第八話 雪女と狼男
「からんからん」と、戸口がいつもより高く澄んだ音を立てた。
ふわりと、真夏に真冬が訪れたかのような冷気をまとって現れたのは、雪女さんだ。絹のような白無垢に身を包み、その吐息は純白の結晶となって、はらりと舞い落ちる。彼女がカウンターの椅子に腰を下ろすと、その一角だけに見事な霜が降り、近くに置いていた徳利の熱燗は見る見るうちに日本酒シャーベットへと変わってしまった。
「わしの熱燗が!」
「あら、ごめんなさい。少し、冷えすぎたかしら」
ぬらりひょんさんに彼女がはにかむと、店の窓ガラスに美しい氷の結晶が広がった。
その直後、今度は獣じみた勢いで、がらりと戸が開かれた。毛皮のマントを羽織った、山賊のように屈強な大男――狼男さんが、妖しげな雰囲気をむわっと漂わせながら入店してきたのだ。彼のぎらつく双眸が店内を睥睨すると、隅の方で飲んでいた小物のあやかし達が、蜘蛛の子を散らすように隠れてしまった。
「……寒気と妖気が同時に来るとは。今日の換気扇は、徹夜で頑張ってもらわないと」
私は心の中で呟きながら、二人の対照的な客に「いらっしゃいませ!」と元気に声をかけた。
雪女さんは、冷たい息を吐きながら注文する。
「体を芯から冷やす、冷やし素麺をお願い。薬味は茗荷を多めで」
一方の狼男さんは、テーブルを拳でどんと叩きながら吠えた。
「肉だ! 血の滴るような肉を、山ほど焼いてくれ! タレはニンニクと唐辛子を効かせたやつだ!」
……厨房は、たちまち戦場と化した。素麺を締めるための氷を砕く隣で、焼肉用の炭火が灼熱の炎を上げる。私の右半身は極寒、左半身は灼熱地獄。身体が分裂したみたいな感覚を抱きながら、どうにか二人の注文を仕立て上げた。
最初は互いに警戒していたのか、黙々と食事を進めていた二人だったが、やがて雪女さんが、ぽつりと愚痴をこぼした。
「私、最近は、どこに行っても冷房機器のせいで、私の出番がなくなったのよ。『雪女の吹雪より、最新式のエアコンの方が快適だ』なんて言われると、さすがに胸が痛むわ。この前なんか、かき氷屋の店主に『うちで働かないか』ってスカウトされちゃった」
すると、山盛りの焼肉を平らげていた狼男さんが、大きく頷いた。
「わかるぜ。こっちは満月のたびに“ハロウィンの余興”だ。本気で牙を剥いてみせれば、『うわー、その特殊メイクすごいですね!どこで売ってるんですか?』とスマホで写真を撮られる始末だ。満月の夜に動物園の狼の檻の前で変身しかけたら、飼育員に麻酔銃を向けられたこともある。まあ、カレンダーを良く見てなかったのが悪いんだがな」
「まあ、大変ね」「あんたもな」
二人は他のあやかしのお客様と同じように「人間界での肩身の狭さ」という共通の悩みで一気に打ち解け、焼肉のタレ皿と素麺のつゆの器を、カチン、と乾杯のように合わせた。
問題が起きたのは、狼男さんが焼肉の追加注文を平らげた頃だった。
「うおおお!力がみなぎる!」
特製の唐辛子ダレが効きすぎたのか、狼男さんの体温が急上昇。マントの下から、もふもふとした灰色の体毛が溢れ出し、指先からは鋭い爪が伸び始める。彼の周囲だけが、真夏の熱帯夜のような熱気に包まれた。
「ほっほほ。これはこれで、血行が良くなって良いわい」と、ぬらりひょんさんは寛いでいるが、他の客はぐったりし始めている。
特に、暑さに弱い雪女さんは、頬をほんのり赤く染め、座敷の隅でぐったりとしてしまった。
「あ、暑い……溶ける……故郷の万年雪が恋しい……」
その瞬間、彼女の身を守るための防御本能か、その体からブリザード級の冷気が、ぶわりと放出された
狼男さんの灼熱のオーラと、雪女さんの絶対零度の冷気が、店の中心で激突する。
恐らく、あまりの湿度と熱気に誤作動を起こしたのだろう。火災報知器が甲高い警告音を発する。店内は一寸先も見えぬほどの濃霧と甲高い警報音に包まれた。
「おい!わしの酒が見えんぞ!」
「きゅうりはどこだー!」
霧の中で、常連たちの阿鼻叫喚が響き渡る。私は慌てて旧式の扇風機を持ち出したが、非力な風は濃霧をかき混ぜるだけで、全く効果がない。
「ええい、騒がしい! 酒がまずくなるわ!」
その時、梁の上で静観していた烏天狗さんが、苛立たしげに一喝した。そして、自慢の翼を、一度だけ、力強く扇いだのだ。
びゅう、という風切り音と共に、突風が店内を吹き抜ける。濃霧は、まるで意思を持ったかのように一塊になり、換気扇へと吸い込まれていった。
霧が晴れた後。そこには、体毛が綺麗に逆立った狼男さんと、全身にうっすらと霜をまとった雪女さんが、なぜかスッキリとした顔で向かい合っていた。
「お前の冷気、なかなか骨身にしみるじゃねえか」
「あなたの熱気も、悪くない暖かさだわ」
二人は互いを認め合ったように、不敵な笑みを交わす。
やがて夜も更け、二人は妙に気が合った様子で、連れ立って帰っていった。
「雪女、今度の満月は、一緒に高台で月見でもどうだ。俺の毛皮を貸してやる」
「ふふ、いいわね。月の光で凍らせた、特製の氷菓子を持っていきましょうか。でも、寒くなっても文句を言わないでね」
その背中を見送りながら、私は床に残った水滴(溶けた霜)と焼肉の油を拭き、店の中央で一人ごちた。
「……熱いも冷たいも、不思議と惹かれ合うもの、なのかなあ…?」
店の温度計は、不思議なことに、きっかりと平温を指していた。
本日もご来店、誠にありがとうございました。
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