3
「まずは確認なのですが、長く航海をすると、肌や歯茎から血が出たりする。間違いありませんか?」
「ああ」
「わたしに優しくしてくれていた医師は、それを壊血病と呼んでいました。原因は、長い航海による新鮮な野菜や果物の欠乏。肉や野菜には、それぞれ違う栄養が含まれているのは知っていますね?」
「できるだけ色々ものを食べたほうがいいのは聞いている。飢饉に対する備えかと思っていたが、違うのか」
「人間が体内で作り出せない栄養を、食べ物で補うんです。壊血病に効果的なのは柑橘類です。加熱しては必要な栄養が消えてしまうので、生のまま食べなくちゃいけません」
「それを食えば、海の呪いをとくことが出来るのか?」
「呪いではなく、病気です。一度罹ったものを治せるかどうか、わたしに知識はありません。でも、しないよりマシです」
「そりゃそうだ! ありがとう嬢ちゃん、今まで呪いだと思っていたものが病気だとわかった。今すぐ手配する」
「……偉そうにいろいろ言いましたが、もし改善されなかったら、どう謝ればいいか」
「いままで誰も原因がわからなかった。仮説をたてられただけでもありがたい。バイラム、あとは頼む」
「かしこまりまして」
デリクはにっこり微笑むと、長い足を活かしてさっそうと部屋を出ていってしまった。
バイラムはベルを鳴らして使用人を呼び、お茶を頼む。幾人もの人がやってきて、すぐにテーブルの上が綺麗になった。
「この世界のことを知りたいと伺っております。お嬢さんはなにも知らないご様子。この世界の成り立ちからお話しても?」
「はい、お願いします」
「遠い昔、この地がうまれる前、この世は混沌に満ちていました。命が育たないことに心を痛めた女神様は、涙を3粒落とされました。それらが島となり、人が住み、栄えるようになったのです」
バイラムは紙を取り、大きな丸をみっつ書いた。等間隔に、線でむすんだら三角形になるように。3つの丸を囲んで大きな四角を書くと、彼はペンを置いた。
「これがこの世界の地図です」
「えっ? この四角の中がすべて?」
「ええ。3つの島は薄いガラスのようにもので囲まれており、先へ進めません。たくさんの人々が海の向こうを求めて旅立ちましたが、誰もが透明な壁を超えることができず、帰ってきました。帰ってきた船は海の呪いにかかっており、そのうちそれは女神様の警告だという話が広まり、壁に近づくことが禁忌とされました」
「はあ〜……」
なんとも壮大な話だ。
「禁忌と定められたのは、初めて国が認識した聖女が、神のお言葉を伝えてくださったからです」
「あっ、ここで聖女が出てくるんですね」
「ええ。聖女たちは、みな女神に遣わされたと言い、聖女以外が身につけることができないしるしをお持ちでした。しるしを刺繍をしようとしても、書き写そうとしても、最後まで線をつなげることができないのです」
それって、あのモヤが足の甲につけたって言ってたアレ? まだ確認してないけど、もしかしてそれが、わたしの足にあるの?
「聖女は様々な知識をもたらしてくださいました。そして何より、聖女が願えば空が応えるのです」
「それは、どういう?」
「ある地域が旱魃になれば、雨をふらしてくださる。もちろんその逆も。聖女がいれば豊作豊漁が約束され、天災や疫病がおこらない。それだけで国は富み、潤うのです」
「それはつまり……聖女の気分によって天気が変わると?」
「簡単に言ってしまえばそうです。聖女がいるときは、みな空を仰ぐものです。青空が広がれば聖女が健やかでいらっしゃることがわかりますから」
バイラムは思い出したようにくすりと笑った。
「ある日、天候が3日ほど荒れ狂ったときがありました。雷がとどろき、雹が降り注いだかと思えば一部分は晴れており、海は荒れ狂い、空は紫や黒のマーブル模様になって、この世の終わりだと思ったものです」
「そ、それで?」
「あとから聞いた話では、聖女様が夫婦喧嘩をなさったと。その後聖女様から謝罪があり、聖女様の願いを聞き入れた女神様がすべてを元に戻してくださいました。まばたきする間に畑や壊れた家が戻ったので、みんなひれ伏したものです」
待って、あのモヤが言うとおりわたしが聖女だとすると、全国民にわたしの機嫌が丸わかりなの? 小指をぶつけたとか、生理痛とか、そういうのも全部空模様を記録されて残されてしまうって? 冗談じゃない!
「さきほど、聖女降臨の前触れのお話をしましたね。それは、世界のはじまでかかる、大きな虹です。それから数日から数カ月のあいだに聖女が降臨され、我々を導いてくださいます」
「み、導く」
「いまは聖女様が王宮にいらっしゃいますが、どうも」
わずかに眉を寄せ、口の中ですりつぶすように言葉を飲み込んだバイラムは、その先を言うことはなかった。
あのモヤはわたしが聖女だって言ってきたけど、もう聖女様がいるんならわたしは違うんじゃない? 導くことができる器や知識を、わたしが持っているわけもない。
「聖女様は、ご結婚なさるんですか?」
「ええ。降臨なさる国は順番で決まっており、その国の王族とご結婚しておいでですよ」
ってことは空模様を見ながら、聖女があの男にときめいてるだの何だの相談して結婚相手を決めて、初夜のときは国民も合わせてかぶりつきで空を見てるわけ?
聖女様がときめいてらっしゃる、今ベッドインしたようだぞ、ああ感じていらっしゃるぞ、と?
そんなの冗談じゃない! 本当に、冗談じゃない!
怒りがむくむくと湧き上がる。
こどもや孫と別れるのは本当に寂しくて、まだ一緒にいたかった。それでも、ストレスで寿命を縮めたやつと離れられるのは嬉しかったのに、望んでいない聖女にさせられて、気分を逐一観察されるなんて!!
「お、お嬢さん?」
外でゴロゴロと雷が響く音がする。
この世界は、おそらく地球よりも発展が遅れている。男女平等という言葉があるかも怪しい。そんな世界で聖女なんてやってられるもんか!
わたしは聖女になんてなりたくなかった! 若返るよりも、女が結婚を強要されない未来で生まれ変わりたかった!
なのにこんな、聖女だと言えば王族と結婚させられるところに、問答無用で放り込まれるなんて……。
あのモヤ、許さない!!
その瞬間、目が焼けるかと思うほどまばゆく白い光がはしった。数秒遅れて、耳がつんざくような雷が落ちる音が続く。
いつの間にか空は黒くあつい雲で覆われていて、部屋の中が真っ暗だ。
「せ、聖女様がお怒りに……!」
はっとして、必死に祈った。
どうか、いまの雷でなにも被害がありませんように。快晴にして、海も凪いでいますように。なんなら虹も出して花とか降らせてください! お祝いみたいに!
自分が聖女なのか確信がもてないまま、必死に祈る。閉じたまぶた越しに光を感じ、わあっという声が聞こえてそうっと目を開けると、空は晴れていた。
バイラムと一緒に窓の外を覗き込むと、大きな虹が出て、白い小花が振っている。
「聖女様の奇跡だ!」
「聖女様が祝福をくださった!」
……これって、わたしが聖女ってことになるんだろうか。
「……バイラムさん、聖女様は王宮にいらっしゃるんですよね?」
「……ええ。そのはずです」
じゃあわたしは聖女じゃない。それがいい、うん。