6
デリクが帰ってきたのは夕方だった。
バイラムが何度も試作をしたピザを食べてお腹がいっぱいになったころ、ひょいとドアを開けて顔を覗かせた。風が強かったのか走ったのか、燃える暖炉色の髪はちょっぴり跳ねている。
「いいにおいだな。俺のぶん、あるか?」
「ええ、これからたくさん食べてもらいますよ。聖女様にお出しするなら、いくら試作しても足りませんからね」
飲んでいたお茶でむせそうになり、慌てて息を吸う。
「これ、聖女様に出すんですか?」
「ええ。新しい果実に興味がお有りだそうで」
「今度の聖女様は食に興味がある方なんですね」
ん? でも、食に興味があるなら、聖女様がトマト料理を教えてくれるんじゃないの? 食べる専門なのかな。
「聖女様はなにを教えてくださったんですか?」
その時に必要な知識をもった聖女様が来るはずだ。バイラムが渋い顔で黙り込む。
「あちっ!」
驚いて声がしたほうを見ると、デリクが出来立てのピザをつまんで、あまりの熱さに指を必死に振っていた。
「デリク、水で冷やして!」
「いいって、こんくらい」
「駄目。せっかくきれいな指なんだから、大切にしないと」
水瓶から汲んだ水をかけていると、デリクがおかしそうに笑った。髪より落ち着いた赤色の瞳が、少年のようにきらっと光る。
「きれいだって? 航海で荒れた指が?」
「仕事をしてきた人の手です。この荒れてかたくなった手のひらで船を操るんでしょう? 傷のないきれいな手より、船員の命を預かる意味をわかっている手のほうが、わたしは好きです。あっもちろん、傷なく保つのが仕事の人もいると思いますけど」
慌てて付け足し、指先の状態を見る。軽いやけどで、数日もすれば痛みもなくなるだろう。
「念の為、やけど用の軟膏をつけたほうがいいですよ。デリク?」
「……その理論でいくと、バイラムの手もきれいなのか?」
「もちろん! 仕事と向き合っている人の手は信用できます」
「ははっ! 嬢ちゃんはすごいな! おもしろい!」
遠回しに嫌味を言われているのかと思ったが、そうではないらしい。デリクは目をきらめかせ、上機嫌で笑いかけてくれる。
なんでも嫌味に思うなんて、まだあの義母に囚われているっていうの? 10年も前に死んで、わたしは生まれ変わっているのに!
「わたし、好きに生きる! デリクもピザを食べて!」
「ん? おう」
デリクは詳しく聞かず、ピザを食べてくれた。目が丸くなる。
「あの酸っぱい果実がチーズとこんなに合うなんてな! すげえうまい!」
ピザは豪快に3口で吸い込まれて消えてしまった。デリクは咀嚼しているあいだに次のピザへ手を伸ばし、にこにこ笑っている。食べざかりの少年みたいだ。
「デリクさん、こちらもどうぞ。ホットドックというそうで、お嬢さんのアイデアです」
「嬢ちゃんの?」
デリクの食べる手が止まった。
「……ほかにも料理を知っているのか?」
「簡単なものなら」
「作ってくれ。例えば、そう……俺たちが知らないものを」
「わたしが知っているものしか作れないですけど、それでよかったら」
日本人だからつい白米に合うものを作ってしまうけど、ここは外国っぽい雰囲気だし、ここはパン屋だ。
パン屋で一番人気といえば……。
「カレーパン」
「カレーのパンってことか?」
「カレーは知ってるんですね。じゃあ、アレンジになってしまいますけど」
バイラムが異様に興味を示したので、早く作ってみせるために、カレーは作らずお店で買ってくることにした。パン生地はバイラムに任せ、デリクとふたりで買い出しに行く。
「カレーってのは、いつだかの聖女が伝えたものでな。その聖女は毎日カレーを食べていたらしい」
インド人?
「あの、聖女様は毎回決まった姿で現れるわけじゃないんですよね? 髪や目の色が違っていたり、言葉は通じるんですか?」
「聖女は同じところから来ているって話だ。チキュウという星だと決まって言う」
地球! みんな、地球から転生していたんだ!
「外見の色は毎回違うが、言葉は通じる。肌や髪が黒い聖女はあまり来ないから、いたらすぐ聖女の子孫だとわかる。嬢ちゃんみたいに」
「珍しいから、みんな聖女って勘違いしてたんですね」
なるほど、納得。
「あのう、聖女様ってふたり同時にいることってあるんですか?」
「ない」
デリクはきっぱりと否定した。
「いつの時代も、そのときに必要な聖女が来る。だんだん聖女が来る間隔があいてきて、いまも10年遅れで来たんだ」
「来ないと不安になりますね」
「そうだ。もし間違った道に進んでいるのなら聖女が正してくれる。でも」
きゅっと薄めなくちびるを引き結び、デリクはそれ以上なにも言わなかった。ちらりとデリクを見上げる。
筋肉のついた体。わたしより随分と背が高く、かきあげた無造作な短髪がよく似合っていた。寒い冬の日、暖炉で燃える炎のようにあたたかで、ときどき怖くも感じる。
「聖女様は、何か教えてくださったんですか?」
「いいや、なにも?」
片眉をあげたデリクは、皮肉めいた表情をしていた。
「じゃあ、実験をしていたり、この世界になにが必要か調べている最中なんですね」
「嬢ちゃんは……」
気になるところで止めたデリクは、お腹を抱えて笑い出した。
「本当にお人好しっつーか抜けてるっつーか。最初に会ったのが俺でよかったな!」
「わたし、とっても嫌な人間ですよ。デリクが知らないだけです」
夫と義母を、何回も殺してやるって思ったし。
「じゃあ俺になにかしてみせろよ」
デリクがあまりにも余裕たっぷりに言うものだから、思いきりそっぽを向いた。
「カレーパン、作りません」
「えっ」
「作りません」
「ご、ごめん! 悪かった! 嬢ちゃんがあんまりにも可愛いから、ついからかっちまって」
可愛い!?
言われたのは何十年ぶりだろう。勝手に顔が赤くなっていく。出来るだけこわく見えるよう、顎をつんとそらしてデリクを睨みつけた。
「そういうの、誰にでも言うのよくないと思います。本当に可愛いと思ったときに言わないと」
「嬢ちゃんは可愛いぜ」
「だから、そう思ったときに!」
「心底そう思ってる。嬢ちゃんは自分が思ってる以上に、ほがらかで優しくて可愛い。外に出るのは、俺かバイラムが一緒にいる時にしてくれ」
デリクの瞳が真剣で、足が止まる。
「……聖女……?」
知らずに出た言葉に、デリクは返さなかった。それで十分だった。
たぶん聖女関連でなにかあって、黒髪のわたしは誤解されやすいんだろう。わたしとしても、聖女になって結婚させられて、この世界の人々に機嫌を把握されるのは嫌だから、それでいいんだけど。
デリクの瞳の炎が激しく燃え盛った気がして、目をそらした。