6.5
「カレーパンうまいな。嬢ちゃんが作ったものは全部うまい」
揚げたてのカレーパンはもちろんだが、冷めてしっとりしたものもおいしい。
二階で寝入っていた姿を思い出し、デリクはかすかに笑った。あまりに無防備で、さらおうと思う者がいたらすぐに実行に移せるだろう。
「海の呪いについて報告が来た。軽症のものはすでに回復の兆しがあるそうだ」
バイラムは息を呑んだ。
海の呪いを病だと言い切り、その対処法を知り、初めて栽培に成功した果実の名と調理法を知っている。
この世界では、聖女のもたらした知識を勝手に変えることは、王であっても許されない。聖女の知識は上から下へ、手順の省略など許されず、正しく伝えられる。自国である程度広まったなら、次は他国へ。
世界のすみずみまで新しい知識が広まり、定着すると次の聖女が現れる。
新しい知識を持っている。すなわち、
「聖女様……」
「嬢ちゃんは聖女だ。間違いない」
「ですが、手の甲にしるしはなかったはず」
デリクはなんとか笑いを抑えようとしたが、途中で諦めて笑い出した。
「さっき客間に様子を見にいったとき、嬢ちゃんの足がベッドから出ていてな。足の甲にしるしがあった」
「それは! ……間違いなく?」
「ああ。正真正銘、聖女のしるしだ。いま王宮にいる、ニセの聖女ではなく」
酒をあおり、つまみに手を伸ばす。
カレーパンの作り方をバイラムが覚えると、彼女はせっせとつまみを作りはじめた。なにもお腹に入れずお酒を飲むのはよくないと言って、ミソやショーユに喜びながら、新しいものを作る。
聞けばオリジナルのレシピらしいが、この世界でオリジナルという単語が指すのは聖女のみ。
「影から報告があった。ニセ聖女のしるしは太ももの内側にあると。民に見せられぬ場所にしるしがあるなど……」
「しかし、しるしがあるのでしょう?」
「ああ。太ももではおおっぴらに確認することは出来ないから、信用のおける女官数人で確認したそうだ。皆しるしがあると言ったが、影に確認させると、太ももの内側に大きなほくろが2つあるらしい」
「つまり……しるしを一筆で書くのではなく、ほくろのある場所で途切れさせ、それらしく見せたと?」
「ああ。それならニセのしるしを書ける」
聖女のしるしは、どうしても最後まで書ききることができない。だから、聖女をあらわす刺繍などは、わざと最後まで繋げないで仕上げる。
聖女のしるしは国民の誰もが知っている。聖女を騙ることはできるが、そのような冒涜は誰も犯さない。
「ニセの聖女は頭が弱いそうですね?」
「ああ。聖女はもたらす者ではなく、かしずかれる者というのが言い分だそうだ。成したものに対し頭を垂れるのに、いまの聖女が知っているのは既存のものばかり。天候は荒れ狂い、ようやく収まったのは嬢ちゃんが来てからだ」
「昨日お嬢さんが怒ったときに、雷が落ちました」
デリクが、にやりと笑う。
「そのときニセの聖女様は、お気に入りの者に囲まれてご機嫌だったらしい。言い繕ったが、王宮ではもはや聖女ではないという声のほうが大きいな」
「偽物はいけませんが、お嬢さんはよほど結婚したくないご様子」
「結婚していたと言っていたな。いい思い出がないんだろう。だが」
言葉を切り、ふたりは目を合わせる。
「『すべては聖女様のご意向のままに』」
この世界の根本にある、絶対に守られるべきもの。この言葉を知らない者はいない。
聖女がどんなに破天荒で無駄なことをしているように見えても、すべてはこの世界を豊かにすることに繋がっている。真理であり、疑ってはならない。
その言葉は常に正しかった。
「すぐに嬢ちゃんが聖女だと露見するだろう。わずかな間でも、嬢ちゃんには楽しく過ごしてもらいたい」
「ええ。お嬢さんがしたいことは、すべて新しいでしょうから。聖女とは、そういうものです」
ふたりはグラスをあわせ乾杯する。
聖女の未来のために。何をしても、こんなに楽しいのは久しぶりだとはしゃぐ少女の未来のために。