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六章 ロストカラーズ・前編

 あたしは同窓会に行かない。ハタチのとき一回だけ行ったことがある。成人式が終わった後に、同じ小学校のメンバーでの集まりだった。最初は楽しかった。小学生の時によく喋ってた女の子たちとの思い出話に花を咲かせた。口癖が「要は」の担任の真似をしたこと、牛乳を拭いた雑巾をよく洗わないからしょっちゅう臭くさせたこと。冷水機の水に()()()がすると、あっという間に情報共有されたこと。幼稚でバカだったねー、と泣くほど笑った。すると、その輪の中に見知らぬ男性がスッと入ってきた。だけど、よく見るとそのひとも小学校の時の同級生で、それに気がついた時は、全ての音が消えた。だって、こいつあたしをいじめてた。教室で自分の席に座っていたら、「やめて」って言ってもあたしを小突いてきたし、やめってって言うから面白がるのかと思って、あたしは反応しなくなったけど、小突いてくるのは止まらなかった。廊下を歩いていたらいたで、クラスの気が弱そうな男子をわざとあたしに突き飛ばしてぶつけてきた。これは、あたしに彼に対しての気の毒な思いをさせる最悪な行為だと思った。歌のテストであたしがひとりで歌っていると、大きな声で笑った。恥ずかしかった、悔しかった。どうしてあたしにそんなことをするのってことが、細々と、だけど毎日続いた。学校にいる間、ずっと気が休まらなかった。小学生ながらに、和解を試みようと思って、話しかけると「うるせー」って怒鳴って凄んでくる。その度に、女の子たちはあたしを慰めてくれたけど、こいつひとりのせいであたしの学校生活はストレスが限界だった。

 目の前のこの男はいきなり懺悔を始めた。

「小学生の頃、意地悪してごめんね、実はボク、カオルちゃんのこと、大好きだったのよ、可愛くて可愛くてさーなんとか気を引きたくて、ホントごめん」

吐き出すと、ガハハと笑った。酒臭かった。

すると、こいつの仲間たちがわらわらと寄ってきて同調する。

「わかるわかる、カオルちゃんは可愛かったよねー」「あ、実を言うとカオルちゃんの鉛筆、勝手に持って帰ったことあるわ、ごめん」「お前っ最低だな、ハハハ」「手が届かないと思うとねえ」「そうそう、カオルちゃんは高嶺の花すぎて」

どこから来たんだこいつら。あたしは気持ちが悪くなってお手洗いにかけ込んだ。女の子が心配して追いかけてくれた。あたしは個室から彼女たちに、気分が悪くなったのでもう帰る、心配しないでくれと伝えた。声かけはしばらく続いたが、丁重にお礼を言って、同窓会場に戻ってもらった。あたしは吐きそうになるのを必死で堪えた。晴れ着で跪きたくなんかない。きらきら光る金の糸が寂しそうに見えた。

お手洗いから出ようとすると、あいつが待っているんじゃないかとふと思いついて血の気が引いたけど、幸い誰もいなかった。ひと気が無いのを慎重に確認して、あたしは急いで帰った。タクシーを使った。お金をそれほど持っていないのに。

 あたしはそれから、同窓会には行かなくなった。



 大きなスクリーンをいつも焦点の合わない目で見ている。映画に行く時は全て夫の好みで決まった。

夫と付き合うことになったのは、看護師になって数年経ってからだった。夫があたしの職場に入院した時、一目惚れしたと、言っていた。半ば強引に連絡先を交換させられアプローチが続いた。あたしははっきりと、男性と恋愛関係を持つことに抵抗があると言ったのだが、その気になるまで待つ、その時まで友達で、と、言われた。

 今思えばこの時、夫の自分本位を見抜けなかったかと思うのだが、夫はあたしをよく褒めた、それさえ、あたしをモノにするためだ、と今ならわかるのだが、小学生の頃からズタボロにされた自尊心が少し回復するような錯覚に陥っていた。カオルはセンスがいいね、選ぶもの全部オシャレだ。看護師なんて人の命を救う仕事に就くなんて、キミは立派だ。……心が解きほぐされるような心地だったことは否定できない。

「焦らなくていいよ、キミのペースで」

それさえ、優しい言葉に思えた。歩み寄る姿勢すら見せない男が多かったから。でもそれって、あたしが夫にいつか惚れる前提で、なんか笑えてきた。いつからだろう、あたしをいじめていた「男子」たちが、あたしに気に入られようと必死になったのは、思い出せない。

 んで、目先の心地よさを取り続けた結果が、苦手な映画を観ている今だった。大きなシネコンの小規模なスクリーンで、お客さんはそこそこ入っていた。監督は有名なひとらしく、上映前には熱心にパンフレットを読んでるひともいた。あたしは最後列のカップルシートで夫と二人。この人は、なんでも後ろから見るものだと思っている。招待されることが当たり前だから。ポップコーンの脂が鼻を刺激して、胸焼けがした。

 画面が血糊で染まる。その赤は何かのギャグのように鮮やかだった。あたしは()()()()()()は苦手だと何度も言った。もちろん、好きな人にはたまらないことはわかっている。だけど、夫はこの映画ジャンル自体が好きなんじゃない、きっと。あたしの身体が小さく跳ねたり、拳を握りしめたら、こいつの中で何かが満たされるみたいだ。それを楽しんでいるんだ。長い長い140分が目の前に横たわる。やっとのことで上映が終わると、本当に嬉しそうに「怖がってたね」と夫は言う。あたしは適当に微笑んでその言葉をやり過ごす。まだ良い方だから。悪い方がどうかというと「看護師なのに血とか苦手なの?」と小馬鹿にする。酷い屈辱だった。「看護師だからこそ、しんどいんだ、血液は命を繋ぐものだと知っているから」と言っても理解するそぶりも見せなかった。

 扉を開けたら明るい光が差し込むけれど、気持ちはちっとも晴れやしない。歩きながら、笑顔で感想を言う人たち、これからの鑑賞を楽しみにしながらフードコートに並ぶ人たちを、それこそ映画の中の出来事のように眺めていると、夫は当たり前のように予約していたレストランへと車を走らせる。どこへ行くかは到着するまで分からない。以前、夫がニヤニヤしながら、

「女はなんでもいいと言いながら、男が選んだ店に文句を言う」

と言っていたことを、ボーッとした頭で考えていた。



 あたしは結婚してから「色」を感じることが減ったと思う。昔はアパレルショップや、デパコスの実店舗を見ると、そのカラフルさに目をちかちかさせながら、心を躍らせていたのに。

 今住んでいる家は、家具やらが全て、黒に近い茶色でトータルコーディネートされていた。最初はシックで良いと思っていたのだが、毎日長い時間じっと見ていたら流石に飽きる。夫は婚約が決まったらこの家を建て、あたしに煩わしいことをさせないからと言って、ひとりで部屋を全部整えてしまった。「落ち着くだろう、この家」と言った声は、今では牢獄にかかった鍵音に思える。

 家政婦さんはあたしと家で顔を合わせたら、最初の一回だけ深くお辞儀をして、もうそれ以降はあたしを背景のような認識で仕事を始める。そうしないと、彼女の心が保たないのはわかっている。指示は夫がエクセルでタイムスケジュールを組んで渡していた。以前、家事を手伝ったら、その家政婦さんが夫に酷く叱られたらしいことを知って、あたしは、家政婦さんとの接触を諦めた。それでも、彼女に声をかけたいと思ったのに、せめていつものお礼を、だけどそれは夫を毛羽立て、彼女を怯えさせることを意味した。

 キッチンで調理前に見ていた緑黄色野菜のパプリカの黄色、ブロッコリーやほうれん草の緑を、失った。洗濯機を回す時に見る、洗剤の青を失った、あたしのインナーやパジャマの鮮やかな色、紫、ピンクも、失った。その時、野菜を洗う水に、洗濯槽の中の水に、全部溶け出して色が混ざって、流れていったんじゃないか、そんな妄想に囚われていた。排水音が悲鳴に聞こえる。

 そうやって、また黒い部屋に閉じこもると、視界がくすんでくるように思えた。このままでは自分もこの部屋と同化してしまう、最初はそうやってかすかにもがいていた。



 それくらいしかすることがない、っていうのを差し引いても、映画を観るのは好きだった。自分の好きなジャンルは、……だけど。

 その中でもお気に入りは、十九世紀後期のアメリカを描いた映画「ジリアン」だった。服装や食べ物などの時代考証などは不正確だと批判されていたが、あたしは映画なんだから、そこは多少のファンタジーでいいと思った。(フィクションを史実だと思い込むほうが問題なわけで)

 何より、この映画の魅力は色彩豊かな画面と、そして、ジリアンの強さだった。あたしはこの世界に浸っている時だけは「色」を感じることができた。ジリアンの凄いところは、行動力、やると決めたら何としてもやり遂げるところだった。彼女の父親は南北戦争で活躍した北部ユニオン軍の中佐で、元々資産家だったこともあり、戦後、事業や投資に成功し、裕福な暮らしをしていた。しかし、戦争が彼に与えた影響は大きく、父は娘の安全を守るためには、お屋敷の中に閉じ込めるしかないという妄執に囚われていた。ジリアンの回想でも、かつての父と亡き母はよく出てくるのだが、別人だった。戦前彼は穏やかで理性的で、家族のことを第一に考えていた、戦後、家族のこと第一なのは変わりなくとも、その形は大きく変わってしまった。いつも疑心暗鬼で、家族にいつ危害を加えられるのか、と怯えているようだった。その結果、家族と他人の接触を極端に嫌うようになったのだ。ジリアンはそれでも夢見ることをやめなかった。

 父親が信頼した農家や魚市場の業者などから手に入れたものだけ、しかも味見を必ず通さなければ、家族が口をつけることは絶対に許されないのだが、彼女は街に飛び出し、自分が全て選んだフィリングのサンドイッチを市場の露店で買おうとした。屋台の主は目を白黒させていた、こんな上等なドレスでひとり、自分のお店に買いにくる若い娘など、いなかったから。ジリアンはお金を持っていなかったが、その勇気と冒険に免じて、主は気前よくサンドイッチを奢った。一口齧った時のトマトの赤はいつでも鮮明に記憶の引き出しから取り出せる。弟と一緒に連れられ、舞台を観劇することだけが、彼女の唯一の娯楽であり、生きがいで、ジリアンも舞台役者を目指すことになる。彼女は、見よう見まねで歌っていた、広いお屋敷の箱庭で、のびのびと、あたしも人目がないところでは、こんなに自由に自分の感情を表現できたのだろうか。

 ガーデンには庭師が手入れした花々が、色とりどりに咲き誇って、彼女の歌を聴いていた。ヴァイオレット、ピンク、オレンジ。そして、緑。あたしは宝石を眺める時のようにうっとりとする。

 しかし、エイブラハム・リンカーン暗殺後、疑心暗鬼に囚われた父は劇場という場所さえもジリアンから遠ざけようとする、リンカーンがフォード劇場で凶弾に倒れた記憶が何度も繰り返され、そこさえも戦場だと強い錯覚にうなされるようになった。「劇場には近づくな、危険だ」と繰り返す父の言葉。彼の家族を守りたいという想いが過剰になってしまった結果だった。皮肉なことにそれが、かえってジリアンの闘志に火をつけるとも知らず。ジリアンにはこう聞こえたのだ、「生きることに怯えろ」と。

 当時、上流階級の娘が舞台役者を目指すなんて、雲を掴むような話だった。ほとんど例がない。ただでさえ、家庭や社会からは理解が得難い選択なのに、こうなってしまった父から逃れるなんて、よほどのエネルギーがなければ実行は難しい。実際、作中でも「お嬢様にこんなきつい仕事ができますか」と、劇団の座長はジリアンをからかっていた。

 あたしはジリアンの父親を憎めない。それは最後に家に戻る選択をしたジリアンも一緒だろう。彼らは結局反発しながらも肩を寄せ合って生きていたんだ。ジリアンの弟のことはもっと好きだった。彼は彼女の良き理解者だったから。小さい頃から喘息持ちで体が弱く、どこまでも広い庭を走って行く姉を英雄のように憧れて見ていた。そのこともあり、どこかジリアンに夢を託していた部分はあった。でも、観劇の幕が降りると、小さな手を一生懸命叩いてカーテンコールを請う弟の姿を見て、彼女は舞台に立ちたいという想いを強くした。お屋敷の中で一緒に舞台のごっこ遊びをしながら「この世に我々を閉じ込める檻はない」と拙く幼い声で繰り返していた。

 あたしは、弟とジリアンが暗くなったキッチンで、こっそりお菓子を分け合って食べる、今でいう「パジャマパーティー」のシーンでいつも泣いてしまう。羨ましかったからだ。あたしも、きょうだい、がいれば苦しみを分かち合えたのだろうか、辛くて泣きながら帰った日は、お人形を「お姉ちゃん」に見立てて会話をしていた。本当にお姉ちゃんがいたら、と何度も空想した。ジリアンが弟に差し出すキャンディをあたしにも分けてほしかった。

 

 ジリアンに憧れるところは、創造性の高さにもあった。紆余曲折を経て、初舞台に漕ぎ着けた舞台衣装のドレスも、ジリアンが細かく指示を出した。コルセットを外した空色のエンパイアドレスは、足首から脛をあらわにしていた。はっきり言って当時ではあり得ないだろう、脚を出すなんて。リトル・ブラック・ドレスを創ったココ・シャネルを彷彿とさせる。あるいは、むかし、テレビで観たツィギーを思い出した。来日した途端、日本にミニスカートブームを巻き起こしたという。ジリアンのドレスには一足早い革命を感じる。

 あたしは、映画の余韻もそこそこに、夫が帰ってくる前に素早くディスクをしまい込む。

 以前、「ジリアン」のことを「そんな幼稚な映画とか観てるの」と言い放ったからだ。あたしは「むやみに人が死ぬ映画のほうが趣味が悪い」と言い返したい気持ちでいっぱいだった。いや、本当に趣味が悪いのは、人々が楽しんでいるエンターテイメントを、嫌がらせに使っている夫だけだ。とにかく、それ以来、あたしは夫の前で「ジリアン」を観ることをやめた。

 ジリアンなら夫にも立ち向かうのだろうか、この人と話し合いは出来るのだろうか。彼女は最後、ドレスを見ながら瞳に力強い決意を宿していたように思う。「わたしが家族を支えてみせるんだ、見ていてね」と、その目は語っていた。袖を通すことのなかった舞台衣装に背を向ける姿は、親友との別れのようだったけど、もの悲しさは感じなかった。これからも彼女はしっかりと自分で自分の足を踏み締めて歩いていくのだろう。あたしの足元、ヒールの高いガーネット色のパンプスを見ながら考える。ハイヒールは嫌いじゃないけど、スニーカーも履いてみたい。結婚してからは買っていない。

 独身時代の荷物はいつの間にか処分されていた。悪びれる様子もなく「これから良いものを揃えるんだからいいだろ」と夫は言った。実際に処分するのは、家政婦さんなのに。彼女はどれほど胸が痛んだだろう、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。その中には看護師時代に履き慣らしたデニムもあった。長い夜勤を乗り越え、一緒に電車に揺られていた相棒だと思っていたのに。

 車は、静かな住宅街を走っていた。白いセダンはこの道に不相応なほど図体がデカく感じる。馴染みの店でパーティーらしい。夫が帰るなり、いきなりだった。昨日、映画館でどっと疲れたので「今日はゆっくりしたい」と頼んだが、聞き入れてもらえなかった。「なにを疲れることがある?ゆっくりさせてやってるのに」と、大真面目に聞かれてしまった。ただ、この景色は見覚えがある。アパートや一戸建て住宅が建ち並ぶ裏道を抜け、方側二車線を走っていると、ビルや赤提灯をぶら下げた居酒屋が視界に入る。あたしは少しだけ期待した。

 テナントビルの一階、ピロティのコインパーキング。ここに駐車するとほぼ間違いなかった。ここから歩いてすぐにトラットリア「イル・クォコ・ディ・カーザ」がある。通称イル・クォコ。そのトラットリアは好きだった。夫と古い付き合いの仲なのが信じられないくらい、オーナーは物腰が柔らかい。お料理もこだわりの手作りで美味しかった。イタリアに行った時に意気投合して、そのままスカウトしたシェフもいるらしい。

 赤レンガが見えると、少しホッとする。でも、その安息は長くは続かない、夫の()()()があっという間に群がって来るから。夫は気づかないんだろうか、このひとたちはおべっかしか言わないことを。そんなひとたちと喋っていて本当に楽しいのだろうか。不自然に目を細める男の群れ、その大袈裟な声をガーデンが吸い込む。オーナーと主任がわざわざ門まで迎えに来てくれたけど、そんなに丁寧に接する必要はないと、いつも思う。重厚な濃い茶色の木の扉はあたしの心の重さそのもののように思えた。

  

 扉はゴウンと音を立てる。外気と内気が混じる瞬間。キィと高い蝶番の音に「サスガセンセイ」という奇妙な音が重なる。

 黒いカマーベストを着た五、六人のスタッフが出迎える。だから、そんな特別扱いはいらないんだってば。少しばかり、じりじりと気持ちをささくれ立たせていると、妙に目を惹く店員さんがいることに気づいた。

 黒いAラインのボブに一房、シルバーのメッシュが入っていた。身体の線は細いけど、目はここではないどこか、先を見据えるように、爛々とした輝きがあった。どんな苦境にも立ち向かう強さを感じる。あたしには到底持てなかった、強さ……あたし、この目を知っている、……──ジリアン。ジリアンもどんな困難が起ころうとも、こうやって瞳に熱を滾らせていた。

 淡い間接照明に照らされて立つ彼女は、控えめなメイクだけど、ずば抜けた色彩能力を感じさせた。チークは彼女自身の毛細血管の色が透けているように思えたし、リップも顔から浮いているどころか、唇の血色をよく見せている。かと言って、すっぴんに見えるかというとそうじゃなく、ちゃんとおしゃれ心を感じさせた。……パーソナルカラーの知識があるのかな。

 あたしはついつい目で追ってしまいそうになるのを必死で(こら)えた。あんまりじろじろ見ては失礼だから。それは、あたしも身をもってよく知ってる。


 どこかふわふわとした心地でエントランスホールを歩いていると、一瞬で地に引き摺り落とされるような言葉が吐き出される。


「タオルのひとつも持ってきてないの?気がきかないねえ」


 振り返ると青ざめた。今日いる中でも、一番のお調子者がさっきの店員さんを捕まえて暴言を浴びせている。このひとはいつもこうだった。あたしの気を引くために、他の女性を貶めたり、からかったりして、勝手にあたしを持ち上げようとする。それが、夫に対する媚びなのか、あたしに好意があるからなのか知らないけれど、どっちにしろ反吐が出る話だ。よくやられたことは、あたしがビールを注文して、届けてくれた女性に「カオルさんがビールなんてオヤジ臭いもん、飲むわけないでしょ、美人は甘〜いお酒を飲むの、分かる?君みたいな女の子には分からないかあ」と絡みだす。あたしがそれを注文したと女性に謝っても、よく分からないことをふにゃふにゃ言う。謝る気がない時の常套手段だった。あたし、ビールが好きなんですと言っても、何故かこのひとの耳を素通りして、また別の日も同じことを繰り返す。あたしはそれからこのひとの前でビールを注文するのをやめた。一番嫌なのは、それで「ウケてる」と思い込んでいることだった。あたしが、その女性たちに嫌われることが分かってないし、何より、それであんたのことを好きになるひとなんて誰もいない。

 

 あたしは、彼女の顔を見た。傷ついている当然だ、眉を微かに寄せて、視線が床に落ちていた。あたしが嗜めてもその男は彼女への攻撃をやめなかった。これ以上彼女を傷つけずに、このひとを逆上させずに、この口を止めさせるにはどうしたらいいの。やっぱりあたしは弱い、……何もできない焦燥感にぎりぎりと奥歯を噛み締めていたら、男はやっとこちらにぴったりくっついておべっかを並べる。遠くでオーナーが彼女の肩に優しく手を置いて、さりげなくアイコンタクトを交わしていたのが見えた。良かった、少しは励ましになっていたらいいけど……。あたしは握りしめていた拳をゆっくり開く。手のひらがぐっしょり濡れていた。……オーナー、ありがとうございます。

  

 パーティーが始まったら、男たちが競うようにお料理とお酒を用意して、あたしのもとに持ってくる。それが善意からくるのなら、ありがたいのかもしれないけど、彼らは何かの勝負をしているだけだった。ただし、なんの勝負なのか分からない、どうやれば勝利なのかも分からない。分かりたくない。立食パーティーなのに、あたしだけ椅子にうながされる、何故か飲み物はいつも同じ、あたしは、カシスソーダは苦手。ジントニックが飲みたい。でも手元に届くのは赤紫のカクテル。あたし、プロシュートが好き、ポークステーキも取りに行きたい。しかし、その暇も与えず、あたしのもとに届くのは、前菜。「女性はヘルシーなものがいいでしょう」たしかにイル・クォコはなんでも美味しい。だけど、目の前にある好物を自由に取れないのはストレスが溜まって、ビュッフェに行こうとすると「奥様はじっとしていてください、我々がやります」と押し戻される。「それじゃあ、プロシュート……」と言おうとしたら、聞く気がないのか言葉を遮って(きびす)を返す。ちらりと、これも夫の嫌がらせではないかと考える。あたしが好きなものはこれだと、前もって夫がゲストに言い含めているのではないだろうか。ただし、それはあたしの好きなものではなく、「夫があたしに食べていて欲しいもの」だった。よく「霞を食べて生きている」なんて言い回しがあるけれど、誇張抜きにこのひとたちは近いことを考えている。

  

 うなだれそうになりながら、ポルチーニのマリネを平らげる、美味しいのにこんなに心が重いのが申し訳ない。

 一つひとつに香ばしい焼き目がついて、調味料のバランスも完璧、黒胡椒とブラックオリーブのアクセントも舌を楽しませた。お酢の酸味の中に芳醇な香りが負けていない。手が込んでいることがよく分かるのに、「またこれか」という言葉が浮かび上がりそうになるのを、一生懸命飲み込む。

 一呼吸おくとすぐさまテーブルが広くなる。あたしはお礼を言いたいけど「店員にお礼なんか言うなみっともない」という意味不明なことを言われるので、軽く頭を下げる。

 すると、お皿を下げてくれる店員さんがいつも同じひとなことに気づいた。背が高くて、淡い黄色のインナーカラーを入れた髪の……まだ若く、ハタチにも満たないんじゃないだろうか。お酒に酔って倫理観が麻痺してるのもあって、よくないと思いつつも、店員さんたちを観察してみた。背の高い彼は、気が利く人だ、空いたお皿をつぶさに見ていて、早すぎず遅すぎず、絶妙なタイミングでテーブルに現れる。それに、あたしはずっと座ってるからだ、いつも彼に下げてもらえるのは。他のお皿はビュッフェスタイルという性質上、テーブルの上に放置されている。それならば、テーブルが空くタイミングで心地よさが左右されるあたしを優先してくれているんだ。

 さらに観察してみると、彼はドリンクの注文も積極的に取っていた。Aラインボブの店員さんに注文を取ろうとする夫のツレの間に、さりげなく割り込んで。……そうだよね、嫌われるのはその女性からだけじゃない、彼女を大切に思うひとだって腹が立つよね。そんな輩に近づかせたくないの、よく分かるよ。

 だとすると、あたしだって輩だ、彼らにとっては。さらに居た堪れなくなる。今すぐ、足元に黒い穴が空いたとしたら、あたしはいっそ飲み込まれたい。

  

 あたしはいよいよ理性が吹っ飛んでしまったのかと思う。従業員の休憩室へと足を進めているのだから。

 夫の一同はだいぶ出来上がっていた。今、夫はあたしの行動に気を止めないかもしれない。こういう時は男同士の連帯感が助かる。あたしにはよく分からない話を輪になって夢中で話していた。ボブヘアの店員さんに声をかけるタイミングをうかがう。せめて謝りたい。でも、どうやって……。あのお調子者の耳に入ったら、嫌味を言って彼女を傷つけるであろうことが簡単に想像できた。すると、彼女に「休憩、入ってください」と告げる主任の声が聞こえた。休憩室なら人目がない……。いや、どうかしている、あたしが入ったら彼女がゆっくり休憩できないじゃないか。そもそも、彼女は謝って欲しいのだろうか。同窓会のときの酒臭い告解ごっこを思い出す。それってあたしの自己満足?悪酔いして頭がぐわんぐわんに回る。天と地がかき混ざるみたい。ぱちぱちと乾いた瞬きをしながらふと思う。……たまにはあたしの気持ちを優先してもいいんじゃないか。あたしが彼女に謝りたいんだ。仮にもホストの片割れとして。ゲストの非を詫びたい。

 あたしは、ゆっくり立ち上がると、アイスバケットに冷やしてあったミニボトルビールを掴んだ。景気付けの一杯ってわけじゃないけど、この一杯はあたしが選んだ。その事実を勇気に変えたかった。

 

 ダイニングキッチンの喧騒と並んでオーナーがいたのは助かった。あたしは平静を装ってオーナーに耳打ちをした。

「さっき、エントランスホールで……あの、彼女に謝りたいのですが、休憩室に入ってもいいですか」

彼は何も聞かずに、微笑みながら頷いた。

「良かった、あの、もし夫に何か聞かれたら、お手洗いに行ったと……」

さらに深く頷く。その目は「大丈夫、大丈夫」と語りかけてくれているようだった。音もなく廊下へとあたしを誘導すると、休憩室の場所を教えてくれた。ありがたさに身がすくむ。謝罪のチャンスをくれること、それは見捨てられていないことを意味するようで、鼻の奥がツンとする。このご好意を不意にはしたくない、絶対に。

 廊下をそろりと歩く、カツンと音を立てるヒールが煩わしかった。その音さえかき消すような騒がしい鼓動を聞きながら、指先が冷たくなるのを感じた。質素でナチュラルな色合いの扉を前に、息を飲む。木目が細かに揺れて、自分の目が泳いでいることに気づいた。ノックをしようと握った手が震える。どういう風に声をかけようか、こうして夫以外のひとと会話をするのは、酷く久しぶりのような気がした。夫とさえ、本当の意味では会話なんてしてないんだ。あたしは大きく深呼吸をひとつ、ついたら軽く扉を叩く。

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