第三回名前呼び会議
休み時間、俺は同じクラスの高木と何気ない会話をしていた。
「ああ、それなら由布が知ってると思うから、聞いてみる」
「本当か? 助かるー。じゃあ、由布さんによろしくな」
と、喜んでいた高木が、自分で言ったことに対して騒ぎ出したのは、このあとだ。
「……あっ! 違う、樫本さん! 温井のがうつったじゃんか!」
高木はそう言うと、手を顔の前で振りながら慌てている。なんでだろう。
しばらくその様子を眺めて、下の名前で呼んだことに照れているのだ、ということにやっと思い至った。
おまえは思春期か、とツッコミそうになったけどやめた。俺も高木も十五歳。言われなくても思春期真っ最中だったから。
「名字でも下の名前でも、どっちで呼んでもいいだろ? 由布ってことは変わらないんだし」
「あ、そんなこと言ってさー。温井にとって樫本さんは幼なじみだから、恥ずかしくないだけだろ。だったら、委員長の吉田さんのこと、下の名前で呼んでみろよ」
「吉田美穂ちゃん」
「ぐわー! おまえ! すでにシニア世代みたいな貫禄出しやがって!」
「いや、さすがに本人に向かっては呼びにくいけどさ……向こうが嫌がるだろ。仲良くないのになれなれしいって」
「うそだ……温井なら呼びそう……。親戚の子どもに話しかけるおじさんみたいな言い方で呼びそう……」
「思春期の子どもに向かって、シニア世代とかおじさんとか、やめてほしいんだけど……」
「思春期とか子どもとか、温井に不似合いすぎる言葉だろ。こないだ樫本さんといたとき、縁側でお茶飲んでる老夫婦みたいって言われてただろー」
「言われたけどさあ」
始業のチャイムが鳴ったので、まだぶーぶーと文句を垂れている高木は放って、自分の席に着く。
名前の呼び方か。
授業を受けつつぼんやりと考える。
樫本。由布ちゃん。由布。
どっちでもいいだろ、なんて高木には言ったけど。幼なじみをどう呼ぶか考えたことが、実はある。
あれは小学校に入学してすぐのことだった。
「ずっと然くんって名前で呼んでたから、小学校に入って、みんなが温井くん、って言ってるの聞いて、びっくりした」
そう、小学校の授業を終え、俺の家に遊びに来た由布がこう言ったのが、きっかけだった。
「ああー、わかる。由布も、樫本さんって変な感じだなーって思ってた」
「おんなじ幼稚園だった子はね、女子はそのまんま由布ちゃん、って呼んでくれるけど、男子は名字で呼ぶようになったよ」
「なんでかなあ」
「なんでだろうねえ」
真新しい国語ドリルを広げながら、俺と由布は首をひねる。
男子と女子。違う存在であることは、もちろん俺も由布もわかっていた。だけど、遊んだり勉強したりするのに、そんな違いは関係のないことだとも思っていた気がする。
「わたしたちも、変えた方がいいのかなあ?」
由布は鉛筆を鼻と唇の間に挟んだまま、ごにょごにょと不満げな声を出した。
「カシモトサン、って? なんか変な感じ。それに、由布のお父さんもお母さんもおんなじ名字なんだかろ、家族で会うときややこしくなっちゃうよ」
俺も多分、不満げだっただろう。違和感が皮膚のむずがゆさにまで発展して、首筋や頭を掻いていたような気がする。
「わたしも、ヌクイクン、って呼ぶのは、口がむずむずするよー」
「やっぱり、今のままでいいか」
「うん。変わらない子がいてもいいよね」
第一回名前呼び騒動は、こんな風にあっさりと終了した。現在の呼び方を継続することに決定したのだった。
第二回目の騒動は、小学五年生のときだ。
俺と由布は同じクラスだった。周りのみんなは、性別が違うふたりの仲が良い、というところだけに着目して、俺たちを囲んで冷やかした。
「然くーん、由布ー、だって! すっげえ二人の世界って感じー」
「ふたりだけだよね。下の名前で呼んでるの。ここの空間だけ熱くない?」
俺は内心イラッとしつつ、「言われるほど、おかしいことしてるのか?」と混乱しつつ、表面的には、からかい言葉をハイハイ、と受け流していた。心の中はいろんな感情が沸き起こっていてややこしかった。
由布はといえば、言われた瞬間は首をかしげ、ピンとこない貌をしていた。
だがしばらくたって、授業中に「ええっ、そういうことだったの?」と大声を出しながら立ち上がり、先生も含むみんなに笑われていた。俺たちが恋仲だとからかわれていることに、このときやっと気がついたらしい。遅いなー。
イライラしたりどうでもいいと思ったり、いくつもの考えが頭を飛び交うことに疲れてきた俺は、由布とふたりになったとき、ふと弱音をこぼした。
「変なのかな。下の名前で呼ぶのって」
「変じゃないよ。だって、友だちだもん。わたしは然くんに、由布って呼ばれたら嬉しいよ」
すぐさま答えて、まっすぐ俺を見つめる由布。その視線は、普段ぽわんとしている由布らしからぬ強さで、くだらない考えばかりを排出している俺の頭にすっと刺さった、気がした。
俺はうなずきながら、気持ちが落ちついてくるのを感じていた。由布と友だちでいること。それは俺にとって、安心できる居場所のようなものだった。
「そうだよな。名前をどう呼ぶか、っていうのは、呼ぶ人と呼ばれる人が決めることだもんな」
「うんうん、そうだよ! 然くんいいこと言うー」
ふんわりした表情に戻った由布を見て、俺はさらに安心した。
「じゃあ、このまま、由布って呼ぶ」
「うん、わたしは、然くんって呼ぶ」
こうして一年生のときと同じく、今の呼び方を続けようと決めたのだった。
しかし、クラスの奴らはまだ俺たちをからかってきた。俺と由布が近くにいると口笛を吹いてみたり、はやし立てたり。
反論したら火に油を注ぐことになるんだろうか、と考え、何も行動できないでいたとき、由布がすっと前に出て、こう言い放った。
「わたしは然くんと友だちだから、名前を呼ぶし、話していると楽しいから、一緒にいるよ。それって、だめなこと?」
冷静な話し方だった。不満を表出したという風ではなく、雑味のない声で、由布は疑問を呈した。
奴らは由布に言い返されると思っていなかったらしく、目を丸くして口をつぐむ。
由布はさらに、相手の目をじっと見ながら訴えかけた。
「からかわれると、悲しくなっちゃうよ。友だちと楽しく話すのは、そんなに笑われるようなことなの? だめなことなの?」
「えっ、えーと……」
「だ、だめとはいってねーだろ……」
それまでにやついていた奴らは言葉を詰まらせ、視線をキョロキョロと動かしている。
「そもそも、なんでからかってたんだっけ……」
「わからない……」
自分が何を思って俺たちを冷やかしていたのか、自らの深層心理に迷い込む奴らが続出していた。由布のまっすぐな光に当てられたのかもしれない。
俺は由布の隣に立って、口を開いた。
「もし、これからも俺たちをからかうなら、俺はそのたびにやめてくれって頼むことにする。何回でも言う。友だちが悲しいのはいやだし。俺も由布も悪いことはしてないから、ずっとこのままでいく」
はやし立てていたリーダー格の男子は、俺の話を最後まで聞いたあと、小さい声で「ごめん」と謝ってきた。続いて取り巻きもぼそりぼそりと謝る。
こうして俺たちがからかわれることはなくなり、第二回名前呼び騒動は幕を閉じたのだった。
そして、高校生になって第三回目の騒動。……いや、騒動と言うほどでもないか。騒いでいたのは高木だけだった。
「……で、高木と名前の呼び方の話してたら、昔のこと思い出したんだよな」
今日あったこと、そこから想起したことなどを、いつもの寄り道場所で由布に話していた。
いつもの場所……コインランドリー横のベンチだ。花はもう散ってしまったけど、代わりに緑の葉が生い茂っている。桜の木が早着替えをしているうちに、俺たちも鞄や制服になじみつつあった。
「五年生のときだっけ。下の名前で呼んでたら色々言われたの。だけど割とすぐ、からかうのやめてくれたよねえ」
由布も昔の騒動について覚えていたようで、うなずいて答えた。
「そうだな。俺たちはもう、そういうもんだと諦めてくれたんだろう」
「ふふ、そういうもん、かあ。こうやって学校帰りにジュース飲んでるのも、そういうもののひとつだよね。カンパーイ」
乾杯の音頭に合わせて、俺も手にした缶をかかげる。今日は俺も由布もカフェオレだ。ひとくち飲んで、はーっと息を吐いてから、由布が言った。
「今、違う呼び方してみたらどうなるんだろう」
「ためしにやってみるか?」
「うん。温井くん」
「なんですか、樫本さん」
なぜかお互い気取った言い方になってしまい、同時に噴きだす。やっぱりしっくりこないな。でも……。
「前と同じように、変だなーとは感じるけど、口がむずむずしたりはしないなあ」
「俺も思った」
なんでだろう、としばらくふたりで考える。
「もう、知ってるから、かなあ。どんな呼び方してもされても、然くんは然くんで、わたしはわたし、ってこと」
「あー、もうアイデンティティが確立してるからってこと?」
「そういうことになる、のかな?」
たとえ呼び方を由布から樫本に変えたとしても、自動販売機めぐりをしたり、一緒にジュースを飲んだり、宿題をしたり、菓子の材料を買いに行ったりしたことは、なにひとつ変わらない。ぐらつきようもない、しっかりした土台がある。
「わたしのことをよく知ってる然くんだから、どんな呼び方をしても、わたしはわたしなんだなあって」
「うん、由布は由布だよな」
また、似たようなことを考えてたみたいだ。今日は特にシンクロ率が高くてびっくりする。同意してからちょっと恥ずかしい気持ちにもなったけど、本当のことなんだ。
「もし呼び方変えるとしても、あんまり変な呼び方はやめとこうね。呼ぶたびに笑っちゃうだろうから」
言ってるそばから由布はもう笑っている。一体どんな呼び方を想像してるんだろう、と尋ねてみる。
「変なって、カッシーとか?」
「まだセーフかなあ。ヌクヌクくん、だったら笑いそう」
「どうも、ヌクヌクです」
「あははは、やめてー」
一回目、二回目の名前呼び騒動は、気持ちがザワザワしたり悩んだり、ちょっとした事件だった。
だが第三回目ともなると、実にゆるやかだった。ほんのり始まり、結論は笑顔。
由布と俺の笑い声が、昼下がりの桜の木の下で、のどかに響いていた。