いすまお2〜さっさと行くのじゃお父ちゃま!
魔物の誕生は一般生物とは違う。個体によって様々なので、説明は出来ない。
「心地よい闇じゃのう!」
魔王城の3階で、幼い娘の甲高い声が響いた。
「おや、お椅子ちゃん、俺たちの子が産まれたよ!」
魔王様は青紫の血を顔中に巡らせて、嬉しそうに言った。
「まあ、ご覧下さいませ、魔王様」
魔王様がその身を預ける真っ赤な玉座から、低く艶っぽい女性の声が応じた。
「うん」
「お角が、もう」
「そうだねぇ」
「流石は魔王様のお子ですわ」
「へへっ」
魔王様は愛するお椅子に褒められて得意満面である。普通の魔物は幼少期に角が無いのだ。魔王様でさえ、幼体の時分には角無しだった。
「みてよ、お椅子ちゃん」
「はい」
「血のように美しい赤だよ」
「ええ」
「やっぱりお椅子ちゃんの娘だねぇ」
魔王様とお椅子の瘴気が混ざって産み落とされた姫は、真っ赤なワンピースを身に纏っている。それは、お椅子に張られた布と同じ色であった。魔の姫はこの魔王城に生を受けた時から、角が生え色鮮やかな服を着ていた。
呪われた森の奥深く、毒と腐った木や草に満ちた沼がある。そこで生まれた魔王様は、ある日出会った呪われたお椅子に魅せられた。嵐に乗ってやってきた妖しくも美しいお椅子に、魔王様はいっぺんで虜になってしまったのだ。
全般的にやる気のない魔王様だが、お椅子ちゃんの口車に乗せられて時々その力を見せつける。強い毒と呪いを垂れ流しながら、沼の中で寝転がるだけだった角無しの魔物。彼は一目惚れしたお椅子に言われるままに、角を生やした。城を築いた。勇者を一撃の元に消滅させた。
そして、ひと仕事終えると、さっさとお椅子ちゃんにくっついてゆく。
「お椅子ちゃん可愛いー美しい毛並みー」
毒と瘴気と何だか分からない紫色のモヤに覆われた城の中で、夜より黒い長髪の魔王様は、真っ赤な椅子に身を沈め、多くの時をだらだら過ごす。
「魔王さまっ!」
「魔王さま、森のはじが浄化されております!」
「聖者がお城を目指しているようですよ!」
なにやら窓の外が騒がしい。玉座の間は魔王城の3階にある。数段昇ったステージのようなところに、魔王様の愛する椅子が据えてある。唐草模様もゴージャスな真っ赤なベルベットは肌触り抜群だ。この赤は強盗に殺されたクロス張り職人の血なのだが、黒ずみもせずに鮮やかなままである。
「ああ、お椅子ちゃん。君には血の香りがよく似合う」
「魔王様?」
どすの効いた女性の声が、魔王様の耳に届いた。
「なんだよぅ、お椅子ちゃん」
「雑魚どもが好きに騒いでおりましてよ」
「そんなの、捨て置け」
魔王様は愛おしそうに肘掛けを撫でる。外では雑魚どもの訴えが続く。
「魔王様!」
「我らの森が狭くなる一方でございます!」
外の直訴を気にも留めない魔王様に、お椅子は厳しい声をだす。
「森が狭いのは嫌ですわ」
「そんなの、自然にまた広がるよぅ」
「侵食しつづける毒と呪いの真ん中での微睡みは格別でございましょう?」
「そうだねぇ」
「魔王様なら、聖者の相手なぞ肩慣らしにもなりませんわよね」
「うん、聖者なんか、俺の相手にならないよ」
「でしたらほら、早く呪いを」
「放っておけば腐るよぅ」
魔王様は、そこにいるだけで呪いを垂れ流しているのだ。生き物は呪われて奇怪な姿となり、土壌は腐敗し異臭を放つ。崩れた木々が道を塞ぎ、毒に満ちた空気は旅人を寄せ付けない。その領域は日に日に広くなってゆく。
ゆくはずだった。
少なくともこれまでは、朽ち果てた領域は着実に人界を呑み込んでいた。
「魔王様ッ」
「どうかご決断を」
「我らの森にもっと呪いを」
雑魚どもは窓の外で、ひっきりなしに騒ぎ立てる。
「えい、やかましい。呪いなら今も撒いておるわ」
「魔王様、森の外れが日に日に緑色になっておりまする!」
「恐ろしいことに、香り良き花が咲いておりますよ!」
「魔王様!」
「魔王さまー!」
魔王様は聞こえないふりをして、背もたれと肘掛けの間に顔を埋めてしまった。
「あっ、いてっ!」
ベルベットの毛足を針に変えて、お椅子が魔王様の腕を突き刺した。魔王様が足元を見ると、魔の姫が噛み付いていた。
魔王様の立派で重そうな綾織のローブは、小さな手で捲り上げられている。そこには、魔物らしく青白い脛が剥き出しになっていた。魔の姫は口を大きく開けて、魔王様の脚に小さな牙を立てていたのだ。
「おお、魔の姫よなんと醜く尖った牙だ」
魔王様は親バカまるだしで目を細めた。噛まれた傷口からは、青紫のどろどろした血が流れ出す。
「お父ちゃま!」
甲高い声で魔の姫が叫ぶ。
「お父ちゃまの呪いが押されてましゅじょ!」
幼い魔の姫は魔王譲りの恐ろしい眼を吊り上げる。ひと睨みすれば見渡す限り焦土となる獄炎の瞳であった。
「うん、うん」
「魔王様?」
「素敵だよ」
魔王様は、長く黒い曲がった爪で、椅子の毛並みを軽くひっかく。
「イタタ!お椅子ちゃん、痛いよ!」
お椅子は毛並みを鋭い針に変えて逆立てる。
「お父ちゃま」
「良い牙だ。この髪もなんと毒気に満ちていることか」
長く黒い爪は、魔の姫の繊細な髪を掬う。姫の髪からは、常に毒が染み出している。
「お父ちゃま、聖者が図々しいのじゃ!」
「うん、図々しいねぇ」
「お父ちゃまのお力を、お示しなしゃれまし!」
「そうだねぇ」
魔王様はだらしなく真っ黒いマントを半脱ぎにして、可愛い魔の姫を抱き寄せた。
「あっ、痛い痛い」
魔の姫は小さなギザギザの歯で、魔王様の腕を袖ごと食い破る。迸る青紫の血は、シミも作らず真っ赤な玉座に吸い込まれていった。
「ふふ、芳しいこと」
舌なめずりをせんばかりの声が、お椅子の背もたれから聞こえてくる。魔王様は頬を青白く高揚させて、ガバリと背もたれに抱きついた。
「ねぇ、魔王様」
お椅子は焦らすような甘い声を出す。子供の前だが、魔物なので平気である。
「なんだい、お椅子ちゃん」
魔王様は嬉々として返答した。
「魔王様の偉大な呪いを拝見しとうございますわぁ」
魔王様の眉が腑抜けた様子で下がった。すると、腕に噛み付いていた魔の姫が、ぱかりと口を開けて魔王様を離した。
「お父ちゃま、わらわも見とうごじゃいましゅのじゃ」
途端に魔王様はキリリと顔を引き締めた。
「お前たち、見たいか」
「頼もしいですわ」
「見せてくだしゃいましぇ!」
魔王様は満足そうに頷く。頷くばかりで動かない。
「イタタ」
お椅子は毛を針に変えると、逆立てたり寝かせたりを繰り返して魔王様を突き刺した。
「小物が騒がしゅうて、嫌なのじゃあ!」
「わかったよぉ」
口元を父である魔王様の血で真っ青にして、魔の姫が眉も目も吊り上げて駄々を捏ねる。
「魔王様、姫にお手本を見せてくださるのでしょう?」
「お手本か、そうだな」
魔王様はニヤニヤとやる気を出した。出したのだが、動かない。
「偉大な呪いを放つお姿は、それはそれは素敵なのよ」
お椅子は戦法を変えてきた。魔王様ではなく、魔の姫だけに話しかけるのだ。娘とふたりで褒めちぎれば、怠け者の魔王様でも張り切るかも知れないのである。
「見たい!見たいのじゃ!」
魔の姫は目の中に星が瞬くかと見紛うほど、キラキラと赤黒い眼を輝かせた。
「見たいかぁ、そうか、そうか」
魔王様は切れ長の冷たい眼を細めて、デレデレである。しかし相変わらず愛するお椅子にしがみついて離れない。
「姫、お父様が強い毒を振り撒く姿は、それはそれはカッコいいのよ」
「見たいのじゃぁぁ!」
「うん、うん」
「見せるのじゃあ!」
「あっ、イタタタ!」
お椅子の柔らかなビロードは全て針に変化した。魔王様は思わず跳ね上がる。
「わあっ、魔の姫よ、イタイ!放してくれぬか!」
魔の姫は魔王様の頭にかじりついている。文字通りにだ。噛み付いている。ギザギザの歯を立てて、角の間に張り付いている。魔王様のねじくれ曲がった恐ろしい角は、根元のところに青紫の血が滲む。
「魔王様ー!」
「ぎゃぁぁー!聖者が!」
「聖者がもう1人増えましたッ」
「お願いです、魔王様」
「うわぁー」
「魔王様!聖者の顔が見えてきました!どうか!」
「魔王様ーッ!」
窓の外から恐怖の叫びがひっきりなしに届く。
「ええい、お父ちゃま、わらわが行くのじゃ!」
窓をカラリと開け放ち、魔の姫が曇天に飛び出してゆく。窓の外を眺めれば、もう城のすぐ下まで緑が迫っていた。
「思い知るがよい!聖者どもめ!」
幼い魔の姫が聖者がいるらしき方向を指差す。どす黒い光が指先から放たれると、森の緑がやや茶色に変化した。緑もじわじわと押し返してくるが、魔の姫は諦めない。
「お椅子ちゃん、ご覧よ。魔の姫が」
「ええ。さすが魔王様のお子ですわ」
魔王様が嬉しそうにお椅子の背もたれを撫でた。
「でもやはり、まだ幼い姫ですもの。魔王様がお手本をお示しにならなければ」
「そうかなあ。充分立派だよ?」
魔王様はぐずぐずと働かない方向で話を進めようとする。
「親子で一緒になさっては?」
「一緒に?それはいいねぇ」
魔王様が微かにやる気を見せる。その気配を感じた魔の姫は、さっと振り返って父に頼んだ。
「一緒に呪いとうございますのじゃ!」
「おおう、そうか、そうか」
「お父ちゃま!お願い致ちましゅのじゃぁ」
「よしよし」
まだお椅子にくっついている魔王様に、魔の姫はダメ押しをする。
「一緒がいいのじゃ!お父ちゃま!」
お椅子譲りの懐柔戦法である。魔王様の眉毛が下がる。目尻も下がる。青白い頬もゆるむ。デレデレである。
「お父ちゃまー!聖者どもの浄化は強いのじゃ!辛いのじゃ!聖者どもは酷いのじゃ!」
魔の姫が吊り上げた眼に涙を溜めて見せる。もちろん演技である。
「なにっ、魔の姫をいじめるとは、ふてぇ奴らだ」
魔王様はとうとう眉を吊り上げて窓辺に近づいた。
「素敵ですわ、魔王様」
「お父ちゃま、カッコいい」
「よし、お父ちゃまがすぐにやっつけてやるぞ」
親バカ魔王様は両手を上げる。真っ黒な長い爪が眼下の森に向けられた。遠くの街に至るまで、あっという間に青紫の霧が降る。聖者たちは、声もなく消え失せてしまった。
「魔王様ばんざい」
「ざまぁみさらせ、聖者ども」
「偉大なる魔王様」
「さすが魔王様は違う」
「魔王様は素晴らしい」
「おおー」
「うおおー」
窓の外に集まっていた配下が鬨の声を上げている。
「うふふ、魔王様」
戻ってきてすぐに座った魔王様を、お椅子は優しく毛で撫でる。
「お父ちゃま!」
魔の姫は魔王様の背中へと、勢いよく抱きついた。魔王様はお椅子と魔の姫に、かわるがわる頬擦りをした。
「よしよし、お前たち、俺が大好きか」
「ええ、もちろん」
「大好きじゃ!」
「大好きか、大好きか」
魔王様はニタニタしながら、やがて目を閉じて眠ってしまった。魔王城の3階にある玉座の間からは、いつものようにどす黒い魔王様の呪いと毒が溢れていくのであった。