五章 ブルーム
薫さんに電話をかけると、いつも通話中だ。そんな訳はないので、きっと着信拒否になっているのだろう。メールも同じことだった。これ以上、ことを荒立てたくないし、そうするつもりもなかった。ただ、このまま、けんか別れのような形で終わってしまうわけにもいけない。しかし、それ以外に連絡を取る手段がなかった。
わたしは、モデルを在校生に頼むことにした。ドレス製作を停滞させるわけにはいかなかった。そのモデルを頼む学生──ファッションモデル科の莉華さん、にプレゼンの録画のコピーを観てもらった。許可を得てわたしのところだけを切り抜いて持ち出したものだ。そして、正直に話した。最初はプレゼンで話題にのぼる女性にモデルを依頼をしていたが、とある事情でできなくなったこと。
「つまり、わたしはその人の代役ってことですか?」
わたしはバツが悪そうに頷く。
エレベーター前のフリースペースで、ソファに腰掛けて二人で話していた。彼女は一年生だった。わたしは購買で買ったドリンクを彼女に渡した。
「あ!ありがとうございます、ごちそうになりますね。んーそれなら全然、気にしなくていいですよ、プロだって何らかの事情で、代役を立てることがあるんですから、むしろ、わたしにとってはチャンスなくらいですよ、ショーストッパーを務められるなんて」
モデルの卵なだけあって、服をちゃんと着こなしていた。キャラメル色のニットカットソーはラウンドネックで着丈が短く、スキニージーンズにインしており、ジーンズもフロスティホワイトのミドルブーツにインしていた。ダウンジャケットは脱いで腕に包んでおり、これは、わたしに何となくの体型が分かるようにという配慮だろう。(冷えてはいけないので、すぐにジャケットは着てもらったが)
「でも、……典子先輩は、その女性に着て欲しいからデザインしたんですよね、万が一、彼女がまた出来るようになったら、わたし、お役御免になるってことあります?」
「ううん、もうトワルチェックは莉華さんで進めるつもりだから、それはない。正直に言うと、彼女に着てもらいたいって、まだ諦めきれないよ。でも、みんなが準備してきたショーに混乱を与えるわけにはいかないから、もう、変えることはできないよ」
「さん付けいらないですよー」
彼女は朗らかな顔で、手をひらひらと振る。
「ん、それじゃ、お願いします。……正直言うとね、実はわたしもその女性に着てもらいたかったな、先輩のプレゼン聞いていたらね……。だから、せめて、彼女に何が起きていたのか、彼女の思いはどんなだったか、話せる範囲で聞かせてくれませんか、そういった意味でも代わりを務めたい。彼女の思いを一緒にランウェイに載せたい、わたしにも出来ることがあったらやりたいんです」
彼女はそう言うと、まっすぐにわたしの目を見た。彼女の意識はもうプロなんだなと思うと同時に、何よりも優しい人なのだろうだと思った。
「ありがとう」
わたしは、こぼれそうになる涙を必死に我慢して、右手を差し出し、握手を求めた。精一杯の謝意だった。莉華は握手に応じて、さらに手を重ねてくれた。
わたしたちは時間が許す限り、話し合った。
「ヨネやん久しぶりー、やー受験生っぽくなったね」
髪を黒に戻し、短く刈りそろえたヨネやんに挨拶をする。イル・クォコの近くの公園で待ち合わせをしていた。
「受験生ぽいって何ですか……久しぶりです」
挨拶は返してくれたが、少しむくれてしまった。
「そうだよね、ごめんごめん、それと、ダウンちゃんと着て、受験生が風邪引いたら大変だよ」
わたしは、上着を羽織るジェスチャーをした。ヨネやんはダウンジャケットの肩を落として着ていた。もそもそと上着をあげてファスナーを閉め直す。公園といっても児童公園のようなものではなく、自然公園だった。広々とした土地が冷たい風をせっせと運ぶように広がる。雲をゆるやかに反射した薄くて白い陽に照らされ、春になったら色づくのであろう、桜の裸木がつやつやと立ち並んでいた。
「……髪、黒くしたから典子さんのメモ使えなくなっちゃったよ」
ヨネやんが言うメモとは、前に彼の染髪にあう色を書いて渡したものだろう。
「大丈夫だよ、黒はだいたい何にでも合う、せっかく良い色買ってたんだから、着ないともったいないよ」
バイト先でヨネやんが着ていた服を思いおこす。今日彼が履いているサルエルパンツは見たことのないものだった。よく似合っていた。
「本当に?」
少し不服そうにヨネやんがこう言った。
「本当だってば、もー、デザイナーのコーデなんて、報酬が発生するくらいなんだからね、信じてよ」
「そうですよね、……飯ぐらい奢りますよ、ほんと」
「冗談だってば、高校生が気を使うものではありません、……いや、わたしもさ、そんなこと言える立場でもないんだけど、ほんとうに」
わたしが、から笑いをすると、ヨネやんは何とも言えない顔でこっちを見ていた。
「んで、なんか頼みたいことって……」
ヨネやんが本題を切り出した。
彼とは割と昔から、トークアプリのバイト仲間グループでたわいのない話をしていた。ヨネやんの受験勉強が本格化してからは、本当に限界が来たのであろうときに「勉強飽きた」とたまに呟くだけになっていたが。(それが、なおさら限界感を出していた)
そして、夏ごろからもうバイトには出られなくなったので、籍だけを置いてもらっているらしい。彼はよほどイル・クォコが気に入っているみたいだ。今度、息抜きに顔を出すことになったとチャットで報告をしていた。
わたしは、クリアファイルに入れた、長4サイズの白い封筒をバッグからとりだした。
「これ、卒業制作ショーの招待券なんだけど、薫さんを見かけたらでいいから、渡してほしいんだ、薫さんて、分かるかな……」
「あ、……あの目立つお客様?」
わたしは力強く頷く。
「もちろん、ヨネやんが行く日に薫さんが来るとも限らないけど、でもほんの少し、本当に僅かに可能性があるなら、逃したくないんだ。わたしも、卒業制作に取りかかってから、バイトには行けてない。もちろん、わたしが見かけたときは、わたしが直接声をかけるよ、ごめん、受験生なのに余計な心労をかけると思うけど……」
「もちろん、おれでよければやりますよ」
言葉を遮るようにヨネやんが微笑んで言った。
「ありがとう……ありがとうヨネやん」
わたしは、深々と頭を下げた。深く理由を聞かずに引き受けてくれたことが嬉しかった。
「あっ、頭あげて、……ねえ、オーナーには頼めないのかな、オーナーはいつもだいたいお店にいるわけだし……」
「……オーナーには、お世話になってるし、本当にいい人だと思うけど、……オーナーって、あのね、薫さんの旦那さんの古い知り合いだから、さ」
ヨネやんは不思議そうな顔でわたしを見ていた。
「あのね、もし、もしもの話だよ?ヨネやんが他のひとに酷いことしてるとするでしょ、そしたら、わたしヨネやんのこと、急に悪いひとだ、とか、敵だ、とか割り切って思えないと……思うんだ、相手が知ってるひとだとしてもね、多分、人間ってそういうものだと思う、ごめん。なんのことか分からないだろうけど、これが答えってことで」
「おっ、おれはそんなことはしない……したくないですけど、分かりました、オーナーに言えないってことだけは」
妙ににうわずった声でヨネやんが答える。
「ありがとうね、薫さんによくヨネやんの話してたから、ヨネやんのことはわかると思う」
「おれの話、そんなにしてるんですか?」
今度はやけにそわそわしている。
「そうだよ、あのね、わたしがせめて来てほしいって言ってたって、伝えてほしい」
わたしが真剣なトーンでこう言うと、ヨネやんも真摯に頷いた。安心して肩の力がどっと抜ける。
「よかった、本当にもし見かけたらでいいから、無理のない範囲でね」
顔をくしゃくしゃにするわたしを励ますように、ヨネやんはさらに力強く頷いた。
「あ、これだけは注意してほしいんだけど、これを渡すときは、薫さんがひとりでいるときだけにしてほしい、とくに旦那さんがいるときは、絶対にだめ……これはヨネやんが男の子だから……」
「わかりました、事情があるんですね、気をつけます。……でも、〝男の子〟……か」
そう言うと、ヨネやんは軽くうつむいて、寂しげな顔をした。
「おれ、蓮っていいます」
「うん……?知ってるよ、米山蓮くんでしょ」
「もし、志望校受かったら、今度は〝蓮〟って呼んでくれますか?」
「……別に、今からでもいいけど?」
「いいや、志望校、受かってから」
ほんのちょっとだけ語気を強めると、ヨネやんはなにかを決意したように口を一文字に結えた。
「うん、わかった。て、ことは大学行っても、バイトはイル・クォコで続けるんだね?」
彼は何も言わず、目を少し伏せて遠くの空を眺めていた。二人の吐く息が白く揺れる。
わたしが改めて丁重にお礼を言ったあと、お別れになった。
トワルチェックを終えて、製作に取りかかっていた。
ソーイングルームには製作途中の服が着せられたトルソーが並んでいた。綾乃はえっちゃんにコラボを持ちかけ、北欧風花冠を模したヘッドドレスを編んでいた。その作業の速さもさることながら、熱量にも頭が下がるばかりだ。二人が熱心に打ち合わせをしている。綾乃の作業は速いだけではない、編み目を正確に拾い、編み直しが全くなく、高い技術力を感じさせた。改めて、この二年を振り返ると、綾乃、えっちゃんには励ましだけでなく、良い刺激をもらえた。「負けていられない」という思いは、創作において何よりのスパイスだったように思う。
今日は莉華が、ドレスを見たいというので、許可を得てソーイングルームに招き入れていた。
「すみません、もうちょっとイメージを膨らませたかったので……」
茜色の夕日が差し込み、トルソーに落ちた影を引っ張るように伸ばす。放課後の教室には何人もの学生が作業を進めていた。タタタと規則的なミシンの音が所々で響く。スチームアイロンの蒸気は鼻先をくすぐり、いつも懐かしい風景を思い起こさせた。祖母がパッチワークを縫うときによく使っていたからだろうか。小さいころ隣に座って見ていた色とりどりの生地を思い出す。
「いいんだよ、むしろ嬉しいくらい、デザイン画も一緒に見る?」
「お願いします」
わたしは、机に広げていたデザイン画を莉華の方に向けた。莉華はゆっくりと息を吐きながら、しげしげと見つめる。視線が細かに揺れ、隅から隅までじっくりと見ていることが分かった。視線がボトム部分に止まると、ふと、彼女が口を開く。
「……このジーンズは、自由な労働への願いなんですよね……。働くことを許されないなんて、とくに事情もないのに……話には聞いたことがあったけど、そんな女性が実際にいるなんて、想像できていなかったと思います」
「そうだよね、わたしだってそう、実際に接することがなかったら、きっと、どこかお話の中の出来ごとのように思ってた」
莉華がデザイン画に目を落としたまま呟く。
「わたしは、最初、モデルが嫌だったんです」
びっくりしてわたしが彼女に目を向けると、莉華は吶々と話し始めた。
「高校生のころ……読モ、読者モデルにスカウトされて、最初は雑誌に載れて、やった!、くらいに思ってたんですけど、儲けもそんなにないし……でも、仕事を続けるうちに、両親が色めきたったっていうか、……このまま順調にいけば、……その、お金になるって、嗅ぎ取っちゃって、どんどん仕事を取ることを勧めてきて、高校生だからって、ギャラのほとんどは両親が管理して、いまだにわたし、自分の稼いだ額、知らない……、それはもういいんですけど、親をがっかりさせたくなくて、仕事続けた。でも、そのうち、モデルの仕事というより、親がわたしを、なんていうんですか、『お金を稼いでくる装置』みたいな目で見るようになったのが、……嫌だった」
そう言うと、彼女は下を向いた。わたしはその肩に手を置こうかどうか迷っていると、莉華は微かに笑みを浮かべ続けた。
「でもほんと、わたし自身がモデルの仕事にやりがいを感じたのが、幸いだったんです、やるならとことん、と思って、一回ちゃんと学ぼうと思って、ここに来たんだけど、わたしは恵まれていたんですね、働きたいという思いそのものすら、無視されるひとがいるなんて……」
「どちらも、それぞれ辛いことだと思うよ、それこそ多分、一番恵まれてる、好きなことやりたいようにやってるわたしが言うのもなんだけど」
こちらに向き直ってくれた莉華の目を見て、わたしは力強く頷いた。莉華は柔らかな笑顔で頷き返してくれた。
──自由にお洋服を縫ってるあなたに──あの夜の薫さんの言葉がこだまする。
確かに、わたしが自由に洋服を縫えるのは、たくさんの助けを借りているからこそだった。でも、それは薫さん、あなたの力も入っているんですよ。薫さんがいたから、わたしはイメージを形にできた。あなたはまだ、人を救える、人と繋がれる力を持っている。それを誰でもない、薫さん自身に信じて欲しかった。
莉華は顔に力を取り戻し、しっかりとした口調でこう言った。
「わたし、モデル続けて良かったと改めて思いました。こんなに共感できたドレス初めてです。わたし、ランウェイ絶対、成功させますね。このドレスに込められた『想い』は、たくさんのひとに知って欲しいです」
その目は彼女の中のランウェイをしっかり見据え、もうすでにステージにしっかりと足を下ろしていた。
「ありがとう、わたしも、莉華に着てもらえて良かった、想いを受け取ってくれてありがとう」
「……彼女にも、届くと信じましょう」
彼女をよく表すような優しい笑顔で、わたしをまっすぐ、静かに見つめた。莉華の温かさがじんわりと心に広がった。
莉華と薫さんと三人で、どこにでもあるような落ち着くカフェのソファに腰掛けて、各々が好きなドリンクを飲みながら、なんてことのないおしゃべりをする、そんな光景がふと頭をよぎった。ランプはオレンジの柔らかい光、シェードの中でかくれんぼするから、ギラギラとむやみに照らさない。お砂糖壺は丸くて滑らかな手触り。蓋を開けたらカチャッと、小さな打楽器のような可愛らしい音がする。ソーサーの上のティースプーンが控えめに輝いて、穏やかな水面にほんの少しだけ波を起こす、ただ居心地のいいだけの愛おしい空間で、お話して、笑って、喉が渇いたら好きな味を流し込む。これが未来だと良い、わたしはぼんやりとそんな風に考えた。
スカイブルーのハートカットビスチェにはスパゲッティストラップ。ストラップには細かなスパンコールが散りばめられ、空への憧れと輝きが光っていた。それを受け止めるのはカットオフ加工の伸びやかな白いTシャツ。スカートはティアード切り替えの膝丈、パニエでふっくらと丸みをつける。一番上にビスチェと同じ生地のタフタ、その下に赤いタナローンチェック、さらにタフタを挟み、一番下には赤いデニム。伝統の間で、悪戯っ子の顔をして顔を出す、反抗心と労働者。ひだが大きめのフリルがゆるやかなドレープ性を持ち、ゆったりとした開放感を表す。オーバースカートの生地はオーガンジー。丈はミディ。ふわふわとランダムなタッキングを入れ雲の丸みをイメージさせる。どこまでも流れていく浮き雲。
ウエストを支える、赤いデニムのコルセットは背筋を伸ばすためのもの。デニムよりトーンを上げたスカイグリーンの刺繍とビジューを使いクレマチスの蔓を描いている、背中からおへそにかけて、大きな手で包み込むように曲線が伝う。ボトムで全てを支えるように佇むのは、インディゴブルーのジーンズ。オーガンジーの雲の下、晴れを待つかのようにスカイブルーのスカートを支えていた。膝上と脛の部分にぱっくりとあいた大きな口は、労働にかけた時間と歴史を物語っていた。薫さんが履きたかったデニムパンツ。
ドレス──Bloomが一応の完成を迎えた。ウォーキングでの揺れ方をみて調整はあるものの、達成感が全身に広がった。とはいえまだ沢山のチェックをくぐり抜けなければならない。完璧に仕上げるまでは気を抜けない、時間は限られている。締め切りを守るということは、このプロジェクトにおいて学ばなければいけない、重要事項の一つだ。
莉華にようやく完成品を着てもらう。ほんの刹那、視界のピントがぼやける。ダメだ、プロとしてやっていくんだから、いちいち泣いていては。
白いフィッティングルームにスカイブルーと真紅のコントラストが映える。蛍光灯の白い光を淡く跳ね返す。タフタの玉虫効果が蛍光灯の揺らぎによって表情を変え、さらにスパンコールの乱反射で、よく見ると、色味は賑やかだ。まっすぐ立つ莉華にしっかりフィットするBloomは、今までに見たことのない立体感とシルエットを感じ、改めて、洋服にとっては人に着てもらえることこそが一番の僥倖に思えた。
フィッティングルームには何組か他の学生も調整をしていた。針山をナックルのように装備して、モデルの体型に合うように微調整している。衣擦れの音が本番へと近づく足音のように聞こえる。大きな鏡に色とりどりの衣装が映る様は、ショーウインドウそのものだった。
「苦しくない?」
コルセットを調整しながら莉華に尋ねた。サイズ感はミニになる。編み上げは前にくるタイプで、パンクアイテムであるファスナーを使い、同じく前で留める。莉華のくびれにちゃんと合わせるよう、少し下げて軽く引く。編み上げリボンもたるんだところや、変なねじれがないかチェックする。
「大丈夫です、コルセットもですけど、全部サイズがぴったりで凄いです……着心地がいい、もちろん、全く締めつけがないわけではないですが、それでも。なにより、ずっとイメージしてきたけど、実物を着るとやっぱり存在感が圧倒的で、……この抜けるようなスカイブルー……空に飲まれちゃいそう、開放感がエグいです」
莉華は少し緊張しているようだった、体に力が入って硬くなっている。
「リラックスだよー、ふふ、ありがとう、素直に嬉しいよ。……うーん、靴なんだけどハイヒールかスニーカーか迷ってて、どっちがいいかな、ウォーキング見て決める感じにしようか」
「そうですね、頭にも何か被りたい気もするけど……典子さんはどう思いますか」
うーんと唸って考え込む。
「そうだね、アイコンに合わせるならストローハットとか、アメカジ要素でシンプルなバンダナもいいかな、ちょっと先生に相談して決めてみようか」
わたしたちは、話し合いながら全体のシルエットをチェックする。バランスを考えてボリュームを盛ったり、減らしたりしなければ。
鏡の前に立ち、オーバースカートのタッキングを微調整して、雲の気ままな曲線により近づけたり、スカートのフリルが崩れていないか確認した。次第に莉華の緊張も解け、体の硬さや表情も緩むと、衣装と溶け合っているかのように一体化していた。
頭に被るものはストローハットに決定した。ゴシックドレスの優雅さを引き立てる方向にしたので、ブリムが広く赤いサテンのリボンや、クレマチスのコサージュで華やかさを加える。つば広にしたことによって、日差しから肌を守っていた側面と、派手な帽子が中世の貴婦人のトレンドであった面を融合させた。
足元はゴシックドレスとの歴史──ドレスの下で汚物を避けるために履いていた、という背景を反映させるため、ハイヒールも考えたが、Bloom全体のテーマで考えた時に、やはり歩きやすさ(それはランウェイの上でも、実際の道でも)を第一に考え、スニーカーに決定した。
ソールが白いラバーで厚く、トゥとアウトカウンターがスモークブルー、シューレースとバックステーがワインレッドという、バイカラーでありながら、くすみ色で揃えたものを用意した。土埃や太陽光でくすんだイメージだ。
莉華はウォーキングの練習が始まった。ランウェイ演出プランも決定して、連日リハーサルを重ねる。くたびれた様子の莉華を見るたびに、薫さんにどれほど無茶なお願いをしていたのか、今更ながら痛感する。
莉華は無理をしていないのか気にかけるが、それ以上にショーが出来上がってゆくことに喜びを覚えているようだ。
「正直に言うと、しんどいし、指導されて……ちょっと、嫌いになっちゃう時もあるけど、それ以上に『その視線良いよ、今、会場の目線集めた』とか褒められると嬉しい、もっとやってやろうと思います」
と楽しそうに語る彼女には頭が下がる思いだ。
ついに発表順やタイムスケジュールも決まり、ショー全体のテーマや個々の作品の繋がりを確認する。
音楽や照明の演出も決まってゆく。企画から始まり、フィッター、ヘアスタイリング、アクセサリー、メイクなどのスタイリングチーム。ポートフォリオ用のフォトグラファー。タイムキーパー、映像や音効、照明といった会場の設備担当。そしてもちろんモデルなど、は学生有志で参加している。莉華もそのひとりだ、彼女が卒業制作ショーに参加希望の表明を出していたので、声をかけることができた。いよいよ参加者一同、一体感を持って成功のためにリハーサルや微調整を慎重に重ねる。
えっちゃんのファーストルックから始まり、フルレングスのドレスが続々と登場するシーンが最初のシーンだった。音楽は北欧のトラディショナルである、ケルト音楽を使う。その後もシーンを分け、課題作品の発表が続き、ショーの中頃で、わたしのBloomがショーストッパーを務めることになっている。
文化ホールにマイクのハウリングが響いた。
わたしは理事長プレゼンを思い出し、思わず苦笑いを浮かべた。
いよいよ学内公開リハーサルだ。公開リハーサルは本番とほぼ同演出、音響、照明などで、本番と同じショーを行う。舞台が好きなひとには「ゲネプロ」と言えば通りがいいだろう。そのような感じだった。
わたしは控え室で、衣装に問題が起きた時、すぐに動けるよう文字通り控えている。針山のナックルや、一通りの道具や糸などを装備していた。
ショーが始まる。ファーストルックはえっちゃんのドレス「Idun」北欧の女神イドゥンから取っている。実際に歩くと、フリンジは思っていた以上に面白く揺れた。綾乃が仕上げた北欧風花冠も二人の絆を感じさせるように、自然に溶け込んでいた。次々と色とりどりな円柱状のライトがモデルと衣装を照らす。幻想的だ。モデルのウォーキングに合わせて、音楽が踊る。いや、ウォーキングが音楽に合わせるのか、どちらにせよすごい技術だ。
いくつかのシーンが続くと、ふいに、音楽のテンポが変わる、照明も最大まで落とされ、ややあってから、ゆっくりとスポットライトが衣装を照らす、Bloomだ。白い光に浮かび上がる、花開いたドレスとアメカジの融合。マットなTシャツとジーンズに対比するように、ゴシックドレスは賑やかな色味を反射していた。パンクロックのリズムに合わせて、莉華が軽やかに歩く。オーバースカートが揺れる様は、本当に雲のように掴みどころがなかった。一歩足を踏み出すと、それを跳ね返すようにドレスが踊る。きりりとアイライナーの引いてある目は、しっかりと前を見据えていた。……彼女には今日、公開リハが終わったら話せないかと、言われていた。なにか気になることがあるのだろうか。悩み……とかじゃなければいいけれど。
曲調がまた変わる、学生たちが自分の学んだ技術の粋を集めた作品が次々とランウェイを飾る。ウェディングドレスのシーンになる。音楽も荘厳になり、ライトも白が映えるように色味を変えた。
最後に登場したのはフィナーレを飾る綾乃の「Amour Éternel」永遠の愛という名前だ。無数のスポットライトから放たれた、淡いイエローのライトは、青空の下、ガーデンウェディングを照らす太陽光を彷彿とさせる。さらに、ドレスを飾る編み物の花々が、牧歌的な結婚式を思い浮かべさせた。
最後に、今日出演したモデルと衣装が、勢揃いする。続々と舞台袖から歩いてくるモデルたち、その顔には誇らしさと不安が入り混じっていた。わたしは莉華を目で追った。微笑んでいる。顔が引き攣っている様子もなく、どこか達成感を感じさせた。ほっとした。
「すみません、本番の前日に呼び出したりして」
「いいよ、いいよ、わたしも話がしたいから」
公開リハーサルが終わり、まだ活気も少し残る文化ホールのエントランスに莉華は待っていた。メイクはステージのままに、服装は来た時の、脱ぎ着しやすい厚手のロングTシャツ、青地にカラフルなスパッタリングが描かれているもの、赤い二本線のジャージに着替えていた。その上にフェイクファー付きのウインドブレイカーを羽織っていて、防寒もしっかりしている。その現実的なスタイルから、舞台用の華やかなメイクが浮いていて、奇妙な印象を与えた。スタッフの中にはまだ熱心に当日の確認をしているひともいた。あちらこちらからマイクで指示が飛ぶ。明日の本番に向けた最終確認は終わったものの、緊張感はいまだホール全体に漂っている。
「……わたしのウォーキングどうでしたか」
少し下を向いて、おずおずと莉華が切り出す。その視線は床とわたしを交互に見つめる。
「すごく、良かったよ、ステージ端から心臓の音、聞こえるくらいドキドキして見てたけど、Bloomがこんな表情するんだって、感動した、莉華が頑張って練習してたの伝わったし、こんなに魅力、引きだしてくれて嬉しかった」
わたしは思いの丈を全力でぶつけた。感謝してもしきれなかった。何か不安があるならば全部取り除いてあげたかった。
莉華はわたしを見て目を見開くと、眉間に皺を寄せた。そのまま、身体を小刻みに震わせ、はらはらと頬を濡らす。
「……良かった、わたし、このドレスのモデルになった女性の代わり……ちゃんとできてるか、ずっと不安だったから……」
そこまで言うと、彼女は言葉を詰まらせた。目頭を手で押さえ、肩を大きく上下させる。
わたしは顔をはたかれたようにハッとする。二人の間に張り詰めた静寂が広がった。
「莉華は代わりなんかじゃないよ……!このドレスは……Bloomは、いろんな人に……」
着てもらいたい……と言いかけて言葉を飲む。この「着てもらいたい」という想いは、押しつけだったのではないだろうか。どうして、自分のドレスが力を与えると思っていたのだろう。それが当然だと思っていなかったか?ヒュッと喉を鳴らし青ざめる。ジリアンにしろ、薫さんにしろ、それでも、わたしの独りよがりだったとしても、そうしてほしいとさえ思っていた自分は傲慢だったのではないか。莉華は、それでも着てくれると言ってくれたひとなのに、こんなに心に重しを落としていたなんて。
わたしは莉華の気持ちにちゃんと向き合えていたか、そうでないから今、彼女を泣かせてしまっているのではないか、自問自答して、堪えようとすればするほど涙が込み上げる。今、このひとの前で涙を落としてはいけない、そう思ったら胸がつっかえて言葉が出なくなる。
「ありがとう、このドレスを表現してくれて、嬉しかったよ、理解してくれようとしてくれて、莉華だから……莉華に着てもらえて本当に良かった」
なんとか喉をこじ開ける。莉華はわたしを見てわずかに微笑んでくれたが、何かを溶かして吐き出すように涙は止まらなかった。
莉華が落ち着くまであてどなく歩いた。エントランスホールにいては、梨華が気まずいだろうと思ったから。メイクはぐちゃぐちゃになりそうだったので、許可をもらって落とさせてもらった。車通りの多いところもあるので、声かけをして、必要だったら、肩を引き寄せて、彼女の安全を最優先した。ビルだらけの通りだが、今はこの街から二人を隠してくれるようで頼もしかった。右に左に巨大迷路を楽しむように気ままに曲がった。高田馬場駅に辿り着いたら、駅ビルをぶらぶらと歩いた、洋服の冬物もクリアランスセールをしていた。二人で言葉少なに見ていたが、今はこの静けさが心地よかった。涙が止まったらカフェに入ってコーヒーを飲んだ。
「いつもはカフェイン摂らないようにしてるんですけど、今日は飲んじゃえー」
「なんか、そう言うとお酒飲む人みたいだよー」
わたしたちはくすくすと笑い合った。
莉華はストローを勢いよくアイスコーヒーに突っ込む。宝物を掘り出すかのような勢いが無邪気で面白かった。次に、ガムシロップに手を伸ばそうとして、彼女はぴたりと動きを止める。
「いや、流石にこれはやめておこう」
「無責任には言えないけど、そんなに変わらないんじゃないかな」
「ううん、これは意識の問題です。典子さんがぴったりとフィッティングしてくれたんだから、それに対する敬意です」
「ええっ?ああ、どうしよ、わたしフローズンなんか頼んじゃった」
「この寒いなかにね」
今度はどっと噴き出す。
セルフスタイルのカフェには途絶えることなく、レジにお客さんがやってくる。テイクアウトも多そうだ。わたしは二人がけの席で、ソファの方に莉華を座らせていた。クリスマスオーナメントのような白いランプシェードが、艶のある机に姿を写している。
さらさらに削られた氷のドリンクに触れると指先がひんやりとした。
「……ごめんね、そんなに莉華を追い詰めていたなんて」
飲み物を乗せるトレイに目を落とし謝るわたしに、莉華が慌てて、ぶんぶんと顔の前で手を振る。
「典子さんが悪いんじゃないです、わたしが気負いすぎちゃっただけで、本当にBloomのテーマを、……込められた想いを、ひとつも残らず表現するんだって、全部カラ回ってたんですよね……要はね、惚れちゃってたんですよね、典子さんの作品に、初めて着たとき、本当に空を纏ったような心地よさがあったんです、ああ、わたしはこの瞬間のためにこの学院に来たんだって……」
「ありがとう」
わたしがまっすぐにお礼を言うと、莉華は照れくささを誤魔化すかのようにストローでアイスコーヒーの氷をクルクルかき回した。
「わたし、『着てもらう』って気持ち、押し付けてたのかと思った、……モデルの女性にもね、わたし、恥ずかしいんだけど、そうすることによって力になれるって、本気で思ってた。でも拒絶されちゃったから……創作者のエゴだよね」
苦笑いを浮かべながら、吐露すると、莉華がわたしの目をしっかり捉え、言った。
「ものを創り上げるひとは、エゴで良いんです、クリエイションは突き詰めれば全部エゴですよ、だから作品が生まれるとも言います、その女性も何か事情があったんでしょう?わたしも含め、着たいと思う人がいる作品を作れるひとなんですから、典子さんは。あなたが思っている以上にあなたの作品は人の心を掴んでいるんですよ……きっとその女性もね」
梨華が言ってくれた一つ一つの言葉を何度も反芻して、胸にそっとしまった。
「ありがとう……だったら良いな」
温かな涙が一筋流れた。
「やだっ、典子さんのこと泣かせちゃった、えっとハンカチハンカチ……やーだーさっきわたしの涙でぐしょぐしょにしたんだった」
莉華が、あたふたとバッグの中を探している。
「大丈夫、わたしもハンカチ持ってるから」
さっき、莉華が泣いた時に渡そうと思ったが、それより素早く、彼女は自分のハンカチで鼻をかんでいた。
人は誰かが泣いた時にハンカチを差し出そうとする心を持っている。その心が人を人たらしめるものだとわたしは信じたかった。
カフェを出ると、ホームへ向かった、スマホを改札機にタッチし、人混みをくぐり抜け、莉華の乗る電車のホームまで向かった。ざわざわと賑やかで夕方のホームは人の流れが速かった。すれ違うひとたちも、それぞれ自分の家に帰っていくのだろうかと考える。駅ナカから、甘いお菓子の香りや、ベーカリーの香ばしさが鼻先をくすぐり、何故だか郷愁を感じさせた。
「いいんですよ、典子さんのホームの方に行って、送らなくても……」
構内アナウンスが、莉華の出発する時間を告げている。
「ううん、本番前のモデル、無駄に歩かせちゃったから、送らせて、今日はゆっくり休んで、身体、冷やさないようにね」
わたしがこう答えると、莉華は軽くわたしをハグする。
「それは、典子さんもですよ、最高のショーにしましょうね」
鼻にしわを入れ、悪戯っぽく莉華がささやく。わたしは力強く頷く。Bloomは色々なひとの力を借りて完成した。でも、それでも、莉華からもらった力は途方もなく大きいものだった。彼女の努力が報われてほしい。心からそう願った。
莉華は電車に乗り込むと笑いながら、軽く手を振った。タタンと音を立てると、電車は彼女を乗せて走りだした。またね、明日会うためのしばしの別れ。わたしはまるでライトを目のように光らせる新宿線に、彼女を頼みますと呟いた。
わたしも山手線に乗って、電車を乗り継ぎ家へと帰った。もう、こうなったら、明日までにできることは、体調を万全に整えること、それが最重要事項だ。
スマホのメモを確認すると、手帳に書き写す。さらにスマホと手帳の内容に差異がないかチェックする。明日の用意に不備がないか念入りに確認した。
早めに寝床についたが気持ちが昂ぶって眠れなかった。いつもなら、こういう時は動画サイトで、睡眠用ASMRを聴くとリラックスしてすぐ眠れたが、今日は三つもハシゴしてしまった。
いつもより早くに目が覚めてしまう。まだ外は朝日が登っていない。妙な高揚感と緊張を和らげるため、息抜きで、ベットに寝転んだまま、ネットニュースを見ることにした。
馴染みのニュースサイトをスクロールしていると、嫌に悪寒が走った。全身に氷水のような冷たい汗が伝う。なんでだろう。そうすると、無意識に避けていた見出しがあることに気づいた。視界の端にとらえた文字列が、ぼやけたように滲んでよく読めない。読みたくない。
……意識不明の大物……の息子。……妻は姿が見当たらず、重要参考人として足取りを追っている……。トコトコと心臓が痛いくらいに脈打つ。どうして指が重いんだろう、思うように動かない。それでも何故か無視することもできずに、詳細をタップする。
記事が読み込まれると、わたしは顔が真っ白になり、吐き気を覚える。被害者として大きく写真が映し出されていたのはイル・クォコで「先生」と呼ばれた男……つまりは薫さんの夫だった。一回しか会ったことがないがそう確信した。
目覚ましがジリジリとなり、わたしは慌ててその音を止める。そのまましばらく動けなかった。