プロローグ
星ひとつない闇が広がり、ただぽつんと満月が浮かぶ夜。
小高い山からある街を見下ろす一人の男の影があった。
夜虫が鳴き、風が吹き、それに煽られ草木がざわめく。そんな中、男がポツリとつぶやいた。
「あぁ、今日はなんて良い日だ。」
冷静さを装いながらも、歓喜を隠しきれないその声を漏らせば、途端に世界は沈黙をもたらした。
それはまるで時が止まったかのような急な静けさで、世界が彼という存在に怯え、彼に干渉する事を世界の理そのものが避けている。そんな様子であった。
ひゅうひゅうと音を立てていた風はぴたりと止み、世界中の人間は前触れもなく襲ってきた得体の知れない感覚に恐怖し、明かりを消して息を殺した。虫や動物も危険な存在からその身を守らんとするため、鳴き声を止めて身を潜めた。後に残ったのは、空に浮かぶ月と、全世界を覆い尽くしている一寸先も光が届かぬ暗闇のみ。
そんな誰もが沈黙を守る中、男が見つめる街の大きな病棟で、そんな事は知らぬとばかりに甲高い産声が上がる。
その声が上がった途端、男はにたりと笑い、また心底嬉しそうに言葉を漏らした。
「これは、面白くなりそうだなぁ。」
そう口にすると、男は赤い眼光を街から外し、世界の日常へと帰っていく。
後に残った広大な闇に浮かんでいるのは、緑色に煌々と光る怪しげな満月。ただそれだけであった。