身の内の毒、恋のわずらい
※この作品はすなぎもりこ様主催『すなもり共通プロット企画』参加作品であり、提供されたプロットで創作した作品です
隼矢斗は左隣に座る華耶にちらと目を向けた。
初めて出会った十の頃の華耶はふくふくとした頬を持っていた。今は少しまるみを減らしたその頬には、十六という年頃の娘らしく紅が差されている。見知らぬ姿に胸がざわりとした。
指先は、どうだろうか。
隼矢斗のまなざしは今度は華耶の膝の上で行儀よく揃えられた手へと向かう。短く切り揃えられた爪の先が深緑に染まっているのが見え、隼矢斗の胸のざわつきが次第に凪いでいく。
華耶のありようは、きっとあの頃と変わらない。
そう胸の内で呟き、隼矢斗は気取られないよう小さく息を吐く。その拍子に緊張ですっかり忘れていた鳩尾の痛みが戻ってきたが、服の飾り紐を直す体でそこを軽く撫でるようにして気を紛らわす。
今はまだ駄目だ。華耶が邸を離れるまで、いやせめて、おれが部屋へ戻るまでは保たせなければ。
「それでは」
声を掛けられて隼矢斗は体を左へと向けて座り直す。隼矢斗と同じように右を向いて座り直した華耶と真正面から目が合った。
そのまなざしに浮かぶ哀しみの色に気づかないほど隼矢斗は愚かではない。それでも、もう決まってしまったことだ。
華耶が床に手をつき、深々と頭を下げた。
「西の里一の姫、華耶はこれより隼矢斗さまの許嫁となります。精一杯努めさせていただきます」
隼矢斗は決まり通りの言葉を発した。
「中つ里一の子、隼矢斗はこれより華耶を許嫁とし、里の繁栄のため力を尽くす。よろしく頼むぞ、華耶」
決まり通りの隼矢斗の言葉に華耶が面を上げて静かに微笑む。
鳩尾がぎりりと痛んだが、どうにか表情は動かさずに済んだはずだった。
どうにか華耶が帰るまで持ち堪えた隼矢斗は、人払いを済ませた寝所で体を丸め鳩尾の痛みに耐えていた。
このところ、痛みが以前より強くなっている気がする。
ここ中つ里の長の一の子として生まれ、快活すぎるが故に怪我をすることはままあれど病気ひとつしなかった隼矢斗。そんな隼矢斗の体に異変が現れたのはふた月程前だった。
食べたものを戻す。腹を下す。鳩尾が痛む。
隼矢斗の立場で食うに困って傷んだものを口にするなどありえないし、次代の里長である隼矢斗に毒を盛るような愚か者はこの里にはいない。
毎日のことではないにしろ度々繰り返されるそれのせいで隼矢斗はじわじわと弱っていき、困り果てた父は、代々薬師が長を務める西の里の娘を隼矢斗の嫁に貰いたいと申し入れたそうだ。
『断れば中つ里にしか生えていない貴重な薬草を渡さない、と言ってやったのだ。西の里長は面食らって一の姫を出すと申し出てきた。里長の子の中でもいっとう優れた薬師とのことだ』
寝込んでいる隼矢斗の枕元に座った父が笑う。
『これで薬師が手に入る。おまえも子が成せるようになる。中つ里は安泰だ』
ありがとうございます、と短く返すと父は満足したような顔をして寝所から出ていった。
父の何事にも強引すぎるやり方を隼矢斗はよく思っていなかった。そのため近頃では父と対立することもあったし、今回の件も事前に聞かされていれば隼矢斗は受け入れなかっただろう。薬草を使って脅しをかけるなど卑怯だ、と言いたかった。
そう思う反面、父がそれほどまでに隼矢斗を失いたくないのかと思うと嬉しくもあった。対立こそすれど親としての情は失われてはいなかったらしい。
……華耶には申し訳ないけれど。
西の里の一の姫、華耶のことを隼矢斗は思い浮かべる。十の頃に一度だけ顔を合わせたことのある華耶。まるい顔に屈託のない笑みを浮かべていたその娘が、脅される形で病人である自分の嫁になるのが不憫でならなかった。
華耶を娶るという話が持ち上がってからずっと、隼矢斗の頭にはひとつの考えがあった。
おれの病が癒えたら離縁してやるべきなのだろうな。
その思いは久方ぶりに華耶を見ていっそう強くなった。年頃の娘になった華耶は、許嫁となることを誓うあの場で哀しみを帯びたまなざしを隼矢斗に向けてきたのだ。
……華耶には好いた男がいるのかもしれないな。
華耶からそんな思いを向けられる男のことを隼矢斗はほんの少しだけ妬ましく感じた。それと同時に華耶への申し訳なさが募っていく。
隼矢斗は心を決めた。
華耶との祝言は里と里との関係が絡む以上もう止められない。けれど、本当の意味で夫婦にはならない。
体の具合が悪いとかどうとか理由をつけて夫婦の契りを先延ばしにし、おれの病が癒えたら清いままで西の里へ戻してやろう。
父は文句を言うかもしれないが、そもそもおれを死なせないための縁組なのだからおれが無事ならばそれで問題はない。病を癒やしたその手腕を褒め称え、西の里で薬師として一層研鑽を積むのが華耶のためだと言えば華耶が誹りを受けることはないはずだ。
隼矢斗は嫁入り前の支度として時々中つ里にやって来るようになった華耶にわざと冷たく当たるようにした。その度に華耶の美しい顔が翳り、隼矢斗の鳩尾も痛んでいった。
自分の痛みを華耶に気取られないように取り繕っていた隼矢斗は、華耶の双の眼が時折何かを探るように細められていることに気づかなかった。
「隼矢斗さま」
華耶の声が聞こえる。夢、でも見ているのだろうか。
「隼矢斗さま、起きてくださいまし」
夢にしては妙に生々しい。耳元で囁く声も、吐息もまるで本当に華耶が隼矢斗の側にいるかのようで。
――違う。華耶がここにいるはずがない。ここは隼矢斗の寝所、今宵ここにいるのは華耶の弟、伊吹のはずだ。それなのに。
どうして、華耶の声が。
隼矢斗は目を開けた。枕元にいるのは紛れもなく。
「か、や?」
華耶、その人だった。
「おまえ、どうし」
上げかけた声は華耶の掌で封じられた。薬師である華耶の掌は常に擂粉木や混ぜ棒を握っているせいで硬く、どれだけ手を洗っても消えない薬草の香りが染みついている。指先に残り続ける深緑色も華耶が薬師である証だ。
「隼矢斗さまの真の姿を見せていただくため、伊吹に成りすまして寝所に侍らせていただきました」
そう。隼矢斗の体の具合を確かめるために弟で薬師見習いでもある伊吹を一晩寝所で侍らせてもらえないかと華耶から申し入れがあったのはつい先日のことで、申し訳ないと言って渋る父を押し切るようにして伊吹がやって来た。
伊吹は華耶と大して背格好が変わらない小柄な少年で、顔に痘痕があるのを隠すために布面を着けていた。まさか、それが華耶であることを隠すためのものだったとは。
いや、何度か伊吹、もとい華耶と会話を交わしたがその声は華耶のものではなかった。おれが華耶の声を聞き間違うはずがない。
瞬きを繰り返す隼矢斗に華耶が微笑みかける。
「わたくしを誰だとお思いですか? 声を変える薬など簡単に作れます」
西の里長の子の中でもいっとう優れた薬師。隼矢斗の父は華耶のことをそう言っていた。確かに、華耶ならば造作もないことだろう。
華耶は小さな瓶を取り出して片手で器用に栓を開け、中身を一気に口に含んで隼矢斗に顔を近づけてくる。真っ直ぐな黒髪が一房滑り落ち、紙燭の灯に照らされて輝くのが見えた。
華耶の掌が離れる。空気を求め隼矢斗の唇が開く。
そこに華耶の唇が重なり、隼矢斗の口内に液体が流しこまれた。咄嗟に離れようと華耶の肩に手をかけるがあまりの薄っぺらさに突き飛ばすのを思わず躊躇してしまう。その隙に鼻を摘まれ、なす術もなく隼矢斗は甘苦い液体を飲みこんだ。
ごくり、という音が鳴った。
ゆっくり五つ数えた後に華耶の唇と体が離れる。
隼矢斗はのろのろと体を起こし、何も言わないまま華耶と見つめ合う。言いたいこと、聞きたいことは山程あるのに言葉にならない。
――唐突に喉の奥から迫り上がってくるものがあった。口を押さえて堪えようとするが間に合わない。
華耶が差し出してくれた桶の中に、隼矢斗は上がってくるものを勢いのままに吐き出した。促すように背中を摩り上げる華耶の手の動きに合わせて、何度も、何度も。
ようやくそれが治まってから、華耶は桶を退かして水を差し出してくる。口に含むとすぐさま別の桶が差し出され、意図を察した隼矢斗は口を漱いだ水をそこへ吐き出す。口内の気持ち悪さが消え去った。
ふたつの桶を一瞥した華耶が口を開く。
「隼矢斗さまの真の姿、お体の状態はおおよそ把握できました」
華耶は真っ直ぐに隼矢斗を見つめ、こう告げた。
「隼矢斗さま、あなたは毒を盛られております」
「ど、く」
散々吐いたせいで喉が痛み、上手く声が出ない。
「お体の具合があまりよくないとは聞いておりましたが、先日久方ぶりにお会いした際には見ていられないほどお辛そうな様子でしたから、もしや、と思いまして」
その言葉に、隼矢斗はあの日の華耶の哀しげなまなざしの意味を悟る。
――弱ったおれを、気の毒に思ってくれていたのか。
「先程飲ませたのは胃の中の毒を吐き出させるための薬です。毒を盛られていなければ吐くことはありません。誰にも知られずにこの薬を飲んでいただきたかったので、わたくしは今宵こうしてここに参りました」
隼矢斗さまに勘づかれたことが相手方に知れたら厄介ですから、と華耶が呟く。相手方、という言葉に隼矢斗の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「一体、誰が」
「それについてはまた明日お話しましょう。無理矢理吐き出させたせいでお体に負担がかかっております。……ひとまずゆっくりお休みいただくのが先です」
言いながら華耶は桶を部屋の隅へ持っていき、荷物袋の中から何やら取り出してごそごそと作業をしてから戻ってきた。
「毒を詳しく調べるため、明日の朝までここに置かせていただきますね。臭い消しの薬をかけてありますのでご安心ください」
そう言ってから華耶はまた別の小瓶を取り出し、隼矢斗に示す。
「眠れないようならば眠り薬もご用意しておりますが」
毒を盛られた、という事実を突き付けられた後に何かを飲むのは恐ろしかった。しかし、今の状態で眠れる気もしない。
隼矢斗は華耶に語りかける。
「おまえも飲むのなら」
飲んで、安全だと示してくれるなら。
華耶はひとつ頷き、薬瓶を口に付けてくっと煽る。白い喉がこくりと動くのが見えた。
は、と息を吐いて華耶が隼矢斗を見る。振った瓶からは小さく水音が聞こえ、中身がまだ残っていることを示している。残りを飲め、ということなのだろう。
隼矢斗はもう一度華耶に語りかけた。
「おまえが、飲ませてくれるなら」
華耶が静かに笑う。
「仕方のないお人ですね」
「先程得体の知れない薬を飲ませておいて何を言う」
しかも、あんなやり方で。あれは薬を飲ませるだけの行為なのだろうか。それとも。
接吻、と呼ぶべき行為なのだろうか。
この怖いもの知らずの美しい娘は、人の気も知らずに何ということをしてくれるのだろう。
華耶が口元に瓶を差し出してくるが、隼矢斗はその手を握って動きを制する。
「一度も二度も同じだろう」
ぱちり、と華耶が目を瞬かせる。そうしてからゆっくりと笑い、隼矢斗にもう一度告げる。
「仕方のないお人」
隼矢斗は手を離した。華耶が隼矢斗に見せるようにしながら瓶の中身を口に含む。
華耶のやわらかな唇が隼矢斗の唇に重なる。とろりとした眠り薬は、この上なく甘かった。
隼矢斗は褥に体を横たえる。少し間を空けて並べたもうひとつの褥に華耶が寝転がり、布団を掛けて顔以外を覆い隠してしまう。
「手を」
隼矢斗は小声で呟き、華耶に手を伸ばす。
冷たい板の間の上でふたりの手が重なる。
毒を吐き出させてくれた華耶の手に縋りながら、隼矢斗は深い眠りへと落ちていった。
隼矢斗が目覚めた時、華耶は既に褥にはいなかった。昨夜部屋の隅に置いた桶の側に片膝を立てて座り込み、俯き加減で小声で呟いている。伊吹に成りすますために男物の装束を纏っているため脚が見えてしまうことはない。
「華耶」
小さく呼びかけると華耶はすぐさま振り向き、早足で隼矢斗の元へやって来た。
「おはようございます。お加減は」
「ここしばらくなかった程によい」
正直に告げると華耶は安堵したように笑った。そうしてから顔を引き締めて隼矢斗に語りかける。
「隼矢斗さまに盛られていた毒は、毎日少しずつ飲ませて一定の量に達した時に腹に不具合をきたす類のものでした」
戻す、下す、しまいには常に鳩尾が痛むようになる。華耶の言う症状全てに思い当たる節があり、隼矢斗は華耶の薬師としての能力の高さを思い知った。
「盛る量を加減すれば次の症状が出るまでの期間も動かせます。何日か続けた後にぱたりと止む、忘れた頃にまたぶり返す、というように。病に見せかけるのにうってつけの毒です。それを繰り返して衰弱させた後に強い毒を盛れば、病のために儚くなったと思わせるのも難しくないでしょう」
華耶が隼矢斗を真っ直ぐに見据える。
「隼矢斗さま、この毒は相当手練れの薬師でないと用意できないような代物です。西の里でも作れるのは父とわたくし、あと十年程修行を積めば伊吹がどうにか、といったところでしょうか」
隼矢斗の背中がひやりとする。華耶の言いたいことがわかったからだ。
そのような手練れの薬師を使役できる者は限られている。つまり、おれに毒を盛ったのは。
隼矢斗はきつく目を瞑った。
「父、か」
「おそらく」
華耶の声が沈む。
「隼矢斗さまとのお話をいただいた時点からおかしいと思っていたのです。中つ里の長は西の里に隼矢斗さまを診てほしいと乞うのではなく、『あれはもう長くないと薬師が言っていたから、せめて子を成させて血を繋いでやりたい。西の里の姫に子授けの秘薬が伝わっているのは噂で聞いている』と仰せになったのですよ」
隼矢斗は目を瞑ったまま懸命に考える。父がこの縁組に求めたのは何だったのか、あの日の父との会話を思い出そうと試みる。
『これで薬師が手に入る。おまえも子が成せるようになる。中つ里は安泰だ』
――そういうことか。父が求めたのは優れた薬師の華耶と、自分の血を引いた、思い通りに操れる赤子。
それが揃いさえすれば、おれを消しても中つ里は安泰だ、ということだったのか。
ははっ、と口から溢れたのは、自分で自分を嘲る嗤い声だった。
そこまでするか。いくら実の息子が目障りだからといって、何も、殺さなくても。
おれは愚かだ。父の本当の意図に気づかずに、親の情などというものに縋ろうとしていたなんて。
――謀反の疑いでもかけられてひと思いに殺されたほうが余程よかった。
「隼矢斗さま」
華耶の言葉に隼矢斗は目を開けた。恐ろしいくらいに鋭いまなざしが隼矢斗に据えられている。男物の装束と相まって、まるで華耶が戦に赴く兵であるかのように思えてくる。
「隼矢斗さまがお望みでしたら、ひと思いに殺せる毒のご用意もございますが」
それもいいかもしれない、と反射的に思ってから隼矢斗は気づく。
ひと思いに『殺せる』? 『死ねる』ではなく?
まさか、華耶の狙いは。
「まさかおまえ、父に毒を盛るつもりか」
「ええ。隼矢斗さまを害する者は誰であっても容赦いたしません。ですが、あれでも一応隼矢斗さまの父君ですからお伺いを立ててから」
「待て待て待て」
華耶の言葉を慌てて遮って隼矢斗は問いかける。
「そんなことをしたらおまえも無事では済まないぞ。わかって言っているのか」
「承知しております。隼矢斗さまと夫婦になる前に済ませますので隼矢斗さまが連座で罰せられることはございませんし、そもそも足がつくようなわかりやすい毒は使いません。もちろん、目的を果たしたあとにはきちんと名乗り出て責任は取りますのでご安心を」
「そういう問題ではない。何故そのようなことを」
「おわかりになりませんか?」
その問いかけに隼矢斗は言葉を詰まらせる。
わかっている。
華耶がどうしておれのためにここまでするのか。
許嫁、だからではない。華耶にとってのおれは。
「隼矢斗さまはわたくしの命の恩人です。隼矢斗さまに救われたこの命、あなたの為に散らせるのならこれ程嬉しいことはありません」
隼矢斗と華耶が初めて顔を合わせたのは中つ里の森の奥深くにある例の貴重な薬草の群生地で、互いがまだ十の頃だった。
隼矢斗は乳母子の彦丸とお目付役を引き連れて狩りに出ており、華耶は里の境を越えてひとりで森に来て薬草を盗もうとしていたのだ。当然華耶は捕まり、お目付役に地面に引き倒されてからひとつに括った髪を掴まれて無理矢理顔を上げさせられていた。
『どこの者だ。名乗れ。この森が中つ里のものであると知っての所業か』
『西の……里、一の姫。……かや』
まるい顔を苦悶に歪めながら華耶が名乗る。お目付役がぎょっとした表情を浮かべて慌てて華耶から手を離す。まさか西の里の姫だとは、と言いたげにするお目付役に下がるよう目で伝え、隼矢斗は地面に臥したままの華耶の側に立つ。
『おれは隼矢斗。中つ里の一の子だ。おまえ、ここで何をしている』
『薬草を、いただきに参りました』
どうにか顔だけ上げて華耶が答える。地面に引き倒された際に擦りむいたらしく頬に血が滲んでいる。一瞬気の毒に思ったがこの娘が罪人であることには変わりない。
隼矢斗はすぐさま厳しい声を出した。
『薬草の取引は決まった量だけのはずだ。双方の里長が定めたことを破るとはいい度胸だな』
『どのような罰でも受けます。ですが、この薬草を西の里に持ち帰ってからにさせていただきたいのです』
『は?』
間抜けな声を出す隼矢斗に構わず、華耶は体を起こして地面に正座をする。里の者たちと変わらない動きやすそうな簡素な服装ではあったが腰に下げた巾着袋がやたらと目立っている。色鮮やかな布地と艶のある紐は、華耶が並の身分ではないことを物語っていた。
『西の里随一の薬師が、もうあまり長くないのです』
華耶の話はこういうことだった。
その薬師、華耶の曾祖叔母は極端な人嫌いで、自分の死期を悟るまであまり人を寄せ付けなかったのだそうだ。そうなってから慌てて自分の持てる技を次代に伝授しはじめて残すところはあとひとつ。その薬を作るのにどうしてもこの薬草が必要らしい。
『この薬草はそろそろ季節が終わります。父がひと月程前に中つ里の里長さまに追加でお譲りいただけないか、と文を出したそうですが未だにお返事をいただけておりませんし、来年の取引を待っていてはあの薬の製法が失伝してしまいます。文字で記録が残っているだけでは駄目で、口伝で、手を動かして教わることが薬師にはたくさんあるのです』
必死に言い募る華耶を困らせてやろうと、隼矢斗は少し意地の悪い問いかけをしてみる。
『自分が薬師だとでも言いたいのか?』
『はい。父と共に後継に指名されて教えを受けております。ここには父の指示でなく、ひとりの薬師としての判断で参りました』
こともなげに言う華耶に困らせてやろうと思ったはずの隼矢斗が逆に言葉を失う。よくよく見ると華耶の指先は深緑色をしており、日頃から薬草を扱っていることは明らかだった。
おれと歳の頃の変わらなさそうなこの娘は、既に薬師として生きているのか。
『隼矢斗さま』
華耶が真っ直ぐに隼矢斗を見上げた。
『あの薬は流行り病に効くとされています。前に流行してからかなり時が経つので余所の里では失伝しているかもしれないと父が申しておりました。わたくしは死罪になっても構いませんが、せめてこの薬草を父に託して薬の作り方を覚えさせ、余所の里にも伝えてやりたいのです。どうか里へ薬草を持ち帰らせてくださいませ。ひと束だけでよいのです!』
華耶は額を土につけ、懸命に隼矢斗に訴えかけてくる。隼矢斗の答えに西の里だけではなくここいら一帯の者の命がかかってくるのかもしれないと思うと口の中が干上がるような心地がした。
隼矢斗にできることは、ひとつしかない。
『華耶、と言ったか』
『はい』
『おまえは人攫いに遭ってここに捨て置かれたのだな。里の近くまで送ってやるから心配するな』
弾かれるようにして華耶が顔を上げた。隼矢斗さま、とお目付役が声を出す。ぎろりとそちらを睨み付けて黙らせ、ぼうっと突っ立っている彦丸に声をかける。
『彦丸、そこに散らばっている葉っぱは華耶の落とし物だ。袋に詰めてやれ』
『は、はいっ』
彦丸は声を裏返しながら返事をし、ばたばたと動き出す。その様子を口をぽかんと開けたまま見ている華耶の前に座り込み、隼矢斗は華耶を見据えて語りかける。
『華耶、おまえがこれからしなければいけないことは何だ?』
華耶が真剣な顔つきになった。
『父と共に薬の作り方を覚え、いつ何が起きてもよいように準備をすることです』
『その通りだ。西の里はおまえに任せた。お父上を通じて余所の里にも注意を呼びかけてもらうことも忘れずにな』
『かしこまりました』
力強い声と共に華耶が頷き、頬をきゅっと持ち上げて屈託のない笑みを隼矢斗へ向けてくる。
『隼矢斗さまはわたくしの命の恩人です。いついかなる時でも、わたくしは隼矢斗さまの命に従います』
今思い出しても心臓が暴れだすような、隼矢斗が恋焦がれてやまない笑みだった。
「華耶」
鋭い目をしたままの華耶に、隼矢斗はできるだけ穏やかな声で語りかける。
「毒は必要ない。殺さずとも、おれが父を抑えこめるだけの力を持てばいいだけだ」
隼矢斗は華耶の手が好きだ。薬師としての技と矜持が染みついたその手を隼矢斗のせいで汚させたくない。
華耶の手は人を救うためのものだ。華耶はあの日の隼矢斗からの命を遂行し、流行り病への備えを西の里長を通じて余所の里へと呼びかけてくれた。それにそれぞれの里の薬師が応えたから四年前の流行り病を最小限の被害で乗り切れた。
隼矢斗も、病に倒れた彦丸を失わずに済んだのだ。
華耶の手を汚させないために、おれは父を抑えこめるような、いつでも始末できるような立場にならなければいけない。
けれど、実際に始末するつもりはない。
おれとの立場が入れ替わった後、いつか復讐されるのだと怯えながら命尽きるまで生き続ければいいのだ。
「おれの力を強くするために、おまえにいくつか頼みがある」
まずは、ひとつめ。
「こちらでも早急に支度をさせる。できるだけ早く嫁いできてくれないか」
華耶のまなざしが和らいだ。
「かしこまりました。わたくしがこちらに来れば毒への対策もしやすくなりますものね」
それだけではないのだが、と心の中で呟いてから隼矢斗は言葉を続ける。
「おれの子を産んでほしい」
「承知しております。もとよりそういうお話でしたし、隼矢斗さまを長にするならば子ができてからのほうが周囲の賛同も得やすいでしょう」
それだけではないのだが、と隼矢斗はもう一度心の中で呟く。
「あと、これはおれの個人的な頼みなのだが。……おれのことを命の恩人ではなく、ひとりの男として見てくれると嬉しい」
ぱちり、と華耶が瞬きをする。華耶の頬が紅も差していないのにみるみるあかく染まっていく。きっと隼矢斗の頬も同じような有様だろう。
華耶が小声で問いかけてくる。
「……隼矢斗さま、お顔が。熱でもあるのでは?」
熱は、ある。華耶に熱を上げているのだから。恋わずらいとはこのことか、と隼矢斗は熱に浮かされた頭でぼんやり考えた。
「照れているだけだ。……診立てが甘いぞ」
「診立ての甘い薬師を、中つ里は受け入れてくださるのですか?」
「華耶」
隼矢斗は華耶を見つめ、決まり通りの言葉ではなく自分自身の言葉で語りかける。
「中つ里が薬師を受け入れるのではない。おれが、華耶を娶るんだ」
華耶が両手で顔を隠して俯いてしまう。薄っぺらい肩が震えているのがわかるが、それに触れていいのかどうかわからずに隼矢斗はうろたえる。
できることは、声をかけることだけ。
「華耶」
震えが止まる。
「今すぐでなくてもいいから、いつか、おれを好きになってはくれないだろうか」
顔を覆っていた手が動く。顔がゆっくりと上げられ、隼矢斗へと向けられる。
華耶のまなざしに浮かんでいるのは、涙と、あふれんばかりの喜びだった。
「好いてもいない方にあのような薬の飲ませ方はいたしません。……そんなことにも気づかないなんて、本当に仕方のないお人」
「華耶」
言うが早いか隼矢斗は華耶を抱き寄せ、そのまま褥へと横たえようとする。が。
「いけません」
すぐさま華耶の厳しい声に制される。
「駄目か」
「当たり前です。祝言も挙げておりませんし、何より毒で本調子ではないのですから絶対に駄目です。許嫁としても薬師としても許しません」
「どうしても、か?」
「無理強いするのならこのお話はなかったことに」
華耶のまなざしが鋭くなっている。隼矢斗は慌てて華耶から離れて頭を下げた。
「わかった。しない。おまえの許しが出るまでは何もしないから」
「わかってくださればよいのです」
華耶が笑う。隼矢斗そのものを拒んでいるわけではないのがよくわかる笑みだった。
その笑顔がふっと真顔に戻る。場の雰囲気が変わったのを察知した隼矢斗も居住まいを正した。
「隼矢斗さま。毒、の話ですが」
隼矢斗は頷いて先を促す。
「わたくしが嫁いでくるまでの間も毒は使われ続けるでしょう。ひとまず、わたくしの手持ちの薬で使えそうな物を置いていきます。信頼のおける者に薬のことを伝え、万一隼矢斗さまが動けなくなった時でも使えるようにしておきたいのですが」
「わかった。後で彦丸を呼ぶ」
彦丸は華耶に恩を感じているし、あの時華耶を見逃した隼矢斗に忠を尽くすと常日頃から言ってくれている。彦丸以外に任せられる者などいない。
華耶が納得したような表情で頷いた。
「それと、こちらを」
言いながら華耶が腰の巾着袋を探り、小瓶を差し出してくる。
「胃薬です。朝餉の前に飲んでおくと少しは楽になりますよ」
隼矢斗は首を横に振り、華耶に告げる。
「おまえが飲ませてくれるなら。……二度も三度も同じだろう」
華耶が笑う。あの頃のまるい顔とは違う美しい笑顔だが、どちらも華耶であることには変わりない。中つ里の森に、隼矢斗の寝所に乗りこむ度胸を持つ、指先を深緑に染めた華耶。
隼矢斗はそんな華耶に惚れている。恋わずらいはこの先ずっと隼矢斗の身の内に巣食いつづけ、きっと華耶でも癒せないだろう。
華耶が笑いながら瓶の栓を抜く。やわらかい唇が動く。
許嫁が何と言ってくれるのか、隼矢斗にはもうわかっていた。
「本当に、仕方のないお人」
すなぎもりこ様主催『すなもり共通プロット企画』にお邪魔しました。
主催様に心からの感謝を申し上げます。
お読みいただきありがとうございました。
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