序章 フレグランス
※この作品は全編フィクションです。実際の人物、団体、事件等とは一切関係がありません。
また、実際の服飾系専門学校の、授業、課題、イベント等とは異なります。
※この作品にはモラルハラスメント・流血描写がございます。フラッシュバック等を起こす可能性のある方は閲覧をおやめください。
空のビーナスベルトを縫い合わせて一枚の大きなスカートにしたい。スマホを耳に当て窓の外を眺めながら、こんなことを夢想していた。
『裁縫なんておばあちゃんに教えてもらえばいいじゃない。わざわざ学校で習わんでもいい帰っておいで、典子』
実家の母はいつも電話で同じことを繰り返す。だから、わたしは大抵の場合適当に聞きながしている。
でも、このフレーズだけはいつも耳に引っかかる。
「わかってる、うん、うん、そうだね」
適当に相づちを打ちながらわたしはノートPCのディスプレイで映画を再生する。ディスクはもうずっと入れっぱなしになっていた。
この映画は、ストーリーは退屈だと酷評されていたが、衣装の評価だけは違った。デザイナーが手掛けたドレスの数々は、華やかさや、あるいはシックさなどの見た目だけではなく、登場人物たちの感情そのものを縫い上げていた。
繊細な指先の演技を邪魔せず、その腕を包むレース細工のスカラップ袖。スポーツカーのような流線型を描くシルクハットのブリム。黒いスーツの真紅のラペル。過不足なく散りばめられた装飾品……所狭しと飛び跳ね踊るようだ。わたしは誰もがつまらないという映画を、ただその衣装をもう一度見るために再生していた。
電話の声をBGMにしながらわたしはうっとりと映画の世界に浸った。
お母さん、わたしはデザイナーになるって何度も言ったよね。おばあちゃんのお裁縫は尊敬するけれど、わたしはわたしのスタイルを見つけたいの。
すると、わたしは息をのんだ。いつも目を奪われるこのシーン。食べるものから着るものまでを全て決めてしまう父の束縛から離れ、ヒロインのジリアンが初めて自分の意思でドレスを選んだ瞬間だった。
トルソーが着たそれは、軽やかでのびのびとした生地だった。コットンのボディにシフォンのティアードがあしらわれているのだろうか。目の醒めるようなスカイブルーで、ジリアンの脚にまとわりつくのではなく、一歩踏み出す足を支えるようなカーブを描いていた。胸には大輪の花が咲いている。赤いクレマチスのコサージュだ。
しかしこの映画では、せっかくあつらえたこのドレスが、ジリアンの腕を通る瞬間は、ついぞ訪れることがなかった。父からの再三の呼び出しに応じて、ジリアンは実家に戻ってしまったからだ。もし、ジリアンがこのドレスを身にまとえば、また評価は違ったものになったのではないかと、わたしはいつも思っていた。
愛らしく人の心を惹きつけるがゆえに父に束縛されるジリアンを思う。
──わたしは愛らしさなどないのに、なぜ縛られるのだろう。
ふ、と気づくと母は『じゃあ、また荷物送っておくから』と結びのフレーズを口にしていた。電話が終わる合図に密かに胸をなでおろす。また適当に挨拶を済ませて、一人になった後も、わたしはしばらくディスプレイを眺めていた。何かをあきらめたようなジリアンの顔が映し出されている。
電気を付けていないこのアパートの一室が、少しずつ暗くなり、だんだんと、ディスプレイの光が眩しくなってくる。それを受けて、横に積み上げた本が淡い青を反射していた。
そろそろバイトに行かなくては、わたしはそそくさと準備した。
春だというのに外はまだ肌寒い。わたしはトレンチコートの襟をそっと立てた。黒い一張羅で、ギャバンジの生地も、無地のポリエステルだが、裏地もしっかりとしている。これは入学祝いに自分で買ったものだった。
高校を卒業してすぐ、服飾系専門学校に入学してから一年が過ぎた。二年目の今年は卒業制作に取り掛からなければならない。
入学する時はワクワクしかなかったな。ひとりではしゃぎ、トレンチコートを何着も試着したあの頃が懐かしい。ベージュにするかカーキにするか、そんなちょっとした悩みでさえも楽しかった。
アパートのエントランスを抜け、アパート街を少し歩くと表通りに出る。片側二車線の車道には、いろいろな形と色の車が、ずらりと並んでいた。ちらほらと居酒屋の暖簾が見え始める。通いなれたバイト道だ。陽が沈むか沈まないかの時間になると、にわかに店の明かりが灯り始める。わたしはこの時間帯の飲み屋街が一番好きかもしれない。ささやかな宴が始まる前触れに思えるからだ。
その道を歩いていると、かさかさと音を立てて落ち葉が運ばれてゆく。若葉が芽吹いた今、舗道で彼らを見かけることはもうないだろう。Aラインの黒髪ボブがそよそよ揺らぎ、私は歩調を強めた。
居酒屋街のなかでもちょっと目を引く、ガーデンのあるトラットリア。「イル・クォコ・ディ・カーザ」ここがわたしのバイト先だった。もっとも、スタッフはよく手入れされたガーデンの横を通り抜けて裏口に回らなければいけないのだけれど。この店名はイタリア語で「家の料理人」という意味らしい。(ただ大抵の場合はイル・クォコと呼ばれる)。オーナーは口もとにたくわえた髭を指で撫でながら、「我が家とか隠れ家とか、そういうのを目指して、とにかく親しみを持ってもらいたくてこの名前にしたんです」と、にこやかに語っていた。
金属製の少し重い扉を開けて店の中に滑り込む。アルバイト採用が決まった時はこんなオシャレな場所は自分に不釣り合いじゃないのかと思ったものだった。
くすんだ赤レンガは無造作に見えるが、ちゃんと表情がある。初めて見た時は、その洗練された空間に圧倒されるばかりだったが、今ではデザイナーとしてどう計算されているのかを考察する余裕も生まれた。オーナーの許可を得て時々スケッチもする。
更衣室で制服に着替えて、事務室へと移動する。レンガ造りの店に見合ったレトロなタイムカードを押し込んでいると、主任が声をかけたてきた。
「今日は貸切だよ」
「えっ、初耳です」
わたしは驚いて返した。
「オーナーの古い知り合いらしいよ。だから急な予約にも対応したんだって」
主任は淡々とこたえながらも、忙しく体を動かしていた。主任の家には赤ちゃんが生まれたばかりで、彼はできれば仕事を滞りなく終え早く家に帰りたいのだろう。いつも奥さんと赤ちゃんのことを思っているのか、心なしか常に笑顔を浮かべているようだった。
貸切の場合は色々と気をつかうものだ。ましてやオーナーの古い知り合いとなると、なおさらだ。事務室では、主任が書類の束をかき分けていた。
「あまり盛り上がらなければいいですねえ」
わたしは主任と同じ思いを口にした。彼は少しだけ笑みを浮かべると慌ただしくホールへと向かっていった。
ほどなくして、イル・クォコはゲストを迎え入れる準備を終えた。
照明は明るくなり過ぎないように落とされ、イタリアから取り寄せたインテリアを穏やかに照らしていた。店内はカジュアルなダイニングスタイルで、オープンキッチンのカウンターが設置されている。普段は窓際に並ぶテーブルには、赤い革張りの椅子が二脚ずつ置いてあるが、今日は立食パーティのため椅子は片付けられていた。
テーブルの配置も通常とは異なり、歩きながら交流できるよう動線が確保されている。光沢を抑えた深い焦茶色の木製テーブルは、白いテーブルクロスで化粧され、キャロットオレンジのキャンドルとともに、お皿やナプキンが丁寧にセットされていた。五、六人の少人数を迎える準備が整っていることがわかる。少人数であることは、わたしたちスタッフにとっては助かることだ。
前菜はすでに調理され、カウンターにビュッフェスタイルで並べられていた。朝採れの卵を使ったイタリア直輸入のチーズ入りフリッタータや、契約農家のトマトとバジルを使ったカプレーゼは、赤と緑のコントラストが目にも鮮やかだ。生ハム・プロシュートの原木も堂々と据えられ、シェフがナイフを振るう瞬間を待っている。他にも一口サイズのクロスティーニやタコのカルパッチョなどが並べられていた。乾杯用のシャンパンは氷で冷やされたクーラーの中で静かに眠っている。
ホールスタッフはわたしを含め五人。急遽呼ばれた者もいるようだった。
特に受験を控えているため、シフトを大幅に減らしてもらったヨネやんがいることから、よほど人手が欲しかったことがうかがえる。彼はその人柄から、いるだけで場が和らぐので、こういった場にいてくれると、非常に心強い。
人の手と厳選された素材をたっぷり使ったもてなしの数々。これを振る舞われる人物は一体どんなひとなのだろうか。きっとどんなものを注いでも全く痛くなく、喜ぶ顔があればきっとそれだけでお釣りが来るのではないか。もうすぐ店を開けたら、わたしはそのひとたちに給仕するのだ。ドリンクの注文を受け、柔らかく笑いながらそれを渡す。そんなシミュレーションをしていると、じんわり手のひらが汗をかく。早鐘を打つ鼓動を聞きながら、わたしはつい夢想する。もしこんな自分に話しかけてくれたら、なんて答えようか。
「門の外までお迎えに行ってくる」
オーナーから連絡を受けた主任が言った。わたしは一瞬で我にかえる。そして、門の外までお迎えに行くのは、よほど大事なゲストに違いない、と改めて思った。
「いらっしゃいませ」
玄関のドアが開くと同時に、スタッフ全員が声を合わせた。
その時、空気は一変した。ルビーレッドのトッパーコートを軽く羽織った女性が、まるで舞台に立つかのように背筋をピンと伸ばし、店内に足を踏み入れたからだ。
彼女がコートをクロークに預ける仕草ひとつひとつは、踊っているかのように優雅で、すべての視線を引き寄せる。店内は静寂と緊張に包まれ、ハイヒールのコツコツという控えめなリズムだけが心地よくひびいた。
空間に花が咲いたかのようだった。ローズ色のマーメイドワンピースは彼女にぴったりフィットし、コートとワントーンコーディネートが施されていたが、色味の絶妙な違いが単調さを与えず、ガーネット色のエナメルパンプスが全体を引き締めていた。柔らかい胡桃色のくるくるとした長い髪が揺れ、光を吸い込むような艶がきらめいている。シルクのワンピースにも引けをとっていない。
続いて、どやどやと男性が数人入ってきたところで、ようやく我々スタッフはその緊張から解放された。
「先生」「奥様」と呼ばれる声がかすかに聞こえ、彼女と先生が夫婦であることが推測できた。
すると、一人の男が遅れて入ってきた。
「外、雨降ってるよ」
と、男は誰にでもなく言った後、続けた。
「カオルさん、靴濡れてないかな?キミ!」
その視線がわたしを捕らえていた。
「タオルのひとつも持ってきてないの?気がきかないねえ」
先生とカオルさんと呼ばれた女性が振り返り、口を開く。
「靴は濡れていませんよ、雨が降っていることも気がつかなかったし、タオルならいりません」
意外にもハスキーな声でカオルさんは言った。
「そうですか、カオルさんは優しいお方だなあ。キミ、気がきく女性とはこういうひとのことをいうのだよ」
と、男の口は止まらない。
「申し訳ございません」
わたしはとっさに謝っていた。スタッフが他のゲストをもてなしながらも、わたしの方に目を向け、その表情からハラハラと心配しているのが見て取れた。
「これみよがしに謝らなくてもいいよ、こういう自分が被害者みたいな態度をとるひと、いるよねー」
その言葉に、わたしはなんて軽率だったのだろうと後悔した。
男はまだ何かを言いたげだったが、先生とカオルさんのもとにそそくさと寄っていった。一転して、ニヤニヤと媚びた笑みを浮かべながら、ふたりを持ち上げるような言葉を並べている。
「いやあカオルさん、今日のお召し物も、すごくお似合いですよ。まるでファッション雑誌から飛び出したみたいだ……」
ゲストと一緒に入ってきたため、一部始終を見ていたオーナーがわたしの肩にトンと優しく手を置いた。
わたしはオーナーに軽く会釈を返しながらも────やってしまった、と思った。
それからは自分の失敗を取り返すことに必死だった。
ただひたすらにサーブし、不要な食器は下げ、とにかくゲストの邪魔にならないよう身のこなしに気をつけ、ドリンクをこぼしたりひっくり返すことはもってのほかで、気を遣ったことだけは覚えている。
小一時間ほど働いたところで、十分間の小休憩が与えられた。
わたしは、倒れ込むような思いでクタクタと休憩所に入り、行きがけに買っておいた缶コーヒーを冷蔵庫から取り出す。木製のアーチ窓の外にガーデンの黒い枝が伸びる。ガレージをライトアップしたオレンジ色をぼんやりと反射していた。
簡素なテーブルに並べられたパイプ椅子に腰かけ、先ほどのコーヒーに自分の名前が書かれていることを確認すると、プルタブを起こす。甘苦い液体をすすりながら、自分の行動を思い返す。
──こういう自分が被害者みたいな態度をとる人、いるよねー。
わたしがとっさに謝ってしまったのは、やはりどこかに可哀想だと思って欲しい気持ちがあったことは否定できない。見てください、わたし、このおじさんに酷いことを言われています、と言わんばかりに。しかしまた、今日のこのパーティを円滑に運営するにはふさわしくない態度だったことも間違いないのだ。どうしてわたしは、自意識ばかり高いのだろう、何もできないくせに……。
その時、ギイと音を立ててドアが開いた。しまった、ノックを聞き逃したかもしれない。わたしは精いっぱい明るく
「お疲れ様です」
と、声を上げた。
「入るね、オーナーがいいって言ったから」
扉の奥から先ほどの女性──カオルさんが言った。
予想もしなかった相手に、体がこわばる。カオルさんはわたしの返事を待たずにツカツカと歩み寄ると、わたしの隣のパイプ椅子にどっかと座った。その手にはミニボトルビールがしっかりと握られていた。一瞬、それが花束ではないかと錯覚した。それくらい彼女は、ごく自然に香りを身にまとっていた。
「どうして……」
わたしはやっとの思いで言葉をひねり出した。カオルさんはビールをぐいっとラッパ飲みすると、こう言った。
「ごめんなさい、あたし……というか夫のツレが失礼なことを」
ああ、と相槌を打ちながら、わたしはこう返す。
「わざわざそのために来てくださったのですか」
「うん、実はあたしもウンザリしてるんだ、あんな態度、下品じゃない?」
そう言うとカオルさんはまたグビッとビールを飲んだ。
「あ、あなたも飲む?……って、仕事中かあ〜」
「はい、それもありますし、わたしまだ十九なので……」
残念そうなカオルさんにこう答えると、彼女は目を丸くした。
「十九?って、十九歳ってことよね、わあ若い!あたしより十も年下なのにしっかりしてるね」
こうまくし立てると、彼女はふーっと深く息を吐いた。
わたしは何を喋ればいいか分からず、ただ静かに佇むだけだった。目線が折れ線グラフのように、あっちに行ったりこっちに行ったり泳ぐ。
「あたし、薫っていうのよ、風薫る、の薫って書いてね、あなたのお名前は?」
「わたし、典子といいます、教典ってわかります?それの〝てん〟の部分で……」
「うん、なんか将棋盤みたいなヤツね、わかるわかる」
カオルさんはそう答えると、ふと真剣な顔をした。姿勢を正してわたしの目をまっすぐ見据える。
「改めて、ごめんなさいね、典子さん。あたしの連れ合いが失礼なことを言って」
わたしを一人の大人として尊重する、真摯な謝罪だった。
「お客様が謝ることではございません、こちらにも非がございますし、せっかくのパーティに水を差すようなことを……」
謝罪しようとしたその言葉を、カオルさんは遮った。
「まあ、そんな楽しいパーティでもないんだよね」
わたしはハッとして口をつぐむ。
「でもカルパッチョがタコなところは良かったよ、あいつ、夫はさ、いつもあたしにくっついてくるからね、タコの吸盤みたいにさ」
ハハハ、と少しうわずった笑い声を上げ、薫さんは三たび、ビールを口に運ぶ。上気した頬は淡く染まっている。しかしそれさえも彼女のために施したチークメイクに見えた。
うつむいてしまったカオルさん。
しかし、彼女と話しているうちに、わたしは次第にこの人に懐かしさを覚えていた。どこかで会ったことがあるだろうか。
「お客様は、旦那様のことが、その……あまりお好きではないのですか?」
わたしは思い切って質問を投げかけた。少し踏み込みすぎたかもしれない。
「うん、嫌い、夫もあの気持ち悪い取り巻きたちも」
しかし、ややあって薫さんはあっさりと答えた。
「今日もいきなりパーティーに付き合わされた、あたし今夜はゆっくり休みたいって言ったのにさ、昨日もあいつに付き合ってクタクタだったのに。あいつは、あたしを見せびらかすことしか考えてないんだよ」
何かを吐き出すように彼女は喋り続ける。その目は何かを睨みつけるように空をとらえていた。すると薫さんの頭がついと上がり、再びわたしの目を覗き込んだ。
「なんで別れないのかって思う?」
眉間に寄せたしわをぱっと開いて、ふいにそう問いかけられたとき、薫さんは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
しまった、やっぱり踏み込みすぎてしまった。彼女のその目の奥は、笑っていようとも、やはり深い悲しみを湛えていて、今日会ったばかりのわたしが気軽に触れてはいけないことだったんだと思い知る。
でも、なんだか放っておけない。彼女に似た女性を助けてあげられなかった過去があったような気がする。そうやって逡巡していると、わたしは何も答えることができず。ただ彼女の深海のような目を見つめるだけだった。
しばしの沈黙が流れ、
「じゃあ、あなた、連れ去ってくださる?」
薫さんは冗談めかして言った。
さらに言葉を失って黙りこむわたしを見て、彼女は微笑みながら休憩室から出ていく。ゆっくり何かを諦めたような足取りでとぼとぼと。彼女の脚にピッタリと張りついたマーメイドラインは、寸分違わずフィットしていて、きっとフルオーダーのものだろう。
その時、わたしは彼女に誰を重ねていたか、はっきりと理解した。ジリアンだ。