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いつもより早く目が覚めた。

アラームの音のせいじゃない。

ただ、すぐに一つのことを思い出したからだ。

――もう、私は一人じゃない。

ソファの方を見る。

宙はまだ眠っていた。

薄い毛布にくるまり、丸くなって。

髪は少し乱れていて、呼吸は静かで規則正しい。

しばらく、私はその場に立ったまま動けなかった。

ただ、見ていた。

この子は、本当にいる。

夢じゃない。

昨夜の幻想でもない。

簡単な朝食を用意する。

トースト。

目玉焼き。

温かいミルク。

何が好きなのか分からない。

だから、一番無難なものを選んだ。

「宙」

小さく声をかけると、彼女は少し身じろぎして、目を開けた。

「あ……おはよう、ビ」

すぐに起き上がる。

文句も言わず、眠そうな顔もしない。

それが、逆に胸に引っかかった。

「先に朝ごはん食べよう」

「今日はビ、仕事あるから」

彼女はこくりと頷き、食卓についた。

手はきちんと膝の上。

「……学校?」

不安そうに聞いてくる。

私は少し黙った。

「まだだよ」

正直に答える。

「今日は、まだ」

宙の表情が、ほんの少しだけ曇る。

でも、何も言わなかった。

「……うん。わかった」

私はコーヒーカップを、無意識に強く握っていた。

「ちゃんと、方法は探す」

「約束する」

宙は小さく笑った。

それだけで、十分だと言うみたいに。

時計を見る。

五分、遅れている。

私は深く息を吐いた。

「宙」

「今日は家で待ってて」

彼女はすぐに頷く。

「できる」

昔つけたままの防犯カメラを、スマホで起動する。

「誰が来ても、ドアは開けないで」

「お腹すいたら、パンあるから」

「何かあったら――」

「ビに電話する」

即答だった。

私は言葉を失う。

「……うん」

「それでいい」

玄関で靴を履きながら、ドアノブに手をかけて止まる。

「怖い?」と聞く。

宙は少し考えてから、首を振った。

「少しだけ」

「でも、待てる」

胸が、重くなる。

私は外に出た。

朝の電車は、いつも通り混んでいた。

疲れた顔。

肩と肩がぶつかり合う。

反射的にスマホを開く。

金のチャートじゃない。

家のカメラ。

宙はソファに座り、

音量を小さくしたテレビを見ていた。

私は、ようやく息を吐いた。

会社では、すべてがいつも通りだった。

――あまりにも、普通すぎる。

「おはよう、七海さん」

「おはよう」

席に着き、ノートパソコンを開く。

コード。

バグ。

締め切り。

でも、意識はずっとアパートに残っていた。

一時間に一度、カメラを確認する。

一時間に一度、宙はそこにいる。

パンを食べて。

少し昼寝して。

使い終わった紙に、絵を描いて。

この子は……

本当に、迷惑をかけないようにしている。

昼休み、オフィスのバルコニーで電話をかける。

「宙」

『うん、ビ』

「大丈夫?」

『大丈夫』

『もう、ごはんも食べた』

私は目を閉じた。

「……よかった」

電話を切ろうとして、止まる。

「宙……」

『なに?』

「もし、退屈だったら……」

「無理しなくていいから」

少し、間が空いた。

『……退屈じゃないよ』

『待ってるだけ』

通話が切れた。

私は、しばらくその場に立ち尽くした。

初めて、

遠い未来のことを考えなかった。

ただ、一つだけ分かっている。

今日は、

ちゃんと定時で帰る。

そして今日から――

私の人生は、

もう私だけのものじゃない。

私はまだオフィスのバルコニーに立っていた。

そのとき、背後から声をかけられる。

「七海さん、なんだか考え事してるみたいですね」

振り返ると、

数歩離れたところに健太が立っていた。

手には缶コーヒー。

「え……あ……いえ、別に」

私は反射的に答えた。

健太はすぐには返事をしなかった。

少しだけ私を見つめてから、小さく息を吐く。

「無理しなくていいですよ」

そう言って、続ける。

「由紀さんから連絡が来ました。今日の七海さん、様子が変だって」

私は黙り込んだ。

「だから来たんです」

健太はそう言って、柵にもたれた。

「もう決めたじゃないですか」

「俺たち、正直に、透明でいようって」

私はバルコニーの手すりを、ぎゅっと握る。

「……えっと……実は……」

深く息を吸って、吐く。

「問題っていうより……試練、ですね」

それから、私は全部話した。

宙のこと。

姉のこと。

一晩で、生活が変わってしまったこと。

健太は、途中で一度も口を挟まなかった。

「……なるほど」

話し終えたあと、彼は静かに言った。

「分かります」

少しコーヒーを飲んでから、続ける。

「そういうことって、本当に突然来ますよね」

「そりゃ、混乱します」

彼は私の方を見て、薄く笑った。

「でも、七海さん」

「一人じゃないですよ」

私は彼を見返す。

「ちょうどいいタイミングで」

健太は言った。

「小学校関係を担当してる知り合いがいるんです」

「もしよければ、紹介しますよ」

私は目を見開いた。

「え……本当ですか?」

小さく笑ってしまう。

「正直……健太さんには、いつも悪いなって思ってて」

「なんでそんなに優しいんですか」

健太は軽く笑った。

「友達の義務じゃないですか」

それから、少しだけ真面目な表情になる。

「それと……由紀さんにも、話した方がいいと思います」

私は小さく頷いた。

「……うん」

「大丈夫です」

数時間後、仕事は終わった。

帰る前に、三人で少し集まる。

「えっ——」

由紀が目を丸くして私を見る。

「七海さん、子どもがいるんですか!?」

私はすぐに首を振った。

「いえ……正確には、姉の子です」

「今は、私が面倒を見ています」

少し視線を落とす。

「姉が……責任を取らなくて」

「宙に、何かあったらって……」

由紀は一瞬黙り、

それから、とても優しい目で私を見た。

「七海さん……」

「胸が、ぎゅっとしました」

小さく微笑むけれど、その目は真剣だった。

「七海さんが優しい人だって、私は知ってます」

「でも……どうしてでしょうね」

「優しい人ほど、不公平な目に遭うのって」

私は、かすかに笑った。

「……さあ」

「分かりません」

健太が口を挟む。

「もう、知り合いには連絡しました」

「問題なければ、明日会えます」

彼は私を見る。

「七海さん、明日一日、休み取れますか?」

「はい」

「許可はもらいました」

私は彼の方を見る。

「健太さんは?」

「休み、取るんですか?」

「ええ」

彼はあっさり言った。

「付き添いますから。俺も許可、もらってます」

由紀が小さくため息をつく。

「はぁ……残念」

「私、行けないのが悔しい」

私たちは、少し笑った。

それから健太が、控えめに聞く。

「この状況で……」

「貯金、崩すことは考えてますか?」

私は少し考えた。

「……まだ、大丈夫だと思います」

正直に答える。

「できれば、残しておきたい」

「じゃあ、まだ緊急ではないですね」

「はい」

「そこまでは」

由紀がすぐに言う。

「もし、危ないって思ったら、すぐ言ってくださいね」

「私も、助けたいです」

私は二人を見つめる。

「……ありがとう」

小さく、そう言った。

しばらくして、私たちは別れた。

私は、できるだけ早く帰ることにした。

でも、その途中で、少しだけコンビニに寄る。

牛乳。

パン。

小さなお菓子。

宙に頼まれたわけじゃない。

ただ——

いつの間にか私は、

「何かを持って帰る人」の思考を

している自分に気づいた。

家に着いて、私はそっとドアを開けた。

部屋の中では、宙がベッドの上で眠っていた。

私の毛布が、その小さな体を包んでいる。

「宙……ビビ、帰ったよ」

小さな声でそう言いながら、部屋に入る。

宙は目を覚まさない。

私は数秒、その場に立ったまま、眠る宙の顔を見つめていた。

そしてなぜか、その光景は私を遠い過去へと引き戻した。

——私が、まだ子どもだった頃。

学校から帰っても、家はいつも静かだった。

母はよく帰りが遅く、

父は私が眠ったあとに帰るか——

あるいは、帰ってこないことも多かった。

花波は?

放課後になると、すぐにどこかへ消えていた。

だから私は、いつも一人だった。

必要以上に早く自立して、

選んだわけでもないのに、大人になった。

私はベッドに近づき、宙の肩にそっと触れる。

「宙、起きて」

優しく声をかける。

「まだご飯、食べてないでしょ? ビビ、持ってきたよ」

ゆっくりと目が開く。

半分眠ったまま、体を起こし、目をこする。

「うん……ママ……」

私は、一瞬だけ言葉を失った。

——ママ。

寝起きだったからか。

それとも、目の前にいる人が、見た目だけは母親に似ていたからか。

私は何も言わなかった。

数秒後、宙がはっとして顔を上げる。

「……あっ」

「ビビ、ごめんなさい……」

「さっき、ママだと思っちゃって……」

私は小さく息を吐いた。

こんなにも早く“礼儀正しさ”を身につけてしまった子どもは、

きちんと育てられたからじゃない。

愛情が足りなかったからだ。

私は、それを知っている。

正直に言えば——

双子だとしても、

私は花波を許せないと思った。

「宙、大丈夫だよ」

私はそう言った。

「ビビでも、ママでも、呼びたいように呼んでいい」

「……ごめんなさい、ビビ」

「いいの」

小さく微笑む。

「気にしなくていいから。ほら、食べよ」

私たちは一緒に食事をした。

ほんの短い時間だったけど——

その何気ない時間が、胸を温かくした。

友達と食事をすることはよくある。

でも、血のつながった誰かと食べる食事は、

どこか違う。

失くしていた何かが、静かに戻ってくる感じがした。

食事を終えると、体が少しベタついているのが気になった。

私は立ち上がる。

「あ……そうだ」

独り言のようにつぶやく。

「昨日から、宙、まだお風呂入ってないよね」

そこで、宙が持ってきたバッグのことを思い出す。

中を確認すると、

花波は宙の着替えをいくつも詰め込んでいた。

一着や二着じゃない。

そのとき、はっきり分かった。

——最初から、花波は宙を預けるつもりだった。

……やっぱり、花波は花波だ。

「宙」

私は声をかける。

「お風呂入ろう。昨日から入ってないでしょ?」

「え……でも、着替えが……」

不安そうに言う宙。

「あるよ」

私はすぐに答えた。

「お姉ちゃんが、ちゃんと用意してた」

全部は、言わなかった。

少しして、私たちは同じバスタブに入った。

宙の体は清潔で、

肌もきれいだった。

でも——

私は、動きを止めてしまった。

青い痕。

——痣のようなもの。

腕に、はっきりと残っている。

胸が一気に締めつけられる。

「宙……」

「その腕、どうしたの?」

私は真剣に見つめた。

「花波がやったの?」

宙は、ゆっくり首を振る。

「……ママじゃない」

小さな声で言った。

「ママの彼氏」

私は、水の中で拳を握りしめた。

「実は……」

宙の声が震える。

「ママがここに来た理由も……」

「パパ——それか、ママの彼氏が、暴力をふるったから」

目に涙が溜まっていく。

「ママが私を守ろうとしてくれたのは、分かってる」

宙はそう言った。

「でも……」

「ママにも、自分を守ってほしい」

俯きながら、続ける。

「……別れてほしい」

「悪い人と」

涙が、ぽたっと落ちた。

私は何も考えず、

その小さな体を抱きしめた。

暴力。

傷。

早すぎる理解。

こんなことは——

珍しくない。

あまりにも、よくある。

でも、だからこそ。

私は、はっきり分かった。

——この連鎖を、

ここで止めなきゃいけない。

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