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魔法をかけた子守唄  作者: 碧衣 奈美


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魔法を解く鍵

 どれくらい、時間が経ったんだ……。

 レクトはゆっくりと目を開いた。ぼんやりした頭で考え、それから急に意識が鮮明になる。

 俺は……そうだ、あの眠りの粉をかけられて。量が少なかったよな、あのチビ助に使ってたよりも。モルにみぞおちやられたから、あんまり粉を吸い込んでなかったのかも。

 少し胃の辺りが痛む。が。それよりも。

「陰険だな、あいつら。性格、変わったんじゃないか?」

 身動きできない自分を発見して、レクトは誰に言うでもなくつぶやいた。

 木にしっかりと身体を縛り付けられ、逃げられない。もしくは、二人を追えないようにされている。座った状態で上半身に縄を何重にも巻かれ、ちょっとやそっとでは抜けられそうになかった。

 わざとらしく見える所に、でも手が届かない所に結び目がある。だが、手が届いたところでなかなか解けないだろう。かた結びになっている。巻かれた縄そのものも丈夫そうだ。こんな状態では、切るのはかなり難しい。腰に剣が残っているのは、情けと言うより嫌がらせだ。この状態では手が届かない。

 遅ればせながら、レクトはルーラの姿がないことに気付いた。自分の真後ろにでもいるかと思ったが、気配はしない。首の回る範囲で辺りを見回すと、少し離れた斜め前方に、同じく木に縛られて気を失っているルーラを見付けた。

 あいつもあの粉でかな。あいつに起きてもらって魔法でこの縄をほどいてもらうしかないだろうが、起きそうにないぞ。何か放って足にでも当てられりゃ、起こせるかも知れないけど。

 あいにく、腕は全く動かない。指先はかろうじて縛られていないから動くものの、それで何かを掴むことも、投げることも無理だ。足で土を蹴っても、ルーラの所までは届かない。

 自然に起きるのを待つしかないか。

 そう決めて、ルーラが早く目を覚ますようにと、レクトは祈りながら待っていた。だが、そう悠長なことを言っていられなくなってくる。

 レクトの耳に、かすかではあるが、何かの足音が聞こえてきたのだ。こんな所に人間が来るはずもない。妖精なら飛ぶだろうし、足音なんてしないはず。

 となると……一番考えられるのは獣の類。地面にべったりと座った状態で縛られているから、足音の主が肉食だったりしたら絶好の位置にエサが置かれているようなものだ。その目的も含めての、この姿勢だろうか。

「ルーラ! おいルーラ、起きろ。起きてくれ。なんかヤバいぞ。おいってば。のんきに寝てる時じゃない。魔法使い、頼むから起きてくれ。くそっ。……えーい、ザーディが危ないぞっ」

 奥の手のつもりでザーディの名前を出したが、ルーラは気付かない。

 足音は近付いてくる。逃げようにも逃げられない。もしかして生かしておいたのは、わざと恐怖を与えようとするためだったのだろうか。そこまで根性が曲がっているとは思いたくない。過去一度でも仲間だった人間なのだから。でも、この状況はそうじゃないと言い切れない。

 足音は間違いなくこちらへ近付き、木の影から現れたのは、鋭い牙を持った普通よりもずっと大型の狼だった。真っ黒な身体が妙に威圧感を与える。この森に棲んでいるのなら、魔力を持っているのかも知れない。

 白く光る眼で、木に縛られた人間二人を交互に見ると、ゆっくりとルーラの方へ近寄って行く。ルーラはまだ眠ったまま。

 狼はフンフンと鼻をならし、ルーラのにおいを嗅ぐ。狼の頭はルーラの顔の三倍はあった。ルーラの頭など一口だ。今ルーラが眼を覚ましたら、驚いてまた失神するかも知れない。

 しばらくルーラのにおいを嗅いでいた狼は、赤く長い舌を出してルーラの顔をなめた。味見、というところだろうか。

 レクトはそれを見てゾクッとした。このままでは、ルーラが目の前で喰われてしまう。だが、助ける術がレクトにはない。

「おい、狼。人間なんか喰っても、ちっともうまくないぞ。腹こわすだけだ。やめとけ」

 言葉が通じるか、なんてことはこの際よかった。少しでも狼がルーラを喰おうとするのを遅くし、その間にルーラが目を覚ましてくれれば魔法でどうにかできるかも知れない、というはかない望みにかけたのだ。もう、それくらいしか思い浮かばなかった。

 狼は声を出した人間に興味を持ったのか、レクトの方へやって来る。そして、ルーラにやったのと同じようににおいを嗅いだ。恐いなんてものじゃない。生きた気がしなかった。全身から冷や汗が出る。

 しかし、その時間はルーラ程に長くなく、なめることもしない。すぐにルーラの方へと戻る。

 ほっとしたのも束の間、レクトはカチンときた。

「てめっ……このやろう、女の方がいいのかよ。狼のくせに人間に色目使っても無駄だ」

 狼はちらりとレクトを見たが、フンと鼻を鳴らしてルーラにその鼻面を押し付ける。その仕種は、まるで懐いているようにさえ見えた。

「てめぇ、俺をバカにしてんのかっ。狼のくせにフンだと。人をなめんのも大概にしろよ」

 自分が身動きできない立場を忘れ、狼にケンカを売る無茶苦茶なレクト。ルーラのことを無謀だ何だと笑えない。

「えーい、この縄、邪魔だな。くっそぉ、こいつがなかったら、てめぇとサシで勝負してやるところだ。狼にフンなんて言われて、黙ってられっか」

 必死にもがいた。でも、きつく縛られた縄は緩まない。

 狼は気が変わったのか、のどの奥でうなりながらレクトに近寄って来た。うるさい奴だ、とでも言いたいのだろうか。

 その口元から、白い牙がのぞく。あの牙でのどに噛み付かれれば、ひとたまりもない。

 せめて……せめて腰の剣に手が届けば。こんな縄くらい、すぐに切って相手してやるのに。

 悔しさに歯がみする。この状態では丸腰以下だ。たとえ剣がなくても自由に動けさえすれば、組合いになった時に投げ付けてやることだってできただろうに。

 わざと恐怖を増幅させようとしているのか、狼の動きはゆっくりとしたものだ。しかし、その眼に隙はなかった。じっとレクトを見据えたまま、視線を外さない。

 睨み合いかよ。上等じゃねぇの。こっちだって自由に動く部分って言ったら、首から上と足だけなんだ。睨み合いくらい、いくらでもやってやらあ。

 ノロノロと近付く狼の眼を、レクトも睨み返す。満身の力を込めて。その瞳で射殺すつもりのように。

 少しでも長引けば……。この異様な空気を察してルーラが目を覚ますかも知れない。

 頭の隅でそんなことを考えるが、半分以上どうでもよかった。

 今、レクトの頭にあるのは、この狼に負けたくない、という気持ちだけだ。自分のこの体勢で勝てる見込みはほとんど……いや、全くなかったが、それでも戦わずに負ける、というのは自分自身が許せない。だから。レクトは瞳だけで戦っていた。

 やがて、狼の顔がレクトの顔のすぐ前まで近付いて来た。狼が舌を出せば、なめられる距離。

 かなり大きい狼だった。現れた時から、それにさっき嗅がれた時も大きいとは思っていたが、ここまで時間をかけた状態で真正面から近付かれると、その大きさに圧倒される。また全身に冷や汗が流れた。でも、その大きさのために負けたくない。

 狼はその大きな口を、ゆっくりと開けた。いや、レクトにはゆっくりに思えただけかも知れない。本当はスッと開けたのだろうが、妙にスローモーションがかっていた。そのせいで、狼の口の中がやけによく見える。

 厚めに切られた肉片のように、大きい舌。ズラリと並んだ白い牙。全てが鋭く光る。レクトの頭など、簡単に噛み砕かれそうだ。

 狼の上あごと下あごが大きく開かれ、レクトの頭をはさむ。わずかに牙に触れただけでも肌が切れそうに思えた。形は違うが、ギロチンにかけられている気分だ。

 狼の息が顔にかかった。もう首を動かして逃げられる範囲ではない。

 真っ黒なのどの奥を睨み、そしてレクトは目を閉じた。どうしたって、反撃はできない。これまで、とあきらめる。とても満足できるような勝負ではなかったが……そもそもできるとは思っていなかったが、少なくともモルに有無を言わさず突き落とされたことを思えば、気持ちの上で戦えただけでもよかったと思う。

 俺も色々とやらかしてきたからな。こういう最期でも、文句は言えないか。

 じきに自分ののどに食い込むであろう、狼の牙をレクトは潔く待った。

「もういいでしょう」

 女の声がした。ルーラかと思ったが、彼女よりももっと大人びた声だ。恐怖のあまり、幻聴でも聞いているのだろうか。

 だが、その声に応じ、狼の口がレクトの顔から離れた。のどの奥ばかりで暗かった目の前が、またわずかに明るくなる。元々明るい場所ではなかったが、口の中よりずっと明るい。

 狼はレクトから離れると、後ろへ下がった。主人が現れるのを控えているように見える。

「今の……誰だ?」

 レクトは周りを見回した。相変わらずルーラは気を失ったままで木に縛られている。他に誰もいない。でも、確かに声はした。

「ふふ……ここよ」

 レクトの前に、白い衣を着けたきゃしゃな美しい女性が現れた。木の上にでもいたのだろうか、フワリと降りて来るような格好で。その身体の動きに合わせ、衣のすそもひらひらと花びらのように舞う。金色の長い髪も同じように広がって。羽はないが、妖精だろう。

 ただ、今までレクトが見た妖精よりもずっと大きくて……つまり普通の人間のサイズだ。

 狼は女性の後ろに付き従うように座った。やはりこの狼は彼女の従者、だろうか。

「人間がここまで来るのも驚きだけど、この子にあそこまで近付かれて悲鳴一つ上げないなんて、もっと驚きだわ」

 自分のことをほめられたように、彼女は嬉しそうに笑う。

「私、強い者は大好きよ」

 明るい緑の瞳が、レクトの姿をしっかりとらえる。

「そりゃどうも……」

 何度か妖精を見たのでどうにか慣れてきたものの、こうも美人の妖精に話しかけられ、レクトはどう対応していいのかわからない。

 ザーディのことを教えてくれた妖精も、話していたのはルーラであって、自分ではなかった。魔法使いでもないレクトが妖精と話すなんて、今までにあるはずもない。

「あんた……妖精だよな」

 わかっていることを聞いてから、レクトは自分が狼と対峙していた時より緊張しているのがわかった。

 狼は所詮、動物。姿形を見慣れた存在。そこにいる狼はサイズが普通ではないが、形は同じだ。

 でも、妖精は。話すことはおろか、この森へ来るまで見たことなんてなかったのだ。どう扱えばいいかわからない。

 ただ、目の前にいる妖精は、少なくとも人間の姿とサイズ。妖精という要素を無視すれば、どうにかできるかも知れない。

 レクトは細かいことは深く考えないようにした。目の前にいるのは魔法使いの女性だ、ということにしておく。それなら、おかしな緊張もしないだろう、と。

「ここを守っているドリーよ。いつもと違う生命(いのち)をずっと感じていたから、メイルに様子を見に来させたんだけど。これといって危険はなさそうね」

 メイルというのは、あの狼のことなのか。姿の割に、かわいらしさすら感じる名前である。

「この格好でどう危険になれるってんだ」

 なりたくってもなれない。文字通り、手も足も出ない状態だ。

「ふふ、そうね。不自由そうだし……その戒めを解いてあげるわ」

 解いてあげるわ

 その言葉と同時に、腕が楽になる。レクトを縛り付けていた縄が消えたのだ。

「え……すげぇ。ありがとうっ」

 自分が自由になったと知るや、レクトはすぐにルーラのそばへ駆け寄った。腰にあった剣で縄を切り、ルーラを助ける。

「おいっ、ルーラ、目を覚ませ。いつまでも寝てんじゃないっ」

 怒鳴りながら、レクトはルーラの頬を軽くピタピタたたく。

「ん……」

 かすかにうめいた。死んでいる訳ではないらしい。ひとまず安心した。

「ねぇ、その()、あなたの恋人なの?」

 レクトの様子をしばらく見ていたドリーは、面白そうに尋ねた。

「え? こいつ?」

 レクトは目を丸くして、ドリーの方を振り返る。

「そう」

「そ、そんな訳ないだろ」

「あら、だってすごく心配そうだし、愛してなきゃ、そんなに心配しないでしょ」

 レクトは心持ち赤くなったが、すぐに笑い飛ばす。

「冗談、やめてくれ。俺がこいつの恋人って……。俺にだって好みはあるんだぜ。こんなガキじゃなくて、もっと色っぽい女の方がいい。おしめもとれてないガキなんか」

「誰がおしめしてるってぇっ!」

 いきなりルーラが、レクトの胸ぐらを掴んだ。レクトは反射的に後ずさる。

「うわっ、急に起きるな。びっくりするだろうが」

「なーによ。失礼なことばっか言ってぇ」

 よく見ると、ルーラはまだ寝ぼけたような表情。完全に起き切ってない様子だ。

「ルーラ……お前、大丈夫か? 俺が誰かわかるか?」

 レクトがルーラの目の前で手を上下に振るが、あまり反応しない。

「ほら、やっぱり心配そう」

 後ろでドリーがくすくす笑う。

「恋人でなくっても、心配する時はする。なぁ、こいつ、魔法とかかけられてないか?」

「どうして?」

「俺達が木に縛られてたのは、魔法使いにやられたからなんだ。俺は先に眠り薬で眠っちまったんだけど、こいつは何でやられたかわからない。そいつにおかしな魔法でも使われてたりしたら」

「ふぅん」

 ドリーは色白の顔をルーラに近付けた。ルーラはまだ寝ぼけた目でドリーを見ている。

「……誰? あなた」

 ルーラは夢見心地といった表情。

「ん……ちょっとかかってるわよ。でもこれ、何をしようとしたのかしら」

「どういう意味だ?」

「眠らせようとするのと、ここにいる目的を忘れさそうとしているのと、半々にかかっているの。だから、半分起きて半分何があったかわかってない。単に寝ぼけてる状態になってるだけよ」

 やはりノーデのかける魔法だ。いい加減で腕が悪いくせに、二つも同時にかけようとしたのである。念には念を入れて、ということか。

 この場合、ちゃんとかからなくてよかったかも知れない。下手すれば、ずっと眠りっ放しか、全てを忘れてしまうかになっていたはず。

 しかし、このままでも困る。これでは、意思があってないようなものだ。

「何とか……できないか? こいつの連れのガキを、この魔法をかけた奴がさらったんだ。放っておくと、その子が殺されるかも知れない……ってか、殺される」

「ふーん、大変ねぇ」

 ドリーは興味なさそうに聞いていた。

「頼む。俺は魔法なんて使えないから、そういう力を持った誰かに頼るしかないんだ」

「ねぇ、この()が恋人じゃないなら、どうしてそう必死になって、私に頼むの?」

 にこやかに。それこそ、大木だの湿った土だのの暗い色彩しかないこの森を、一挙に花畑にしてしまいそうなくらいにこやかに、ドリーは尋ねた。

 レクトはしばし沈黙する。にこやかに聞いてはいるが、さっきまでのように「恋人じゃない」と簡単に言わせないような雰囲気を感じた。

「どうしてって……あんたこそ、どうして恋人にこだわるんだ。恋人じゃなきゃ、心配するなってのか?」

 どうにかそんな言葉を押し出す。

 ノーデ達といた時、レクトはただ彼らについて仕方なくルーラを追っていた。ノーデから離れた今、普通の人間である自分だけではここから出られない。魔法使いのルーラと共にいれば、この魔の森に一人でいるより活路を見出せるだろうと思った。

 ルーラはザーディをさらったノーデを追っている。自分もノーデに文句や恨みごとの一つでも言ってやりたい。目的は違うが、追う相手が同じだったから一緒にいた。

 打算的と言われれば、否定はできない。レクトにとってルーラは、この森を出るまでは絶対に必要な存在である。

 そのルーラが動けなくなれば、自分も動けなくなったも同様だ。だから、何とかできる存在がいれば何とかしてほしい。無事にこの森から出るために。

 少なくとも、建前はそうだ。

 でも、単に彼女を動けるようにしてほしい、と思うだけじゃない。元のルーラに戻してほしい。これまでのように、笑ったり怒ったりしてほしいのだ。

 ただ「どうして」と聞かれても困る。そう思うのが当然のような気がするのだ。

「人間って、自分勝手な生き物でしょ。で、相手を大切にするのって親子だったり恋人だったりする場合だけなんでしょ? あなた達は親子に見えないし、それなら恋人しかないじゃない」

 ドリーのそんな言葉を聞きながら、レクトはふと思う。

 たぶん、ルーラが一生懸命だからだ。昨夜話をしていて、色々悩みがあっても一生懸命だというのがわかったから。こんな所で、こんなことで途切れさせたくない。

 国を追われる前は、レクトだって何でも一生懸命に向き合っていた時期があった。今はそんな言葉など記憶の彼方だ。それがルーラを見ていて思い出した気がする。

 とは言うものの、思い出したからすぐ何かに一生懸命になれる訳ではない。その代わりと言っては何だが、ルーラを助けてやりたいと思う。

 人が聞けば自己満足だろうし、ドリーが言うように自分勝手に映るかも知れない。でも、現時点ではそれが一番しっくりくる理由のような気がした。

「恋人じゃなくても、心配する時はする。確かに、自分さえよければ他人はどうでもいい、なんて考える奴は多いよ。下手すりゃ、親子で殺し合いまでしたりもするけど」

 レクトがまだアルミトにいた時。つまりは内戦状態に入った頃。

 理由はどうあれ、周りは殺し合いの状態で、何度もそんな人間を目の当たりにしてきた。もちろん、みんな自分を守るためだ。でも、そのために他人を犠牲にする、ということにもつながっていた。

 きっと自分も同じことをしてきたのだろう。気付かないうちに。

 だけど、それだけじゃなかった。まれに、本当にまれにだったが、他人のために東奔西走している人間だっていたのも事実だ。肉親でも何でもない、赤の他人のために。

 あのノーデだって、たとえ気紛れかも知れないとは言え、傷付いた彼を助けてくれた。人間という動物は時として、他人のためにすごく優しくなれるのだ。

「ふーん、人間は複雑なのね。愛する対象以外なら、どうでもいいと思う生き物だって今まで思ってたわ」

 こんな森の奥では、人間はまず来ない。だから、彼女は人間の様々な部分を知らないのだ。いい面も悪い面もたくさん持っている、ということを。

 感情の複雑さを理解したのかしてないのか、ドリーはレクトをじっと見る。今まで出会ったことのない動物を、興味津津で観察する子どものように。

「と、とにかく」

 レクトは美人のドリーにじっと見詰められ、ドギマギしながらもしゃべる。

「俺達を恋人ってことにしたいなら、それでもいい。こいつを元に戻してやってほしいんだ」

「ん……いいわよ」

 その言葉を聞いて、レクトはほっとした。彼女しか頼れる相手はない。たとえノーデのかけた魔法が半端なものでも、それすらレクトは解く術を持たないのだから。

 彼女がいやだと言えば。もうそれ以上、レクトは何もできない。ドリーにはルーラを助けてやる義理などないのだから、ここで断られても無理じいはできないのだ。

 だから、レクトは心底ほっとした。ルーラがある意味生き返り、同時に自分も生かされるのだ。

 ドリーはルーラの前に来ると、右手をかざす。と、ドリーの身体の周りがうっすらと白く光り出した。白い衣が、目が痛くなる程さらに白く。太陽を間近で見ているみたいだ。

 後ろにいた狼の黒が妙に目についた。ドリーの白い輝きを必要以上に辺りへまき散らさないように、その黒い身体が光を吸っているように感じる。

 レクトがそう思ったのは、ほんのわずかな時間だった。

 ドリーの身体は光るのをやめ、白い衣の色だけが視界に残る。同時に、狼の黒さは森の暗さに溶け込んだ。

 レクトがはっとしてルーラを見る。だが、ルーラの目は変わってない。寝ぼけたような、ぼんやりとした瞳のまま。

 まさか……魔法が解けなかったのか。

 レクトは一瞬、いやな予感にとらわれた。でも、ドリーは笑っている。それなら解けたのかと思ったが、さっきからドリーは笑みを浮かべているので、レクトを安心させる材料にはならなかった。

「あとはあなたがやりなさい」

 当然のように、ドリーはレクトの方を振り向いて言う。レクトは目が点になった。

「……え、ちょい待ち。俺は魔法は使えないって言ったはずだ」

 レクトは大いに焦った。だいたい、魔法を間近で見る回数さえも少なかったというのに、やれ、なんて言われて、わかった、と返事ができるはずもない。

「ふふ……大丈夫よ。ただキスすれば、完全に解けるから」

 何でもないように、ドリーは言ってのける。が、レクトはそのまま固まってしまった。

「な……何だって?」

「あらぁ、キスが珍しい種族でもないでしょう?」

「そ、そういう問題じゃなくて……もしかしてまだ恋人ってのにこだわってるんじゃ」

 恋人にしたいならしてもいい、とは言ったが……。

「違うわよ」

 ドリーはあっさりと、でもきっぱりと否定した。

「この魔法をかけた人間は、余程あなた達に追われたくなかったのね。それと、まさかあなたがこの子にキスするとは思ってないみたい」

 それはそうだろう。なりゆきで行動を共にすることになっただけ、目的が同じだっただけなのだから。

「だから、それを魔法を解く鍵にしたの」

 これまでの経過や二人が一緒にいる理由を知っているノーデだから、キスすれば術が解ける、なんてお伽話みたいな魔法をかけておいたのだ。ルーラとレクトがキスするなんて状況は、普通にすごしていればまずありえない。

 ドリーに教えられなければ、レクトが思い付くはずもない術の解き方だ。解けなければ、ルーラはずっとこのままだし、レクトも動けなくなる。結果として、二人はザーディを追えなくなるのだ。

 ノーデにしたら、結構考えた方ではないだろうか。頭は悪くない男だが、ここまで深く考えるなんて、これまで一緒にいたレクトも知らない。

「この子を戻してあげたいなら、早くした方がいいわよ。放っておいたら、ずっと眠り込むかも知れないから。そうなったら手遅れよ。一生、このまま」

 世間話をするような口調でドリーに脅され、レクトはドキッとする。まだ自分達は完全に助かった訳ではないのだ。

「軽く口に触れてあげればいいの。それでこの魔法は解けるんだから」

 他に方法がないなら、やるしかない。

 う……えーい、やりゃあいいんだろ。けど、これで戻らなかったら、怒るからな。

 レクトはルーラのあごに手をかけ、少し開きかけたくちびるに自分のくちびるを重ねる。

 その途端、半分閉じかけだったルーラのまぶたが、パチリと開いた。レクトの顔が今までにないくらい、間近にあることに気付く。そして、今自分がどういう状態なのかも。

「キャーッ!!」

 叫びながら、ルーラはレクトの頬をひっぱたき、突き飛ばした。

「って……戻った途端にこれかよ」

 突き飛ばされ、地面に手をついた拍子にあやうく手首をひねりそうになった。

「ひどいっ。何てことすんのよ! あたしが意識ないって時にこんなのって……ガキは相手にしないって、襲わないって言ったくせにぃ!」

 叫びながら、ルーラはぼろぼろと涙をこぼす。

「初めてだったのよ。大好きな人とって思ってたのに、それなのに……人が眠ってる間にこんなことするなんてあんまりよ」

 あんまり、と言われても、これしか方法がなかったのだから、レクトとしても仕方がないのだ。

 とは言え、ルーラもショックだったには違いない。

「悪かったよ」

 どうして俺が謝んなきゃならないんだ?

 ちょっと理不尽な気はしたが、それでもレクトは謝った。そうでもしなければ、収まりがつかない。それにいつも元気なルーラがこうも泣くのを見て、こうするしかなかったと一喝する訳にはいかなかった。

「……意識、ちゃんと戻ったな?」

 ポロポロこぼれる涙を手の甲でぬぐいながら、ルーラはえ? という顔をする。

「彼はねぇ、あなたのためにやってくれたのよ。責めちゃ悪いわ」

 横からドリーが口を出す。この時になって、ようやくルーラはドリーの存在に気付いた。

「え……あの、あなたは……?」

「何だ、半分起きてたと思ったのに、何も覚えてないのか」

 覚えていれば、レクトがなぜ自分にキスしたのかもわかるはず。

「あのね、あなたはちょっと意地悪な魔法にかかってたの」

 ドリーが説明したくれた。簡潔に、でもちゃんと要点は押さえて。

「……ご、ごめんなさい」

 ルーラはドリーから話を聞いて、少し赤くなりながら謝った。自分の間違いを恥じているのか、魔法を解く鍵だったとは言え、キスされたために恥ずかしいのか……。

「で、でも、どうしてノーデが魔法を使った時にすぐ来てくれなかったの? あなたってビクテと同じ、森を守る精霊よね?」

「ええ」

 ルーラには何の根拠もなかったが、尋ねるとドリーはあっさりと頷いた。

「魔法が使われたりしたら、すぐに現れるんじゃないの?」

 ビクテは、ルーラが方角をつかむための魔法を使っただけでも現れた。

 今回の場合、ノーデは明らかに悪質な魔法を使ったのに、なぜドリーは現れなかったのか。すぐに現れていれば、こんなことにはならなかったはずだ。

「ビクテの受け持つ領域みたいに、人間が入って来る可能性の高い所で魔法が使われれば、確かに危険が多いわ。でも、こんな所で多少の魔法が使われてもねぇ。そもそも、滅多に人間が来ないもの。となると、使うのは妖精ってことになるでしょ。だったら、慌てて私が出て来なくてもいいじゃない」

「だけど、よくないことがあるらしいっていうのはわかるでしょ」

「わかったけど、私はビクテみたいに働き者じゃないからねー」

 いたずらっ子みたいに笑う。ルーラはちょっとあきれたが、何とも憎めない。

「すぐ出て来なくて、ゆっくり出て来たって訳か」

「そんなところかしら」

 皮肉まじりなレクトのセリフに、ドリーは笑いながら頷く。遅くても現れてるのだから、職場放棄ではない、ということらしい。

「それも自分が出て来ないで、先にしもべに行かせてるんだものね」

 ペロッと舌を出す。そんな仕種をするドリーは、やけに幼く見えた。森を守るはずの精霊が、こんなことでいいのだろうか……。

「ちょっと悪い偶然が重なったのね。ここは普通に魔法を使えばおかしな作用の仕方をするから、私は出ないで放っておくっていうのもあるんだけど。あなたにかけられた魔法使いの術は、普通の場所じゃきっと反応しなかったはずよ。でも、この辺りの空間の歪みが、逆にそれを成功させてしまったみたいね。んー、この場合、成功したって言っていいのかしら」

 ザーディを救おうとした時、ルーラの魔法はうまくいかなかった。なのに、捕まってノーデにかけられた魔法は、同じ歪みのせいでうまくいったなんて。皮肉と言うにも程がある。ノーデの魔法の成功は、この森のおかげだったのだ。きっと本人は実力だと思っているだろうが。

「ルーラ、話はビクテから聞いているわ。あの方の子を連れてくれているんでしょ?」

 侵入者がいたから仕方なく来た、という体で話していたドリーだが、最初からルーラの存在を認識していたらしい。

「でも……ノーデ達に連れてかれちゃったわ。あたしが眠ってる間に、ノーデ達はどれだけ遠くへ行ったかしら」

「そんなに気落ちする程じゃないわ。あなた達が眠っていたのはせいぜい半日よ」

 半日という時間は、喜んでいいのか悪いのか。でもよく考えてみれば、昨日だってレクトと二人して気を失ってから休んでいたのは、半日くらいだったはず。つまり、急げば今日のように追い付ける距離なのだ。

「よっし。行くわ。ここまでされて、黙ってられるもんですかっての。この場所ではたまたまこんなことになったけど、普通に魔法が使える所なら、絶対に負けてあげないから」

「はは……忙しい奴」

 レクトがそうつぶやくが、ルーラは聞いてなかった。

 正気に戻るとすぐに泣くわわめくわで、落ち着けば打倒ノーデに燃えてたりする。レクトがルーラとしっかり話したのは昨夜からだから、彼女の性格を完全に知っている訳じゃない。でもこれがルーラらしい、とどこかで感じたりしていた。

「ルーラ、もうじきあの方のいらっしゃる場所に、あなたは踏み込むでしょう。そしてあなたに魔法をかけ、あの方の子を連れて行った魔法使いと会うはずよ。その時に、あなたは自分の気持ちを忘れないで」

「え……?」

 ドリーの最後のセリフの意味がよく掴めなかったルーラは、首を傾げて聞き返す。でもドリーはそれに応える言葉をくれなかった。

「ビクテが話していたけれど、あなたって本当に一生懸命ね。大丈夫よ、ちゃんと思い通りに魔法を使える日が来るわ」

 ドリーの言葉を聞いて、レクトはビクテの名前を知らないが、誰が見てもルーラはやはり一生懸命なんだと再認識した。

 ドリーがふわりとルーラを抱き締める。呆然としているルーラから離れると、今度はレクトに同じように。レクトはルーラ以上に呆然としていた。まさか自分が人間以外の存在に抱き締められるとは思いもしなかったので。

 ドリーはそんな二人を残し、狼を連れて姿を消した。

 何事もなかったかのように、後は静かな森があるだけ。

☆☆☆

 ルーラとレクトを木に縛り、魔法をかけてからずいぶん歩いた。足の短いノーデは半分小走りに。ザーディを背負ったモルも、かなり早足だ。

 とにかく、いまいましいルーラ達から少しでも離れられるように。そして、目指すお宝をその目で一刻も早く見たいために。

 モルの背中で寝息をたてていたザーディがようやく目を覚ましたのは、時間的に言えばドリーと別れてルーラ達が出発した頃である。

「ルゥラァー?」

 ボーッとした声で、ザーディはルーラの名を呼ぶ。ノーデとモルは一瞬、ギクッとした。ルーラが追って来たのかと思ったのである。

 だが、振り返ってみても、そこには森の静寂が横たわっているだけ。木の影しかないのを確認してほっとする。たとえ魔法が失敗していても、木に縛ってあるからそうすぐには動けないはずだ。しかし、万一ということもある。

「あれぇ、ルーラは?」

 きょろきょろとザーディは辺りを見回す。あの粉で眠らされる前、ルーラの声を確かに聞いた。でも、ルーラはどこにもいない。

「夢を見たんだろ。ここにルーラはいやしないよ」

 少し勝ち誇ってノーデが答えた。もちろん、ザーディにノーデの態度の理由はわからない。

「ねぇ、ぼく、もう降りる。自分で歩けるから」

 眠ってしまいはしたが、あまり居心地のいい背中ではなかった。背負われたのは自分が疲れた、と言ったからで、今は疲れていない。朝の出発時からこうだったから。

 それなら、自分の足で歩いた方がずっと気楽でいい。

 モルがやれやれとでも言いたそうに、ザーディを降ろした。モルは文字通り肩の荷が降りてほっとしただろうが、背負われていたザーディもほっとした。

「あ……」

 ザーディは思わず声を出していた。

 土の感触が、今までと微妙に違うのだ。どこがどうと説明できるものではないが、違う。何か懐かしいものを思い出して、それがすぐに頭から消えてしまって何だったかわからなくなってしまう。ちょっともどかしいような想い。

 そんな土の感触に気付くと、ザーディは改めて周りを見回した。

 森の様子がどこか変わっている。あれだけ密集していた樹木がまばらになったようだ。そして、その一本一本がこれまでよりも大木になっている。太い枝を伸ばし、自分の下にあるもの全てを包み込もうとしているようだ。葉を茂らせ、陽の光を遮っているが、今までより明るい。うっすらと霧が立ち込め、それが光を吸収して明るいのだろうか。

 空気も変わってきている。澄んだ、水分を多めに含んだ大気の匂い。

 この空気を確かに覚えている。

「何だ、どうした?」

 ザーディの出した声が気になったのか、ノーデが尋ねた。

「もうすぐ……母様に会える……」

 竜の世界に、明確な入口というものはない。ここからが竜の世界で、ここはまだ違う、という断定はできない。近付いている、もしくは気が付いたらもう入っていた、ということが多い。明確な入口がない以上、竜のザーディにも「ここから竜の世界だ」とは言い切れないが、ほぼ帰って来たのはわかった。

 そう。この霧の中をもっと進めば、必ず両親に会える。息子が帰って来るのを、待ってくれているはずだ。

「かあさま? ってことは、もう竜の世界に入ってるんだなっ」

 ザーディの言葉を聞いて、満面の笑みを浮かべ、これ以上は無理というくらい、嬉しそうな顔になるノーデとモル。宝が手の届きそうな所まで、とうとう来たのだ。

 これまでのことなどきれいに忘れ、二人の盗賊はもうじき手中にするであろう宝の中に身を投じ、高笑いする自分の姿だけを頭の中にめぐらせていた。

「そうか……もうすぐ会えるんだな、お前の親に。初めてお前と出会って一週間……もう少し経っているか。これだけ月日の経つのが遅いと思った時はなかった。いやー、めでたい」

 多少なら殴っても蹴っても笑い続けそうなくらい、ノーデは嬉しそうだ。

 ザーディは異常とも言える二人の嬉しそうな表情を見て、少しおかしい気もしたが黙っていた。余計なことを言う必要もない。どうせごまかすに決まっている。

 それにつけても、ザーディの頭に浮かぶのはルーラのことだ。

 ノーデは足をケガした、と言った。大丈夫なのだろうか。ルーラのことだ、どこにいてもきっとザーディの心配をしているだろう。

 ここにルーラがいれば、どんな表情をしただろうか。この二人のように喜ぶ? ちょっと違う気がする。もちろん、喜んでくれるだろうが、ザーディが竜だと知らないルーラはもっと別の喜び方をするだろう。

 盗賊二人は自分達だけで勝手に盛り上がっているが、ルーラならきっとザーディを抱き締め、よかったね、なんて言葉を連発するだろう。

 そう、ルーラなら「ザーディと一緒になって」喜んでくれるはずだ。まるで自分のことのように。

 もともと、この二人については頭から信じて一緒にいた訳じゃない。ザーディを売り飛ばす気でいる、なんてことは知らないまま。それでも、どこか邪な考えを持っているようだ、とはわかっていた。

 しかし、少なくとも表面はザーディの機嫌を損ねないように気を遣っていたし、ひとりでは恐かったのも事実。結果的に彼らはここまで連れて来てくれた。

 だが、やっぱり落ち着ける相手でないのも本当だ。

 もっと勇気があれば……ひとりで歩いて行ける勇気があれば、こんな二人に連れてもらわなくても、帰って来られた。いや、それよりも。

 ルーラと別れるようになってしまった時、ちゃんとルーラの顔を見て別れるべきだった。そうしなかったことで、ルーラが心配でたまらない。ルーラだって、ザーディを心配しているだろう。せめて「ぼくは大丈夫だから、早くケガを治して」とでも言えていれば……。

 そもそも、どうして知らないうちにルーラと別れなければいけなかったんだろう。足をケガしたとしても、ルーラがザーディに黙って帰ってしまうなんておかしい。ノーデに後は頼むと言ったとしても、ザーディに直接事情を伝えないなんてことがあるだろうか。

 何かおかしい。どこかおかしい。ルーラに会いたい。

 そうは思っても、やっぱり言い出せない、気の弱いザーディであった。

「さぁ、もうひとふんばりだ。あと少しで親に会えるんだぞ」

 ノーデに言われ、ザーディは歩き出すしかなかった。

 ルーラに会いたい……。

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