六章 ロストカラーズ・中編
その人は蒼い月あかりを浴びてパイプ椅子に座っていた。トラットリア「イル・クォコ」の休憩室には簡易的なテーブルとパイプ椅子が並んでいた。冷蔵庫のブゥンという振動音が静寂の中で響いていた。
あたしは緊張のあまり無意識に、ビールをごくりとラッパ飲みしていた。しまった、よく考えたらなんてガラが悪いんだろう。
窓を背にして座っている彼女の横に座った。同じ淡い光を浴びてみたかった。足がもつれて、パイプ椅子に倒れ込むように、大きな音を立ててしまった。みっともないったらない。顔が熱くなるのを感じた。
恥ずかしさを紛らわすように、あたしは顔も見ないでペラペラと謝罪の言葉を並べた。ひととのコミニュケーションを忘れてしまったかのようで目の前が暗くなる。思わずまた、ビールの瓶をスイングする。喉がまたごくりと音を立てた。
あたしは軽口を口走っていたと思う。なんで、話したいことはそんなことじゃないのに……。ボブヘアの店員さんはこちらをうかがうように見ている。なんて心配そうな目……。こんな目で見てくれるのって本当に何年ぶりだろう。話しているうちに彼女は十九歳の「典子さん」という名前だということが分かった。
あたしは、ようやく顔を、典子さんの顔をしっかり見つめることができた。
「改めて、ごめんなさいね、典子さん。あたしの連れ合いが失礼なことを言って」
さっき、咄嗟に夫の連れと呼んでしまった。そんなことは典子さんには関係ないのに、無意識に責任逃れをしようとした言い回しだった。この後に及んで、あたしは、そんなずるいことを考えているのかと胸が痛んだ。ホストの片割れとして謝罪したいと誓ったばっかりだったのに。あたしから出てくるのは、また軽口で情けなくなってくる。
彼女はいまだ心配そうにわたしを見たかと思ったら、こう言った。
「お客様は、旦那様のことが、その……あまりお好きではないのですか?」
──あたしが、夫を好きじゃない……?──そうか、あたし、夫に対してそんな感情を抱いていいんだ……。
あたしはいつしか、振る舞いを全部観察されるような錯覚に陥っていて、そんなことを表に出そうものなら、あたしの行動は「相応しくないもの」として激しくバッシングされると思ってた。
「うん、嫌い、夫もあの気持ち悪い取り巻きたちも」
思えば。あたしにも「嫌だ」という感情があるのを理解してくれたのは、彼女が初めてのような気がする……いいや、きっと初めてだった。あたしは言葉と一緒に涙がぽろぽろこぼれ落ちそうになるので、空を睨んだ。
「今日もいきなりパーティーに付き合わされた、あたし今夜はゆっくり休みたいって言ったのにさ、昨日もあいつに付き合ってクタクタだったのに。あいつは、あたしを見せびらかすことしか考えてないんだよ」
まるで台本でも用意されていたかのように、するすると言葉がこぼれおちた。身体にため込んだ毒が吐き出されるようだった。
はたと店員さん──典子さんを見る。目をぱちぱちさせて、言葉を失っているようだった。なんてことだろう、出会ったばかりの自分より十も若い子相手にあたしは何を……。
「なんで別れないのかって思う?」
咄嗟に取り繕ったが、なんであたしは、ふざけるようなことしか言えないのだろうか。でも、それでいいかもしれない。酔っ払った変な女が変なことを言って去って行っただけ、その方が、彼女は変なことを抱えずに済むだろう。
じっと典子さんの顔を見る。でも、何故だろう彼女にあたしの声を聞いて欲しかった。不格好でも思いついたことを。
「じゃあ、あなた、連れ去ってくださる?」
何かの映画で聴いたような言葉を吐いていた。自分でもなんだそれと思いながら、あたしはふらふらと立ち上がった。苦笑いを一つこぼす。子どもが母親の気を引くような態度だ、こんなの、あたしが一番嫌だって知ってるのに。
ドアを開けると、オーナーが柔らかく微笑んであたしを待ってくれていた。と、同時に万が一典子さんに何かあってはいけないから休憩室に気を配っていたのだろう。
「想いは伝えられましたか?」
彼は優しく目を細めてあたしに問いかけた。その顔を見たらぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「はい……はいっ……、謝ることはできました、でも変なことばかり言っちゃった……」
しゃくりあげると、軽く握った拳を眉間に当てる。肩を上下させるあたしを、オーナーはさりげなく人通りの少ないところへ誘導した。夫たちから一番遠いところだ。
「また、いつでもおひとりでいらしてください。プロシュートのご用意はいつでもありますよ」
あたしをなだめるようにオーナーはこう言った。……気づいてくれてたんだ。今のあたしにとって〝好きなものを食べていい〟という彼からのメッセージは、それだけでお腹が満たされそうだった。嗚咽が漏れそうになるから必死に声を押し殺して、チェーンクラッチから慌てて取り出したハンカチに顔を押し当てた。そのまま、何度も頷きながら、この場所では自分を取り戻せるかもしれない、そう思うと、呼吸が楽になっていく気がした。
社交辞令かもしれない。でも、そうでなければあたしはこのお店と……この空間と良き友でありたいと思った。
近所を散歩する。これはあたしに許された、数少ないアクションだった。
貯金の類は全部夫に管理されていた。あたしは「お小遣い」と称した少額のお金を渡されている。本革のハリボテのような財布に、いつの間にかお札が数枚、足されているのだ。余計なものを買うと、例えば夕飯の材料をスーパーで買って帰ると、家政婦さんの仕事に干渉することになるので、叱責を受けるのは彼女になる。それは絶対に避けたかった。
「必要なものは全部ボクが買うから」という言葉には嘘がないのだが、今ならそれは、自由を対価に払う前提だということが分かった。嘘はないが、穴がある。まるで悪魔との契約話みたいだ。
慣れた道をてくてく歩く。それでも、外を歩けるだけで良い気分転換になる。いつも、同じくお散歩中のワンちゃんたちとすれ違うのが、楽しみのひとつだが、今日はリードの色まで鮮やかに目に入る。赤が人気かな。よく見ると、ハイブランドの首輪をつけたワンちゃんもいて、わくわくした。次に会うワンちゃんは何色のどこの首輪をしてるんだろう。風が暖かくなってきた。あたしは頬で受け止めてそれを感じていた。次に、手を軽く伸ばし、全身に浴びる。冬の尖った空気も滑らかになってきた。散歩ってこんなにたのしかったっけ。足取りが軽くなる。
足元にヒナゲシが咲いている。舗道のタイルの隙間から一輪、力強く頭を出していた。以前なら気に留めなかったと思う。でも今はそのオレンジがとても綺麗に見えて仕方がなかった。虞美人草と呼ばれる理由を、中学生の時に国語の先生が教えてくれた。詳しいことは忘れてしまったが、虞姫と呼ばれる女性と、昔の中国「楚」の武将の話だった。でも、もし死んでその名が花に咲くなら、──やってやったな、と思う。
あたしは、口の端を持ち上げて小さく笑いながら、座り込んで、まるで話しかけるようにヒナゲシをじっと見ていた。愉快といった心地で、全身の筋肉が緊張から解きほぐされるのを感じる。おかしな女と思われようが構わない。
──おかしな女か、典子さんにも、イル・クォコの店員さんにもそう思われただろうな。
もし、もう一度会えたなら、今度こそ、ちゃんと話せるかな。素直な自分を見せることができれば、あるいは……小さな予感が胸をかすめる。新学期、知らない顔ばかりのクラスメイトを見たときのあの感覚だ。
イル・クォコまでタクシーで何分かかるだろうか、スマホを取り出す。GPSが作動してるだろうが知ったことじゃない。夫が監視していようがそれがなんだと今なら思える。あたしもその感情は知っている、昔、実家で飼っていたわんこが、家から逃げて帰ってこなくならないか、心配で仕方なかったよ。でも、大丈夫、あたしは帰り道ならわかってる。財布の中身を見て、計算する、往復のタクシー代とランチの代金。全部ネットで調べられるのがありがたい。
お札を数える手が震えた。それが何円札か慎重に何度も確認する。汗で指が3Dホログラムの肖像画に張り付く。
──足りる。ドクドクと心臓が脈打つ、今日行ったって彼女に会えるかわからない。けど、あたしは気がついたら、タクシーに飛び乗っていた。シートに体重を預けると、思いの外、身体が軽くなった。「散歩だろうと、ご近所さんの目があるから、ちゃんとした服を着ろ」という夫の言葉のおかげで、あたしは東京の街に溶け込めた。ざまあみろ。
典子さんは、あたしに「ノッコちゃん」と呼ばれることを許可してくれた。あたしのことを「薫さん」と呼んでくれた。この街の狭い空が青い。さっきまでいたガーデンの緑と混ざり合ってエメラルドグリーンのように見えた。
腹ごなしじゃないけど、少し歩いた。レッドカーペットの上のように浮かれて。ノッコちゃんが主役で先を行ってくれるから、あたしは助演としてついて行ける感じ。
レモネード、透明で少しだけ白く濁って、黄色で酸っぱくて甘かった。アマトリチャーナ、イタリアンパセリがソースの補色になってて綺麗。パンナコッタにはカットしたグリーンキウイが乗ってた(オーナーは、あたしの好きなフルーツ、覚えてくれてた)これ、全部あたしが選んで食べた。
あたしは失った色を取り戻していくのを、ひしひしと感じていた。
石の檻のような家に戻る。家政婦さんが目を丸くしてあたしを見たが、すぐに逸らす。お昼はいらないと連絡はしたが、あたしが「無断外出」しようものなら、叱られるのは彼女だ。そうやって、あたしを見張らせるなんて残酷すぎる。しかし彼女は告げ口などはしないだろう。それが善性に依るものなのはもちろんだが、夫に叱られないためならあたしもそうして欲しい。交わす言葉は少ないが、彼女とは夫という共通の敵と戦う戦友のようだった。
指示から漏れた、細々とした家事を回収していると夫が帰ってくる。そして、当然のように腕を突き出してくる。スマホを寄越せという合図だ。あたしは何食わぬ顔でそれを渡す。
「この場所……イル・クォコか?何しに行ったんだ」
小さな端末を睨みつけたまま、顔をしかめ、一通りチェックすると、ドスを効かせた棘のある声で白々しく尋ねてきた。どうせ、アプリで逐一あたしの位置情報を取得してるくせに。
「ランチに行ったんだよ、ひとりでね。大丈夫、家政婦さんには連絡したから。明日のお昼用にお弁当にしてくれたよ」
あたしは、家政婦さんを名前で呼ばない。情が沸くと寂しいから。
夫は「そんなことを訊いているんじゃなくて……」とブツブツ言う。いつもなら、意味もなく謝っていたかもしれない。でも今はまっすぐ前を向く。スーツを乱暴に脱いで、わざと大きな音を立ててお風呂場へ行く夫。イライラが伝わってくるけど、機嫌を取ろうとは思わない。もう、ネットの閲覧履歴も消さない、このひとに怯えて、こそこそするなんて、まっぴらだ。
イル・クォコには自分で稼いだお金を使いたかった。
後ろめたいからだ。どんなに楽しくこの場所で時間を過ごしても、それが「夫から施されたお小遣い」で成り立っていると考えると、胸に冷たい水が流れ落ちるようだ。なにより、あたしの気持ちの問題が一番大きいけれど。
今まで何度話しても平行線だった話をしてみようか。看護師に復職する話だ。夫は自分が招待されたパーティやイベントに、妻が同行するのも立派な仕事だから、他に仕事はするなといつも言う。だけど、それって古くさい価値観だとあたしは思う。げんに、この間のイル・クォコでのパーティでも、妻を連れてきていた人なんて、他にいなかった。夫は柔軟な思考ができない、今世間で「アップデート」していかなければいけないと言われていることにも、いつも文句を言っている。例えば「人の容姿をあれこれ言わない」ということにも、「可愛いものに可愛いと言って何が悪いんだ」と腹を立てていた。
このひとの数少ない自尊心を満たすものは「美人な奥さんですね」という褒め言葉なんだろう。だから、それがなくなると困るんだ。
重いため息をつきながら、リビングでくつろぐ夫の様子を窺う。家政婦さんが用意したワインを軽くひっかけて、テレビを見ていた。ガハハと笑い声を上げながら、カマンベールチーズを摘んだ。機嫌が良さそうだ。本格的に酔っ払う前に話を切り出してみようか。
「どうして、またお前は働きたいなんて言いだすんだ、しつこいな」
さっきまでの上機嫌はあっという間に消え失せた。火がついたように顔を真っ赤にして声を荒げる。あたしは笛吹のやかんを思い出す。
「欲しいものなら、なんでも買ってやると言ってるだろ、そんなに金が欲しいのか、ボクの稼ぎじゃ満足できないって言うの?」
「お金が欲しいんじゃないってば、何度も言うけど、看護師って今人手不足なんだよ、せっかく資格を持ってるんだから、貢献したいと思う」
自分でも感覚が麻痺する。あたしの言ってることはおかしくないと思う。でも、いつもあの手この手で否定されるから、なにか間違ったことを言ってるんじゃないかと思えてくる。
すると夫は鼻で笑ってこう続けた。
「お前は鈍臭いんだから、今さら復帰したって足手まといだろ。だいたい、血が怖いくせに」
頭に血が昇るのを感じた。握りしめた拳に汗が滲む。血が怖いとは、あたしはスプラッタ映画が苦手なことを言っているの?フィクションと現実を同列に語っている?だいたい、あなたの入院中、採血は誰がやっていたと思っているんだろう?
戦意喪失とはこのことをいうんだろうか、もっと言いたいことはあったはずなのに、もう口を開きたくない。
夫はそんなあたしの様子を見ると、勝ち誇ったような顔を見せた。チーズを持ち上げると、テレビの方に向き直り、またガハハと笑い声を上げ始めた。
財布をのぞく。タクシー代しかない。
だけどあたしは、タクシーに乗っていた。イル・クォコなら受け入れてくれる気がして。錯覚かと思っていたのに、オーナーは本当にガーデンに通してくれた。
タクシーを降りると、トマトとガーリックが鼻先をくすぐる。このお店からはいつもこの良い香りがした。オーナーが守るこの店と味の香り。くすんだ赤レンガの上には抜けるような昼下がりの青空が広がっていた。
ふらふらと歩きながら門をくぐると、オーナーが庭木の手入れをしていた。庭師さんを呼んでいるらしいが、オーナーができる範囲では、こうして自分でお世話をしているらしい。ガーデンに対する深い愛情を感じた。
「あの、今日はお金を持っていなくて……その、じゃあなんで来たかっていうと、あの……」
オーナーと視線が合うと、あたしはしどろもどろと言葉を探した。オーナーは持っていたジョウロを置くと微笑んでこう言った。
「せっかくいらしたんです、ガーデンだけでも見学していきませんか?」
お店は今、中休みらしくお客さんはいなかった。いつもは、革張りの赤いソファに賑やかな笑い声が座っているが、今日はしんとしていた。でも、この静寂は嫌じゃない。店内をすり抜け、ガーデンへと案内される。
「本当にいいんですか、今って中休みですよね……」
「かまいませんよ、ただ常連さんだけへのサービスなので、くれぐれもご内密に」
そう言うとオーナーは悪戯っぽく笑った。あたしに気を遣わせないための軽口だ。
オリーブとラベンダーが並んで立っている。かさかさと風に揺れる音とともに爽やかな香りがした。レンガ沿いに歩くとハクモクレンの花が見えた。ノッコちゃんと一緒に見た、クリーム色した妖精のドレス。
「まだ咲いていたんですね」
あたしが思わず口にすると、
「はい、いい時期にきましたね」
とオーナーが答えた。
そのモクレンの下のアイアンテーブルに促される。木漏れ日を受けながら、椅子に座ってボーッとしていたら、オーナーがティーセットを運んできた。
「あの、今日は本当にお金が……」
「よろしければ、試飲してくれませんか、薫さん。ガーデンで採れたハーブがいい感じに乾燥されましてね」
そう言われては断れない。あたしはご厚意を受けることにした。黄金色のハーブティーがカップに注がれる。
お礼を言って、一口啜ると、スーッとする清涼感が口と鼻に広がる。同時に酷く暖かさを感じて、あたしは自分で思っていたよりも、身体が冷えていたことに気づいた。
「それでは、ごゆっくり。あいにく今、女性店員がいなくて……おひとりにさせてしまいますが、好きなだけいてくださいね、何かありましたらご遠慮なくお申し出ください」
にっこり笑ってオーナーは店内に帰っていった。ポットにはなみなみとハーブティーが入っていた。
女性店員がいないから、という言葉は、あたしが男性だけだと、同じ空間にいるのが怖いということを理解してのことだろう。そういうと「男性というだけで怖がるとは失礼だ」と怒る人ばかりだったので、心からありがたかった。確かに、普通はそうかもしれない。この場合、ジェンダーハラスメントに該当するんだろうか。でも、怖いものは怖い。これはあたしの心が自然にそう動いてしまうので、止めようがなかった。
木々のざわめきを聴きながら、目を閉じる。するとハーブの香りが際立つ。ありがとう、ハーブティー美味しかったよ。まぶた越しでも緑に染まった木漏れ日を感じるようだった。このまま目を閉じていたら、このガーデンと一体化できるかな。
東京でも鳥はさえずるんだね。
閉じた目の中で、光がうねうねと畝り、今自分がいる場所が夢か現実かわからなくなってくる。それともあたしは今本当に眠っているのだろうか。すると、澄んだ声があたしの名前を呼んだ。
また、ノッコちゃんと会えた。
いつの間にか、ディナータイムになっていたのか、彼女の出勤時間になったのだろう。ガーデンまで迎えにきてくれた。あたしは一瞬で浮かれた。例えば、そこにいるはずがないと思っていた、大好きな友達と、街中でばったり会えたような。
でも、あたりを見渡すと、うっすらと暗くなっていて焦る。一体どれだけの時間、ここで目を閉じていたのだろうか。
なんだか信じがたい展開になってしまった。ノッコちゃんからモデルを申し込まれてしまった。ファッションデザイナーの勉強をしているとは聞いていたけど、どうしてあたしがモデルなんだろうか。
あたしは、咄嗟に「引き受けるにしてももっとお互いの事を知らなくちゃ」と言っていた。引き受けることが出来ないと即答できなかった。だって、絶対夫は許しはしないのに。どうして?
今度、お互いを知るために、イル・クォコで会うことになったが、この代金は絶対にあたしが払いたかった。あたしの稼ぎで。
でも、あたしの稼ぎといえば、ひとつしかない。看護師時代の貯金だ。それも夫が管理していたが、その在り処に心当たりがある。夫は大事なものを書斎の金庫に集める癖があった。パーソナルスペースの鍵がかかる場所。完全な安全地帯と思い込んでいるのだろう。バレてないと思っているのかな。
今、家政婦さんはお風呂掃除をしてくれている。ありがたいことに彼女は丁寧に磨き上げてくれるので、それなりに時間がかかる。やるなら今しかない。
あたしは、極力音を立てず、廊下を滑るように渡り、夫の書斎に入った。シャワーの音が聞こえるので、それに気を配っておく。バスルームは寝室を挟んだ横にあるので、耳を凝らすと微かに聞こえる。
まずは夫の机の引き出しを開けて、金庫の鍵を探す。どれだか分からなかったので、鍵の形をしたものを全て鷲掴みにする。手が震えて、カチャカチャと音が立つ。こめかみに汗が伝う。自分の通帳を取りに来ただけなのに、なぜこんなに緊張しなければいけないの、コソコソしなければならないの。……罪悪感を持たないといけないの?
クローゼットをそっと開けると、金庫があった。旅館にあるような据え置きではなくて、手提げ金庫だ。さっき持った鍵を、一つひとつ鍵穴にはめていく、汗で滑って無駄に時間を食う。すると、足音がこちらに近づいてくるのに気づいた。あたしは、叫び声を飲み込んで身をひそめる。鍵を回すのに必死で、シャワー音が途切れたことに気づかなかった。トン……トン……トン……一定のリズムが通り過ぎていく。廊下を抜け、パントリーに重曹を取りに行ったのだろうか。彼女は料理用と掃除用のそれを分けていない。必要な分だけを小さなポリ袋に分けてバスルームに持っていく。
あたしは、いまだに身をひそめて動けないでいると、また、一定のリズムで彼女の足音が響く。心臓の音でバレるんじゃないかと冷や汗をかく。いや、バレたとして、自分の通帳を取り返して何が悪いんだ。
それでも、寝室には寄らないでくれと祈る。気分がすぐれないので寝室にいると言ってあるから。耳を凝らすとまたシャワー音が聞こえ始めた。ホッとしている場合じゃない。ようやく鍵を探し当てると。金庫を開けた。暗証番号を入力するタイプでなくて助かった。
すると、なんだか見覚えのある封筒が入っていた。あたしが、昔、夫に宛てた手紙だ。誕生日に贈ったブックカバーや、スチール製の栞なんかも入っていて、胸がざわつく。夫は、あたしに対してどんなチグハグな感情を抱いているの?苦虫を噛み締めながら、それらを退けると、これまた見覚えのある通帳が入っていた。「村瀬薫」あたしの旧姓が書いてあった。
あたしは、ゆっくりと持ち上げると、体の力が抜けていくのを感じた。残りの力を振り絞って、カードと銀行印も回収した。これと身分証があれば、万が一、夫が何か手を加えていても、手続きをすればまた使えるようになるだろう。
夫から見たら、端金でしかないこの貯金額。それなのに、あたしから奪ったのは、あたしの自立が気に入らないだけだ。あたしは、堂々と、寝室ではなく自分の部屋に戻った。自分の家なんだから自由に移動したっていいじゃないか。
部屋に着くと、夫が絶対に見ないであろう場所に通帳を置いた。ネットバンキングも開設しようか。夫はあたしが何もせずに家にいると「余計な知恵を身につける」と思わないのかな。
イル・クォコのガーデンでアフタヌーンティーができるのを教えてくれたのは、義理の両親だった。義父は威厳があって、義母は凛として品があって、でも、やわらかい雰囲気もあって良いひとたちだった。高級感よりも家庭的な空間、それでいて確かな味のこのお店を心から気に入っていたようだ。
ガーデンをわざわざ貸し切ってくれて、おしゃべりをしながらお茶をした。楽しかった。木漏れ日が暖かかったのを今でも思い出せる。
今は、夫がふたりに会わせてくれない。きっとそんな気がするわけではなく、間違いなくはっきりと交流を避けている。お正月の挨拶だけは出来るから、着物で夫の実家へ行くと「もっと薫さんに会わせて」と、お義母さんが言ってくれるが、夫はヘラヘラと受け流す。ふたりは夫を甘やかすから、これ以上強くは言えない。
あたしを両親に取られるのが嫌なの?それともその逆?あたしが、義両親に愚痴でも言うと思っている?きっとそれらもひっくるめて全部なんだろう。
ガーデンでの思い出が楽しかったのは本当の気持ちなので、ノッコちゃんを招待した。自分の貯金から代金を払ったので、胸を張って「招待した」と言えることが嬉しかった。
彼女はふんわりとした赤いスカートに、レザーのジャケット、それにコルセットベルトをつけていた。スカートから、パニエに施されたレース細工のお花がのぞいていて、かっこよくてすごく似合っていた。こういうファッションはスチームパンクっていうのかな、それともゴスロリ?この時、訊いておけばよかった。
スケッチブックの中にジリアンがいた。
紅茶をノッコちゃんとふたりで飲んでひと心地ついていると、あやうく本題を忘れそうになるところだった。あたしは慌ててモデルへの不安を口にした。すると、ノッコちゃんがスケッチブックを渡してくれた。あたしは宝物を受け取ったような気分になる。慎重にページをめくると、淡い青のドレスを着た女性が描かれていた。
あたしは、ひとりの女性を思い浮かべた。何故だか分からないけど、このドレスは彼女のためにデザインされた、そう思えて仕方がなかった。未来を見据える目も、自分の人生を踏み締める脚も、彼女のものと同じだったから。確信めいたものを感じながらあたしは確認する。
「このドレス……ジリアン?」
ノッコちゃんが何かに弾かれたような顔をした。そうしてこう言う、
「映画『ジリアン』のヒロイン……で、いいんですよね?あっ、そんなに似ていましたか……」
あたしは、この時、自分の失言に気がついた。この言い方じゃ、パクリだと言っているようなものだ。慌ててデザインが被っているわけではないことを強調した。
それと同時に、喜びが込み上がってくる。ノッコちゃんも同じ映画のヒロインが好きなんだ。あたしをイメージしたドレスは、ジリアンに着せるためのもの……でも、ちょっと待ってほしい、ジリアンとあたしは全然違う。どっちかというと、ジリアンが似てるのはノッコちゃんだ。強くて自分の道を自分で歩く女性。
ノッコちゃんは、ジリアンとあたしが似ていると言ったけど、にわかには信じられなかった。
だから、あたしをモデルにしたって仕方ないんじゃないだろうか……。
ノッコちゃんの気持ちには応えたかったけど、モデルなんて自信がなかった。ランウェイは歩かなくてもいいとは言われたものの、あたしは迷って答えを保留してしまった。
貯金もいつかは底がつく。その時、また胸を張ってノッコちゃんの隣に立てるだろうか。おしゃべりは本当に楽しかったけど、胸の中に染みのような暗い不安ががこびりついて離れないような心地だった。
そんな、あたしの気持ちと同じ、冷たい雨が降る。空が暗くなったと思ったら、雲が光った。薄い布団越しにスマホが震えるような鈍く、くぐもった雷雲。ノッコちゃんがまた熱を出したら大変だ。アフタヌーンティーはお開きにした。
くらい部屋で電気も点けずに座って考えた。しかし、答えはもうわかっているようなものだった。
何故すぐに断らないか、それが全てだった。あたし、やってみたい。
リビングのソファに座って夫を迎えうつ。柔らかい黒色のレザーにうずもれないように、背筋を伸ばす。
いつもと違うあたしの様子を、夫はすぐに気づく。こうやって、少し強気になるだけで、怯むんだから、今思うと笑っちゃう。
風呂上がりの緩んだ空気が少し引き締まるのを感じた。あたしはすかさずこう言う。
「あたし、イル・クォコで、デザイナーを目指す〝女の子〟と仲良くなって、モデルを頼まれた。やってみようと思う」
夫の顔は一瞬で曇る。
「そんな、大層なこと、お前にできるわけないだろう」
乱暴にソファへ腰を下ろすと、不機嫌を隠さない荒い声色で吐き捨てた。このひとはいつも、あたしのことを否定しかしない。だけど、苛立ちの向こうにほんの少しだけ動揺が見えた。投げ出された脚が、微かにゆさゆさ細かく揺れている。
「デザイナーとして彼女が有名になったら、あなたにも『利』があると思うけど」
ずるい言い方。こんな大人の駆け引きを通してノッコちゃんに会おうとするなんて、彼女には絶対に知られたくなかった。
「……なんだ、パトロンにでもなろうっていうの?」
彼が少し興味を持ったようなので、あたしは頷く。でも、そんな言い方はしないで欲しかった。こんなやりとりをせずとも、笑って送り出してくれる夫であったら、どんなにか良かっただろう。
「そんなに、有名になりそうなの、その子」
明らかに表情が変わった。身を少し乗り出し、口の端が吊り上がっている。想像して悪くなかったのだろう、その未来が。
「少なくとも、あたしは彼女に才能を感じる。それに、あなたの力ひとつでそれはどうとでもなるんじゃない?」
あたしは夫を挑発する。こういった話は嫌いではない、どころか大好きだ。自分にない才能を持つ若者、そういったひと達の支援者に喜んでなりたがる。彼らが注目を浴びることで、自分が大きくなれたと錯覚するんだ。殊更、自分の手柄(時にはありもしないものまで)を主張するから、嫌われてることにも気づかない可哀想なひと。
次第に満足げな笑顔を浮かべる夫とは裏腹に、あたしの心はギシギシと錆びついた音を立てて軋んだ。
「ふーん、いいんじゃないかな、ボクのこともちゃんとアピールしといてよ」
彼の中で何かのピースが嵌り終えたのか、夫の顔は完全にニヤニヤとだらしなく崩れてゆく。あたしは音もなく頷きながらも、作り笑いを浮かべた。
──誰がするもんか。
ノッコちゃんに会うために、これでコソコソする必要はなくなった。その代わり、夫がノッコちゃんに近づくことは阻止しないといけなかった。彼女には純粋な創作を追求してもらいたい。今の彼女がそうあるように。大人の駒にさせてはいけない。しかしまた、こういう風に話をつけなければ、彼女のモデルにはなれなかっただろう。彼女の望みを叶えたい、そのためには夫の存在を無視できない。あたしは答えの出ない禅問答に挑んでいる気分だった、いや、叶えたいのは彼女の望みではない、あたしの希望だ。でも、ノッコちゃんの想いに応えたいのは決して嘘じゃない。……ぐるぐると答えが出ない。矛盾に突き当たって最初の問題に戻ってくる様は、あるいは何かのパラドックスのようだ。
あたしは、スマホの通信履歴を見た。ノッコちゃんにはもう返事をしてある。
時間を自由に取れないから、その点で融通が効かず、不便をかけると思うけれど、それでよければ引き受けます、と。
「ありがとうございます!本当に嬉しいです!」
彼女の弾む声を思い出すたびに、胸が少し痛むけど、ノッコちゃんが選んだのはあたしだ、その事実をこれからの芯のようなものにしたい。
今さらながらヒヤヒヤする、もしダメだったらどうするつもりだったんだ。ノッコちゃんの気を持たせた上で落胆させることになるのに。
それでも、あたしはこれを、この未来に向かって進むんだという意思表示にしたかった。