第四話 ぬらりひょんと烏天狗
からん、からん。 普通のお店が寝静まる頃、今夜も入り口の戸が乾いた音を立てる。この音は、人ならざるものが私のささやかな店の暖簾をくぐった証。今宵もまた、馴染みのお客様がいらっしゃったようだ。
「いらっしゃいませ」
静かに障子戸を開けて姿を現したのは、見慣れた二人連れだった。 一人は、どこにでもいそうな好々爺といった風体の老人。しかし、その一挙手一投足には、老獪で怪しげな雰囲気が霧のように纏わりついている。あやかしの中でもかなりの古株、ぬらりひょんさんだ。 その傍らには、黒い翼を背に抱えた、修験者のごとき威容の男。鍛え上げられた体躯を山伏の装束に包み、その鋭い双眸は夜の闇よりも深い。鞍馬の山を守護する、誇り高き烏天狗さんだ。
「ほほう、ここが噂の店か。なかなか風情があるではないか」
ぬらりひょんさんが、初めて来たかのような軽口を叩きながら、当たり前のように案内も待たずにお気に入りの席へと腰を下ろす。何とも厚かましいが、その厚かましさこそが、彼の彼たる所以だ。
「何度来ても同じことを言う。相変わらず厚かましいな」
烏天狗さんが、岩のように動かぬまま、深いため息を吐いた。
「お二人とも、いつものものでよろしいですか?」
私の問いに、ぬらりひょんさんが満足げに頷く。
「うむ。わしは熱燗を二合。それから珍味をいくつか見繕ってくれ。酒盗に烏賊の塩辛、それから自家製の糠漬けも頼もうか」
「私は山菜そばを。他に山の恵みがあれば、それも添えてほしい」
人の世の酸いも甘いも啜ってきたぬらりひょんさんと、ただひたすらに己が道を突き進む烏天狗さん。その注文は、正反対な二人の生き様そのものを映しているようで、私は思わず笑みをこぼした。
厨房で手際よく仕度を進めながら、聞こえてくる二人の会話に耳を澄ませる。それはいつもの、ぼやきと叱責の応酬だ。
「まったく、近頃は人の家に上がり込むのも一苦労よ。昔は縁側で茶でもすすりながら、勝手口で悠然と構えていればよかったものを。今じゃあどうだ。玄関の鍵にはややこしい番号を入れねばならんし、そこかしこに防犯カメラだの赤外線センサーだのが光っておる。警備会社の赤いシールが貼ってある家は、どうにも寝覚めが悪いわい」
ぬらりひょんさんが、徳利の酒をすするように愚痴をこぼす。
「誇りもなく、よくそんな真似ができるものだ。我らあやかしは、畏れられてこそ存在する意味がある。人の暮らしに媚びへつらい、残飯を漁る鼠のごとく立ち回るとは、堕ちたものだな」
烏天狗さんの言葉は、抜き身の刃のように鋭い。
「誇りなぞ、飯の種になるものか。おぬしのように、深山に籠って仙人暮らしができる身ならよかろうがな。わしは生き延びるためよ。変化する世の流れを読み、その隙間を縫って渡り歩く。それもまた一つの智恵というものよ」
「智恵と狡猾さを履き違えるな」
会話は次第に熱を帯びていく。これもいつものことだ。気にせず、料理を運ぶ。
「お待たせいたしました。どうぞ、ごゆっくり」
私は熱々の徳利と小皿に盛り付けた珍味、そして湯気の立つ山菜そばを何とか盆に載せ、二人の卓へ置いた。 ぬらりひょんさんは早速、猪口に注いだ熱燗をくいと傾け、「ふぉっふぉ」と満足げな笑い声を漏らす。一方、烏天狗さんは静かに箸を取り、そばを手繰り始めた。丁寧に採られたであろう山菜を噛みしめるたび、険しい表情がわずかに和らぎ、目が細められる。故郷の山の味なのだろう。
その時だった。店の外から、けたたましいカラスの鳴き声が夜気を引き裂いた。一羽や二羽ではない。縄張りを争う怒号にも似た、不穏な響きを孕んだ大群の声だ。
「……騒がしいな」
しばらくは静観していたものの、あまりの大合唱に烏天狗さんがぴくりと眉を寄せ、すっと立ち上がった。 彼が暖簾をくぐって外へ出ると、私もそっと様子を窺う。そこには息を呑む光景が広がっていた。月明かりを遮るほどの黒い影が、店の真上で渦を巻くように旋回している。狂乱の宴だ。 次の瞬間、烏天狗さんが背の翼を雄々しく広げた。闇をそのまま切り取ったかのような巨大な翼が、風をはらんで夜空を打つ。そして、腹の底から絞り出すような鋭い声で、空気を震わせながらひと鳴きした。 それは、ただの鳴き声ではなかった。闇夜に響き渡る、王の号令だった。 すると、あれほど狂おしく乱舞していたカラスの群れが、まるで潮が引くように統率を取り戻し、一斉に闇の彼方へと散っていく。あっという間に、元の静寂が戻ってきた。
「……まだその威厳は、衰えておらぬのだな」
一部始終を見ていたぬらりひょんさんが、手元の猪口を弄びながら、感心したように、あるいは少しばかり羨むように呟いた。 店に戻ってきた烏天狗さんは、何も言わずに席に着く。
「守るべきものを、守るだけだ」
短くそう答えた彼の横顔は、揺るぎない誇りに満ちていたが、その奥には孤独の色が滲んでいるように見え、その言葉もどこか寂しそうだ。
それからしばらく、二人は静かに盃を交わしていた。先ほどまでの刺々しい空気は、幾分か和らいでいる。 やがて、ぬらりひょんさんがぽつりと言った。
「時代は変わる。そして、我らも変わらねばならん時もあろう。わしのような生き方しかできぬ者もいれば、おぬしのように、決して変わらぬものを守り続ける者もいる。どちらが正しいというわけでも、ないのかもしれんのう」
それは、彼の流儀からすれば、最大限の歩み寄りだった。 烏天狗さんはそばの最後の一口を静かに啜ると、そっと箸を置いた。
「……認めよう。だが、この誇りだけは捨てぬ。これがなければ、私は私でなくなる」
一見突き放すような言葉だが、その奥底にはぬらりひょんさんへの信頼が滲んでいた。この二人も、恐らくは数百年の付き合いがあるのだろう。
やがて夜も更け、ぬらりひょんさんが心地よさそうに酔いを回らせながら、よろりと立ち上がった。
「さて、今宵はここまでにしておこう。勘定はツケといてくれ。次は花の頃にでも、また顔を出すとしようかの」
「その時もまた、極上の山菜を所望する」 烏天狗さんも静かに立ち上がり、軽く頭を下げる。
「はい、ぜひ。いつでもお待ちしております」
二人の背中を見送りながら、私の胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じていた。 ずる賢さと誇り高さ。狡猾な現実主義者と、孤高の理想主義者。水と油のように相容れない二人だが、こうして同じ卓を囲み、互いの流儀を認め合う姿は、どこか微笑ましい。 彼らのようなあやかしさんがいる限り、このお店を続ける意味があるというものだ。 東の空が、わずかに白み始めてきた。そろそろ店じまいの時間だ。 今日もご来店、誠にありがとうございました。