三章 アドレセント
おれがバイトを始めたのは気まぐれだった。
欲しいものがあったらだいたい親が買ってくれたけど──そもそも参考書とか以外に欲しいものがあまりなかった。気を使わずに使えるお金というものも持ってみたかった。働くという行為にも興味があった。
そんなことを考えていたら、昔から地元にあるオシャレなイタリアンのお店で、何やらアルバイトを募集しているらしいと、母が世間話で言っていた。
赤レンガのレトロな店構え、でも、よく手入れされたガーデンは毛虫一匹道路に落とさない。そんなところでバイトしてるだなんて言ったら、クラスでちょっと話題になる、もっと言うとモテるかもと思った。そもそも、おれにそんな願望があったこともびっくりした。
超進学校というわけでもなく、商業経済や農業などに特化した科があるわけでもなく、おれは普通の進学校に通っていた(母曰く、従姉妹のカノンちゃんは商業高校の簿記部に所属していて、簿記の大会で準優勝したらしい、ちょっとだけ興奮気味に、そして誇らしげに話していた)
そんな高校に通っていると、優秀すぎても嫉妬され、落ちこぼれすぎると馬鹿にされた。それはまるで平凡な人間に与えられた、当然の娯楽と言わんばかりのゴシップだった。
ことさら勉強以外のことで目立つなんていったら──例えばSNS用のダンスを教室で踊る、だとかは、叩いてくださいと言わんばかりのアポトーシスだった。
その点おれは、勉強以外でこれといった趣味もなく、息抜きでたまに動画サイトの動画を見るだけ。成績も学年で上から数えて十ナンボ。それでいいと思っていた。はみ出すことは怖い。自分が学校の人間に娯楽として消費されるなんて、考えただけでゾッとする。そんなおれが「クラスの話題になるかも」なんて考えるとは自分でもびっくりした。
だけど、ダサい場所で働いてるなんて噂が立つのはもっと耐えられない。それならば、バ先オシャレだねって声をかけられる方がずっといい。
そんな邪な思いで採用面接を受けるとあっさりと受かった。履歴書のおれの高校名を目にするとオーナーは、
「あー、あそこの生徒さんね、いつも真面目に働いてくれるから」
と言って、うんうんと頷いた。おれは先輩や卒業生の素行に感謝した。
早速次の日からおれはバイトに行った。ちょっと髪が長いのが気になったので、顔だけは出しとこうと洗面台でアップバングにセットする。飲食店なのでワックスは無香性がいいだろうな。
初日のおれは教育係の先輩から教えられながら働くことになった。同年代、ちょっと年上かな?ってくらいの女子だった。
一目見た時はなんてとっつきにくそうな人なんだろうと思った。
なんていうか、目力が強い。絶対に「普通」じゃない雰囲気を纏っていた。
「初めまして、えと米山くん?でいいんですよね、わたしは三枝典子といいます」
しかし、その人は気さくにおれに声をかけた。
「最初は、わたしの横について仕事を見ていてください、まずはテーブル掃除から始めますね。これは、ダスターっていうのですが、これを使って拭いていきます。ダスターって言葉は覚えてください、『ダスター取ってきて、ダスターで拭いて』なんていうのはよく言われる言葉なので」
そう言って、三枝さんは折り畳んだダスターを、おれの見えやすい位置に差し出して見せてくれた。おれはエプロンから慌ててメモを取り出し、いそいそと「ダスター、雑巾みたいなやつ、不織布でボーダー柄、机を拭く」などとメモを取る。
「急がなくていいですよ、今は開店準備の時間なので、このお店はランチの後に中休みがあるんですよ」
教育係さんはおれがモタついて焦っている様子を見て、柔らかに笑う。意外と優しいひとなのかもしれない。
それから、お冷の補充やら、どの棚に何が収納されているか、やら色々教わり、おれは必死でメモを取った。三枝さんはメモを取り終わるまで待ってくれたので、やはり優しいひとで間違いなさそうだった。
それから、お客さんが来店すると、三枝さんの横に立って、彼女の仕事を見ていた。カマーベストには研修中のバッジをつけているので、それについてとやかく言うひとはいなかった。
お客さんの注文を淡々と捌くこのひとは──三枝さんは、特ににこやかな笑顔を向けるわけではないが、お客さんは誰も不快には感じていなさそうだった。ただ微笑むだけで、このひとからは気品が滲み出ているようだった。気品というのも少し違うかもしれない、なんていうんだろ……魅力?
今日の仕事は終わり、と言ってもおれは見てるだけだっだけど、三枝さんは、
「お疲れ様です、オーナーは希望者にはまかないを出してくれるんですが、米山くんはどうしますか?」
と声をかけてくれた。おれは、これは参加した方がいいイベントだな、なんて考える。
「頂いて帰ります」
おれはこう答えると、更衣室に入り、急いで母に「まかないあるからご飯いらない」と連絡した。
着替えなくていいので、休憩室に来てくださいと言われていた。
おれが休憩室に入ると、トマトとガーリックが香ばしい、トマトスパゲッティが二つ机に並んでいた。向かい合わせから、一つずれた斜向かい。ソーシャルディスタンスの名残りだろう。お皿の上にはナスやパプリカの切れ端や、ちょっと形の悪いバジルなど切れ端野菜がたっぷりトッピングされていた、きっと野菜を取れという大人のメッセージなんだろうな。
「わ、具沢山でうまそう」
おれは、これは喜んだ方が丸いと思いそう言って笑った。実際、まかないで栄養バランスを考えてくれるのはありがたいことだった。
三枝さんは、先に休憩室に来ていたようだ。
「あ、米山くん、ここでお水とお茶注げるよ」
そう言って彼女は、ウォーターサーバーの前で実際に注いで見せた。
「あの、それって、タダ……ですか?」
おれが言うと三枝さんは、一瞬きょとんとした後、微笑んでこう答えた。
「もちろんタダだよ、オーナーの奢り、福利厚生とも言う」
バカなことを聞いたかと思ったのに、キチンと答えてくれた。
「この、紙コップも自由に使っていいやつ、あ、あそこの冷蔵庫も自由に使っていいやつなんで、缶コーヒーとかペットボトル、持ってきて冷やしていいよ……あ、ごめんごめん、あんまりいっぺんに言うと、パスタ冷めちゃうね食べましょうか」
続けて彼女はこう捲し立てると、窓際の方に座った。窓の月明かりを受けて、輪郭が青白く染まる。どうぞこちらに、とおれを座らせたあと、いただきます、と三枝さんは呟いた。
「三枝さんって、学生ですか」
美味しそうにまかないを口に運ぶ彼女におれは質問した。
「うん、専門学生」
彼女は、きちんと飲み込んでからこう答える。
「へえ、なんの専門学校ですか?」
「服飾系だよ」
パスタを巻き付けながら三枝さんは答えた。
──服飾系……やっぱりこの人は「普通」じゃなかったんだ。
おれは、言いしれぬ気後れを覚えた。どうした、おれ、目立つやつは下じゃないのかよ、どうして気後れなんか。こう思うと自分でもバカみたいだが、悔しかった。
でも、そんなことはおくびにも出せない。人間関係から弾き出されるのは何より怖い。
「すごいですね、もう将来設計ができてるなんて」
おれはとにかく明るくこう言った。
「んー……うちの学校、就職には強いみたいだけど、はあ、それでもやっぱり不安だよ、自分にできるかってね」
苦笑いの三枝さん、それでも瞳には希望の光が宿っていて泣きたくなってくる。
おれはそれから黙ってパスタを啜っていた。
帰り際にまた三枝さんが声をかけた、
「明日もわたしが指導します、よろしくお願いしますね」
「はい、よろしくお願いします」
おれは元気よく頭を下げたけど、惨めだった。明日もこの人と一緒にいなければいけないことが。
翌朝、おれはダウンコートを羽織ってチャリでイル・クォコ──バイト先のイタリアンレストランに向かった。
冬休みに突入して、寒さは本格的だった。時折「ピューッ」とバカ高い風の音が耳の横を通り過ぎていく。
しかし、お店に着いたら、チャリを漕いだことで暑くなってしまって、従業員出入り口の前でコートを脱いだ。
「おはよーございます」
挨拶をして事務室に入った瞬間、おれは血の気が引いた。どうせ、制服に着替えるからと、あまりにもテキトーな服を着てきてしまったことに気づいたからだ。赤いネルシャツはまだいいんだけど、その下、中学の頃、母が買ってきた、だっさいTシャツだ。人がいなかったことがまだ幸いだった。おれはダウンでTシャツのプリントを隠しながら更衣室へと急いだ。
──トントン!!
おれは、ビクッと身体を跳ねた。ノックをして入って来たのはよりにもよって三枝さんだった。思わず身体がこわばる、石のように固まって言うことを聞かない。おれはびっくりした拍子にダウンジャケットを床に落としていた。
「あっ、ごめん、驚かせちゃった?……あ、そのTシャツさ」
三枝さんはそう言うと、おれのシャツのプリントに目が釘付けになる。そのまま、じりじりとゆっくり近づいてきた。
──バカにされる!!
おれは、さらに身体を固くした、背中に冷たい汗がツツ……と流れ落ちる。
「綺麗な三分割構図だね」
三枝さんがなんて言ったのか分からなかった。
「あっ、えっとね、デザインにそう言う技法があってね」
彼女は少し慌てると、事務室にあった定規を手に取った。
「こうやってね、画面を三分割するでしょう?」
ギリギリ触らない近さで、おれのシャツに定規を当ててゆく。
「このね、この線が交差するところに大事な要素を持ってくるの、このプリントの場合だと猫ちゃんのお顔だね。
あとほら、尻尾がくるんと巻いてあるところはこの分割の線の角に丸まってる、可愛いデザインだよ、綺麗」
三枝さんは顔を綻ばせた。
「ネルシャツとのカラーコーデもいいね、このTシャツがコーヒー色で、オイスターホワイト……黄色がかったうすい灰色で猫ちゃんのイラストを書いてるから、ネルシャツの赤がよく合う……ん?あれ、このダウン米山くんの?」
そう言うと、彼女は丁寧にダウンを拾っておれに渡してくれた。
おれは思わず、ケラケラと笑ってしまう。
「……ん?あっ!ごめんー!またやっちゃった、語りすぎちゃったよね、申し訳ない」
三枝さんはハッと顔を赤くし、両手を顔の前で合わせて謝る。
おれは慌てて、
「違います!拾ってくれてありがとうございます、こっちこそごめんなさい、笑ったりして」
と続けた。泣いてしまいそうだったからなんて絶対言えない。彼女は不思議そうな顔を浮かべていた。当然だ、彼女からしたら、それではなぜ笑われているか分からないだろう。どうしよう、なんて言えば失礼にならないかな。
「とにかく、時間取らせてごめん、着替えてきていいよ」
時計を見ながら、三枝さんは慌てて更衣室に促した。おれにゆっくり着替えて欲しいという配慮だろう。
おれは制服に着替えながら、あのひとにかかればおれが、いや、クラスの連中だってダサいと言うこのTシャツも可愛くて、綺麗なんだな、と思った。
ところで「また語っちゃた」と彼女は言ったけど、誰なんだ他に彼女と語ったやつは。
おれは釈然としない思いを抱えながらひとつ、ため息をついた。うっすらと熱を帯びているようなため息だ。彼女の黒髪のボブにシルバーのメッシュがかかっていたことを思い出す。
着替えを終えて、事務室に戻ると、オーナーが来ていたので質問してみた。
「髪色って、染めてもいいんですか?」
オーナーはキョトンと目を丸くした後、
「ええ、自由ですよ、清潔感を損なわない限りはね」
微笑んでこう答えた。
おれは、もうモテる必要なんてないな、って考えていた。
ホールに出ると、三枝さんがおれを待ってくれていた。
「改めて、おはようございます、米山くん」
今日も変わらず柔和な微笑みを湛えていた。おれは、
「ヨネやんて呼んでください、あ、もちろんお客さんのいないところでね、学校で呼ばれてるニックネームなんです」
と無意識に答えていた。
オーナーに許可を得て、メニューのコピーを持って帰った。もちろん、オーダーをスムーズに取るため、暗記用。二、三日あれば丸暗記出来る。勉強は苦手じゃないから。
おれは、冬休みにはみっしりシフトを入れた。仕事を覚えたいというのはもちろんあるけれど、来年は受験なので今みたいに働けないだろうから。
今日は遅番、ディナータイムの出勤だ。土曜日のディナーはお客様が多く訪れるが、今日の気分は沈んでいなかった、典子さんがいるから。
髪に色を入れてから、クルクルと指で髪をいじるのが癖になってしまった。バイト中は絶対にしないように気をつけているが。
生まれて初めてヘアサロンに行って、パーソナルカラー診断というヤツを受けた。その結果のオススメのもと、スタイリストさんに完全お任せで髪を染めた。とびきり明るい色を入れてみたかったけど、それは卒業後の楽しみにしようと思った。なんとなく、それをスタイリストに打ち明けてみると、インナーカラーの提案を受けた。
ツートーンな仕上がりを鏡で見つめながら、典子さんの一房のメッシュを思い出す。見た目から入るのもどうかと思ったが、バイトだって見て覚えるんだ。中身もすぐ見た目に追いつくさ。
おれは、カマーベストとエプロンに身を包むと、ホールへと急いだ。
正月ムードも一段落して、お店の雰囲気も落ち着いた。三が日は流石に休みだったが、実を言うとおれは働きたかった。だけど、そんな無茶も言ってられない。一月四日になっても、着物のお客様が来店することにはびっくりした。近くに有名な神社があり、参拝帰りのひとたちが流れてくるらしい。お店にはミニ門松が、レジやらカウンターの隅やら、ところどころに飾ってあったのも面白かった。
「おはようございます、米山くん」
典子さんは、いつもおれより早く来ていた。もうすでにテーブルを拭いている。彼女はここから家が近いらしいが、いつかは彼女より早く出勤してやろうと思う。
「おはようございます、三枝さん」
おれも慌ててダスターを手に取り、他のテーブルを拭いた。拭き終わったら、クリーニングしておいた布製のテーブルクロスをセットする。この生地の名前は典子さんが「リネン」と言っていたかな。
……この髪色も、典子さんが教えてくれた。ガチガチに緊張していたのもあって、サロンでは施術が終わるとその色名をすっかり忘れていた。彼女はおれが初めて髪を染めて店に出たとき、「似合ってる」と言って褒めてくれた。それだけでも有頂天かってくらいな心地だったが、典子さんは髪の色をスタイリストさんが言っていた色と全く同じ名前で教えてくれた。改めて聞いて、確かにそんなふうに呼ばれていたとぼんやり思い出したのだ。
おれは、仕上げにキャンドルをテーブルの真ん中へセットした。
「米山くんも、だいぶ慣れたよね」
典子さんがおれに声をかけてくれた、
「うん、米山くんはすごく覚えがいいよ」
主任もこう続いた。基本的には、事務室にいて事務仕事をする主任も、時々ホールに来て、ホール業務もこなすのだ。
「本当ですか!?」
おれは本当に嬉しくて声が弾んだ。全てのテーブルのセットを終えると、店を開店させる。
すぐさま、数組のお客様がご来店する。あっという間にお店はいっぱいになって、少し並んでもらうお客様も出て来た。こういった日は、スタッフも多めに出勤するが、それでもやはり忙しいことには変わりない。付きっきりの指導係ではなくなったが、なにかあったら典子さんが面倒を見てくれることには変わりがないので、おれは出来るだけ迷惑をかけないように踏ん張った。
ピッチャーのお冷を補充する、オーダーを取る、サーブする、空いたお皿を下げる……この頃にはまだまだぎこちないながらも一通りこなせるようになっていた。
やっとの思いで、仕事が終わると厨房から二皿、スパゲッティをもらって休憩室に向かう。まかないだ。今日まかないを食べて帰るのは、おれと典子さんだけ。
今日のまかないは、ペペロンチーノをベースに鰹節が振りかけらていた。その上の中央に卵の黄身(白身はメレンゲに使う)、その下にはオクラ、ズッキーニなどの「端切れ野菜」が例によってたっぷり。だし醤油が回しかけられていて、和風アレンジといった感じだった。
イル・クォコのまかないは、もはやおれの楽しみの一つとなっていた。
「ヨネやん、ありがとう!わたしの分も運んでくれたって……シェフのジーノさんが教えてくれたからさ」
ノックをしたかと思うやいなや、典子さんが飛び込んでこう言った。
「いやいや、気にしないでくださいよ、まだまだ出来ることが少ないからこそ、出来ることは積極的にやらないと」
「もー、そんなに気を遣わなくていいんだよー」
そう言うと典子さんは、ウォーターサーバーで水を注ぎながら、
「水にする?お茶?」と尋ねた。おれは、
「じゃ、お茶ください」
と言った。冷蔵庫に入れたペットボトルのお茶は家に帰ってから飲もう。
イル・クォコでの一番好きな時間はこのまかないだと言っても決して過言ではない。仕事が嫌いなわけではない。ただ、この瞬間は特別だった。
今日も斜向かいに彼女と一緒に食卓を囲む。最初にまかないを食べた時は味がよく分からなかった。食事をゆっくり味わう余裕がなかったからだ。今はなんて美味しいんだろうと思う。スパゲッティーニはちょうどいいアルデンテだし、だし醤油は野菜に良い塩梅だった。そして、意外にも鰹節が全体を纏めてくれていた。こんがり焼かれたサクサクのガーリックはもはや具材の一つとしてパクパク食べられる。シェフの腕があってのことなのは大前提だけど、きっとそれだけじゃない。おれは最後の一口を名残惜しい気持ちで掬った。
「ごちそうさまでした」
二人で手を合わせると、食器を洗って乾燥機にセットする。
それが終わったら、挨拶を交わしてお互いの更衣室へ向かう。いつもならここでお別れになる。
おれは更衣室の中でスマホを見ると、母から連絡が来ていることに気づいた。
『牛乳切れた買って来て』
『この時間コンビニしか開いてないよ』
『コンビニのでいいよ』
おれはアプリで会話を交わすと、更衣室を出た。主任に挨拶をして従業員出口をくぐる。
その時、ドアの先に典子さんがみえた。
「あ、今帰り?」
彼女がにこやかに語りかける。おれは少しばかりギョッとした。
「ま、まさか典子さん、帰り、歩き?」
「うん、近いからね十分もかからないから」
「それでもダメです!家の近くまで送ります」
「ええ?それ遠回りにならない?悪いよ」
典子さんは遠慮した、もしかして遠慮ではなく、おれが気持ち悪いだけだったらどうしようと思うと、少しだけ吐き気がした。でも、そう思われてもいい、典子さんの安全が第一だ。
「そのためのチャリですよ」
おれはポケットから自転車のカギを取り出して、少し大袈裟に掲げた。
「それにね、おれ背だけはデカいから」
おれは出来るだけ真剣に、でも表情が険しくならないように典子さんを見つめた。信じて欲しかった。
「……うん、じゃあお言葉に甘えて」
おれはホッとして、自転車を取りに急いだ。
チャリを押しながら、典子さんの歩調に合わせた。タイルで舗装した道を、二足の靴と二つの車輪の足音が響く。飲み屋街の店舗も、ぼちぼち赤提灯の灯りを落としていた。
またピューっと例の高音を歌いながら風がいくつも耳の横を通り過ぎる。典子さんの耳は赤く染まっていた。すると彼女は黒いトレンチコートの襟を立てた。おれイヤーマフ、新品のやつ持ってればよかった。
「いいなあ、チャリわたしも買おうかな」
典子さんは独り言のように呟く。おれは、車通りの多いこのあたりで、線の細い典子さんが自転車を漕ぐことに不安があった、心配だった。でも、それをおれが言えた義理は何もないので、口をつぐむしかなかった。
「まあ、イル・クォコも、スーパーも駅も歩いて行けるからやっぱ、いらないかも」
彼女はフフフと、笑う。おれは正直に言うとホッとしてしまった。自己中心的な自分が嫌だ。
「この辺、イル・クォコ以外は駐輪料金かかりますから、料金も地味に高いし、めんどくさいっちゃめんどくさいですよ」
「えっ、ウソ!わたしの地元、駐輪場にお金なんて掛からなかったよ」
「えっ、無料で停められるんですか?逆に!?」
おれたちは、お互いに顔を見合わせると、小さく笑い合った。
アパート街に着くと、
「もうすぐだから、ここでいいよ、ありがとうね、ヨネやんも気をつけて帰って、お疲れ様でした」
典子さんがこう言った。
「はい、近いからと言って油断しないで、気をつけて帰ってくださいね、お疲れ様でした」
おれの言葉に、典子さんは微笑みを返した。おれは典子さんが見えなくなるまで見送ったあと、チャリに跨ってコンビニへと向かった。母に頼まれていた牛乳と、ふと目に入ったミモザサラダをカゴに入れる。
ミモザ……レジに並んで、おれはまた髪をくりくりといじる。
彼女がおれに教えてくれた、この髪の色、イエローオーカーと、ミモザ。
クローゼットの中身が増えた。最初はモロに影響を受けて自分でも恥ずかしいかな、と思っていたけど、始めてみればオシャレは案外楽しかった。
典子さんのくれたメモは何よりも心強い参考書だった。髪色に合う色で揃えた、このターコイズブルーのカーディガンも、よく見ると細かいラメが編み込まれていて、控えめな煌めきが角度によって表情を変えた。興味がなければこんな所には気づかなかったと思う。
イル・クォコでバイトを始めてから、おれの高校二年はすぐに終わりを迎えたように感じた。普段からもっと勉強しておけば受験勉強もいらなかったかもしれないが、そういうわけにもいかず、おれはオーナーにシフトを減らす方向で相談した。仕事にも慣れて面白くなってきたところで歯痒い思いだ。月に数回、入れる時のシフトでもいいから、と引き続き雇ってくれることは幸いだった。
おれは二年の時とは志望校を変えた。それが受験勉強が必要になった理由だった。稼げて、手に職がつくように学べる大学を探していたら、理系に転向することになった。元々偏った文系だったわけでもないが、それでもやっぱり大幅に補修が必要だ。そこの卒業生の就職先もネットやらで調べた。開発職なんかも興味がある。何かを創造する彼女に似ているから。
おれは今月、イル・クォコの貸し切りパーティーに駆り出された。貸切なんて初めてでわくわくしながら仕事に向かった気持ちは見事に打ち砕かれた。その夜、典子さんは熱を出したからだ。一緒に上がれる時は、彼女を家まで送り届けるのが日課になっていたけど、その日の帰り道、彼女は笑ってはいたけれどひどくツラそうだった。あのガラの悪い客に、彼女が精神的に傷つけられたことはおれも見て知っていたが、まさかその後二週間も寝込む高熱が出るなんて、お疲れ様を言って別れる前に、もっとおれに出来ることがあったんじゃないかと考えると、後悔で身体が濡れたように重くなる。でも、出来ることってなんだ?本当にもし気づけていたなら、お前は一体何をしてあげたんだ、と自問する。
勉強、勉強、勉強、ここ最近のおれを言い表すとこんな感じだった、将来のためとはいえ、もう……飽きた。そんなことを言っていられないことも分かっているから、今は机に齧りつくしかないけど。この前、シフトは入っていなかったが、バイト先に、熱が下がって出勤してきた典子さんの顔を見に行った。思ったより元気そうだったけど、本当に元気になったのかな……主に心の面で。おれは、あの下品な顔を思い出すと、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。ひとの様子をうかがうためだけに、どこかに顔を出すなんてことが人生の中ではあるんだな。次の出勤までが長く感じる。
そしてその日は、少し変わったものが目に入った。久しぶりに入ったバイトはもはや、息抜きだった。チャリじゃなくてゆっくり歩いてイル・クォコに向かった。こんな建物と車ばかりの町でも、勉強机がある部屋の中よりは息苦しくなかった。いつもより少し強い日差しは、初夏の足音をかすかに聞こえさせた。風が緑を運んできたら、もうそこにあのガーデンが広がる合図だ。馴染みの赤レンガは、目を閉じたら公式が浮かんでくるような生活がリセットされる思いだ。しかし制服に着替えて、厨房を覗くといつもは見ないアフタヌーンティースタンドが見えた。
「どうしたんですか、これ」
おれが思わず声をあげると、事務室から出てきた主任が答えた。
「今日は、ガーデンに貸し切りが入っててね、それがさ誰だと思う?」
「え?誰ですか、おれの知ってるひと?」
興味津々のおれに主任がさらに続ける。
「三枝さんだよ、商談だよデザイナーとしての、やるね彼女」
どこか誇らしげだった、柔らかに微笑んでいる。おれも釣られてテンションが上がる。
「え?どういうことですか?商談ってなに?」
「商談っていうのは少し言い過ぎかもしれないけど、交渉するんだよガーデンで、すごいよねプロへの道を着実に進んでるよ」
そう言って主任は少し笑った。いきなりの話で、まだ頭が整理できていないけど、典子さんにとっては、なにか好機の瞬間だということは分かった。それが分かるとおれまでなんか、嬉しくなった。つい口元が緩んでしまうと、釘を刺すように主任が続ける、
「それでね、もうすぐガーデン貸し切りのお客様がみえると思うけど、そのお客様はオーナーの古い知り合いでね、米山くんなら大丈夫だと思うけど、その、失礼がないように」
「はい、今日おれ大人しくしときます」
少し軽口を叩いたあと、すぐに真面目な顔をした。
「米山くんもお会いしたことあるんだけどね、貸し切りパーティーの時に、あの時の奥様だよ」
その瞬間、主任が何を言ったか聞き取れなかった。いや、脳が理解を拒んでいるのかもしれない。とにかくびっくりするほどその言葉はおれの耳を素通りした。
「えっ」
掠れた声で聞き返そうとした時、主任はオーナーに呼ばれてどこかへ行ってしまった。ああ、そうかだから今日はいつもより一時間早く出られる?って聞かれたんだと今更気づく。中休みを使ったガーデン貸し切りなんだ。
貸し切り……あの夜の貸し切りパーティーの時のオキャクサマは典子さんを傷つけた連中じゃないか。典子さんと仲良くしていいはずがない。社会に出たら……仕事を持ったら、例え嫌な相手だとしても一緒に仕事をしなくちゃならないと聞いたことがある。だけど、今じゃなくていいじゃないか!
開店準備に取り掛かりながら、頭の中で逡巡していると、オーナーに案内されガーデンへ向かう女性の姿が目に入った。全身の血の気が引く。大きな帽子の下にあるその顔は、忘れたくても忘れられない。間違いなく自分を引きたてるために、取り巻きの男に典子さんを侮辱させたそのひとだ。
心臓がドクドクと嫌な音を立てる。おれはそれを周りに悟られないように、小さく深呼吸した。
おれは落ち着きをちょっとだけ取り戻すと、開店準備を続けた。今日の遅番はあと何人かいるけれど、早めに呼ばれたのはおれだけのようだ。いつもなら、この大抜擢に喜んだだろう、でも今日は何でおれなんだという疑問符でいっぱいだった。
すると、オーナーがおれに声をかけた。
「ガーデンのお客様、少し早くご来店のご様子だから、ハーブティーを運んで差し上げてください」
「……かしこまりました」
断りたかった、平穏な心で接客できる自信がなかったから。でもおれがさっき言ったことだ、嫌な相手とも仕事をしなければならないと。おれは、ティーポットを温めて、数分経つと、一回そのお湯を捨てる、ドライハーブのブレンドを適量入れると、フレッシュラベンダーを少量、よく洗ったら細かくしてポットに入れる。このラベンダーはガーデンで収穫したものだった。熱湯を注いだらティーポットにポットカバーを被せた。運んでいる間にいい感じに蒸されるだろう。同時に温めていたティーカップのお湯も捨てる。ここまで丁寧に仕事をするのは、せめてものプライドだった。
おれはトレイにこれらを乗せると、慎重にガーデンへと運んだ。ガーデンを進むと、例の女性が見える。アイアンテーブルに腰掛けて、ガーデンの木々を見ていた。
「ハーブティーをお持ちいたしました」
おれは、平静を装いながら奥様に声をかける。
「ありがとう」
奥様は笑顔でそう答えたが、おれは嘘くさい笑顔だと思った。ポットカバーを外し、ポットとカップアンドソーサーをテーブルの上に置くと、ポットを軽く回す。茶漉しを使って、カップにお茶を注ぎながら、おれは良からぬことを口にしそうになる、ポットの口からカップへ流れ落ちるお茶の放物線を見ながら、覆水盆に返らず、となんども唱えた。
「どうぞ」と、おれがハーブティーを差し出すと、またありがとうと言って奥様はカップを傾ける。姿勢は崩さず、カップをつまむその気取った態度を見ると、おれは本当に無意識に言葉がこぼれ落ちていた。
「典子さんを惑わすのはやめてくれませんか」
奥様は目を丸くしておれを見た。
おれはまだ若いけど、これは若気の至りが過ぎるのではないかとすぐに我に帰る。しかし一度溢れ出した感情は止まらなかった。
「……知っていますか、パーティーであなたのお連れ様に傷つけられたあと、典子さんは高熱で二週間も寝込んだんです。なんでそんな相手と関わろうとするのですかっ」
語気が荒ぶりそうになるのを必死で抑えて、俯く。おれは本当に弱虫だから奥様の顔を見ることができなかった。枝を揺らす風の音がうるさかった。
「……あなた、ノッコちゃん……典子さんのことが好きなんだね」
奥様は落ち着いた声でこう切り出した。おれは一瞬で身体中の血が沸騰したかと思った。顔をさらにうつむけたまま、熱くなるのを感じた。指先だけはやたらと冷たく、呼吸が少し早くなる。
「ごめんなさい、冷やかしたいわけじゃないの」
奥様は落ち着いたトーンで、でも出来るだけ柔らかく言葉を紡ぐ。
「あなたは、ノッコちゃんの恋人……ってわけじゃないんだよね?」
おれは弱々しく頷いた。
「そうだったとしたら、あなたには彼女の選択をとやかく言える権利はないんだよ、もしあなたが恋人だったとしたら、もっと悪い、それはモラハラだから」
奥様の言葉は厳しかったが、おれに真摯に語りかけていた。途端に自分が恥ずかしくなる。さらに顔を赤くして、熱を帯びはじめた。
「ごめん……なさい……」
やっとのことで、おれは言葉を捻り出した。呼吸を忘れたかのように、息が上がる。
「いいの、ごめんなさい、あたしも大人気なかったね」
奥様は心配そうにおれを覗き込む。そんなことは、大人気なかったのはこちらの方で……と言いかけて言葉を飲む。おれは最初から大人じゃなかった。そんなことは言えるはずがない。完全に言葉を失い立ち尽くす。
「大丈夫?呼吸、落ち着いてから戻りなよ、それまでここにいていいから、ここにいていいも何も私のガーデンじゃないけどさ、アハハ、……大丈夫だよ、ただおしゃべりが盛り上がっただけ、それだけだから」
ゆっくりと諭すように奥様が声をかける、おれはゆっくりと顔を上げると微笑みを浮かべた彼女と目が合う。本当に、本当に優しい笑顔だった。
おれは情けないけれど、お言葉に甘えるしかなかった。ぼうっとした頭でただ立っていると、奥様は大丈夫大丈夫、と声をかけてくれる。子どもをあやすように。
おれと典子さんが恋人かどうかを問われたことを思い出す。おれは典子さんには恋人がいないものだと思い込んでいたが、どうしてその可能性を考えていなかったのだろうか。彼女の世界は、イル・クォコだけじゃないのに。おれと違って。