雨傘の夫人
その日、わたくしは急いでいましたの。
黒い傘をさしながら、赤い傘を手に持って。
赤い傘は、娘が初めて自分で選んだ、お気に入りでしたの。早く届けてあげないと、あの子が帰れません。
時折、車の水飛沫がかかって、お気に入りのスカートが汚れ濡れてしまいました。でも、私はちっとも悲しくありませんでした。
水溜まりに足を取られて靴が重くなっても、顔にかかる雨粒で化粧が落ちても、そんなことはどうでもよろしいのです。
私の愛する娘が雨に打たれて、風邪を引いてしまうほうがずっと嫌でしたの。
だって、今日はあの子の誕生日!
早く、迎えに行ってあげないと。今日は珍しく旦那様も帰りが早いのです。だから、三人でご飯を食べて、ケーキを囲んで。ああ、想像しただけで笑みが零れました。
遠くに緑色の信号機が見え、私は速度を上げます。しかし、すぐに赤に変わってしまいました。もどかしさに駆られて歩道橋を登ります。濡れた階段が足をすくいそうになりながらも、必死に駆け下りて走りました。
やがて、氾濫した川を跨ぐ橋が見えてきました。落ちればひとたまりもありません。
しかし、橋から落ちるなんて身投げ以外に起こることなんて滅多にありませんから、問題なんてありません。
さっさと橋を通り過ぎようとしたそのとき。
腕に掛けていた赤い傘が、何かに啄まれるように引かれたのです。
「えっ……!」
咄嗟に赤い傘を掴み、必死に取り返そうとしました。だって、これはあの子のお気に入り。初めて自分で選んだ、大事な傘なのですから。
しかし、相手の力は恐ろしく強い。腕ごと持っていかれそうになりました。
「離して! 離してくださいまし!!」
顔を上げた私は、見てしまいました。
濡れ羽色の影が、雨粒を舐めるように揺れながら、傘の赤をかじるように啄んでいるのを。
いいえ、違います。その影はーー黒曜の嘴。
わたくしの脳が目まぐるしくフル回転します。黒曜の嘴、啄む。
ーー怪異対策庁が確認している怪異No.13
「そんなっ……『啄むモノ』!?」
危険度S+、遭遇すれば生存率は限りなく低い、極めて危険な怪異。
今すぐ傘を手放せば、生き残れるかもしれない。
でも――
「これは、娘の物だ!!」
私は叫びました。あの子の笑顔を思い出しながら。
押し問答の末、『啄むモノ』はふいに力を緩め、闇へと退いたように見えました。
私は安堵し、力が抜けて足元がふらつきます。
――その瞬間。
体が宙に浮いたのです。
「え」
声を出す暇もなく、私は氾濫した川へと落ちていきました。
その刹那、見たのです。
『啄むモノ』が、娘の赤い傘をしっかりと抱え込み、黒い翼のような影を広げて飛び去る姿を――!!
「返せ」
わたくしの、あかいかさ
ーーー
◇ 怪異データベース No.13 — ◇
怪異名:「啄むモノ」
危険度:S+
死亡率:約97%(摂取・完全消失の例が大多数)
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被害事例記録 — 202X年6月某日
証言者:不明(目撃者なし/被害者本人の痕跡消失)
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> その日、被害者は娘のために赤い傘を届けようとしていた。
雨の中、黒い傘をさし、赤い傘を腕に掛けていた。
途中、赤い傘を“何か”に啄まれそうになり、強く抵抗したという。
「これは、娘の物だ!!」
——最後にそう叫んだ声が、近隣住民によって証言されている。
被害者はその後、橋付近で宙に浮き、氾濫した川に落下。遺体は発見されていない。
ただし、目撃証言によれば、直後に『啄むモノ』が赤い傘を抱え、影の翼を広げて飛び去る姿があった。
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特徴(要約)
外見:流動的。本体は影の断片。確実に存在するのは「黒曜の嘴」。
攻撃:部位や物体を一瞬で啄み取り、断面・血痕は残らない。
被害:奪われた対象は物理的欠落に留まらず、記憶・感情までも欠落する場合がある。
声帯を奪い、模倣した声で他者を誘導する例が確認されている。
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考察
今回の事例は「物(赤い傘)」を巡って起きた稀有なケースである。
啄むモノが“物”を執拗に狙ったのは、被害者本人の 強い愛着・執着 が要因と推測される。
傘を奪った後、被害者を消すことなく去った点から、対象は人間そのものよりも「赤い傘」にあった可能性が高い。
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メモ
啄むモノは「所有への執着」を感知・増幅させる性質があるのかもしれない。
被害者の最期の叫び声が、後に周辺で「何度も繰り返し囁かれていた」との報告がある。
現在も赤い傘の所在は不明。
ーーー
その日は、突然雨が降り始めて慌てて走って帰っていた。
「傘をお使いになりますか」
不意に声をかけられ、振り返る。
全体的に泥だらけな女がいた。女は、黒い傘を手に持っていて、その顔は分からない。
「いえ、大丈夫です」
「傘をお使いになりますか」
「結構です」
「傘」
「……ありがとうございます」
押し問答の末、先に私が折れてしまった。
不自然なほど綺麗な黒い傘を女から受け取る。
その瞬間、雨音が消えた。
辺りは激しく降り続けているのに、傘の内側だけは静寂に包まれる。
泥まみれの女はもういない。だが、濡れたアスファルトの上に残っていたのは、足跡がひとつだけ。橋の向こうへ、途切れるように消えていた。
嫌な予感が、胸を掠めた。
気のせいだと首を横に振り、家路に着く。
家へ帰り着いたとき、母が怪訝そうに首をかしげた。
「……どちらさま?」
その言葉に、胸の奥が凍りついた。
次の日、友人は私を「転校生?」と呼んだ。
三日目には、職場で名札を見せても「新人?」と聞かれた。
五日目には、鏡の中の自分の顔がかすれて見えた。
六日目には、名前を書こうとしても、手が勝手に震えて字が形にならなかった。
そして七日目――。
部屋の床には、黒い傘だけが置かれていた。
開いたままのその傘の内側で、泥に濡れた長身の女が笑っていた。
「赤い傘、知りませんか」
「わたくしの、赤い傘」