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デリクから連絡が来るまで待っていてほしいとバイラムに言われ、昨日はお屋敷に泊まらせてもらった。ふかふかのベッドで起きて、朝の家事をしなくてもいい幸せを噛みしめる。
それから洗面所へ行って、心底びっくりした。
鏡に映っているのは、わたしじゃなかった。
「えっなんで!? 昨日鏡を見たときは……」
この世界へ来てからの行動を振り返って、そっと目を閉じた。
昨日、鏡、見てない。
あまりに疲れすぎて、半分寝たまま顔を洗ってベッドにもぐりこんだところで記憶は途切れている。
じっくり鏡を見てみると、コンプレックスだった低い鼻は、鼻筋がすっと通って高くなっていた。黒すぎて気持ち悪いと言われた瞳は、光にあたると緑や青や薄いピンクにきらめいて、宝石を思わせる。パサパサだった髪は艷やかで、さわると絹のようになめらかだ。
「あのモヤ、少しは許してもいいかも……」
若返ったおかげで水をはじく肌になっているし、不健康でない程度に白い。生前の容姿から3割増しで可愛くなっている。
「往復ビンタするだけで許せるかも!」
るんるんとシャワーを浴びて服を着替える。どうやら、麻袋を切ってかぶったようなワンピースが普段着らしい。
部屋の窓を開け放つと、よく晴れた空に音符の形をした雲がたくさん浮かんでいた。
「今朝、聖女様はとてもいいことがあったらしいな」
「いや、音楽を聞いてるんじゃないか?」
ふざけた雲を消してくれと念じると、雲は綿飴のような形に戻った。朝からやめていただきたい。
道行く人々から残念そうな声があがったが、聞こえないふりをして窓を閉めた。
「バイラムさん、おはようございます。遅くなってすみません」
「おはようございます。お疲れだったのでしょう、もう少しゆっくりしていて構いませんよ」
「いいえ、さすがに。なにか手伝うことはありますか?」
「まさか! あなたの仮説が証明されたら、海の呪いにかかる人間はいなくなります。みな、あなたに感謝するでしょう」
「……その、わたしがそれを発見したわけではないんですけど」
もごもごと言うが、バイラムはにっこり笑うだけで、否定も肯定もしなかった。なので、わたしも愛想笑いを浮かべる。
必殺・その場しのぎ。
「私はパン屋を営んでおりまして。よければ、朝食のあとにでも気晴らしに行きませんか?」
バイラムの申し出に頷き、朝食を終えると、ふたりで外へ繰り出した。
バイラムは教えるのが上手で、道を歩きながらいろんなことを教えてくれる。ちなみにわたしは、頭から布をかぶったままだ。
「聖女様は本当にたくさんのことをご存知で、その存在を巡って争いになりかけたこともありました。けれど次にやってきた聖女様が、戦争をするならば二度と聖女は現れないと告げたのです。各国、順番に聖女が来るのだから、きちんと待てと。それから争いはなくなりました」
「争いが好きな聖女様はいらっしゃらなかったんですねえ」
「ええ、穏やかな方が多かったそうです。2階建ての家が出来たのも、ケンチクシという知識を持った聖女様のおかげですよ」
「建築士」
「ええ。4代前の聖女様は隣国に降り立ちましたが、大変な男性嫌いだったと聞きます。男女平等を掲げ、精力的に動かれました。男尊女卑がなくなり、職場の半分が女性になったのも、その聖女様の功績です」
「はあ〜、そういう方もいらしたんですね」
あとは電化製品や既存の製品の発達、大型船を造ったり農業の安定供給や品種改良など、歴代聖女の奇跡をあげればキリがないそうだ。
聞けば聞くほど、聖女はわたしではないと思える。天候はしっかりわたしの心を映してるし、足の甲にもそれっぽいしるしがあったけど、わたしには頭脳がない。与えるものが何もないのだ。
「ここがわたしのパン屋です。いつもは私もパンを作っているんですが、いまは任せております」
「あっ、もしかしてわたしが邪魔をしていますか?」
「はっは、いいえ」
丸いお腹を揺らし、バイラムが笑った。
「デリク様が持っていらした果物と格闘しているんですよ。見てみますか?」
「はい!」
もしかしたら、初めて見る果物かもしれない。
試作品を作る小さなキッチンと窯がある部屋に案内され、うきうきと覗くと、そこにはトマトがあった。
……トマトかぁ………。
トマトは好きなんだけど、期待したぶん落胆が大きいというか。
「これを調理せよとの命がありましてね。なにぶん初めて見るものですし、食べてみると酸味が強く、どうしようかと思っていたんです。お嬢さんはご存知ですか?」
「ええと……はい。わたしの家の畑に、似たものがありました」
「ほう」
バイラムの瞳が光った。いろんな考えを含んだそれは一瞬すぎて、掴む前に消えてしまう。
「なにかレシピをご存知だったら、ぜひお教え願えませんか。一週間後にお披露目なのです」
なかなか無茶なスケジュールだ。
「パンとトマトを合わせればいいんですよね? 試作を作ってみるので、味見をお願いします」
トマトを味見すると、確かに酸味は強かったが、味はトマトそのままだった。すこし種が大きくて引っかかるが、じゅうぶん使える。
「では、今から試作を作ります。バイラムさんは出ていても大丈夫ですよ」
「いえ、ここで見学させてください」
見られるのは緊張するけど、一宿一飯の恩があるんだから、きちんとしないと。借りたエプロンの紐を結んで、手を洗う。
作るのはみんな大好き、ピザとホットドックです。