二章 ボイリングホット
わたしはクーラーの温度を1℃下げた。この2DKに入る日差しも日に日に強くなり、部屋の風景の輝度を上げる。生地や小物の管理もあるので室温は高くならないようしているが、今日はさらに快適な温度になるように、今から調整する必要がある。
ジィージィーという蝉の声は暑さを増すような気持ちにさせる。掃除を念入りに、いつもは拭かないようなところを拭いていたら、汗が流れ落ちる。わたしはもう1℃クーラーを下げた。
夏の校内イベントやコンテストが終わり、クラスメイトであり友達の綾乃はインターシップに取り組んでいた。感触は上々らしい。えっちゃんはその高いテキスタイルデザイン力が評価され、スカウトの声がいくつか掛かっているみたいだ。
以前のわたしならば、焦りを覚えただろう。しかし今は自分の作品づくりに夢中になっているので、そんな思いからは解放された気分だ。
あれから、薫さんとは何回か打ち合わせを重ねた。改めて、自分が学んでいる学校、身分を明かし、デザインスケッチを見てもらった。見本の生地も揃え、触ってもらい、どのようなドレスを製作しているかイメージを膨らませてもらう。そして、出来上がった第一案を今日、薫さんに着てもらうのだ。
いつもはどこで製作をしているのか聞かれたので、自分の部屋だと答えると、なんと、わたしの部屋まで来てもらえることになった、最初は恐縮し、どこかに場所を設けると提案したが、「ご飯作りたいから」と薫さんは言った。確かにわたしは適当に食べてると雑談したことがあるが、そんなのは申し訳ないと断ろうとした。しかしそれだけではなかった、薫さんは家で料理を作らせてもらえないらしい。お手伝いさんの作る手料理は確かに美味しいが、やはり独身時代に作っていた自分の味が恋しくなるそうだ。わたしは胸が痛くなり、断るわけにはいかなくなった。
自分の部屋はどのくらい散らかっているのか、麻痺してくるからわたしは焦る。フローリングに転がった資料を本棚に押し込んだ。一回スマホのカメラを通して部屋を見てみる。机に置かれたノートPCの横に堆く積もった本や紙束が、いかにも散らかった部屋だという具合に映し出され、わたしはあたふたと整理を始める。そうしていると玄関のチャイムが鳴った。全身が跳ね上がったような気分だった。
念のためスコープを覗いて、素早くドアを開ける。両手にスーパーの袋を提げた薫さんが立っていた。
「こんにちは、今日はお邪魔します」
「あ、こんにちは、どうぞ入ってください、散らかっていますが……」
わたしは薫さんの持っている袋を預かりながら促した。両方持とうと思ったけど、小さく手を振って遠慮を示される。袋からちらりとジャガイモが見えて、今日この日を薫さんが楽しめるようにという願いでいっぱいになった。鍵をしっかりかけて、彼女の後を追うと、すぐそこに冷蔵庫が見える。
「買ったもの、冷蔵庫にしまっていいかな?」
その横で薫さんがこう尋ねた。
「もちろんです、ありがとうございます。今日は楽しみにしています」
「こちらこそ、キッチンお借りして、ありがとう、手はどこで洗えばいいかな」
わたしは洗面所に案内すると、
「迷いませんでしたか」
と声をかけた。
「大丈夫、ノッコちゃんがくれた手描きの地図が良かった」
カオルさんはそう言うとハンカチで手を拭きながら親指を突き上げた。ふたりでくすくす笑う。手伝うという申し出を、丁重に断られてしまったので、薫さんが冷蔵庫にしまっている間、わたしは改めてトルソーの置いてある部屋を整えた。そこで、自分がお茶さえ出していないことに気づき、慌てて小さなダイニングに引き返す。
「麦茶でいいですか」
ちょうど薫さんも作業を終えたようで、にっこり笑って頷いた。わたしは一番綺麗なコップに麦茶を注いで薫さんに渡すと、薫さんはありがとうと言った。ふたりでダイニングテーブルに座り、ごくごく麦茶を飲み干した。緊張で喉がカラカラだったことに初めて気づく。冷たさが胸まで沁みてわたしは少し、落ち着きを取り戻すと、フーッとゆっくり息を吐いた。薫さんは微笑みながらゆっくりとグラスを置く。
「さっそくですが、もうドレスを見ますか?それとも、少し休みますか」
「大丈夫だよ、ドレス見てみたい」
その言葉に覚悟を決め、ゆっくりと薫さんをエスコートする。手が震え、すぐに手汗が滲むのを感じた。戸を引く音が、うるさい鼓動にかき消されてしまった。薫さんの顔を見るのが怖い。
戸が開くとすぐにトルソーが見える。スカイブルーのミニドレスにはスパゲッティ・ストラップがついていた。サンドレスのようなラインになる、陽の光を浴びて歩く姿をイメージしたから。メジャーや糸巻きが並ぶ規則的な棚、ミシンや裁ち鋏のゴツゴツとしたイメージの部屋に置いても、主役のように引き立つ。ビスチェにはタフタを使い、スカートにはオーガンジーのオーバースカートを縫い付けた。狭い部屋に穏やかな空を切り取ったようだ。オーガンジーのふわふわとした生地にはタッキングを施し丸っこさを作り、気ままな雲を表現した。薄く柔らかなそれはレースカーテン越しの日光を、ほんのり白く跳ね返していた。タフタの滑らかな艶からはお日様のような黄色い光が反射する。ドレスの下には白いTシャツ、カットオフの袖が特徴だった。
「……綺麗」
永遠かと思える沈黙を経た後、薫さんが息を呑むのを感じて、わたしは胸いっぱいに報われたような思いが込み上げてくる。
薫さんは例えば美術館で絵画を観るときのように、ゆっくりとそっとドレスに近づいた。あまりにも彼女が見つめるもので、瞳がブルーに染まったようになる。子どもが無邪気にダンスを踊るようにくるくると何度もトルソーを軸に回り、何一つ見落とすまいといったように視線を動かす。わたしはふわふわとした心地でその様子を眺めていたが、いまだに緊張は解けずにいた。本当に気に入ってもらえたのだろうか。
「本当に素敵だね……」
ため息のような掠れた声で薫さんは呟く、目を細めながらもまだドレスをとらえていた。
「事前に聞いたドレスの号数で作っていますので、今日は採寸も出来たらなと思っています、……なんかTシャツの袖に自分の趣味が出ちゃって」
わたしは、ちょっとしたジョークを言った。
「いや、素敵だよ、このアクセント、ね、着てみていいんだよね」
薫さんの顔がパッと一気に綻んだ。
「もちろんです、一旦わたしは出ますので、スリップのような下着はつけたままで構いませんよ、お洋服にメイクが移らないよう、このスカーフを使ってください。準備ができたら呼んでくださいね」
薫さんが笑顔で頷くのを見届けて、わたしはするりと部屋を出る。ほどなくすると「いいよー」と声がかかる、そうすると、「入ります」と声をかけて、またそっと戸を引いて部屋に滑り込んだ。
緊張した様子で薫さんは佇んでいた。
わたしは薫さんをこれ以上警戒させないように、慎重に作業を始める。Tシャツをまず着てもらう、ここでもスカーフを被ってもらった。パニエを床に置いたら、スカートで覆った、中心に輪を作り、薫さんに入ってもらう。パニエを腰で留めて、次にビスチェのインナーベルトを留める。苦しくないか確認すると、カオルさんは「大丈夫」と答えた。フックも留めるとファスナーをゆっくり引き上げた。そうすると、彼女を姿見の前に促した。
姿見の薫さんはぼぅっとした顔で、鏡の中の自分を見ていた。
「サプライズです」
そう言ってわたしは、棚の引き出しから更なるアイテムを取り出した。赤いソフトレザーのコルセットだった。ジリアンが付けていた、クレマチスのコサージュと同じ色だ。ソフトレザーの中でも特に柔らかくしなやかで、艶感を抑えたものを選んだ。
「ココ・シャネルやポール・ポワレ、彼らは女性をコルセットから解放しました。その意味を踏まえて、現代の女性はまた自由にコルセットを身につけるんです」
薫さんが目を見開いて、少しの戸惑いと、少しの期待を浮かべた顔でコルセットを見つめていた。不安にさせてはいけないと思い「大丈夫ですか」と声をかけると、薫さんはおずおずと頷いた。わたしは薫さんの後ろからコルセットを回し、ファスナーで留めると、サテンのリボンを編み上げていく。編み終わると最後にリボン結びを作る。
「苦しくないね……」
薫さんが呟いた。
「ええ、今やコルセットは女性を締めつける道具ではないんです。自分で選んで着るファッションなんですよ。ヴィヴィアン・ウエストウッドは自身のコルセットを女性に力を与えるものだと言いました」
わたしの言葉に薫さんは深く頷くと、二人でしばし、時が止まったかのように姿見の中の薫さんをじっと見つめていた。
口火を切ったのは薫さんだった。
「Tシャツも着るんだね」
「ええ、これはパンク要素を表しているんです。このカットオフ……裁ちっぱなしの袖は解放の象徴なんです、アメリカンカジュアルの要素でもあります、ジリアンの故郷はアメリカですからね」
「えっ?じゃあさ、デニムとか履けたりする?……あたしもう何年も履いてないから、履いてみたいんだ……」
「いいですね!」
わたしはパッと顔を明るくして答えた。
「え?本当に?……作ってくれるの?」
「もちろんですよ、いやあ、いいアイデアを頂きました。あ、なら、ドレスもゴシック要素を取り入れてもいいかも!ロリィタパンクみたいに、ゴシックとカットオフやダメージ加工は親和性もありますし、あ!アメカジとゴシックの融合で束縛と自由を表現する!そうすると、コルセットも思い切ってデニム生地に……んーいや、それは追々……薫さん!ジーンズにダメージ加工は入れて大丈夫ですか?……ちょ、メモを取っていいですか」
頬に紅潮したような熱を感じながら、メモ帳に伸ばそうとした手がぴたりと止まる。薫さんが俯いて小さく震えていたからだ。わたしは慌てて薫さんに向き直る。
「どうしましたか、大丈夫ですか」
なにか失礼なことをしたか、自分本位で語りすぎたのがよくなかったのかと、ぐるぐる考えていると、薫さんが訥々と言葉を捻り出した。
「ち……違うの、ホント、感動しちゃって……このドレス、こんな素敵な……あたし、あたし着ていいんだよね、本当に」
肩をすくめた薫さんの身体は本当に小さく感じる。わたしは丁寧に言葉を紡ぐ、
「……薫さん、肩をさすってもいいですか」
彼女は小さく頷く。そっとTシャツ越しに肩をさすりながらわたしはこう続けた。
「薫さんに着てほしいんですよ、薫さんのために縫い上げたと言っても決して過言ではないんですから」
薫さんはコクコクと何度も頷いた。わたしはずっと彼女の肩をさすり続けた。薫さんの震えが止まるまで。
薫さんが少し落ち着くと椅子を用意し、彼女を座らせた。わたしはその前に跪き薫さんと目線を合わせた。
「あたしね、前、あいつは……夫はファッションには口出ししてこないって言ったでしょ?でも、それは夫の機嫌を損ねない範囲の話だったんだって気づいたんだ、自由に選んでるように見えて、あいつの嫌いそうなものを無意識に避けてた、あたしは自由に服を選べてなかったんだよ……」
彼女は淡々とこう語った。でも瞳はまたあの深海のように深く黒い波を湛えていた。
「それは、とても遣る瀬なかったと思います」
わたしは慎重に声をかけた。
「なんで別れないと思う、とも訊いたよね……怖かったんだ、どこに逃げても追いかけてこられそうで、別れるなんて絶対に了承しないだろうし、そうするうちに、あたしが我慢すればいいんだって諦めるようになった……でもねあたし、ノッコちゃんの頑張りを見ていたら、あたしもまた頑張ろうと思ったの、看護師に復職しようと思って」
「勇気ある決断だと思います。くれぐれも無理をしないで、相手の出方には十分に気をつけてください」
わたしは、そう言うと、また薫さんの肩をそっとさすった。
「ありがとね」
彼女は少しだけ笑顔を取り戻してお礼を言った。
「薫さん、『連れ去ってくださる?』とも言っていました」
わたしが悪戯っぽい笑顔でこう言うと、薫さんは恥ずかしそうに笑った。
「もー意地悪」
「いいえ、本当に連れ去ってしまいます。薫さんが今まで見たことない景色、行ってみたいところ……今はまだ、一日の最後には、あなたの家に送り届けなければいけないのがもどかしいけれど」
薫さんの顔をじっと見つめる。悲しそうな笑顔を浮かべていた。
「……今日は何時まで、一緒にいられますか、シンデレラ」
わたしは少しおどけてこう言った。
「フフ、王子、なんと今日は夫が出張でございまして、帰ってくるのは三日後でございます、わたくしの時間のことなどお気になさらず」
薫さんもわたしと調子を合わせてこう言った。わたしたちはくすくすと笑い合った。
わたしたちは、夕飯の準備に取り掛かった。と言ってもわたしは手伝うだけ、薫さんの邪魔をしないように潔く手伝いに徹することにした。
薫さんは今日着てきたお洋服に着替えていた。ペタルスリーブが印象的なラベンダーアイスのロングワンピース、軽やかな綿素材だった。今までで一番ラフな格好だったが、ティアドロップ・プラケットの首元には着替えやすいようにとの工夫が見えた。生成りのソックスは厚手で、薫さんの気遣いが垣間見えた。
ご飯を作ってくれると聞いて、わたしはすぐに料理用のエプロンを買いに行った。薫さんのお洋服を汚すわけにはいかなかった。こういう時、手芸屋さんで買うと安くて良いものがあったりするので(取り扱っている生地のお手本として展示してあったサンプルは、展示期間が終わると販売することがある)、そこで二着買った。アイロンをかけながら、シワのないエプロンが彼女に似合うだろうと思い、アイロン技術を磨いておいて本当によかったと、少し誇らしく思った。
薫さんはエプロンをかけると、一番最初に始めたことはアサリの砂抜きだった。ボウルの上にザルを置いて塩水に浸すと空気穴を開けたアルミホイルを被せた。
「よく考えたら、こんな暑い日にクラムチャウダーって季節感……失敗しちゃったねー」
薫さんはそう言うと、やってしまったというような顔をした。
「わたし、アサリ好きです。まかないに入ってるとやった!って思っちゃう。ただ、基本まかないは残り物なので、本当のことを言うと、ボンゴレがいっぱい出る日は、心のなかで『あーあ』って思っちゃいます……オーナーには絶対内緒ですよ……」
わたしは顔を赤くし、ひと差し指に口に当て、シーッと息をかけた。すると、文字通りお腹を抱えて、大きな声で薫さんは笑う。わたしは「ウケた!」という嬉しさと、食いしん坊だと思われたかな、という恥ずかしさで半々になる。
「もちろん、絶対言わないよ!でも嬉しいなノッコちゃんのちょっとした秘密聞けちゃった、今日はアサリいっぱい入れようね。余ったら酒蒸しにしても良いし」
「はい!良いですね!」
わたしは笑うと、ジャガイモの皮を剥いた。
「なんか、学校でキャンプに行ったこと思い出して楽しい、あ、手伝いしかしていないわたしが言うのもなんですが……」
「大丈夫!あたしも楽しいから」
薫さんはこちらを振り返って無邪気に笑う。きっとこっちの方が、本来の薫さんの姿に近いのかなとぼんやりと思う。次は人参の皮を剥いた。そうしているうちに、薫さんはカリフラワーとブロッコリーのサラダを作った。炊飯器にはお米がセットされていて、次はカレーの準備に取り掛かる。
「お喋りの中でカレーは甘口が好きって、聞いていてよかった。わたしも甘口が好きなんだよね」
薫さんはそう言いながらも、手際よく、カレーの具を炒め始める。わたしが皮を剥いたニンジンやジャガイモが入っているので、変な風にならないか少し緊張する。それに玉ねぎや、ビーフも加えて、塩と胡椒で下味をつける。カレーの具を煮込んでいる間、アサリの水を捨てザルにあげる。こうすることで砂抜きで吸った余分な塩分を吐き出せるらしい。さらにその間に、わたしはクラムチャウダーの具をサイコロ状に切っていく。先に薫さんはカレーのルーを入れて馴染ませていく。カレーの完成だ。アサリをよく洗うと、カオルさんはフライパンの中で白ワイン蒸しにする、貝殻が開いたら身だけ取り出して貝殻は捨てる。アサリから出たスープをボウルに移し、先ほどのフライパンにバターを入れ溶かす、わたしが具を渡すと、カオルさんはまた手際よく炒めていく、火を止めると、さっきボウルに移したスープ、小麦粉、調味料、先ほど取り出したアサリ、牛乳とチーズを入れとろみが出るまでゆっくりかき混ぜ、焦がさないように底から掬う。
築三十年は優に超えるこのレトロ(と言うと聞こえはいいが)なキッチンから次々と温かい料理が出来上がっていく。家中の食器を総動員し、小さなダイニングテーブルをいっぱいにした。
「美味しそう!」
わたしが思わず口にすると、薫さんは冷めないうちに食べましょうと促してくれた。
上京してこの部屋に住み始めてから、一番美味しそうな香りが漂っていると思う。道を歩いていて、他所の家のダクトから家庭料理といった風な香りがすると、少し羨ましく思っていたけど、今日はどの家よりも美味しそうな部屋になっているんじゃないかと思う。
「いただきます」
わたしはしっかり手を合わせてから、カレーを一口運ぶ。手作りのカレーは本当に久しぶりで、舌の上でパチパチ弾けるようだった。
「美味しいです、なんか久しぶりにちゃんとした食事をした気がします」
「オーナーが泣くよ」
「あっ、いやもちろん、まかない以外でって意味です」
わたしが慌ててそう言うと薫さんはフフフと笑った。
たしかにそうだった、イル・クォコのまかないには端切れ野菜がたっぷり乗せられている。オーナーは「売り物にならないから食べてくれると嬉しい」と言ってくれるが、それはわたしたち、食べる方を思いやってのことだろう、野菜不足のわたしに気を遣わせずに食べさせるための方便なんだ。わたしは、ずっと大人の気遣いを当然のように受け入れていたように思う。今回の薫さんのことだってそうだ。だけど、今度からははわたしがそっち側に立たなければならない。大人になるということは責任が伴うということなんだ。
薫さんのほうを見ると、うんうんと頷きながらしっかりと味わっているようだった。
「あぁ、久しぶりだなこの味、不思議だよね。市販のルーを使ってるのにどうして自分の味があるんだろうね」
「わかります、この味は薫さんの味だと思います、初めて食べたのに、そう思います」
わたしは力強くそう言うと、また一掬い、じっくりと味わった。
ブロッコリーとカリフラワーのサラダは、口の中をさっぱりしてくれて、クラムチャウダーという新しい味の刺激を引き立ててくれた。
「アサリ、美味しいです」
白ワインで蒸したことによって、ふっくらとしている。むちむちとした食感と、ほのかな苦味がクリームにマッチする。
「なんだかんだで、全部クラムチャウダーに使っちゃったね、これだけは今日中に食べちゃお、カレーは余ったら小分けにして冷凍しておくね」
「ええっ、悪いですよそんな」
「ちょっと作りすぎちゃったから、お邪魔でなければ置いておいて」
わたしはまた大人の気遣いを受けることになった。だけど、焦ることはない、少しずつ、でも確実に返していかなければ。
「はい、ありがとうございます」
洗い物をして、余ったご飯を二人でおにぎりにしたあと、薫さんは、やおら冷凍庫のノブに手をかけると、
「じゃーん!あたしからもサプライズ」
と言ってアイスクリームを取り出した。わたしは本当に嬉しくて思わずキャアと声を上げる。ふたりではしゃぐと、まっさらなダイニングテーブルに置いたアイスのカップを取り囲む。
「バニラとクッキーアンドクリームにしたんだけど、どっちが好き?」
「わたしは断然バニラなんです、シンプルなのが良い」
薫さんは微笑むと、バニラのカップを手渡してくれた。ティースプーンをデザートスプーン代わりに食後の甘味を楽しんだ。ひんやりとした甘さが、パーティーのように浮かれた気分にさせてくれる。アイスを掬いながら薫さんがこう切り出した。
「ショーの準備は順調?」
薫さんには、卒業制作はファッションショー形式での発表があることを伝えていた。
「そうですね、学校のみんなも春から準備していますから、十月になったら理事長プレゼンがあるので、それまでにはデザインの完成を間に合わせたいところです」
「そう、よかった……でも本当にあたしがランウェイに出ていいのかな?みんなに比べたら、おばちゃんだよ?」
「おばちゃんではありませんよ、うちの学校では申請したら知人モデルの出演も可能なんですから、薫さんをイメージして縫い上げたと言えば大丈夫なんです、もう薫さんのサイズで縫っちゃいますから」
わたしは不安そうな表情を浮かべる薫さんにこう続けた。
「でも、一番大切なのは薫さんの気持ちです。嫌ならば、ランウェイは歩かなくていいんです、モチーフのモデルを引き受けてくれただけでも、わたしにとってはありがたいことなんですから」
まっすぐに彼女の目を見つめる。そこは何よりも絶対に譲れないところだった。
「……ごめんなさいね、優柔不断で」
「いいんです、こちらが無理にお願いしてることなんですから、ゆっくり決めてください、もし断ったって、なにも気にすることはないんですよ」
そう言うと、わたしは深く頷いた。薫さんは、少しだけ微笑むと、アイスを掬った。
夏の夜は短いとは言うが、薄い宵の緞帳がゆっくり降りる。
「泊まって行けばいいのに」
冗談めかして言うと薫さんは力なく笑う。
「そうしたいんだけど、あいつはふらっと明日にでも帰ってくるかもしれないんだ、そういうヤツなのホント」
わたしはたまらず、薫さんの手を握った。
「大丈夫、さすがに今夜中には戻らないと思うから」
薫さんもぎゅっと握り返すと、ゆっくりとわたしの手を押し戻す。
「今日は本当にありがとうね、楽しかった。あ、冷蔵庫の白ワイン……もうノッコちゃんってハタチだっけ?」
「はい、もうなりました」
「えー、言ってくれたらお祝いしたのに」
そう言って、薫さんはくしゃっと笑った。わたしがスミマセンと言いながら焦ると、彼女はくすくす笑いながらこう続けた。
「じゃあ、飲んでもいいけど、今日みたいに、よかったらお料理にも使ってみて、それこそボンゴレビアンコとかさ、アサリも水煮缶を使えば簡単だから、……あぁ、なんかあたしオカンみたい?」
「お母さんみたいに頼りになります、ありがたく使わせてもらいますね」
わたしがこう答えると、タクシーの到着する気配がした。名残惜しい気持ちで玄関を出ると、薫さんは笑顔で手を振って車に乗り込んだ。来た時に比べると、ひどく荷物が少なく見えた。車が見えなくなるまで見送ると、部屋に戻る。さっきとは全く違った景色に見えた。
──お母さんみたいに頼りになる。さっき自分が言った言葉を反芻する。……お母さん。お母さんにしたってそうだ、わたしは母の支援を当たり前のように受けていた。戻ってこいと言うのも心配からくる言葉だというのはよく分かっている。だけど、安心させてあげられる行動はちゃんと取れていたのだろうか。
わたしはもう一度トルソーにお会いすると、しげしげとそのお召し物を見つめた。
薫さんは写真も撮らずに帰ってしまった、……それは自由なのだが、やはり撮ってもらえたら嬉しかったなと思う。そこまで考えて、ある可能性を思いつくと、わたしは背筋が凍った。
彼女は、スマホは持っていると思う。電車やメールで連絡を取っている。メールはキャリアメールだ。メッセージアプリは使っていない。きっと、今時珍しいだろう。スマホには大体、カメラ機能が備えてあるだろう。だから、カメラを持っていないということは、ほぼない。だとすると、スマホに写真が残っていてはまずい理由があるのか、……いや考えすぎか、でも……。
ひょっとして、薫さんはスマホもチェックされているのではないだろうか。