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気づけば市場にいた。どこをどう通って、いつ着いたのかさっぱりわからない。デリクを見ても、いつものように人好きのするさっぱりした笑顔を返されるだけだ。
バイラムの家まで帰るまでは、さっきのは夢だと思うことにした。そうじゃないと、せっかく市場に来たのに、デリクのことばかり考えてしまう。
「お嬢さん、よければ今晩なにか作っていただけませんか? 昨晩お嬢さんが作った、ショーユやミソを使うレシピが知りたいのです」
「いいですよ。バイラムさんはどんな料理を知っているんですか?」
「なにも知りません」
「えっ?」
家に調味料があるのに?
「ショーユなどは聖女様が望まれたものですが、原材料から作り出さなければならず、完成まで時間がかかったのです。聖女様がレシピを残してくださったのですが、細部まで完全に再現できないと公開されませんから」
「その聖女様のあとにいらした聖女様は、醤油などを使わなかったんですね」
「ええ。聖女様はひとつのことにお詳しく、そのほかのことには興味がない方が多かったそうです。あまり、食に興味のある聖女様はいらっしゃらなかったのですよ」
「それは残念ですねえ」
確かに、食べることに興味のない人はいる。お腹に入ればいいとか、生きるために食べるだけとか。
「んー……お酒にあわせるなら、焼き鳥とか? お肉と野菜のピリ辛味噌炒め、肉じゃがは箸休めになるかなぁ」
「どれもうまそうだ! 嬢ちゃんが作るなら間違いない」
「デリクは昨日のおつまみ、どれが気に入りましたか?」
「全部!」
「それじゃ参考にならないじゃないですか」
「俺は嬢ちゃんに胃袋を掴まれたんだ。炭を出されても、うまいって言う体になっちまったんだよ」
デリクが大げさに言うものだから、吹き出してしまった。さっきまでの甘やかな雰囲気はどこにもない。きっと、気を遣ってくれたんだろう。
デリクは気が利くし優しい。口説いたあとに、どう振る舞えばいいか知っている。
……たぶん、いや、絶対にモテる。わたしなんかより、美人を口説いたほうがいいだろうに。
「じゃあ、ネギ買っていきましょうか」
「……ネギ」
「デリクはネギが嫌いなんですか?」
「……いや。嬢ちゃんならおいしくしてくれるだろうさ」
「バイラムさんが好きな甘酢味の料理も作りましょうね」
「それは楽しみです」
いくつかの野菜とお肉を購入して、そろそろ帰ろうと話していると、なにやら騒がしくなってきた。デリクがさっとわたしの前に出て、鋭く見回す。
「バイラム」
「かしこまりまして」
なにも指示していないのに、バイラムはすべてわかっているようにどこかへ行って、すぐに戻ってきた。
「酔った男性が、女性を罵倒しているようです」
「助けに行かないと!」
「嬢ちゃんなら、そう言うと思った」
デリクの目が優しく細められ、白い歯を見せて笑う。
「ただ、俺の後ろにいてくれ。危険そうなら兵を呼ぶ」
「わかりました」
バイラムに先導され、一分もしないうちに目的の場所についた。酔っ払った男性が、妊娠してお腹の大きな女性を大声で責め立てている。
「女はいいよなあ! 働かなくていい! 妊娠すればすべてに労られるべきなんだってよぉ!」
男の後ろで、何人かの男がにやにや笑って頷いていた。
「ありがてぇ聖女様のおかげで、俺は仕事を失った。仕事場に女を入れなきゃなんねえんだと! 気持ちいいことしてガキを産めばそれでいい! 女は楽なもんだ!」
どこかで風が渦巻いている。地面から吹き上がるようなそれはフードを飛ばし、逆立てたように髪を舞い上がらせた。
「……恥を知りなさい」
自分でも驚くくらい低い声が出た。男がこっちを見て、目を見開いて動きを止めた。
空が黒雲に覆われる。今にも落ちそうな雷の音があちこちから響いて、誰かが怯えた声をあげた。
「命をひとつ生み出すのに命がけ。出産で死ぬことも珍しくない。それを、楽ですって……?」
雷がひとつ、男の数センチ横に落ちた。へたりこんだ男の、股のあいだにもうひとつ。
「知ってる? 出産しているときは、赤ん坊が出てくるところをハサミで切るの。麻酔なしでね。それでも痛くない。出産の痛みに比べたらそんなもの、そよ風のよう」
後ろで笑っていた男たちを囲むように、雷の柱が何本もたつ。
感情が溢れ出して止まらなかった。
「どうしてこの男を誰も止めないの!? あなたたち、自分の奥さんやお母さんがこんなことを言われても平気なの!? どうして……どうしてこんなことを許すの! ここで見ているだけだった全員、恥を知りなさい!」
あちこちに雷が落ちて耳が痛い。さっきまで絡まれていた妊婦を避けて、勢いよく雨が降る。
結婚したあと、なにも出来なかった自分。虐げられて反発もせずにうずくまって、必死に言い訳をしてた。大学に行かせてもらえず就職させてもらえなかったから正社員になれない、シングルマザーじゃ3人のこどもを育てられないって。
妊婦に過去の自分を重ね、あのとき言いたかった言葉を、いま発散する。
一番恥ずべきなのは、わたしだ。
大粒の雨が、息をすら出来ないほど降り注ぐ。誰にも見られたくない今、その雨がちょうどよかった。
「嬢ちゃん」
ふと誰かに引き寄せられた。あたたかいものに包まれ、どこか懐かしいにおいがする。
「よく頑張った。本当に、よく頑張ったな」
膝裏に腕を差し込まれ、体が浮き上がった。お姫様抱っこをされている。
普段なら恥ずかしいと思うところだが、心が麻痺したように何も感じなかった。唯一感じるぬくもりにかじりついて、大声で泣いた。いまなら、雨に紛れてなにも聞こえないから。
ずっと泣きたかった。前世からずっと。デリクはなにも言わず、ただ抱きしめてくれていた。