34. 芽吹きの雨
がばっと起き上がった。心臓がどくどくしている。
あれは……もう起きたことなのだろうか?
いや、まだ大雨は降っていないはずだ。
わたしはそのまま起き上がると、バタバタと観測部屋へ駆け上がった。
マスターがいつものように、そこでゆっくりと新聞を読んでいる。
「全然、いい夢じゃないっ!」
パジャマのまま、突然大声で叫んだわたしを見て、マスターとシリウスとヴェガがびっくりしていた。
わたしは、そのまま一生懸命、夢の内容を説明した。
マスターはじっと聞いていたが、「ふむ。不思議だな」と言って続けた。
「あの魔法陣は、予知夢を呼び込むものではない。そんなことができれば、星読みなどいらぬ。ほんの少し良い夢が見られるように、というおまじないみたいなものだ。ただ、あの魔法陣の助けで、アウローラの持つ不思議なアンテナに違った意味で『良い』夢が引っかかってしまったかもしれない。誰にとって良いかはわからないからな」
「マスター、わたし、もう一度絶海の庵へ行きたいです」
「それで気が済むなら。しかし、運命の輪がすでに回っているのなら、変えることはできぬ」
マスターは厳しい顔で言った。
わたしは頷いた。それは、わかっているのだ。星読みの理でも、読み解き、備え対処することはできるが、なかったことにはできない、いや、してはいけないとされている。でも、まだ輪が回っていないかもしれない。
急いで着替えると、取るものも取りあえず、絶海の庵へ飛んだ。
後に残されたマスターは、シリウスとヴェガに言うともなく呟いた。
「あの子の周りには、長寿の者しかいなかったからね」
そして、小さくため息をついた。
マスターは、自分では教えることのできないことを、アウローラが学んでくれることを願っていた。
本来、人の世というものは、出会いと別れで満ちているはずなのだから。
絶海の庵の転移陣のある部屋から、観測部屋へと上がると、そこは前日と変わらない、穏やかな光景があった。
ガニメデは書斎机に向かって何かを見ている。
年老いたヘルマンは、静かにコーヒーを淹れている。
しかし、ガラスのドームの外は大雨で何も見えなかった。
わたしが来たことに気付いたガニメデが「あら、また来たの」とだけ言って、驚きもせず机の上の書類に向かった。ヘルマンも「やあ、早いね」とだけ言って、わたしの分のコーヒーを淹れようと、お湯を追加で沸かし始めた。
なんだか拍子抜けして、その場でぼーっと立っていたが、ヘルマンが手招きをするので、「よいしょ」と観測部屋へ入り、ダイニングテーブルの昨日までの自分の椅子に座った。
「どうしたんだい?」
カフェオレを飲むわたしに、ヘルマンが優しく尋ねた。
わたしは、どう説明して良いのかわからず、ごにょごにょとしていたが、「大雨が止んで、芽吹きの季節が来る夢を見たから……」と言った。
「そうかい。朝には止むだろうと、ガニメデも言っていたよ」
「ふうん」
その晩は、全く夜空が見えないので、滝のように降る雨をぼんやり眺めながら、静かに雨が止むのを待った。
明け方になり、最初の太陽の光が射すと、雨がぴたり、と止み、ぐんぐんと真っ赤な太陽が昇ってきた。
それと共に、地面から水蒸気が立ち上っているのが見えるほどだ。
完全に太陽が姿を現すと、全ての荒野に日の光が降り注いだ。
すると、まるでメキメキという音が聞こえるような勢いで、緑の芽が現れ、双葉をぱかっと開いたかと思うと、あっという間に茎が伸びて葉が広がり、小さな花を咲かせた。
「うわあ……」
夢で見たよりも、生命力に溢れた光景だ。
わたしがガラスのドームにぺたり、と張り付いて外を眺めていると、
「今日は外で朝食を食べられるよう、お弁当をお願いしてあったんだよ」
とヘルマンがバスケットを持って立っていた。
「さあ、出かけよう」
わたしは、夢と同じように進んでいくことに焦りを覚えたが、このままわたしが残っても二人は出かけてしまうだろう。それだったら、一緒に行くほうが良い。
わたしたちは、バスケットを持ち、芽吹きの季節を迎えた平原を歩いて行った。
「ねえ、どこに向かうの?」
不安を隠して尋ねたが、二人とも「さあ?」と言って、何となく散策しているようだ。
わたしは、ヘルマンがどんどん年を経ってしまうのではないかと、時々様子を見ながら歩いた。
今のところ、杖もついていないし、腰も曲がっていない。
それから30分ほど歩くと、足下に白い小さな花が一面に咲き始め、その先にはなんとだだっ広い湖が広がっていた。
「湖だ!」
「凄いね・・・」
わたしとヘルマンはあんぐりと口を開けてしまった。
「ここは窪地になっているから、吸い込みきれない周囲の水も集まって、大雨の後数日だけ湖になるのよ」
ガニメデの説明に納得はしたものの、この前までは荒野だったところに湖まで現れるとは、びっくりだ。
「それじゃあ、ここで食事にしようか」
ヘルマンの声掛けで、ピクニックが始まった。
周囲には、鳥や虫や蝶が飛んでいる。
不思議なことに、湖では魚みたいなものが飛び跳ねたりする。
「乾期の間は、地下の水源に潜んでいる」らしい。世界には、まだまだ驚くようなことが沢山あるのだな、とわたしは感心した。荒野で魚が見られるなんて想像もしていなかった。
死の世界のように見えた荒野が、生命に満ちあふれている。
「うーん、とてもいい日だ」
ヘルマンが、両腕を伸ばし、思い切り伸びをした。そして、
「こんな日が最後なら申し分ないね」
と、言うと静かに横になった。それからわたしとガニメデを見て、「ありがとう」と微笑み、目を瞑った。すると、するするっとエネルギーが抜けるかのように、ヘルマンの身体が現実味を失い、透明になっていく。
「ありがとう。あなたが最後のメッセージを届けてくれたことは決して忘れない」
ガニメデはそう答えると、低い声で歌を唄いはじめた。聞いたことのない歌だ。シンプルだが、もの悲しい音調だった。
わたしはさっきまで普通だったのに、突然「最後」と言われて混乱した。
「え、ダメよ、ヘルマン。まだ、ほんの少ししかここにいなかったじゃない。ねえ、諦めないで!」
わたしは焦ってヘルマンを揺さぶって起こそうとしたが、わたしの手はヘルマンを捉えることができない。
「ヘルマン! ヘルマン! ヘルマン!」
透明になり消えてしまったヘルマンがいたはずの場所に残ったのは、綺麗な白い石だけだった。
わたしは、その場にうずくまり泣きじゃくった。結局、何も変わらなかったのだ。
わたしが泣き止むまで、ガニメデは静かに待っていてくれた。
流石に涙も出なくなり、わたしが立ち上がると、「鼻かんで」とハンカチを渡してくれた。
ちーん、と鼻をかみ、のろのろと白い石を拾うと、「帰りましょう」というガニメデの声に促されて立ち上がった。
悲しい、とか、淋しい、とかそういう気持ちは、本当に心臓のあたりが痛いと感じるということを身をもって知った。
絶海の庵に戻ると、ガニメデが蜂蜜入りのホットミルクを作ってくれた。
目がパンパンに腫れて、鼻が真っ赤になって痛い。でも、それよりも胸が痛かった。
ガニメデが静かに言った。
「あなたがヘルマンと呼んでいた人はね、エズラが作り出したメッセンジャーなのよ。元々、魔力が尽きたら消えざるを得なかったのだけれど、その前にちゃんと使命を達成できたから、心残りなく消えることができた。だから、そんなに悲しまなくていいの」
それは人ではなかったから悲しまなくていいということなのだろうか?
それとも使命を達成できたら悲しくないということなのだろうか?
一緒にご飯を食べながら、お代わりをよそってくれるヘルマン、わたしの説明を聞きながら望遠鏡を嬉しそうにのぞくヘルマン、コーヒーを淹れてくれるヘルマン、頭を撫でてくれるヘルマン。色んなヘルマンが頭の中に蘇った。
「でも悲しいの」
また涙が出てきそうだ。
「そう……そういうアウローラがいたから、ヘルマンはやるべきことを終えることができたのよ。彼は幸せそうに見えなかった?」
幸せ……とは何だろう。
わたしにはよくわからなかった。
「その石はあなたが持っていなさい」とガニメデに言われ、大事にポケットにしまうと、ガニメデに見送られて星読みの塔へ帰った。
いかにも泣きました、というわたしの顔を見たマスターは、「おかえり。今日はもう、休みなさい」とだけ言って、あとは放っておいてくれた。
ヴェガとポーラは一緒に部屋までついてきてくれた。一人になるのは淋しかった。
部屋に戻り、白い石を棚に置いてから、シャワーを浴び、歯磨きをして、パジャマに着替えた。
こんなに悲しくても、ちゃんとやっていけるんだなーと何となく思った。
そして、ガニメデももしかしたら泣いているのかもしれない、一緒にいれば良かったかな、あの石は本当に自分が貰ってよかったのかな、と色んなことを考えながらベッドに入った。
この部屋にも小さな天体図を映す機械はあるが、わたしはあっという間に寝てしまうのでほとんど使わない。しかし、今夜は366年前の天体図を呼び出して投影させた。
ヘルマン彗星が前回この星に近づいてきた時のものだ。
投影された星空を見ながら考える。
ヘルマン彗星は確かに存在していたのだ。
そして、今も木星の近くで存在している。この星に来られなくなっただけで。
そう、見えるものだけが全てではない。
この天空には、自分の目に見えない星がもっと広がっているのだ。
そこには、まだ見ぬ人々もいる。
わたしは、宇宙の果てしない広さに初めて心から慄き、まだ見ぬ世界に驚嘆しながら眠りについた。
第二章完了です。次に幕間をひとつ挟んで第三章となります。幕間までは投稿する予定です。
第三章はまだこれからですが、なるべく早く開始したい!です。どうぞ宜しくお願いします。




