第1話 終末の夢
久しぶりに新作を投稿です。
評価、感想、是非よろしくお願いします!
空を覆うのっぺりとした黒の天幕。星も月も見当たらない。それは今が夜ではないからだった。時刻は正午。しかし太陽は姿を隠し、空は真夜中よりなお暗い。時間感覚を狂わせる環境の中で、闇を煮詰めたような黒い雨が降り注いでいた。
光源は、不規則に天を走る赤い光のみ。空を裂く稲光は、衝撃と共に地表を無慈悲に照らしている。空間の弾ける音が気ままに響き、その度に世界の形が浮かび上がる。
照らされるのは地獄絵図。焼け焦げた木々、割れた岩肌、死臭の漂う泥濘。人の叫びも獣の声も既に消え、地の滲みとなって沈んでいる。風に孕む濃い血の匂いと、時折響く大地のうねりだけが命を感じさせた。
ここは戦場。未だ終戦を迎えることのない、終末世界の決戦場。
人を、歴史を、文明を飲み込み、まだ足りぬと血を啜る荒れた大地を、1人の男が歩いていた。
彼の名はアルト・ヴァイデン。その名は幾千年越しの未来、悠久の先の時代にて、神話の残骸として"世界を救った●●"と讃えられる名だ。
しかし今、その響きはただの音の羅列でしかない。命が羽よりも軽いこの場では価値の無い弱き名だった。
火を纏う枝木を、放電を続ける岩路を、腐臭を放つ血の池を、彼は歩く。外套は裂け、鍛え抜かれた肌が露出している。一歩一歩、進むたびに背の長剣が重く揺れた。黒雨に濡れた剣身が、稲光を反射する。乱れた青黒い髪は泥と血に濡れて額に張り付き、その隙間から灰色の瞳が覗いていた。
その両眼は凍るような静けさを持って、足が向かう先を一心に貫いている。
アルトの視界の淵を埋める、倒れ伏す人の群れ。彼ら彼女達は全てアルトの仲間達だった。その殆どの体には、既に熱が残っていなかった。乱雑に四肢を投げ捨てるようにして、あちらこちらに遺体が横たわっている。
10に1……いや、20に1か。辛うじてだが、息がわずかに残る者もいる。しかし戦える者はもう1人もいない。膝を突くことすらできず、彼らは体を地に預けている。全てを絞り切った力無きその身では、声すら音に変わらない。
「ッ……!」
その全員が、唯一動く眼球を力の限り揺らしていた。視線の先は、アルトの背中。彼らの視界の端の、その限界を超えた後ですら、充血した目がアルトの背を追う。歯を食いしばって、少しでも長くその背を記憶に留めていようと、熱の籠った瞳を向ける。その熱が、アルトの背を支え、更に一歩と押していく。
言葉はなくとも伝わるものはあった。進めと、戦えと、勝ってくれと、願いは声を超えて心を揺らす。
道の途中。アルトは泥濘に沈んだ槍や杖を拾い上げていく。拾い上げ、一振り。その度に暴風が吹き荒れ、風圧に巻き込まれて泥が飛び散る。槍も、杖も、剣も、弓も、汚れなく穢れない姿をその一振りが取り戻す。誇りを取り戻した武具をアルトは1つずつ、天を支えるように地に突き立てていく。それは倒れた仲間達への弔いであり、別れの挨拶でもあった。
最後に、細身の剣を1つ拾い上げる。品のある装飾が儀礼剣を思わせ、すり減った柄と練り上げられた鋼がその印象をねじ伏せる。美しくも強い剣。その担い手はすぐ側に倒れていた。剣に勝る美しい金の髪と、国の宝を嵌め込んだような翡翠の瞳。整った容姿は泥と血化粧で派手に汚れている。地に伏せながら決して王気を絶やさず、意地だけで顔を前に向け続ける彼女。
アルトは汚れを祓った剣を握り、一拍おいて口を開く。
「……借りる」
返事を聞かずに続けて拾った鞘に剣を納め、己の腰に刺す。
その時、彼女とアルトの視線が交差する。
「ぁ、ぁ……ッ!」
歯軋りの音に紛れて、声が届く。意地で絞り出した二文字。鋼を越える重さを受けて、アルトはただ頷いた。
歩みを再開し、交差した視線が切れる。背後で何かが崩れる音がした。泥の跳ねる音が小さく響く。彼は振り返らない。背筋を伸ばし、冷たさを増した灰色の瞳が鋭い光を宿した。稲光の中で、その瞳はより濃く、より強く瞬いている。
空間を歪ませるほどの圧を孕んだ彼の視線が、遠方の巨影を捉えた。山を呑み込みながら蠢く存在、世界を終末へ導いた元凶──邪神が、いた。
その躯体は闇の塊。輪郭すら定まらず、無数の腕や顔が現れては消え、赤黒い霧を吐き出し続けている。それは邪神の吐息だった。熱と毒を孕んだ霧は、触れた木々を一瞬で灰へ変え、山の輪郭すら崩れ落とす。その様は、存在そのものが世界の理を侵食しているかのようだった。全てを否定し、全てに拒絶されている。
肌が泡立つほどに恐ろしく、涙が溢れそうなほどに物悲しい。冷たく沈んだ心で、アルトはただそう思った。
『……まだ這いずるか。いい加減滅びてもよかろうに』
アルトの頭の奥で地を震わせる声が響く。この災厄を生み出した邪神の声だった。冷ややかで、しかしどこか楽しげだ。試すような色がその声には孕んでいた。
戯れ、なのだろう。
『命を薪にし、道にし、燃やし尽くして踏み躙る。ふむ、凄まじい旅路だ──クヒッ! 実に矮小。実に滑稽。それで、その先に何を望む? 世界はすでに終わっている。貴様一人の足掻きで、何が変わる』
アルトはすぐには答えず、一歩ずつ巨影へ近づいていく。靴底が泥を踏み抜き、飛び散った飛沫が周囲の熱気で即座に蒸発した。血の匂いが肺を刺す。それを気つけとして、アルトは戦意を一層激らせた。
背中の長剣、腰の細剣。その二振りを除く拾い集めた武具を全て突き立て終えると、彼は低く呟いた。
「……終わったなら、次を始める……少しでいい。小さな種火になれば、それでいい」
灰色の瞳が稲光を反射し、闇に紛れる巨体を映す。瞳は澄んだ水面のように美しかった。邪神の姿を映してもなお、その輝きは損なわれていない。
それは風を読み、海を暴き、光を捉える人類最高の瞳。鍛え抜かれた眼力が、邪神の体に沈む核の位置を正確に見据えていた。瞬間、雷鳴が大地を震わせる。瞬く視界の奥で、邪神の胸奥に埋まるそれは炎を宝石に押し込めたように揺らめいていた。赤黒い渦を巻く塊は、周囲の空気を焼き、近づくだけで皮膚が裂ける熱を放っている。チリチリと、アルトの外套が先が火花を散らす。それでも彼は前に進む。
『愚かだな』
声は嘲るように低く笑う。
己の核を、急所を正確に捉えられている。それは邪神の長い生で初めてのことだった。巨体に対して核は小さく、何より邪神の体を直視できる存在自体が稀である。存在の格の違いがそうさせてきた。邪神にとっての常識をアルトの瞳は簡単に覆す。まさに異常事態を引き起こしていた。それでも巨体の態度は変わらない。傲慢で、不遜。続く声音にもそれは現れていた。
『加護もない伽藍堂の身でありながら、次を望むか。いっそ哀れだ……何がそこまで貴様を動かす?』
地を這う虫を観察する見下す視線と共に、声が降ってくる。連想するように大地は揺れ、稲妻が空を焼いた。
アルトは細く息を吐くと、背負った長剣の柄を強く握った。血の滲む掌に革の感触がよく馴染む。命を断ち、命を繋ぐ冷たく堅い反発。研ぎ澄まされた意識がより深く沈み、静かに加速する。
「……止まる理由が無いだけだ」
言い終えると同時、長剣を抜く。白い刀身が暗闇の中で強く輝く。
『では理由をくれてやろう。理不尽を……そして絶望を!』
返答と同時に巨影が動く。空を切り裂く長大な腕が振るわれた。一本の腕は宙で無数にバラけると、黒雨を弾き風を纏ってアルトに振り下ろされる。無数の鞭となった巨腕の着弾と、長剣が振るわれたのは同時だった。
ゴオォンッ! 山が割れるような音と共に、巨腕が弾かれる。バラけていたその全てが、だ。
風圧に空が裂け、陽の光が刹那に顔を見せる。それは一瞬のことで、分厚い雲が穴を塞いでしまう。再度暗闇に戻った世界の中で、アルトは駆けた。邪神の小指の先より小さな体が、大地と平行になるように深く沈み込み──大地が割れた。踏み込みの一歩目で、音が置き去りにされる。稲光を弾く長剣の輝きが、遅れて軌跡を描いていた。
アルトの道を阻むように、邪神の腕が振るわれる。指先が掠めるだけで大地を抉り取り、空間を圧し潰す絶死の一撃。数多の英雄を羽虫のように屠った攻撃を前に、アルトが足を止めることはない。
「理不尽も絶望も、既に仲間が崩している」
全部見ていた。邪神との戦いで仲間が命をすり潰される様を、ただ1人後方で。息を殺して見ていた。砕かれる仲間の命よりも、砕く邪神の一撃を見据えていた。ひとえに、邪神に勝つために。
仲間の数だけ振るわれた邪神の攻撃はアルトにとって既知である。理不尽ではなくなっている。だから届かない。届かせない。爪の先すら掠らせない。見送ることも出来なかった仲間の命を、無駄には決してしない。
振るわれる邪神の腕は大地に谷を築き、放たれる魔法は大気を蒸発させる。
「それも、もう見た」
躱し、弾き、相殺する。
身のこなしと剣閃のみで、アルトは邪神のあらゆる攻撃に対処する。その度に泥が弾け、空が切り裂かれる。縦横無尽に駆けるアルトの視界で二転三転と天地が返る。息を吐く暇のない前進の中、彼の灰色の瞳だけが真っ直ぐに一点を貫く。決して揺るがずに、邪神の核を捉え続ける。
核までの距離はもう僅か。熱気で空間が歪み、核の周辺は陽炎に揺れる。赤黒い光が不規則に鼓動し、その度に空気が波打つ。
一歩、また一歩と近づく程に、皮膚が裂ける感覚に襲われる。喉は焼けて張り付く。しかし長剣を握る腕は力強く、瞳は怯むどころか鋭さを増していく。
後、ほんの少し。それで届く。それで終わる。覚悟は、とうの昔に決めてきた。束ねて振り下ろされた邪神の腕を一振りで弾き飛ばし、アルトは希望を胸に突き進む。
『よく抗う』
邪神の声が再び響く。そこには困惑とも取れる響きが微かに混じっていた。ここで初めて、アルトの目が邪神の顔へと向かう。雲に届く巨体に添えられた美しき女性の頭部。小山程の大きさを覆う浅黒い肌に、被さった黒い髪。嵌め込まれた金の瞳がアルト個人を捉えていた。
『だが、貴様は届かんよ』
視線が交差し、時が止まる。雲も、風も、雨も。全てが静止した。空間を支配し、指定した空間内で絶対的な命令権を獲得する邪神の権能。その力は世界を容易に停止させる。この力が数多の英雄を屠ってきた。逃れられた者は同じ神々であろうと絶無の絶対的な力。邪神が傲慢である由縁。
『終わりだ。人類の残火よ』
核心を持って告げられた言葉。どんな力を持っていようと逃れることはできない現状に、邪神の口角が上がる。
アルトは踏み出していた足を地に着けたまま、前傾姿勢で止まっている。邪神は言っていた。アルトは加護の無い伽藍堂の身だと。邪神に立ち向かい、そして屠られた数多の英雄が持つ神々からの加護、そして精霊からの加護を一切もたない事実を、一目で正確に把握していた。目がいいのはアルトだけの特権ではないのだ。
いくら身体能力が高く、目が良かろうと、加護が無い者はこの戦場で力無き者と同義。邪神の脅威足り得ない。これで終わりだと、つまらなさ気に確信した。
それは紛れも無い油断だった。
神々の、そして精霊の加護もないアルト。命ある者は大小関わらず必ずいずれかの加護を授かる世界において、唯一取りこぼされた存在である非力な彼。しかしだからこそ、唯一世界からの干渉を受けない存在でもあった。
だから、世界を支配する邪神の権能の中で、彼だけが自由を約束されている。邪神にとって紛れもない未知の存在。それがアルトだった。
仲間達が命を捨てて覆い隠した、トップレベルのシークレット。
「──ォオオッ!」
ゴォオンッ!と、大地を踏み向く。油断を誘う為に態と静止した態勢で、貯めに貯めた力を解放する。鍛え上げられたその身1つで、邪神に向けて一直線に駆ける。さながら流星の如く。
『馬鹿な……』
驚きを言葉に漏らす邪神。呆然としていた時間は一瞬だった。即座に腕を、魔法を放つ。雲が、山が、稲妻がアルトを狙い始める。しかし初動は確実に遅れた。アルトにはそれで十分だった。1秒にも満たない刹那。この瞬間を生み出すためだけに全ての仲間が命を掛け、そして散った。
長剣を握る手が軋む。アルトの全身を白いオーラが覆い、弾ける。彼の存在感が肥大した。同時に、彼の体が加速する。
邪神の長き生で初めて芽生えた──敗北の予感。
アルトの胸にようやく湧いた──勝利の予感。
両極な思いは思考を加速した。緩やかに動く世界の中で、心だけが羽を生やす。
『我を封じるのか。その伽藍堂の身に』
「俺には他に、彼らに報いる術がない」
分かっているのか?
己の末路を察した邪神は問うた。
『時を持たぬ我が身を納めるのだ。器もまた同じ性質を持つ。即ち不老不死。貴様は果て無き時を彷徨うことになる。それを承知で進むのか?』
アルトは目を閉じ、短く息を吐く。そして薄い笑みを浮かべた。
「未来をこの目で見れるなら、悪くない」
命を捨てるゴミ箱の、その中で生きているような劣悪な環境。明日を夢見ることすら出来ない、それが終末世界。そこで生まれ、生きてきたアルトにとって、直接未来をお目に掛かれるのならこれ以上の贅沢はない。彼は心の底からそう思った。
邪神の声がわずかに揺れる。
『理解できん……なぜ、貴様はそこまで愚かになれる?』
苛立ちか、呆れか。
邪神自身にも噛み砕けぬ思いが頭を、胸を焦がす。視界にはいつの間に距離を詰めていたのか、長剣を上段に構えたアルトの姿。雷すら追えぬ速度。これもまたアルトの伏せ札だった。
彼の背後で、標的を見失った稲光が空を切り裂いた。邪神に影が落ち、アルトに光が降り注ぐ。
死の淵で息を繋ぐ仲間たちが、その姿を目にして息を呑む。消えかけた意識の中、滲み涙の先にはっきりと映る彼の背中。絶望を前に希望を背負う神話の一幕を、目に焼き付けるように見つめている。
「愚かだから、少しでもマシな未来を望むのさ」
いつの間にか邪神の権能は解け、世界は音を取り戻していた。
邪神の核は、既に目と鼻の先。
「ここで断ち──繋ぐッ!」
気炎を吐く。長剣が瞬く。
反射。刹那に増殖した無数の巨腕が一斉にアルトを襲う。一本一本が山を崩し、空を覆い隠す勢いで迫る。それは邪神の本気。権能をすり抜けるアルトに対する、純粋な物理殺法。初見の技。最適解の反撃だった。
しかしアルトはそれすら既知とした。仲間の命が1つ散る度、他の10を予想し、100の対策を繰り返す。献身と辛抱が結んだ動きが、アルトから傷を遠ざける。邪魔はない。させない。ひたすらに剣を構えたまま突き進む。
間合いに核が届く。
呼吸は荒い。肺は焼け、足は鉛のように重い。だが今更だ。止まる理由には足りない。
目の前で赤黒い光が脈動し、世界を終わらせる力が鼓動している。ずっと望んでいた景色を前に、アルトの瞳に強い光が宿った。
「ありがとう。みんな──」
小さく粒がれた言葉は雷鳴と風に呑まれて消える。邪神のみが、確かに耳にし記憶する。
『そうか……我の──』
負けか。
長剣が振り下ろされた。瞬間光が弾け、戦場全体を包む。核が纏う赤黒い炎が軋み、邪神の体を覆う闇が引き裂かれ、巨体も解れていく。空を覆っていた黒雲に穴が開き、稲光も、黒雨も、一切合切押し流される。
雲が晴れたことで陽の光が戦場を照らした。10年に一度しか姿を見せないとされる陽の塊が、天を照らす。
日の下で輝くアルトの姿。遠い仲間たちの目にその背中がぼんやり映る。その側、邪神が消えた場所に唯一残った赤い結晶。それは核の深部。アルトの手に握られた長剣は、深々とその結晶に突き刺さっていた。
──勝利だ。
アルトは実感と共に仲間達に振り向く──その間も無く彼の体は核に飲み込まれ、その場からかき消えた。戦いの余韻すら残さずに。
静寂が訪れる。押し流された雲が緩やかと形を戻し、次第に雨が降り始めた。透き通った、ガラスを溶かしたような水の滴。薄い雲の切れ間から除く陽光が世界を輝かせる。赤く黒い大地と反転する、青く白い天。
終末が終わったことを世界が示していた。
静まり返った戦場には雨音だけが響く。血の香りが空気に溶けていく。
仲間たちの視線が空を向く。彼らは力無く笑みを形作り、眩しそうに目を細める。掠れる視界は次第に暗転し、いつしか体は沈んでいった。それでも、暗い視界を焦がす陽の光を、消えるまで追い続けた。
終末世界は、こうして長い時を終わらせた。
明日に希望を抱く時代が、やっと訪れたのだ。
………
アルトは目を開く。緩く、重たく。
夢から覚めた視界に荒れた大地は映らない。血の、泥の匂いも感じない。戦場は遠い昔の記憶の中にあった。
視界の端で、焚き火が静かに揺れている。人の気配はない。頭上には満天の星が広がり、体を包むのは柔らかな芝生。風は穏やかに頬を撫で、微かに花の香りが纏わり付く。
かつて世界を飲み込もうとした闇は消え、平穏な時代が訪れていた。
ずり落ちていた外套を肩にかけ直し、アルトは長く息を吐く。
「……懐かしい夢だ」
低く漏れた言葉に、応える声があった。アルトの内側で眠る存在が嘲るように笑い声を漏らす。
それはかつて世界を滅ぼし、今は彼の中に封じられた邪神の囁きだった。
『……またか。飽きないものだ。ただ一度の勝利に浸るのがそうも楽しいか?』
傲慢で不遜。過去と同じく圧のある声。しかし巨体の時と異なり華やかで、女性的な声だった。
アルトの心の内に像が浮かび上がる。美しい金の髪と、国の宝を嵌め込んだような翡翠の瞳。整った容姿と熟れた妖艶な肢体。黒い艶のあるドレスを纏い、胸の下で腕を組んでいる。夢の中で見た巨体とは異なる容姿で、邪神はアルトの中に存在していた。
「気に食わないかな?」
『愉快ではないな。見ていて滑稽ではあるが』
クヒッ。彼女は綺麗な顔に浮かべるにはチグハグな、歪んだ笑みを溢す。
アルトは寝転んでいた体を起こし焚き火に向かう。予備の枝を投げ込み小さく笑った。
「浸るつもりはないんだよ……でも忘れることはきっと出来ない。他でもない君に勝った日だ──ゼーレ」
『やめろ。我はノワルトゼーレ。闇禍の魂。気安く人の名に堕とすでない』
不満を漏らす声に圧はなかった。形式的に否定を返しているだけの、じゃれ合いのような空気だった。
アルトは手元の枝で焚き火をつつきながら穏やかに微笑んだ。
「気に入ってるくせに」
『諦めただけだ。もっと言うなら聞き飽きた。どれだけの時を共にしたと思っている』
それもそうか。
アルトは小さく頷き、空を見上げる。何度見ても見飽きることのない、美しき星空。
「……本当に、平和になった」
しみじみとした声。若々しい青年の顔に似合わない年寄り染みた言葉だった。
彼の心の内で、邪神──ゼーレは眉を顰めた。
『退屈が過ぎる。空は割れぬし、大地は崩れぬ。同じ時が同じ様に過ぎるだけではないか』
「そうかな? 雲は形を持たず動き続けるし、花はコロコロと表情を変えてくれる。同じ時間なんて、一度だってないよ」
言いながら、足元に咲く小さな白い花に目をやり、そっと撫でる。
「もう、あの頃とは違う」
パチリと、焚き火が弾ける。赤い火花が風に舞い夜空に昂る。黒い雲が覆い、黒い雨が降る。かつての空とは似ても似つかない、星が瞬く美しい天。儚くも温かい光の中で、アルトの灰がかった瞳が気持ち良さげに細められた。
反対にゼーレは目詰りを釣り上げ、これ見よがしにため息を吐く。大きく、長く。
『我とは好みが合わん』
「人とはそういう物だよ」
『我は人ではない』
「今の君を見て、邪神だと誰が思うのだろうね」
美しく整った容姿と、よく変わる表情。圧こそあるが、外見の影響かカリスマに変換される。とても世界を終わらせ続けていた邪神とは思えない。どこぞの姫と言われた方がしっくりくる姿だ。その姿を見れる人間は現状、アルト以外に存在し得ない。それが彼には残念でならなかった。
その美しい姿もゼーレにとっては不満の対象だった。
『誰のせいだとッ』
「封じたのは僕だね。でもその姿を取ったのは君じゃないか」
『形を奪える者が此奴だけだったのだッ』
ゼーレが封じられる際、アルトを除いてもっと近くにいた女性。その形を真似し模ることで、ゼーレはアルトとの対話を可能としていた。邪神を封じる法に、人の形を害する効果はないのだ。語りかけることによって自由を取り戻そうとしたゼーレの試みが成功したか否かは、美しき姿を取る現状が答えとなる。
外見の元になったのは既に亡き国の王女。今もアルトの腰に刺さる細剣の持ち主にして、世界最優の剣士でもあった。彼女は主神の加護と精霊女王の加護を宿した、世界で最初で最後の複数加護持ちの英雄だ。邪神に最も近い力を持っていた彼女は、強大な力と立場からくる責任感を軸に持つ、厳格で強かな性格だった。
服装以外は同じ姿をした女性。その姿から飛び出す傲慢かつ砕けた言葉に当初は違和感を感じていたアルトだが、流石に慣れた。アルトにとってその姿はかつての姫であり盟友ではなく、ゼーレとして認識することが先に立つ。それほどの時が流れていた。
本当に、長い時が流れていた。そしてこれからも時は刻まれ続ける。そうありたいと、アルトは望み行動し続けていた。主体的な方針がそう思わせるのか、彼はこれまでの旅路を退屈だと感じたことは一度もなかった。
可能であればゼーレにもそう感じて欲しいと、最近は考えていた。
「僕らの時間は果てしなく長いんだ。君なりの、退屈との付き合い方がきっと見つかるよ」
『ふんッ、どうだかな……いつでも我を喰らえる者の言葉など、当てになるものか』
ゼーレは顔を逸らし、つまらなさ気に言い捨てる。目線は少し下を向いていて、どこか寂しげにも見えた。
アルトの伽藍堂の魂にゼーレは封じられている。その力関係はアルトが上だ。中身より小さな器はこの世に存在しない。封印が成功したその時より、格付けは終わっている。ゼーレの命は彼の掌の上だった。
自覚しているアルトは曖昧な苦笑を溢す。
「それはまぁ、勝者の特権ということで」
『ならば勝者らしく振る舞うといい。我を利用し酷使しろ。貴様殿がふらふらしていると、我の格まで下がる』
「努力はするよ」
何度も言い続けている言葉を、アルトは今日も繰り返した。人を動かすよりも自分が動く。罰する前に寄り添う。先導者であり隣人としての生き方を貫く彼は、根本的に上位者としての振る舞いが合わない。それはゼーレ相手にも同じであり、上から押さえつけるような接し方は出来ないでいた。ゼーレ本人から要求される程になっても、彼が生き方を変えることはない。きっとこれからも無いだろう。だから彼の言葉いつも決まって形だけのものだった。
風が吹く。焚き火が揺れる。時が止まったように辺りが静まり返る。
まったくッ、と。ゼーレは圧を解きながら悪態を吐く。
『この退屈な世界を、貴様殿はどう進む?』
これまで何度も問い続けている言葉を、ゼーレは静かに続けた。
アルトは瞳を優しく細め焚き火に手を翳す。指の隙間から覗く揺れる炎をじっと見る。
「……見守るさ。時間はたっぷりある」
これも、いつもと同じ答えだった。最初から答えは分かっていたのか、ゼーレは鼻を鳴らすだけで静かに息を潜める。気配が沈み、そして小さくなった。声はもう響かない。闇の中で眠ったのだろう。
アルトは苦笑をこぼすと寝転んで、空を見上げた。
「……穏やかに変わり続けるこの世界は、案外退屈しないよ。いつか君にも伝わるかな、ゼーレ」
星が流れている。アルトはその軌跡を見つめながら再び瞼を閉じた。
夢の残滓は、まだ胸の奥で静かに燻っている。だが夜は静かで、温かく、どこか優しかった。