第六話 魔女と河童
その夜の騒動は、店の暖簾をくぐるより少し前から始まっていた。
「ですから、この箒は私の正式な移動用の乗り物でして、決して不審物では…」
「うーん、でも道路交通法だと軽車両扱いで…いや、航空法かな…?」
店の前で、黒いとんがり帽子を被った魔女さんが、困り果てた顔で巡査の職務質問を受けていた。そこに通りがかったのが、きゅうりの一本漬けを片手に上機嫌で歩いていた、うちの常連の河童さんだった。
「おっ、お巡りさん! やめてやってくれ! その人は、俺の遠い親戚の…ま、魔女っ子だ! 今日は俺ときゅうりパーティーの約束があってな!」
初対面のはずの魔女さんの肩を馴れ馴れしく組み、河童さんは得意げに胸を張る。巡査は呆れた顔で二人を見ると、「はいはい、ご迷惑にならないようにね」と去っていった。
「助かったわ、ありがとう。…ええと、河童さん?」
「おう! 礼には及ばねえぜ! それより、本当にきゅうりパーティー、どうだい?」
かくして、「からんからん」と戸の鈴が鳴り、またしても妙な取り合わせのお客様がご来店と相成った。
「いらっしゃいませ!」
魔女さんはカウンターに腰を下ろし、杖をそっと椅子に立てかけると、私に軽く会釈した。
「初めまして。疲れが取れる薬草のスープをお願いできるかしら。ペパーミントとカモミールをベースに、少し木の根を何か加えていただけると…」
「はい、特製ハーブスープですね。お任せください。」
帽子の影からのぞく目は、心なしか赤い。きっと苦労が多いのだろう。
一方の河童さんは、腹をポンポン叩きながら元気いっぱいだ。
「俺はいつもの、きゅうり尽くしの漬物盛り合わせ! 一本漬けに、胡麻和え、梅肉和えも欲しいな! あと、相撲の塩!」
皿の水がこぼれるんじゃないかと毎度ひやひやするが、本人は全く気にしていない。
厨房で手早く用意した湯気を立てるスープと、瑞々しいきゅうり料理を出すと、二人は同時に深いため息をついた。そして、自然と愚痴大会が始まった。
「近頃は人間界で『本格的すぎるコスプレ魔女』と間違えられてばかりなのよ」
魔女さんは匙をくるくる回しながらぼやく。
「薬草を売ろうとしたら、無許可の健康食品業者だって通報されるし、今日もこのお店の噂を聞いて飛行機で来たんだけど、入国カードの職業欄に正直に『魔女』って書いたら、税関の別室送りよ。使い魔の黒猫は検疫で三週間足止めだわ」
河童も負けじと、きゅうりをかじりながら語る。
「俺なんか川で甲羅干ししてたら、子供たちに『見てー! お寿司のCMの撮影だー!』ってスマホで追いかけ回されてさ。寿司じゃねえっての! しかも最近の川はコンクリートで固められてて、相撲を取るにも足場が悪くてかなわん!」
「わかるわ」「だよなー!」
二人は互いの不遇を嘆き合い、あっという間に意気投合したようだった。
――なるほど、“時代にずれた者同士”というわけか。
ところが次の瞬間、魔女さんが薬草を取り出そうと袖をごそごそさせた拍子に、小さなガラス瓶を床に落としてしまった。床に転がると、河童さんが持ち前のすばしっこさでひょいと拾い上げる。
「おっ、これは面白そうだ! きゅうりの新種のエキスか何かか!?」
「待ちなさい! それはまだ試作品の『万物変身薬』で、効果が全く安定しないのよ!」
魔女さんが止める間もなく、河童さんは好奇心に負けて瓶の蓋を引っこ抜いた。
シュウウウウ……!
熟れすぎたメロンと湿った靴下を混ぜたような、甘ったるくも不快な匂いの緑色の煙が、もくもくと立ち上り、たちまち店内を満たしていく。
「うげっ!?」
煙をまともに吸い込んだ河童さんの体が、ぴょこんと一瞬跳ね上がると、見る見るうちに縮んでいき――緑色のヌメっとした、一匹の大きなカエルになった。
「ゲロゲロゲロッ!」
カウンターの上を飛び跳ね、徳利を倒し、つまみを散らかしながら暴れ回るカエル河童さん。長い舌を伸ばして、天井の魔晶石ランプに巻き付こうとしている。
「ちょっと! 大丈夫!?」
魔女さんは慌てて杖を構え、呪文を唱えた。
「姿よ戻れ、精霊の御霊よ、我に力を!かの者の魂の安寧を取り戻させたまえ!」
紫の光が走り、カエルの姿は人型に戻る……が、今度はカバのように巨大化し、店の天井に頭をゴツンとぶつけた。店がミシミシと軋む。
「あら、呪文の配合を間違えたかしら。えーと…精霊の御霊よ、かの者の魂を鎮めたまえ!」
再度呪文を唱えると、巨大化した河童さんの頭に、なぜかアサガオの花が咲いた。
「もう! こうなったら奥の手よ!」
魔女さんが杖をぶん回すと、ようやく河童さんの姿は元に戻ったが、今度は三歳児ほどの大きさに縮んでしまっていた。
「おーい! 店主ー! カウンターの向こうが見えねえぞー!」
カウンターの椅子にちょこんと座る、子供サイズの河童さん。本人は妙に楽しそうに短い足をぶらぶらさせているが、私は頭を抱えた。
「まったく、ここのお客様は本当に……」
私は厨房へ走り、デザート用の水まんじゅうを皿に盛って持ってきた。
「ほら、お子様はこれでも食べて落ち着いてください」
子供河童さんは「おう!」と元気よく返事をすると、水まんじゅうをぱくりと一口。冷たい甘味がよほど気に入ったのか、ようやくぴょんぴょん跳ねるのをやめた。
魔女さんは肩を落として、すっかり冷めたスープを啜った。
「あらあら……私もまだまだ修行が足りないわね。次はカエルじゃなくて、もっと可愛いリスになる薬でも作ろうかしら」
「やめてください、店の備品がこれ以上犠牲になるのは勘弁です」
私は笑いながら即答した。
子供姿の河童さんは、小さな手できゅうりの胡麻和えをつまみながら、ケラケラと笑った。
「でも、これはこれで悪くないかもな! 子どもの方が人間に馴染みやすいし、これなら小学校にだって紛れ込めそうだぜ!」
「あら、いい考えね! じゃあ私が保護者としてPTAに参加するわ!」
「ぴーてぃーえーって何だ? きゅうりの品種なのか?」
二人は顔を見合わせて、またケラケラと笑った。
私は手ぬぐいでカウンターを拭きながら、小さくつぶやく。
「……まあ、本人たちが楽しそうなら、それでいいか。お客様には違いないし。」
やがて夜明けが近づき、魔女さんと、彼女に小さな手を引かれた子供河童さんは、仲良く肩を並べて帰っていった。
私は静かにのれんを下ろし、明かりを落とす。今日もまた、実に妙な取り合わせの、しかしどこか温かい夜だった。河童さん、元に戻れるといいけれど。
本日もご来店、誠にありがとうございました。