談をお願いする可能性が高いです。」

私は、頭が重くなるのを感じながら聞いていた。

分からないからじゃない。

むしろ——

すべてが、

現実になったからだ。

これはもう、

善意だけの話じゃない。

法的な責任の話だ。

宙は私の隣で静かに座り、

フーディーの裾をぎゅっと握っていた。

私は宙を見て、

そして職員を見た。

「……それらを全部進めれば、」

私は静かに聞いた。

「宙は、学校に通えますか?」

職員は小さく微笑んだ。

「はい。」

「少しずつですが。」

「通えます。」

胸の奥が、少しだけ緩んだ。

部屋を出たあと、

私は大きく息を吐いた。

これは、まだ第二段階。

そして私はもう分かっている。

この道は、

決して楽じゃない。

それでも——

初めて、

後ろに下がりたいとは思わなかった。

私たちは、ほとんど言葉を交わさないまま、学校の建物を出た。

宙の歩幅は小さく、ゆっくりで、でも整っている。

まるで、自分にはまだ完全に理解できない世界に、

必死に合わせようとしているみたいだった。

私は一瞬、空を見上げる。

晴れている。

重たい一日には、あまりにも明るすぎる空だった。

「今日、全部を決めなくてもいいんですよ。」

沈黙を破ったのは、健太の声だった。

私は振り返る。

彼は立ち止まり、

急かすことも、説教することもない、

落ち着いた表情で私を見ていた。

「七海さん、」

静かに言う。

「一つ、聞いてもいいですか。」

私はうなずいた。

「今すぐ、児童相談所に行きますか?」

「それとも……少しずつ進めますか?」

宙も立ち止まった。

無意識に、フーディーの裾をぎゅっと握っている。

私は黙り込んだ。

ゆっくり。

それとも、今すぐ。

今すぐ行くなら、

私は本当の意味で認めることになる。

——これは一時的な預かりじゃない、と。

ゆっくり進むなら、

私はまだ、立ちながら学んでいる途中だ。

「逃げるつもりはありません。」

やっと、私は口を開いた。

「でも……軽率にもなりたくない。」

健太は小さくうなずいた。

「正直な答えですね。」

私は宙を見る。

「ビ……」

宙が小さな声で聞いた。

「児童相談所って、悪い人が行く場所?」

胸がきゅっと締めつけられる。

「違うよ。」

私はすぐに答えた。

「あそこはね、大人が“責任を持つ”ことを学ぶ場所。」

宙はしばらく私を見つめてから、

小さくうなずいた。

「ビが一緒なら、」

そう言って、

「ぼく、こわくない。」

その言葉は、とてもシンプルだった。

でも、真っ直ぐ胸に突き刺さった。

私は大きく息を吸う。

「健太さん、」

私は言った。

「まずは、今できることから始めたいです。」

「住民票の移動。」

「基本的な手続き。」

「それから……必要なら、相談も。」

健太は、薄く笑った。

「じゃあ、ルートを作りましょう。」

「逃げるでもなく、立ち止まるでもない。」

彼はスマホを取り出した。

「予定、手伝います。」

「無理にじゃなくて。」

「一人にしないために。」

私はその画面を一瞬見て、

それから、彼の顔を見た。

「……ありがとうございます。」

心から、そう言った。

健太は肩をすくめる。

「パートナーですから。」

私たちは、駅へ向かって歩き出した。

足音と街のざわめきの中で、

私はようやく気づく。

これは、誰かを救う話じゃない。

生き残ることを選ぶ話だ。

踏みとどまり、

一歩ずつ進むことを選ぶ話。

小さな決断を、

毎日ひとつずつ。

そして初めて——

私はもう、

その分かれ道に

一人で立っている気がしなかった。

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