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第七話 一反木綿とぬらりひょん

「からんからん」と、戸口に提げた鈴が乾いた音を立てる。

夜もとっぷりと更け、人通りも完全に途絶えた頃合いだ。うちの常連さんもそろそろやってくる頃合いだし、暖簾を出そうかと考えていただけに、この来客は予想外だった。


「おや、いらっしゃ……」


言いかけて、私は言葉を呑んだ。そのお客様は、当たり前のような顔でそこにいた。カウンターの最も奥、いかにも自分がこの店の主であるかのような尊大な顔で、ぬらりひょんさんが、当然のようにお気に入りの席に腰を下ろしていた。


「おう、店主。今夜はちと冷えるな。熱燗を一本、煮込みも頼む」


すっかり店の顔役といった口ぶりだが、私がこの神出鬼没の常連さんを断れるはずもない。

そのぬらりひょんさんの頭上から、ひらひらと白い影が舞い降りてくる。


「よっとっと…」


一反木綿さんだ。薄布の体をたゆたわせながら、ふわりと空いた椅子に腰掛ける。腰があるのかは甚だ疑問だが、見事にそこに収まっているように見える。


「店主さん、こんばんは。今日は甘いものが食べたいな。ほら、こないだの私の誕生日会、燃えちゃってケーキが台無しになっただろう? あのリベンジさ」


……居座るのが得意中の得意な客と、漂うのが得意な客。どちらも今夜は長居する気満々、絶対に“帰らない”予感しかしない。とはいえ、寂しい夜よりはよっぽどいい。私は苦笑しながら「はいはい、今お持ちしますね」と調理場へ向かった。


ぬらりひょんさんには熱々の煮込みと小鉢を、一反木綿さんには黒蜜をたっぷりと掛けたあんみつを。湯気の立つ徳利を差し出すと、ぬらりひょんさんは満足げにぐいっと杯をあおり、ふうと長い息を吐いた。


「これだよこれ。冬の夜の静寂っていうのは、こういう一杯のためにあるのさ」


一反木綿さんは、ガラスの器に盛られたあんみつを見て、嬉しそうに身体をふわふわと揺らしている。


「やっぱり甘いものはいいねぇ。きゅうりも好きだけど、こういうのは心が安らぐよ」


静かな店内で、二人はぽつりぽつりと話し出す。先に愚痴をこぼしたのは、一反木綿さんだった。


「聞いておくれよ、ぬらりひょんさん。最近、人間界での扱いがひどいんだ。“あら、素敵なデザインのタオルだわ”だの“お洒落なカーテンね”だの言われるのはまだマシな方でさ。この前なんか、路地裏で雨宿りしてたら、子供に“うわー!汚ねえ雑巾!”って笑われてね。挙句の果てに、お掃除ロボットに吸い込まれそうになったことすらあるよ」


布の端が、しゅんと力なく垂れ下がる。

すると、ぬらりひょんさんは煮込みの豆腐を崩しながら、可笑しそうに頷いた。


「私も似たようなものじゃよ。この前、いつものように夕食時にとある屋敷に上がり込んでやったんだ。昔なら、それだけで家中の者が震え上がったもんだがね。今じゃあどうだ。『あら、おじいさま。どちらから?ささ、どうぞこちらへ』と、ごく自然に食卓に通され、当たり前のようにテレビのリモコンを渡されたわ。『今日の時代劇は面白いですよ』などと勧められてな。もはや恐怖の対象ではなく、“ただの厚かましい居候じいさん”じゃ」


そう言って、彼は肩をすくめてみせた。


「肩書きなんて、時代が変わればそんなものよ」

「だよなぁ」


二人はしみじみとした顔で、杯とあんみつの匙を、カチン、と合わせた。


和やかな空気が流れていた……のだが、やはりこの店で何事もなく夜が終わるはずはなかった。

一反木綿さんが、昔の武勇伝を語るうちに調子に乗って、ぴらぴらと店内を舞い始めたのだ。


「俺も昔はこうやってな、闇夜からすーっと現れて、旅人の首に巻き付いてやったもんさ!」


酔いが回ったぬらりひょんさんも、「おお、やれやれ! その調子だ!」と煽るものだから、もう止まらない。


ふと、舞い上がった一反木綿さんの端が、天井から吊るされた紙提灯に、ふわりと絡まってしまった。

ぼっ。

小さな音と共に火の粉が散り、乾いた布が一瞬で赤く染まる。


「ぎゃっ、また燃えてるーっ! デジャブだ!」

「お主、本当に火と相性が悪いな!」

「言ってる場合か!」


「お二人とも落ち着いて!すぐに消しますから!」


私は慌てて水桶に手を伸ばしたが、それより早くぬらりひょんさんが動いた。


「ほっほっほ、この程度の火、この老いぼれの知恵で消し止めて進ぜよう」


彼は自分の飲みかけの熱燗を手に取ると、燃え盛る(?)一反木綿さんめがけて、ぴしゃりとかけたのだ。


「ぎゃあああ! 熱い! 酒臭い! しかも火が強くなった!」


アルコールで炎は勢いを増し、一反木綿さんは火だるま(火だる布?)になって店内を飛び回る。


「ええい、ままよ!」


私は結局、水桶の水をぶちまけた。幸い、燃え広がる前に消し止めることができたが、店内は一瞬にして水と酒の匂いで満たされた。


一反木綿さんは、ずぶ濡れで焦げ跡のついた体をしゅんと縮こまらせている。


「……ごめん。俺、どうにも火を見ると興奮しちゃうみたいで……」


ぬらりひょんさんは、さも自分が消し止めたかのような涼しい顔で、新しい杯を傾けている。


「まあ、失敗も愛嬌というものよ。おまえさんは、そうやってドジで間抜けな、おまえさんのままでいいのさ」


その言葉に、一反木綿さんの濡れた布が、少しだけふわりと持ち上がったように見えた。


夜もすっかり更け、店も静かになる。

ぬらりひょんさんは最後の酒を飲み干し、すっくと椅子から立ち上がった。


「さて、今夜もよい酒だった。ごちそうさん、店主」


一反木綿さんも立ち上がる……というより、ふわりと漂い上がる。焦げ跡は痛々しいが、その動きにはどこか吹っ切れたような軽やかさがあった。


「私も、少し胸を張って漂ってみるよ。雑巾でもカーテンでも、私は私だからね」


二人は妙に息の合った様子で、まるで長年の相棒のように肩を並べて、夜道へと消えていった。

その背中は、大妖怪でも、ただの布でもなく、ごく普通の、少し寂しがりな常連客の背中に見えた。


私はカウンターを拭きながら、ぽつりと心の中でつぶやいた。


……威厳がありすぎても、存在感が薄すぎても、人は寂しいんだなあ。結局、みんな自分の『居場所』を探して、この店にたどり着くんだろう。


暖簾を下ろすと、外はもう明け方。

あやかし居酒屋の夜は、今日もまた、少し焦げ臭く、そして温かく幕を閉じた。


本日もご来店、誠にありがとうございました。

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