月蝕 第1夜:目覚め
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**1. 夜の底**
東京の夜は、まるで無数の星が地上に降り注いだかのように光り輝いている。
今日は美しい満月。だが、その光の下には、常に誰もが見ず知らずの闇が潜んでいる。
渋谷の雑踏を抜け、細い路地裏に佇む外見は真新しい児童養護施設「星屑の家」。
そこに住む少女、月見里ハルナ、15歳。彼女の瞳は、まるで夜空の月のように静かで、どこか冷たく輝いていた。
ハルナの日常は、退屈と静寂の繰り返しだった。期末テストは500点満点中487点。
勉強くらいしかやることがない彼女にとっては当然だった。施設の狭い部屋、薄汚れたカーテン、擦り切れた畳の匂い。
彼女は本を閉じてベッドに腰掛け、窓の外を見ながら、指先で無意識に髪を弄っていた。
黒髪は肩まで伸び、まるで墨を流したように艶やかだったが、彼女自身はその美しさなど無関心だった。
「ハルナ、夕飯の時間よ。早くおいで」
施設の職員、佐藤さんがドアをノックする。ハルナは小さく頷き、立ち上がった。
彼女の動きは滑らかで、まるで影が動くように静かだった。だが、その背中には、10年前のあの夜の傷跡が今も残っている。
服の下に隠された、深く刻まれた大きな傷。それは、彼女の人生を切り裂いたあの日の記憶そのものだった。
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**2. ニンジンの光景**
夕飯の時間、施設の食堂は子供たちの笑い声と食器の音で賑わっていた。みんなそれぞれ影を抱えても、逞しく生きている。
佐藤さんだってそうだ。ハルナはいつも通り、端っこの席で黙々とご飯を食べていた。メニューはカレーライス。
ふと、大きく切られたニンジンのオレンジ色が、彼女の記憶を揺さぶった。
あの日、包丁、ニンジン、切って……。突然蘇ったあの記憶。叫び声、血の匂い、背中の痛み。
「ハールナ、ちゃんと食べなさいよ。いつもニンジン残すんだから」
隣に座る同い年の少女、ミカが笑いながら言う。ミカはハルナの数少ない「友達」だった。
明るくて、誰とでもズカズカ突っ込んで話していける、ちょっとお節介な性格。
ハルナは小さく微笑み、ミカの言葉を流した。彼女の心は、今、別の場所にあった。
あの夜、両親が死に、彼女は一人になった。5歳のハルナは、ただ恐怖に震え、丸くなることしかできなかった。
お父さんの刃物が背中に突き刺さり、お母さんがその刃物で父を刺し、二人とも血の海に沈んだ。あの瞬間から、ハルナの人生は闇の底に落ちたのだ。
だが、彼女にはもう一つ、誰にも言えない秘密があった。
彼女の「能力」。
特定の人間を「見つめる」だけで、その人を数時間後に死に追いやる力。
それは、まるで月が静かに満ち欠けするように、彼女の意志で発動するものだった。
初めてそれに気づいたのは、この施設に入って間もない頃。外観も改装されておらず、まだ古びていた頃。
彼女をいじめた年上の少年が、突然倒れて死んだ。
あのとき、ハルナはただ、少年の目を見つめながら、心の中で「こんなやつ、消えてほしい」と願っただけだった。
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**3. 渇望と共感**
ハルナの心の奥底には、燃えるような渇望があった。それは、「自由」への切望。
彼女は誰にも縛られず、誰にも支配されず、ただ自分の意志で生きることを望んでいた。
あの夜、両親の死によって、彼女は「家族」という鎖から解放された。だが、同時に、彼女は自分の「力」が新たな鎖であることに気づいていた。
彼女の能力は、自由を与えると同時に、彼女を孤独の淵に縛り付けていた。
この渇望は、5歳のあの夜に生まれた。まだ理解できなかった両親の暴力、血の匂い、恐怖の中で、彼女は「もう誰も私を傷つけられないように」と願った。
大きく切られたニンジンのように転がった母親の残骸。最期の、言葉。そしてその母親の願いが、彼女の能力を目覚めさせるきっかけになったと思っていた。
だが、彼女はその力を愛しているわけではなかった。むしろ、恐れていた。
なぜなら、彼女の心のどこかで、「人を殺せること」が快感になりつつある自分を感じていたからだ。
初めて能力で人を殺してからというもの、彼女は人と目を合わせなくなった。
そして、ハルナにはもう一つ、致命的な欠点があった。
彼女は「共感」を持てなかった。
他人の痛みや悲しみを理解しようとしても、どこかで冷めた自分がいる。まるで、他人を「モノ」としてしか見られないような瞬間があった。
この欠点は、彼女の能力と密接に結びついていた。彼女が人を殺すとき、その人の人生や感情を考えることはほとんどなかった。
ただ、「本当にみんなにとって邪魔だから消す」という、冷酷な計算だけが頭を支配する。
だが、彼女はこの欠点を自覚していた。そして、それを嫌っていた。
「ボクは、普通の人間じゃないのかもしれない」
そんな思いが、彼女の心を締め付ける。彼女は自分の冷たさを「能力のせい」にしたかったが、どこかで、それが自分の本質なのではないかと恐れていた。
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**4. 不思議な口調**
ハルナの喋り方は、彼女の内面とは裏腹に、どこか軽やかで、まるで詩を詠むようなリズムを持っていた。
一人称は「ボク」で、語尾には時折「ね」や「かな」を付ける。彼女の声は低く、ゆっくりと、まるで水面に石を投げたときの波紋のように広がる。
だが、その言葉にはどこか不思議な「距離感」があった。まるで、彼女が自分を遠くから見ているかのように。
この喋り方は、彼女が施設で出会ったある老女、図書室の管理人だったミツエさんから影響を受けたものだった。
ミツエさんは、いつも詩集を手に、静かに言葉を紡ぐ人だった。ハルナは、ミツエさんの言葉のリズムに惹かれ、自分を客観的に見て隠す術を見出した。
自分の冷たさや闇を、柔らかな言葉で包み込むことで、他人から「ちょっと変わってるだけの普通の少女」に見えるようにしたのだ。
「ボク、こういうの好きだよ。カレーって、一口目だけはすごくおいしいよ、ね」
ハルナはミカにそう言って、笑顔を見せる。だが、その笑顔の裏で、彼女の心は別のことを考えていた。
「もし、ミカがボクを裏切ったら、殺すの、かな?」
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**5. 兆し**
その夜、ハルナは風呂から出て自分の部屋に戻り、ベッドに横になった。窓の外では、月が不気味に輝いていた。
そういえば、あの日もお月さまが綺麗だったっけ……。彼女は目を閉じ、あの日の記憶を再び呼び起こした。
今度は鮮明に思い出せる。吐きそうになる血の匂い、人間とは思えない叫び声、死にそうだった背中の痛み。
そして、お母さんの最後の言葉。
「ごめん、守って、あげれなくて、ごめんねぇ……」
ハルナはハッとして唇を噛み、ゆっくり目を閉じた。
「ボクは、誰にも守られなくていい。もう自分で守れるから、ね」
だが、その言葉は空虚に響いた。彼女の心は、どこかでまだあの日の少女のままだった。
恐怖に震え、死を前にただ丸くなることしかできない少女。
翌朝、施設に一通の手紙が届いた。差出人は不明、封筒にはただ「月見里ハルナ様へ」と書かれていた。
ハルナは職員から手紙を受け取り、部屋で一人、封を開けた。
「君の力を知っている。
そして、君の過去も。
もし、自由を望むなら、明日の夜、渋谷のスクランブル交差点で待つ。
黄色い帽子の黒いコートの男を探せ。」
ハルナの瞳が、月光を受けて鋭く光った。
「そんな、ボクの力、知ってるって? 面白いね。会ってやる、かな」
彼女の唇に、初めて本物の笑みが浮かんだ。それは、好奇心と、ほのかな殺意が混ざった笑みだった。
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**6. 動き出す運命**
翌日、ハルナは体調不良と偽って学校を抜け出し、渋谷のスクランブル交差点へと向かった。
夕暮れ時、ネオンの光が交錯する中、彼女は黒いコートの男を見つけた。男は30代後半くらい、痩せ型で、顔には深い傷跡があった。
彼はハルナを見つけると、静かに微笑んだ。
「月見里ハルナ、だな。俺はクロウ。君の力を、俺たちのために使ってほしい」
男の声は低く、どこか冷たかった。だが、その瞳には、まるでハルナと同じ闇が宿っているように見えた。
「ボクの力? ふふ、面白いこと言うね。何を企んでるのかな、クロウさん?」
ハルナは軽い口調で返すが、彼女の瞳は男の心臓を射抜くように鋭かった。
クロウは笑みを深め、こう言った。
「この世界は、腐っていると思わないかね。我々や君の力なら、それを必ず変えられる。俺たちは、君のような人間を待っていたんだ」
ハルナの心臓が、初めて高鳴った。
それは、恐怖でも、喜びでもなかった。
ただ、純粋な「好奇心」。
この男が、ボクをどこに連れていくのか。
そして、ボクの力が、どこまでこの世界を切り裂けるのか。
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**7. 長い夜の始まり**
その夜、ハルナはクロウに連れられ、渋谷の地下にある秘密の集会場へと足を踏み入れた。
そこには、彼女と同じように「特別な力」を持つ者たちが集まっていた。彼らは、自分たちを「月蝕の使徒」と呼んでいた。
彼らの目的は、世界の「不均衡」を正すこと。だが、その方法は、血と死にまみれたものだった。
ハルナは、初めて「仲間」と呼べる存在に出会った。
触れたものを発火させる少年、カイト。一瞬だけ時を止められる女、アヤカ。自分だけを透明にできる男、タイゾウ。だが、彼女の心はまだ冷たかった。
「ボクは、仲間なんていらないよ。関わらないでほしいかな。だけど、面白そうだから、乗ってあげる、ね」
彼女の物語は、ここから始まる。
月蝕の夜、彼女の力は世界をどう変えるのか。
そして、彼女自身の闇は、どこへ向かうのか。
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