土地読みの人
草木は黄色く様変わって、秋の気配を感じさせていた。
地面を覆わんとする落葉の上を、時折ぱきりと枝を折る音をたてながら、余市は歩いていた。
この山は、行楽地とはやや離れていて、そもそも普段から人が訪れることは少ない。秋口となればなおさらで、冬に向けてたくわえを作るべく活動する動物はあれど、周囲に人の気配はなかった。
夏の残り香ただよう暖かい風は、ただただ静かに、到来する冷気と混ざり、微妙な寒暖のもつれを作り出していた。
かすかに白くなる息を吐き出しながら、傾いた日の中を、余市はただ歩く。
ぱきり、ぽきり、かさり、くしゃり。
そうして生まれる足音をいくつ重ねただろうか、余市の行く手に一つの村落が姿を現した。
木々の間にひっそりと、十か二十かの、背が低く、古びたあばら家がたたずんでいる。
余市は、その中の一棟に歩みを向ける。
戸口から中を伺ってみると、そこは廃屋のようだった。居間の畳は茶色く変色し、埃か墨かわからないが、黒いもので汚れ、土間は木板がはがれ、囲炉裏には蜘蛛の巣が張っている。台所で近年水を使用した形跡はなく、釜も古びて、こちらにも埃が積もっている。
このあばら家で暮らすものがいないという事実は、中に立ち入らずとも明白だった。
「おにいちゃん」
不意に、声がした。
振り返ると、一人の少女が立っていた。
年の頃は十二、三といったところか。
乳白色をした一枚布の衣服に、それに溶け込みそうな象牙色の肌をした彼女は、まるで気がはやって飛び出してきた雪の妖精のようだった。
「おにいちゃん、なにしてるの?」
「すこしね、このあたりをみてみたかったんだ」
と、余市は優しげな微笑みを彼女に投げて、そう言った。
「ふうん」
くりんとした猫を思わせる黒い瞳が、その言葉の真偽を確かめるように、余市を見つめる。それから少女は少し、逡巡したように見えたが、
「じゃあね、わたしがおにいちゃんを案内してあげる!」
そう言った。
「ついてきて」
そう告げると、少女は歩き出した。余市もそれに続く。
連れてこられたのは家屋の一つだった。
「おじーいーちゃん!」
少女は何のためらいもなく、中へと足を踏み入れた。
「おお、ふみ。よくきたね」
余市が少女に続いてその家の中をみると、ちょうど一人の老人が、にこやかな笑顔で少女を迎え入れたところだった。ふみ、というのが少女の名前らしい。
「ちょうど今ばあさんが夕飯の支度をしていたところだよ」
言葉の通り、台所ではこれまた年老いた女性が、なにやら調理にいそしんでおり、火にくべられた釜からは、湯気がもうもうと立ち込めていた。途端、その香りが鼻をつき、余市は朝から何も口にしていないことを思い出した。
次いで、好々爺は、余市の存在に気が付く。
「おや、そちらの人はふみの知り合いかい?」
「うん、いまさっき、あったの。このあたりをみにきたんだって」
老人は何の疑いもなく、人懐こい笑みを浮かべる。
「おやおや、そうなのかい。なにもないところだけれど、ゆっくりみていってくださいね」
「ありがとうございます」
余市は簡単に礼を述べた。
「ところで、ふみ、今日はうちでご飯をたべていくかい?」
老人はふみの方に向き直ると、先ほどにも増して笑顔で尋ねた。
「うーんとね、きょうはおとうさんとおかあさんがかえってくるかもしれないから、わからないの」
「そうかいそうかい、お腹がすいたらいつでもおいで」
ふみの頭を優しく撫でながら、老人は言った。
「いざとなったらおじいさんの分のご飯を抜きにしますから、たくさん食べていいのよ」
背中越しに、老女が言う。
「わしを飢え死にさせるつもりか」
「あらあら、食べたことを忘れるんですから、食べても食べなくても同じじゃないの?」
「そこまで呆けとらんわい!」
そうして二人は声を上げて笑った。
ふみはにこにこと、二人の会話を聞いている。
「そこのあんたも、よかったらまた立ち寄っておくれな。ふみと一緒に夕飯くらいごちそうしますよ」
「ありがとうございます。機会がありましたら、ぜひ」
老人に礼をしていると、少女が余市の服の裾をちょいちょいと引っ張った。
「いこう、おにいちゃん」
ふみは無垢な笑顔でそう言うと、服の裾まであろうかという黒髪を翻して、ちょこちょこと走り出した。
余市はもう一度老人に礼をして、それに続いた。
ふみというこの少女は、この村落のどこの家においても、愛されていた。
屈託なく、遠慮もなく、明るい声と共に家の中に足を踏み入れ、それを歓迎され、時に食事に誘われ、時に菓子をもらい、時に両親について聞かれ、なによりもどこにおいても満面の笑顔に迎えられていた。
余市というよそ者と共にいることを案じられることもあったが、少女を信頼しているのか、それとも少女の人を見る目が確かだと知っているのか、少女が笑顔で余市を紹介した後で、顔を曇らせる者はいなかった。
少女と村落の人々の交流からわかったのは、彼女の両親が村落に不在であることが多いということ。そして、血縁はなくとも、村落に住む老人たちにとっては孫のように、大人たちにとっては娘のように、そう扱われ、受け入れられていることだった。
余市の目から見てもそこは、夕餉の匂いと、人々の優しさに満ち溢れた、好ましい場所だった。
その日、結局ふみの両親が家に帰る事はなく、ふみがどうしてもというので、余市はふみの家で眠りについた。
ふみの家は、両親がいない間、村落の人々が持ち回りで清掃その他諸々の面倒をみているらしく、小綺麗に片付いていた。
「おにいちゃん」
そう呼ぶ声が、余市を眠りから引き戻したのは、夜が深まってからだった。
正確な時間はわからないが、朝日は当分その顔を見せそうにない。丑三つ時をやや過ぎた頃だろう、と余市はなんの所以もなく思った。
「どうしたの?」
眠たい目をこすって、少女にそう問いかける。
「てつだってほしいこと、あるの」
なぜだろう。きっとその表情に感情が発露しているわけではない。それでも、ふみ、というこの少女が、いまにも泣き出してしまいそうな瞳をしている気がした。
少女は、返答を待たず、てこてこと外へ歩いていく。
その後を追っていくと、村落のはずれで、ふみは立ち止まった。
そこには、村落にはやや不釣り合いな、大きめの土蔵がそびえたっていた。その土蔵の裏側に、二人は立っている。
「これ」
ふみがなにかを余市に手渡す。
それは、古く赤茶色に錆びたシャベルだった。
「ここ、ほるの、てつだって」
少女は自分の足元を差して、請うように言う。
硝子玉のような瞳は、いまにもこぼれてしまいそうになりながら、余市を見つめていた。
今はなにも言わない方がいいだろう。そう判断して、余市はその場所に円匙の先を入れた。少女も小さなスコップを手にして、作業を共にする。
村落は静かに寝静まって、木々のさざめきや、梟の鳴く声の他には、ほとんどなにも聞こえない。時折、なにかの動物が這いずり回る、がさり、がさり、という音がしたが、今はその動物が何者なのかなど、意に介す余裕はなかった。
半刻ほど掘っただろうか。
かつん。
鉄の先端がなにかに当たる音がした。
ふみの泥にまみれた手先が、焦燥を覚えたよう速度を増した。そんな風に思えた。余市もそれに呼応するように、円匙を操る。
やがて、そこから現れたもの。
長い年月を排気ガスに晒された建造物のように、土くれで白茶けたなにか。
それは、その全容がみえていくにつれ、それがなにであるかがわかっていった。
「……骨」
余市が思わず、口にする。
ふみはなにも言わなかった。
ただ人骨と思しきそれを、最後には手でもって掘り出して、愛おしそうに抱えた。
それは、二人分あった。
年月の中で土に還ってしまったのか、はっきりと形をとどめている部位は少ない。
少女が掘り返し、それを拾う指のその先で、大半はほろほろと崩れた。少女が愛おしそうに抱えたのは、そのうちの二人分の頭骨だった。
「それだけで、いいの?」
「うん」
答えながら、少女は余市の袖をくいと引っ張った。
頭蓋骨を抱え、象牙色の指先を、体にまとった乳白色を、鳶色に汚した少女に、余市は黙ってついていく。
気が付けばそこは、ふみの家であり、余市が最初に顔を出した廃屋だった。
ふみは余市にはなにも告げず、家の裏手に回ると、スコップを地面に刺し入れる。余市もそれを察して手伝った。二人してある程度土を除けた後に、ふみは頭骨を穴の底に安置すると、今度は土をかぶせて行く。
やがて、誰かしらの頭だったものは、再び土の奥底に消えた。
小さくふくれあがった土に向かって、ふみは目を閉じると、しばらくの間その小さな手を合わせた。
やがて、ゆっくりと瞳を開けると。
「ついてきて」
ただ一言、そう言った。
少女が行きついた先は、先ほどの土蔵だった。
村落に見合わぬ、威圧感を覚えさせる程の大きさのそれは、月の灯りを鋭く跳ね返すほどに白く、どこか神々しささえ感じさせた。
少女の足先は、村落の家々に飛び込んだ時と同様の逡巡のなさで、土蔵の中へ向く。しかしその足取りは、それらの軽々しさとは全くの別物と言ってよかった。
扉に鍵はかかっていなかった。
扉を押した時、余市は物量的な重さとはまた別の、奇妙な重みを感じた。扉自体には錆びすら見当たらず、立てつけの悪さなどまるでなかったが、聞くはずもない、ぎい、という音すら生々しく聞こえてきそうな、何とも言えない重みだった。
中は一見普通の土蔵だった。
鋤、鍬などの雑器や、なにを記録しているかわからない書物など、雑多な物々が鎮座していて、その中を二人は歩いた。
やがて、そこを抜けると、やや広めの空間に出た。
そこは村落の家々の中によく似ていた。
畳があり、その上には布団が敷かれていて、桐の箪笥が置かれ、奥にある襖の先にはまだ部屋があるようだった。やや高い位置にある格子窓からは月明かりが差し込んでいる。
家々と違う点があるとすれば、そこが鉄格子で仕切られていることだった。
「むかしね」
少女が、静かに語りかけた。
「むかし、この村でびょうきがはやったの」
その病は、遅行性だった。
一人が風邪のような症状を訴え、やがて命を落とした。
連なって並べた牌が、徐々に速度をつけ、他の牌を巻き込んでたおれるように、一人、また一人と同じように命を落とした。
「どうしたらいい」
村落の寄合で、村長は皆に相談した。
「都の薬師にすがるほど、うちの村には貯えがねぇ」
「そんじゃあ、このまま見ていろというのか。昨日は矢兵衛が死んだ。俺達だっていつ死ぬかわからねぇ」
「だいたい、薬師にかかったからって、どうにかなるとは限らん。隣のそのまた隣の村でずっと前に流行った病の話をきいたか。薬師は金だけとって原因はわからなかったって話だぁ」
「その村はいったいどうなったんだぁ」
「知らん。滅びたとも、少しは生き残ったとも」
議論は、平行線をたどった。
紛糾した議論は、意外な形で散会を迎える。
「た、大変だ!」
飛び込んできたのは、寄合に参加していない、村落では比較的若い者だった。
「いま忙しいのがわからねぇか。そいとも、誰ぞまた倒れたかぁ」
「ち、ちげぇんだ。いま、そこに旅の卜者がきてんだぁ」
「卜者ぁ?今卜者に用は無ぇ。必要なのは薬だぁ」
「それが、その卜者が、この村を救えるってぇ……」
村人たちは半信半疑だった。
それでも、他にすがるものがなかったからかもしれない。連れだって、その卜者のもとへ向かった。
「この村に、強いまじないの力を感じます」
集った村人たちの前で、卜者が一言目に口にしたのはそれだった。
卜者は透かして見たように今の村落の状態を次々に言い当てて見せた。
追い詰められた村人たちにとって、それは信用に十分足る言葉だった。
「あのぉ、この村から病から救う方法は、ねぇんでしょうか」
村長が卜者に尋ねる。
村人たちの救いを乞い求める目をひとしきり眺めてから、卜者はふわりと微笑むと、こう言い放った。
「この村には巫女の末裔がいます。とても強い力を持った、はるか昔、帝に寵愛を受けていた巫女の末裔です。その末裔の少女を穢れなく、汚れなく、人目に留まらぬようにしなさい。それで、この村のまじないは取り払われるでしょう」
「ありがとうございます!これでみんな救われます!そんで、その巫女の末裔っていうのはどこに……?」
卜者は少しの間、その目を閉じると、やがて一つの家を差した。
「あ!おじーちゃん!それと、そんちょうさんも……どうしたの?」
いつものように、少女は、親しい村の人々を出迎えた。
猫のように無邪気な瞳をきらきらと輝かせ、なんとも嬉しそうに、何も知らずに、その扉を開いた。
母は、村に蔓延る病に怯えながらも、娘に不安を悟らせてはならないと、今日もいつもの通りに夕飯の支度をしていた。
父は、そんな妻を支えようと、妻以上に気丈に振る舞い、いつも以上に父であろうとし、いつも以上に日々の仕事を懸命にこなしていた。そうして家に帰っては、妻を、娘を見守っていた。
そんな日の暮れの、ことだった。
その目は、思いつめていた。
その目は、張りつめていた。
その目は、少女の知っている優しい目ではなかった。
「逃げて!」
母が、叫んだ。
「やめてくれ!」
父は、伸びてくる無数の手を押しとどめようとした。
「村を救うためなんだ」
一人が言った。
「俺たちは助かるんだ」
別の一人が言った。
父は、母は、少女は、押し寄せる村人に逆らえず、押さえつけられた。
「なんで」
「だして」
「おねがい」
「おかあさん、おとうさん」
出された食事に手をつけず、少女は座敷牢の中で泣き、嘆き、哭いた。
それでも、彼女は、父に、母に、会えなかった。
病は、治まらなかった。
卜者の対応が間違っていたのか、それとも卜者自体が偽物だったのか、今となっては誰もわからない。それを知る人もいない。
村の人々は一人、また一人と加速度的に勢いを増して、倒れて行った。
その頃には、少女は嘆くこともせず、ただ格子窓から月を、星を、空を眺めていた。
「そうやって、だれもいなくなっちゃったの」
そう、少女は言った。
「君は、くるしかったかい?」
余市は問いかける。少女の瞳をまっすぐに見つめながら。
少女の瞳も、余市をしっかりと捉えていた。
「ううん……」
少女は首を横に振る。
そうして寂しそうに微笑みながら次の言葉を紡ぐ。
「みんなの、やさしいえがお、もういちどみたかったな……」
余市は、ふみの頭を優しく撫でてやった。
気が付くと、少女は影も形もなかった。
ただそこには寂しげな座敷牢があった。
村落の廃れぶりと比べ、あまりにも綺麗に保たれていたはずのその場所は、いつの間にか時間を取り戻したように古びているように見えた。
土蔵を抜け出し、今にも崩れてしまいそうな家々を横目に歩いて、余市はその村落を去った。
ありがとう。
そんな声が聞こえた気がした。
その声が誰のものなのかは判然としない。
「ぼくにできることは驚くほどに少ないよ」
誰に言うでもなく余市がひとりごちる。
「ただ、ぼくが土地の物語を辿ることで、その土地が癒しを得るのなら、ぼくはその記憶を、想いを、汲み取り続けるだけさ」
余市は最後に一度だけ村落の方を振り返ると、ちいさく礼をして、また歩き出した。
ぱきり、ぽきり、かさり、くしゃり。
幾多の足音が連なっていく。