プロローグ
その土曜の夜は静かだった。
満月が狭いアパートの窓の向こうに浮かび、白く淡い光が床と、まだ休息の場所になりきれていない仕事机を照らしていた。
私はノートパソコンの前に座り、温かい紅茶を手にしていた。湯気はゆっくりと立ちのぼるけれど、肩に残る重だるさや頭に溜まった疲労までは消えてくれない。
五日間働いたはずなのに、まだ自分の元へ帰れていない気がした。
指は無意識に動き、画面をスクロールし続ける。短い動画から次の動画へ。
何かを探していたわけじゃない。
ただ、少しでもこの疲れから解放されたいだけだった。
そこで、一本の短い動画が目に留まった。
誰かの人生を切り取ったような映像だった。
期待が裏切られ続ける日々。
満たされない心。
この時代の中で、どこにも居場所がないような感覚。
その動画には、イギリスのバンドの曲が流れていた。
失望や空虚さ、現代を生きる中で生まれる疎外感を、
静かに、しかし確かに描き出す音楽だった。
映像と音が重なり合い、
感情だけが、何度も何度も胸の奥で回り続ける。
生きることへの失望。
何者にもなれないという不安。
世界の中で、少しずつ透明になっていくような孤独。
不思議なことに、
それらは他人の物語のはずなのに、
いつの間にか、私自身の感情と重なっていた。
けれど、動画と音楽が迎えたその小さなクライマックスで、
ほんの一瞬だけ、こんな感覚が胸をよぎった。
――たとえ人生が、失望の連続だったとしても。
――たとえ空っぽで、踏みつけられるような毎日でも。
それでも、私たちはどこかで知っている。
いつか、自分が「何か」になる瞬間が来るかもしれない、と。
だから、私は思ってしまった。
――ああ、翼が生えたらいいのに。
曲は、前触れもなく終わった。
画面が切り替わり、ミュージックビデオの代わりに、冷たい色合いの動画が映し出される。
落ち着きすぎた声のナレーターが語り始めた。
「備えてください。2030年は、もうすぐそこです」
私はスクロールする手を止めた。
ナレーターは、最近よく耳にする言葉を並べていく。
“パーフェクト・ストーム”――経済の大嵐。
気候変動。
膨れ上がる国家債務。
地政学的緊張。
そして、テクノロジーによる破壊的変化。
壊れかけた世界が、箇条書きで説明できるかのように、淡々と。
そして、その一言が告げられた。
「AIの普及により、いくつかの職業は徐々に置き換えられていくでしょう」
無意識のうちに、部屋の隅に置かれた仕事用のバッグへと視線が向かう。
中には会社のノートパソコン。
返せていないメール。
月曜日を待つ仕事。
「備えるか、敗れるか」
動画は終わり、すぐに別の映像へと切り替わる。
広告。
見知らぬ誰かの大げさな笑顔。
私とは何の関係もない日常。
私はパソコンの音を消した。
部屋は再び静寂に包まれる。
2030年に何が起こるのか、私は知らない。
それどころか、来週を乗り切れるかどうかさえ分からない。
それでも、「嵐」という言葉は、
先ほどの旋律の残響と一緒に、
頭の中で静かに回り続けていた。
遠くへ飛ぶための翼じゃなくていい。
――沈まないための翼が、欲しいだけなんだ。




