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短編集・散文集

アポロ&ディオニュソス

作者: Berthe

 昼過ぎ、午餐後の教室。非常に眠い。折々油断する度毎に瞼が意に反して揺れだし、なすすべもなく塞がってならない。


 朝食を抜いた末、その分を取り戻そうと肉と白米の豊富につまった弁当にくわえて、春から夏が過ぎる頃まで売りに来る甘い冷たいバニラアイスを潤沢に敷き詰めたクロワッサンに舌鼓を打ちながら、その場だけは苛立ちも静まって頭は冴え冴えと活力も漲った代償でもあろう。


 窓際から辺りを見渡せば、四五人にくだらない生徒が男女の別なく頬杖片手にこくりこくりと船を漕ぎ、ある者は腕枕に臥せってさえいる。授業が始まる以前よりぐうぐう高鼾を決めこんでもいたのか、あるいは与えられた自然の摂理に導かれるがまま眠り込んでしまったのでもあろう。


 授業で習うところも予備校やインターネットでいつでもさらえるのだから、無論のこと教師の視線さえ厭わなければ無理にも起きている道理はない。


 もう義務教育は修了しているのだし、受験を控えているとはいえ教師も生徒をとがめる所以もなかろう。


 自分はといえば余りの睡魔に突っ伏しそうな矢先、ふと思い出すがまま飴玉を取り出して、密かに包みを破ると共に舌先へのせたその甘い爽やかな風味を味わうや否やたちまち好転した気分のままに、しばし起きる事にした。


 今なお端麗な美貌を誇るものの、往時はそれこそ男がほっとかなかったであろうボブカットに切り詰めた三十七八の数学の女教師は、昼過ぎの教室の風景にはとうに慣れ切っているかの如く、苛立ちの表情を湛える事もなくかえって日焼け盛りの学生連とは質を異にした白いしなやかな手先に教科書を持って席と席とのあいだを静かに歩みながら、見事に臥せっている生徒へ我が子に送るような優しい柔らかいまなざしをやりつつ、かと思うと控えめに顔の横で手をあげた生徒へ気がついて歩いて行き、半ば身を屈めると共にさらりと流れた髪の毛に頬をかくしながらその質問に答えたりする。


 しかし若いながらにして若い女が好みであるのに気づいてもいる自分は、いまだ美しいと感心するがままそれを保存してきた経歴やつつましい努力へ秘めやかな称賛のまなざしを浴びせることはあれど、すでに妙齢の過ぎた女性ゆえともすると近しい年齢の女性たちへ抱きがちな溢れ返らんばかりのどぎつい情愛を抑える必要もなく、物言わぬ絵画のように余裕をもって唯々美的作品を鑑賞するかの如く穏やかに眺められるのがかえって嬉しい。


 けれども絵画をつくづく眺めやるうちには果たせるかな次第に退屈する。美しくともあくびを吹き飛ばす力はない。


 畢竟、音楽のみが人の身を焦がす。冷徹でいたい自分も例に漏れず音楽の誘惑に抗うことはできない。


 瞼の肉の退いて凄みの増したのに引き換えて若き頃よりも幾分か油分の増したであろうその人に付き合っている時でもない。


 自分は冷たいというよりもむしろ憐れみの情を抱きながら、なお名残惜しくその方を見つめるうち、美人教師が教壇へもどりチョークを拾って板書しだしたのを潮に瞳を傍らの女子へ移した。


 彼女は自分を好いていてくれたらしい。この頃の事情は知らないが、()(つき)前に友人を介してそう匂わせつつ交際の有無を問い合わせてきたことがあった。


 自分はその頃折悪しくも別のクラスの女子に惹かれており、丁度上手く事が運びそうなところへ、今度は一つ上の先輩からも似たような話を受ける。


 俄に恋愛事情が混み合い、色とりどりの可憐な花園に我にもあらず大いに浮かれるうち、やはり初めに好いた人を選ぶことにした。


 それについては無論のこと悔いてはいない。二人三人と同時に付き合う真似はできない。荷が重い。けれどもそれは自分が一人の女のみを想っていることを意味しない。


 男にとって一人の女だけを想うのは不健康であろう。自分はようやくその事を実感しえてふっと目が覚めたような心持ちがした。


 特定の女に恋焦がれるままに思い詰めてつきまとう男が恐ろしくてならないのは何もその行為が犯罪的であるばかりではない。


 一人の女だけを想い追いつづけることは男にとって不自然かつ不健康だからである。女々しさを彷彿させるからである。自分は遅ればせながらそのように心づいて一段認識が上がったような気がした。


 斜め前に座るその子はうつ伏せることなくきちんと背筋を伸ばして書かれゆく板書をノートに写している。自分はもう予習済みで理解漏れもないから写す必要はない。


 と、一段落ついたと見えて、彼女はこちら側に掛かる紺地の学生鞄のファスナーを静かにひいて手を中へ差し入れると共に夏物のシャツの袖がぐいと引っ張られ、ふと露わになった(たお)やかな小麦色の二の腕に立ち所に惹かれながらも視線を下へむけると、今度はとじた膝の先につづく太腿と内向きに傾いた足先から目が離せなくなる。


 俄に飴玉の甘みを強く深く覚えつつ、ローファーからすらりと伸びる左右の靴下の長さを両のふくらはぎを検分しながら見定めるうち、わずかばかり左の方が長いのを認めてふと満足を覚えたそばから手が抜きとられ、間もなく手元で開いたのを見ればコンパクトミラーである。


 シャーペンを持って書くのを装いながら、危うく鏡越しに目が合うのも恐れず折から沸き立つ好奇心の命ずるままに覗き込もうとしたところで、自分は俄に首を横に打ち振りとどまった。


 逆らうのは困難とはいえ、血潮の激するままに覗きと断罪されても詮無い事をしてしまっている。


 ここらで深く自重して、可憐な女子という甘美かつ激情を誘う音楽からひとまず身を引き離すべきだろう。


 窓を向くと今にも礫の落ちそうな曇り空が所々膨らんで、白と灰の明暗を際立たせつつ漂いながら、無常にも移りゆくままに流れゆくそばから早くもぽつりぽつり、しめやかな雨音が聞こえだしたと思うと瞬く間に本降りになりだした折から、小鳥が一羽ぱたぱたと雨宿りにやって来て、ぶるんと身を震わせると、飛び散った飛沫にもかまわず両脚で跳ねだした。

読んでいただきありがとうございました。


参考文献:『悲劇の誕生』フリードリヒ・ニーチェ/秋山英夫訳(岩波文庫)

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