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四章 ダブルバインド

 学校に到着すると、エレベーターホールのフリースペースで、綾乃とえっちゃんが身を寄せ合っていた。

「もしかして、わたし待ってた?」

わたしが声をかけると、二人は無言で頷く。黒いスーツを着ていた。わたしは彼女たちの肩をポンと優しく叩くと、軽くみんなで円陣を組むようにハグした。

 今日は、卒業制作ショーの、理事長プレゼンだった。内容は服飾デザイン科の卒業制作のデザイン発表。コンセプトや、デザインの特徴、意図、制作過程で使った技術などをパワーポイントに資料としてまとめてある。それを理事長の前でプレゼンテーションするのだ。わたしと合流したら三人でエレベーターに並ぶ。

 えっちゃんはジャケットの下に柔らかいシフォンブラウスを着用し、綾乃はジャケットの下には白いシンプルなカットソー、ボトムはスリムパンツスタイル、と、こんな時でもきちんと個性を出していた。例によって何回かエレベーターを見送ってから、やっとミーティングルームがある階への基体に乗り込む。

 ミーティングルームに入ると、普段はおしゃべりなクラスのみんなも、今日は口数も少なく逼迫した顔で資料を何遍も確認している。今日の評価でファーストルック(ショーの一番最初を飾る作品)やショーに出る作品が決まるのだから当然だった。うちの伝統では二作品はショー全体のテーマに沿って課題作品から選び、三作品目には自由なテーマで制作してもいいことになっている。ただ、自由作品はショーのアクセントとして登場するので、選ばれる数は限られている。その場合はショーのランウェイを歩くのは二作品になり、自由作品は一般展示されることになる。

 わたしはジリアンのドレスを自由作品で作成していた。ここのプレゼンで通らない限りは、薫さんがそもそもランウェイを歩くことはないのだ。ついつい、ふぅっと重いため息をついてしまう。緊張しているのはみんな一緒なのに。

 理事長は、卒業生に代々、プレゼン時のカリスマと圧倒的な緊張感から、我が校の「スティーブ・ジョブス」と密かに呼ばれていた。その理事長が開始時間ぴったりにミーティングルームに入ってくる。講師陣とショーの運営スタッフも一緒だった。一瞬でピリピリと空気がひりつく。

 理事長は総白髪をおくれ毛の一本もなくまとめ上げ、フレンチグレイの控えめな光沢があるセットアップスーツを纏っていた。シンプルなデザインのスーツだけどサイケ柄のシルクスカーフをアスコットタイにして、アクセントを欠かさなかった。

 挨拶が終わると、プレゼンが始まる。学生たちのカラカラと喉が渇く音が聞こえてくるようだった。理事長は大きな声は出さないが、(はら)の底まで響いてくるような凄みがあった。彼女は気になることがあるとその場で質問をするようで、用意していた言葉だけでは通用しない。ミーティングルームはすっかり張り詰めていた。

 プレゼンが終わると、理事長との質疑応答が入る、長い場合は何度も質問が飛ぶ。理事長が「わかりました」と言うと終了の合図だった。

 遂にわたしの番になる、講台にむかいマイクを持ち上げるとキィンとハウリングを起こした。幸先が悪い思いでいっぱいになる。落ち着け、失敗の理由を考える、スイッチを勢いよく入れすぎたんだ。失敗さえ回避すれば成功する、当たり前のことだ。

「三枝典子です」

落ち着いて自分の名前を言う。課題作品のプレゼンはスムーズだった。理事長の質問は何もない。何も聞きたいことが浮かばないくらい、平々凡々、引っかかるものが何もなかったのかと、青ざめそうになる。

 気を取り直して、自由作品の資料を開いた。スクリーンにアルコールマーカーで色付けしたデザイン画が大きく映し出される。

「このドレスの名前は『Bloom』です。人生の再生を現しています。その象徴がこの赤いデニムのコルセットです。クレマチスの花をイメージしました、花言葉は一説では甘い束縛。スカイブルーとモダンなコントラストになっている点もポイントですが、一番大事なのはこのコルセットの意味合いです。本来、コルセットは衣装の下につけて女性を締めつけるためのものでした、しかし、現在では衣装の上で堂々と身につけるのです。それが、開花。衣装の下で芽生えたものが衣装の上へと花開くというメッセージを込めています」

 気のせいか、ほんの少し、理事長が身を乗り出した気がした。

「この衣装は、映画『ジリアン』のヒロイン、ジリアンに着てもらいたいという想いから始まりました……」

「つまり、借り物のテーマということですか」

理事長の鋭い質問が飛んできた。よし、やっと口を開かせることができた。よし。

「はい、その想いはなかったことにはできません。幼い頃からの原動力そのものですから」

わたしは愛おしそうに、デザイン画の中のドレスを見つめた。この愛を過不足なく伝える。この機会は今日やっと巡ってきた。全力を出すんだ。わたしは自分をそう奮い立てた。

「しかし、デザインは新しい解釈のもとゼロから再構築したものです。ゴシックドレスは旧来の女性の美を意識しています。伝統を尊重しながら、そこからの開放を目指しました。その象徴がこの白いTシャツやカットオフ、ダメージ加工に現れています。これらは全て自由な労働と、開放への願いです。反骨精神の象徴でもあります。そして、このドレスの下、インディゴブルーのジーンズ……」

わたしは薫さんの顔を思い浮かべる。

「こちらはもう一人のモデルの女性のためのデザインです、彼女はここ数年デニムを履いていないと言いました。だからわたしは是非ともデニムを履いてもらおうと思い取り入れました」

「どうして?履いてもらいたいから、それだけではないでしょう」

理事長は質問をしながらも、なにかの確信を持った顔に見えた。わたしはそれに応えるように言葉を続ける。

「はい、彼女はずっとデニムパンツを履きたいのに、履けなかったのです。その言葉が全てです」

みんながこちらを見つめる。先ほどまで、自分のプレゼンでいっぱいといった顔だったのが興味の色で染まり始めるのを感じた。

「彼女のような女性は現実に存在しているのです、自分の好きなファッションすら制限されてしまうような……女性だけではないでしょう。人は誰かに縛られることがしばしばあります。それは親だったり、あるいは立場だったり、金銭的な理由もその一つと言えるでしょう。でも、未来を切り開く力も同時に持っていると、わたしは信じています、これはそのお手伝いができるようにという願いを込めた一着なんです」

 わたしはそのあとも、ティアードスカートの切り替えにデニムと、赤いタナローンチェックを交互に使うこと──伝統の中にも隣り合わせに自分の色が潜んでいる、並び立てて、共存は可能だ。といったようなこと、また、技術的なことなども時間いっぱいにプレゼンした。

「なぜ、クレマチスなのですか」

「クレマチスの花言葉『甘い束縛』、そこから着想を得ました。甘い束縛とは、自分自身を自らの手で支えることだと解釈したからです。この絡まりつく蔓はそれをイメージしたデザインです」

「……わかりました」

これが理事長からの最後の質問になった。彼女は表情を変えないまま、目線だけを落としてタブレットに何かを書きつけている。わたしは息切れしそうな思いで顔色をうかがうが、このわかりましたに、どんなにニュアンスやトーンがあったかを感じることができなかった。


 エレベーターを待ちながら、また身を寄せ合う。

「わたし、本当に……ファーストルック、務まるかなあ……うう」

えっちゃんは今にも泣きそうだ。眉を大きくしかめて口をへの字に曲げた。わたしと綾乃はえっちゃんの背中を優しくさする。

「大丈夫だよ、えっちゃん本当に真面目にさ、テキスタイルに取り組んでたじゃん、糸も自分で選んで、染色もいっぱい、トライアンドエラー繰り返してさ、それだけじゃないよ、ちゃんとモノにしたんだから、見てもらうべきだよ」

 綾乃が声をかける。わたしも同じ思いだった。えっちゃんは課題作品のフルレングスドレスに、リンゴの木を織り込んだ北欧テキスタイルを、ケープの裾にアクセントとして取り入れたことが高く評価された。

 ショーのテーマは「伝統と未来の調和」。北欧においてリンゴは「女神イドゥンの黄金のリンゴ」を表し、生命力や、豊かな未来を象徴している。純白のドレスは北欧の雪深い伝統風景を意味し、それにより、テーマに沿った優れた作品として、ショーの始まりを飾ることになった。織物のフリンジがウォーキングの時に軽やかに揺れることもポイントだった。

「それなら、綾乃だって……」

えっちゃんが声を搾り出す、綾乃は得意の編み物で、ウエディングドレスに様々なレースの花が立体的な彩りを加える。胸元から裾まで、真紅のバラ、色とりどりのガーベラ、時にマーガレットの花芯の黄色が色味のアクセントとなり、黄金螺旋(おうごんらせん)(えが)きながら飾られる。その圧倒的なボリューム感と華やかさから、ショーのフィナーレを飾ることになったのだ。

 綾乃は何も言わずに、落ち着いているように見えるが、かすかにふるえている。えっちゃんと二人、少し強めに彼女の背中を撫でた。

わたしは、こんなに素晴らしい友達と出会えた喜びでいっぱいになる、彼女たちの努力が、実力が、こうやって評価された。今までに感じたことのない充実感だった。

「典子は……」

えっちゃんが言いかけて、言葉を飲む。きっと、それを言葉にすると何かが決壊して、とめどなく涙が溢れてしまうからだろう。わたしは二人に向かって強く頷いた。

 エレベーターを降りて、エントランスに向かうと二人に切り出した。

「えっちゃん、綾乃……ごめん、わたし今日のことを伝えなきゃいけない人がいて……」

えっちゃんと綾乃はわたしをまっすぐに見て微笑む。

「ありがとう」

この学びの場を通して、二人とは心が通じ合ったかのような思いだった。わたしは丁重にお礼を言うと、最後に三人でまた、抱き合う。

と、同時に走り出すように歩き出す。

 薫さんはスマホをチェックされているのではないか──その疑惑から、薫さんへの連絡は慎重に行なった。あの夫は自分以外が、彼女と頻繁に連絡を取り合っていたら、確実に面白く思わないだろう。

 だけど今日だけは、彼女に、繋がってほしい。どうか電話を取ってほしい。祈るように指をスマホにくっつけ、離す。コールが一回、二回、三回、増えていくたびに、鼓動が速くなる。

「……ノッコちゃん!?」

驚いたような彼女の──薫さんの声が聞こえると、わたしは(くず)おれそうになるのを必死で堪える。

「薫さん、今から話せますか?大丈夫、良いニュースです」


 紫紺(しこん)の上品なカーディガン、それだけでもう彼女だとわかる。そわそわと落ち着かずにビルの前で、その場を行ったり来たりしていたが、地下鉄の駅から薫さんが上がって来るのを確認すると、わたしは一気に駆け寄る。早鐘のような鼓動がうるさかった。

「こらこら、危ないよ、走っちゃ」

全身でわたしを受け止めながら、薫さんは笑う。ライラック色のボウタイブラウスがふわりと揺れた。

わたしは弾む息を整えもせずに、

「薫さん、あのドレス、ショーストッパーに選ばれたんです」

一気にこう言うと、思い出したように息を呑んだ。

「大丈夫?落ち着いて、ショーストッパーって?」

薫さんは微笑みながらも、わたしを人通りの少ない方へ誘導する。

「一言で言うと、ショーの目玉です」

「えっ、凄い、えっ、やったじゃんノッコちゃん」

少し体をのけ反らせながら、薫さんは笑った。わたしはようやく息を整える。

「ありがとうございます、まだ実感が湧きません、本当にその日が来るなんて……これであのドレス、えっと『Bloom』と名付けたんですけど、そのBloomがついにランウェイを歩けることになったんです」

心臓がまだ、ばくばく跳ねる。薫さんがじっとわたしを見つめる。そうすると、彼女はゆっくり口を開いた。

「それってどこで?」

「えっ」

「どこの会場なの?行こうよ今から」

そう言って薫さんはニッと笑う。いたずらを企んでいる子どものような笑顔だった。

 

 山手線の内回りに乗り込む。

「電車乗るの久しぶり」

薫さんはそうわたしに耳打ちすると肩をすくめる。シートに座って、お行儀よく揃えられたバーントアンバーのロングタイトスカートと、黒いローファーは、優雅というよりは、小学生みたいで可愛かった。

 今日は、本当に幸運だった。薫さんの夫が仕事のトラブルに巻き込まれ、当分帰れなくなってしまったらしい。そう言いながらもふらっと帰ってきそうな不安はあるが、薫さん曰く、本当に帰れない時は特有の苛つきを感じるらしい。そして今回はそれがあった。妻とその友人にトラブルを幸運だなんて思われたら普通は気の毒だが、この場合は自業自得だと開き直らせてもらう。……自業自得だなんて、本当はこの人の周りに、こんな言葉があっていいはずがなかった。

 そうすると、彼女はどうしてもわたしに会って話がしたくなったらしく、わざわざ学校の最寄り駅まで来てもらえることになった。ちょっと恐縮してしまったが、わくわくといった様子で電車を楽しむ薫さんを見ると、やっぱり悪くなかったかと思う。ラッシュ前、嵐の前の静けさを感じる。この時間の電車はわたしも久しぶりかもしれない。薫さんの目線が踊るのを横で感じる。チェーンクラッチの持ち手を指でなぞっていた。彼女の爪はよく手入れされているが、ネイルはしていない。その指先から「綺麗でいろ、ただし目立つな」という矛盾を感じた。

 タタンと繰り返すリズムを聞いていると、小さいころ、電車に乗って遊園地に出かけたことを思い出す。近づくにつれ、大きくなるジェットコースター。その時と同じ、弾むような思いを、隣に座る彼女から、肩越しに感じた。

 高田馬場駅で降りる。薫さんは慣れた手つきで、改札に切符を通す。カシャンと小気味の良い音が響いた。

「身体は覚えてるもんだね〜」

人の流れを避けながら、わたしに吸いつくように歩み寄り、おどける。

「切符代、大丈夫なんですか」

わたしは、おそるおそる尋ねる。

「うん、看護師時代の貯金口座、必死に取り返したんだ」

薫さんはいつかのように親指を突き立てる。わたそはそれを本当に戦士の勲章だと思う。でも、取り返した、という言葉が一回は奪われたことを意味していて、悲しかった。


 ビルとアスファルトを縫い、歩く。時々見える横断歩道が、シマウマの背中のようだ。街路樹を横目にまた歩く。時々、言葉を交わしながら、遠足のようにはしゃぎながら。電信柱を渡る電線が航海を祝うテープに見える。

「もしかして、あたしここの文化ホール来たことあるかも」

わたしたちのショーが開催される文化ホールに向かう景色に、見覚えのあるものがあったのか、薫さんが首をかしげつつ、こう言った。

「地域の子どもたちの発表会の時とかにね、あいつの付き添いで、来賓として招待してもらうんだ」

「そうだったんですね」

そんな活動もしていたのかと少しびっくりした。

「子どもたちの発表の時間は癒しだったよ〜。あたし、いつも泣いちゃうの。若い子が頑張ってる姿って見てるだけで感動しちゃうよね」

薫さんはにこにこと目を細め、優しげな笑顔を浮かべた。わたしにはまだよくわからない感覚だったが、薫さんが楽しそうだったので、微笑んで頷いた。

 文化ホールに到着する。直線的な外観だが、ところどころに流線的なデザインが見える。ビルがひしめき合っていた中に、いきなり空間がひらけたようだった。

「やっぱり、そうそう、ここだよー、ちょこちょこ来たことある」

薫さんの顔がパッと明るくなる。わたしたちは、他の通行人の邪魔にならいよう、端っこに寄ってホールを眺めることにした。大きな一枚岩みたいに地面に張りつく、その建物をしばし見ていた。

「凄いねー、もうあと何ヶ月か後に、ノッコちゃんのドレス……Bloomが、ここの舞台を飾るんだ」

うっとり、目に焼き付けるように、薫さんはホールを(くう)でなぞる。その指先は、指揮者のように、バレエダンサーのように軽やかで、感情が豊かで、そして一番美しかった。

「あたしね、子どもたちの発表が終わったら非常階段に座ってた」

ポツリと、だが、言葉がわたしの耳をつらぬく。わたしは、薫さんの顔を見つめて、じっくりとその言葉の続きを聞いた。

「発表会が終わったらね、夫たち来賓が近況という名の鞘当てをしゃべり始めるの。あたしにとっては本当にどうでもいい話……お手洗いのふりをして、非常階段に逃げてた。非常階段の案内板の通りに行くと着いちゃうから、日本の建築技術は優秀だよね。アハッ……本当はそんな所にいるの、好ましくないよ。でも重たい非常扉が冷たくて心地よかった。戻ったら『長いトイレだな』って心底バカにしてあたしを笑い物にしようとする。でも、そんなことはどうでもいいことなんだ。時々、『女性はお化粧直しとか、時間がかかるものなのです、先生、あなたのためですよ、素晴らしい奥様だ』って言ってくれる優しい人もいた。でも、それもやっぱりどうでもいい。……時々ね、非常扉を開けて、様子を伺うことがあるのね、そしたらたまたま通りかかった子どもたちが、小さな手をひらひら振ってくれるの。それだけでも愛らしいんだけど、『おねーさん、見に来てくれたのーありがとー』って、声をかけてくれるんだ。……あたしはいつも思ってた、この子たちはあたしみたいになってほしくないって、この子たちの幸せがずっと続いてくれたらいいって、あたしみたいにパートナー選びに失敗しないようにって……」

彼女は一気に思いを吐き出すと。ぽろりと一粒だけ涙を落とす。わたしはバッグから慌ててハンカチを取り出そうとする。薫さんはまっすぐ前を見ながらこう言った。

「決めた……あたし、ランウェイ歩く」

先ほどの涙はすっかり乾き、両の瞳に眩しいくらいの光を宿していた。その色は夕日に(あか)く染まっていた。  


 

 わたしは早速トワル制作に取りかかった。デザイン画をもとに、プレゼンのフィードバックを反映しながら、第一案を薫さんに着てもらった時に測ったサイズで、パターンを引いていく。

 学校には先生も、仲間たちもいるから制作も心強い。卒業制作に向けて、学校も活気づいていくのを感じた。今日は先生にとある相談をした。もう、前から話していたことではあるが、やっと決心がついた。すると先生はこう言う「保護者のかたともよく相談して」……当然の話だった。少しだけ、家路に向かう足取りが重くなる。

 家に帰ると、母に電話をかけた。思えば自分からかけることなんて数えるほどしかなかったかもしれない。スマホを手に取ると、電話帳をなかなか開けずに、受話器のマークの上で指がぷるぷると震えていた。普段は感じないような緊張に、思わず息を飲んだ。飲んだ息をゆっくり吐き出し、意を決して電話をかける。

『典子?どうしたと?あんたからかけるなんて珍しいやん』

電話越しに、母のどこか、のんきな声が聞こえる。

「……本当は、もっと早く話さんと、いけんやったんやけど」

対してわたしは、言葉を選びながら、辿々しく並べていった。

「お母さん、わたし、来年も学校行きたいんよ。あのね、オートクチュールを重点的に学べる……追加の学科が三年目にあると、……オートクチュールっていうのは、要は一点ものよ。わたし、舞台衣装を作る人になりたいんよ。舞台っていうのは役に合わせて衣装を縫うやろ?ここで学ぶスキルが役に立つんよ、ここから就職しとる先輩もおる。先生にも行った方がいいって、言われとるんよ」

わたしは一気に続ける。

「学費は、ほんの足しにしかならんやろうけど、バイトで貯めたお金もあるし、奨学金制度も使える」

沈黙が怖かった。次に帰ってくる母の言葉はネガティブなものしか想像できなかった。

『……あんたは、そこでもっと勉強したいん?』

「うん、……わたし、まだ絶対学び足りてない、もっと勉強せないけんのよ……ごめんね、一生懸命やったつもりやったけど足りんやった。もっと上があるんよ、わたし、そこ目指したい」

胸が詰まる。申し訳なかった。今日までの母に対する全てが。

『なら、しょうがないんやない、学費なら心配せんでよか、何のための貯えやと思っとるんよ』

その言葉に、思わず涙がこぼれる。わたしの方こそ母をみくびっていた。

「ごめんね、必ず返すから」

声が震えるのを隠すことができなかった。電話越しに、ため息が聞こえた気がした。

『返さんでいい、よく言うやろ、子どもは三歳までに一生分の親孝行をしとるって、お母さんの方こそ、帰ってこいばっかりで、あんたのこと信用しきれとらんかったね。ただね、就職はしっかりするんよ』

見えるわけはないのに、わたしは思わず何回も頷いてしまった。

『お母さん、氷河期世代やけね、就職できんやったひとの苦労、嫌ってほど知っとるんよ、ほんと、面接ダメやったって話、何回も、何回も聞いた。そんで、そのままフリーター、悪ければ引きこもりやったんよね。時代やった。やけん、ちょっと、神経質になりすぎとったね、ごめんね』

また、わたしは首を横に振ってしまう。だから、お母さんには見えてないんだってば。

『あんたが、送ってくれた、授業でやったって言っとった、編み物……サシャ……サシュやったっけ』

「サシェ」

『そう、それサシェ、おばあちゃんが可愛いって言って、喜んどったよ。お菓子入れとらす』

「本当は、ポプリ入れるんやけどね、まあ喜んでくれたなら、好きに使ってくれた方が嬉しい」

わたしは、笑顔を取り戻す。まさか、こんなに母に敵わないとは。ひとつ呼吸をすると、また黙ってしまう。母もわたしの言葉を待っているかのように、しばし沈黙が広がる。それではいけない、ちゃんと言葉にしないと。

「お母さん、ちゃんとまだ言えとらんかったよね、……ありがとう」

『やめて、やめて、お母さんも泣いてしまうやろ』

やっとのことで口を開くと、母は笑った。その笑い声は、嫌なことを全部、溶かしてしまうようだった。



 トワルを着てほしかっただけなのに。何故こうなったのだろうか。結論から言うと。薫さんと連絡が取れなくなってしまった。

 

 卒業制作はパターンを引いたらトワル(安価な布で作る試作)を着てもらって、完成度を高めていく。ウォーキングの動きにも合わせるので、それは必要な作業だった。

 わたしは簡潔に、出来るだけ情報を削いで薫さんにメールを送った。彼女は一緒に文化ホールを見に行ったとき、看護師に復職する話を進めていると言っていた。そのとき、ミラノ風ドリアを懐かしそうに眺めながら「何年ぶりだろ」と呟いた言葉が耳に残る。反応は、やはりというか、あまりよろしくないらしい。

 メールの返事は「了解しました」だけだった。この一言が命綱のように思えた。しかし、その細い綱はあっけなく切れた。学校でトワルチェックを行うので、来てもらうはずだったのだが、彼女は来なかった。わたしは、先生に丁重に詫びたが「スケジュールを合わせやすいモデルの方がいい」と言われてしまった。分かっていたことだが、自由に動けないことがここになって牙を剥く。ひょっとして、モデルを頼んだことで、彼女をかえって危険な状況に晒してしまっていないかと、重たいものが胸に広がった。

 家に帰ってこれからのことを考えていた、トワルチェック──ランウェイに近い形で、着用感を含め服の見えかたをチェックすること──を通過しないと前に進めない。どうしようか。あれやこれやと、考えていると、部屋はすっかり暗くなっていた。蛍光灯の紐を引くと、チャイムが鳴った。誰とも約束はしていない。またセールスだろうか、少しイライラしながらインターホンを覗くと、わたしは度肝を抜かれた。そこに映っていたのは薫さんだった。

 

「ノッコちゃんこんばんはぁー」

慌ててドアを開けると、今まで聞いたことないほどの大声で薫さんが言った。

 素早くドアを閉めて鍵を閉めると、薫さんはわたしにしなだれかかった。咄嗟に腕を伸ばして支えると、彼女の体温が伝わった、少し熱い。具合が悪いのではない、その顔は愉快といった調子で紅潮し、笑顔を浮かべ、上半身がゆらゆらと揺れていた。

 わたしは、薫さんを支えながらダイニングまで進む。その重さが短い廊下へと吸い寄せられるようだ。力の抜けたひとを運ぶのがこんなに大変だとは思わなかった。なんとかダイニングチェアに座らせると、だらりとうなだれる。いつも背筋を伸ばして腰掛ける彼女は見る影もなかった。

「薫さん、どうしたんですか」

わたしは膝をついて、彼女の目を覗き込もうとしたが、髪が邪魔をして見えなかった。

ひひひと声を立てて薫さんは笑った。

「ごめん、ごめんねー今日行けなくて、怒ってる?」

顔をさげたまま、また大きな声を出す。

「怒っていません、何かあったんですか、よかったら聞かせてください」

初めて会った日を思い出す。あの夜も、お酒に酔っていたが、これほどではなかった。わたしは少し視線を泳がせる。ただごとじゃないことが起こったのであろうことは想像できた、だけど、それ以上に薫さんの変貌ぶりに、自分でもびっくりするくらい動揺していた。

「ふふふ、ダメなんだってー……あたしは、外にでちゃダメ、家事も、仕事もしちゃダメ……ねえ、それって生きてるって言えるの」

その言葉に胸が引き裂かれそうだった。

「落ち着いてください、そうですよね、そんなの辛いに決まってます」

そう言って、薫さんの肩を撫でようとしたら、彼女はにわかに上体を起こした。

「本当にわかるの?あなたにっ、自由にお洋服を縫ってるあなたにっ」

ぼろぼろと涙が薫さんの頬を濡らす。親戚の子どもがこうやって駄々をこねていた。彼女もほんの子どもなんだ。無防備な心はずっと奥の方に閉じ込めていたから、こうやって時々しか取り出せないから、まだ、子どものままで時が進んでいないんだ。

 分かっているけど、わたしも傷ついてしまった。自己満足だと答えを突きつけられたようなものだから。

「わからないかもしれません、だけど……」

それを否定したくて言葉を続ける。自分でも情けないほどに声がうわずる。

「だけど……来てくれて嬉しい……です。……このまま逃げることは出来ないんですか」

「無理だよ」

薫さんの声には、長い時間をかけて根を張った諦めの色が滲んでいた。ふいに彼女の手がわたしの髪に触れる。

「あたしも、これくらい髪を短くしてみたかった」

鼻をすすって、さらに涙がこぼれ落ちる。わたしは金縛りみたいに身体が動かない。

「あなたは、あたしが、夢見るようなこと、なんでも……なんでも出来て……でもあなたはあたしじゃないから……どうして……」

言葉を切るとしゃくり上げる。すると彼女は、信じられないくらい声を張り上げ、こう言った。

「どうして、あたしに夢を見せたのっ……」

目の前がちかちかする。

 薫さんはよたよたと立ち上がると、玄関へと向かう。わたしは思わずその腕を取ろうとした。そのすんでのところで、彼女は海の底のような冷たい声で言う。

「あたしはジリアンじゃない……」

いきなり心臓を掴まれたような鈍痛が胸に広がる。伸ばした手がだらりと落ちてぶら下がる。

 いまだわんわんと泣きながら、彼女は出ていった。

わたしは、頭では送らなきゃ、とか、タクシーにちゃんと乗ったのだろうか、とかぐるぐる心配しているのに、一歩も動けなかった。



 ダイニングチェアに座って呆然とする。部屋は静まりかえって、カチコチと目覚まし時計の秒針の音だけが耳に障った。このテーブルを囲んで、カレーを食べた日が嘘みたいに思える。

 薫さんはどんな服を着ていただろうか、初めて会った夜と同じ、ルビーレッドのトッパーコートを羽織っていた気がする。そんな丈の短いアウターで……寒くしていなければいいが。

 改めて、考える。自分はどれだけ、ひとりの女性を危険に晒していたのか。今日、彼女にあんなにお酒を飲ませてしまった犯人は間違いなくわたしだ。

「本当に独りよがりだった……」

思わず、口からこぼれ落ちた。顔が石仮面になったみたいだ。何一つ表情を作り出せずに固まっている。

 軽く考えていたのだろうか、いやそんなことはないはずだ。ドレスを着て、アルバムの一枚を彩るということは、有意義なはずだ。

──あたしはジリアンじゃない

薫さんの言葉が繰り返し頭に響く。わたしはジリアンの問題を勝手に薫さんの問題に重ねていただけではないか。

なんて浅はかな──。拳を握りしめた。それで救われるのは、果たして彼女だったのだろうか。いいや、わたしだ。わたしの安っぽいヒロイズムを満たすだけだった。

 本当にそれだけ?……たとえば、友達の笑顔が見たいという想いは、本当に悪いこと?それはヒーロー願望から来る思い?

 違う、それは薫さんがむけてくれた笑顔を裏切ることになる。新しい一歩を踏み出す彼女に、この手を差し出したかった。その気持ちは絶対に嘘ではない。カチコチといたずらに秒針が進んでいく。

 部屋の窓に、ブレーキランプの(あか)が反射する。この色は何かに似ていた。踊るような指先を思い出す。夕日に染まった文化ホールをなでる手。あの日、その(あか)を瞳に映しながら薫さんが語った決意。それも嘘ではなかったはずだ。そうだ、どうして思い出せずにいたんだろう。彼女の想いを無視しまっては、あの夫と同じだ。

 薫さん──。今まであなたが逃げる場所はお酒しかなかったんですね……。わたしはのろのろと立ち上がると、冷蔵庫を開けた。あの日、カレーとクラムチャウダーを一緒に作った日。薫さんが残していった白ワインが静かに眠っていた。今日まで、なんちゃってボンゴレビアンコくらいにしか使ってなかった。わたしはお酒を飲んだことがない。このワインも上等なものなのだろうか、わからない。ボトルに描かれたアルパカを見ると、いつもは可愛いと思っていたが、今日はなんだか不気味に見えた。 

 わたしは、ボトルを手に取ると、出来るだけフォルムの丸いグラスに注いだ。口にワインを含むと、一気に飲みくだす。酸っぱくて、喉が灼けた。グラスに波紋が広がる、わたしが涙を落としたからだ。

 美味しくなかった。でも、薫さんはきっと最初はお酒を心から楽しんでいたのだろう。また、彼女が奪われていた楽しみを一つ知る。消してしまいたい思いを一体どれだけ抱えていたのだろうか。だから、わたしはそれ以上飲むのをやめた。

 わたしはしっかり覚えておかなければ、自分の想いも、薫さんの決意も。

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