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第九話 キョンシーとイエティ

日本の夏、その夜はまるで、巨大な生き物の湿ったため息の中にいるかのようだった。ねっとりとした空気が肌にまとわりつき、遠くからはジジ、ジジ、と蝉の悲鳴にも似た断末魔が聞こえてくる。私の小さな居酒屋も例外ではなく、カウンターの上の醤油差しは汗をかき、客として涼んでいた河童さんの頭の皿は、みるみるうちに干上がっていく。


「からんからん」と、力なく戸が鳴った。


そこに立っていたのは、ヒマラヤの雪山から来た常連、イエティさんだった。しかし、いつもの堂々とした姿は見る影もない。自慢のもふもふとした純白の毛皮は湿気でぐっしょりと濡れそぼり、まるで洗濯を失敗した絨毯のようだ。彼は、はあ、はあ、と荒い息をつきながら、カウンターの席に倒れ込むように座った。


「いらっしゃいませ…って、大丈夫ですか!?」


「み、水……いや、氷を……山盛りの、氷を……」


その姿は、あまりにも痛々しかった。


その時、カウンターの隅で静かに薬膳茶をすすっていたキョンシーさんが、ぴたりと動きを止めた。彼の感情の読めない瞳が、ぐったりとしたイエティさんをじっと捉える。ゆっくりと、首がギ、ギ、ギ、と音を立てそうなほど硬直した動きでこちらを向き、そしてまたイエティさんの方を向いた。何かを決意したかのように、彼はすっくと(ただし、直角に)立ち上がった。


「おい、キョンシーさん、あんたも暑いのかい」と私が声をかけるより早く、彼は懐から一枚の黄色い霊符を取り出した。そこには、見るからに禍々しい、しかし達筆な文字でこう書かれている。


【急速冷却符】


「ま、待って、それはいくら何でも…」

私の制止も聞かず、キョンシーさんはぴょん、ぴょんと硬直した跳躍でイエティさんに近づくと、その分厚い毛皮の奥深く、首筋のあたりに、ぺたり、と霊符を貼り付けた。まるで巨大な毛むくじゃらの郵便ポストに、切手を貼るかのような光景だった。


最初は、心地よさそうな変化だった。


「あぁ……冷える」


イエティさんの苦しげな吐息が、すうっと涼やかな白い息に変わる。目の前に置いたお冷のコップの表面が、見る見るうちに霜で白くなった。


「おお、効くんだ、あれ…」


私が感心した、次の瞬間だった。

パキィィン!と、コップの水が音を立てて凍りつき、ガラスに亀裂が入った。イエティさんの毛皮の表面には、瞬く間に氷の結晶が広がり始め、彼は巨大な毛皮のかき氷のように、完全にカチコチに凍りついてしまったのだ。天井から滴り落ちた水滴が、彼の肩に当たって、カキン、と音を立てて弾ける。


「あ……」


キョンシーさんは、凍りついたイエティさんを、硬直した指先でつんつんと突いた。手応えは、岩のようだった。彼の無表情な顔が、心なしか焦っているように見える。


「キョンシーさん、完全に凍ってますよ!冷やしすぎです!」


私が叫ぶと、キョンシーさんは慌てて懐をまさぐり、今度は赤い文字で書かれた、さらに禍々しい霊符を取り出した。


【緊急解凍符】


彼は、凍りついたイエティさんの背中に、今度はためらいなくそれを貼り付けた。

シュゴォォォォッ!

凄まじい音と共に、氷が溶けるのではなく、一瞬で蒸発した。イエティさんの体は、今度は内側から赤く発光し始める。店の温度が急上昇し、窓ガラスが一気に曇り、カウンターの木材がじんわりと熱を帯びてきた。店内は、灼熱のサウナ状態だ。


「あづづづ! 皿が、皿が干上がる!」と河童さんが叫ぶ。


イエティさんの毛皮は、今や完全に乾ききり、まるで乾燥機にかけすぎた猫のように、異常なほどふわふわに膨れ上がっていた。


「今度は熱すぎますって!調整できないんですかそれ!」


私が叫ぶと、キョンシーさんは「あわわ」というように、今度は解凍符を剥がそうとする。だが、強力な霊力で貼り付いたお札は、びくともしない。パニックになった彼は、あろうことか、さらに別の冷却符を取り出し、イエティさんの腹に貼り付けた!


その瞬間、私の店は局地的な異常気象に見舞われた。

イエティさんの背中側は灼熱地獄、腹側は極寒の世界。その境界線である店の中心には濃密な霧が発生し、視界はゼロに。

「寒い!」「いや暑い!」「俺の熱燗がまたシャーベットになったぞ!」「きゅうりが煮えた!」

常連たちの悲鳴が、霧の中から木霊した。


「いい加減にしなさーーい!」


ついに堪忍袋の緒が切れた私は、厨房へと駆け込んだ。そして手に取ったのは、魔法の杖でも、ありがたい経文でもない。夏場の土用の丑の日に、鰻を焼くために使う、年季の入った巨大なうちわだった。


「えいっ!これで!少しはマシになるはず!です!」


私は、霧の中心で熱くなったり寒くなったりしているイエティさんに駆け寄ると、うちわで力任せに扇ぎ始めた。ばふっ、ばふっ、と、間抜けだが力強い風が、イエティさんの毛皮を揺らす。さらに、自分のために冷凍庫で冷やしておいた、人間用の冷却シートを一枚取り出すと、その広大な額に、ぺちん!と貼り付けた。


その瞬間、不思議なことが起きた。

うちわの風と、冷感シートの冷たさという、あまりにも現実的な介入が、神秘的な霊力のバランスを崩したらしい。イエティさんの体に貼られていた二枚のお札は、ぱちぱちと火花を散らすと、力を失ってひらひらと床に落ちた。


イエティさんの体温は、急速に正常に戻っていく。彼は一度、ぶるぶると身震いすると、何が起きたのか分からないという顔で、水浸しになった店内と、疲れ果てた私を見つめた。


キョンシーさんとイエティさんは、無言で顔を見合わせた。そして、深々と、(キョンシーさんはやはりどこか硬直した動きで)、私に頭を下げた。


次の瞬間、私から何を言われるでもなく、キョンシーさんは店の隅から雑巾を、イエティさんはその大きな手にバケツを手に取っていた。

その夜、私の店では、巨大な毛むくじゃらの雪男と、ぴょんぴょん跳ねるキョンシーが、並んで甲斐甲斐しく床を拭き掃除するという、世にも奇妙な光景が繰り広げられた。




まったく、うちのお客様は本当に手が焼ける。でもまあ、後片付けまでしてくれるなら、悪くはないか。


私は、二人のために、冷たい麦茶と、温かい薬膳茶を、そっとカウンターに置いてやったのだった。来年からは、もう少しエアコンの設定温度を下げてみよう。


本日もご来店、誠にありがとうございました。

Copyright@秋山水酔亭 2025

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