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この世界のことをまったく知らないわたしが、質問に答えられるはずもない。
ここの人たちに聞けないなら、違う人に聞こう。親切で暇を持て余している、ぶっちゃければ他人の噂話が好きなおばちゃんを見つけて頼めば、きっと教えてくれるだろう。
記憶喪失だとかでっち上げれば、同情して世話を焼いてくれる。はず。
「海の呪いをときたい」
こちらを見る赤い男は、意外なほど真剣な顔をしていた。
「海の呪い?」
「海のはじに行こうとすると、皮膚や歯から血が吹き出るやつがいる。いきなり古傷が開いたり歯がとれたり、帰ってきた船は恐ろしい有様になっている」
「ああ、壊血病ですね」
知っていることでよかった。ほっとしていると、がっしりと肩を掴まれた。
「ひぇっ……!」
「解決法を知っているのか!? 教えてくれ!」
「……教えたら、わたしの知りたいこと教えてくれますか? 全部?」
「聖女にかけて誓う」
それがどれほどの誓いかわからず、まだ近くにいた無精髭の男に視線をやると、こくこく頷かれた。よくわからないけど、真剣な誓いらしい。
「俺の行きつけの店がある。そこで話してくれ。昼飯はすませたか?」
「いえ」
お腹が、くぅとちいさな音をたてた。蘇生したら、それに力を使って、お腹がすきそうだもんなぁ。
死ぬ前には食べられなくなっていた脂っこいお肉も、今ならもりもり食べられそうだ。
「お肉と柔らかくないお米が食べたいです」
「おっ、いいねえ。でも今から行くとこはパン屋なんだ、米は我慢してくれ。米なんか食ったら、そいつが拗ねちまう」
ほがらかな笑い声が耳に心地良い。
つられてくすりと笑ってから、自然と笑った自分に驚いて、思いきり笑った。手を広げて潮風を全身に受け、ダンスするように回ってみせる。
「こんなに楽しいの、ほんとうに久しぶり! あなたのお名前は?」
「デリク。お前さんは?」
「わたしは……」
親からつけてもらった名前がある。半世紀以上呼ばれてきた、慣れ親しんだ名前。
でもそれは、若返ったいまふさわしくない気がした。文字通り違う世界に生まれ変わったのだから、理想の自分を思い浮かべ、それに向かって努力していけるような名前にしたい。
「うーん……いまはお嬢ちゃんでいいですよ。名前、これから考えるんです」
「なんだそりゃ」
デリクはちょっと変な顔をして、それから晴れて凪いだ日の海のように笑った。
「そいつぁいい。とびっきりの名前を考えなきゃな!」
「うん!」
それからデリクはいくつか指示を出し、物珍しく船を見ているわたしを街へ連れ出した。結婚したあとの行動範囲はほんとうに狭く、顔見知りがいることが心強いけれど、監視息苦しかった。
それが、今はどうだろう! なにをしても、なにを見てもいい。誰にも噂されない。
デリクに渡された布を頭からかぶっているおかげで、誰にも注目されなかった。黒髪はとても目立つらしい。
「ここは、この国一番の大通りさ。港から城まで、何キロも続いている」
「他国に攻め入られたとき、すぐに制圧されちゃいませんか?」
デリクはびっくりしたあと、考え込むようにあいまいに、何度も頷いた。
「……なるほど、そこから。この通りをずっと行けば昼飯にありつける。そこで話すよ」
若返った体は軽く、デリクも店の説明をしながらのんびり歩いてくれた。空はわたしの開放された心のようにどこまでも澄んで青く、すがすがしいにおいがした。
一時間ほど歩いて着いた店は、赤茶色の屋根がかわいいパン屋だった。デリクが遠慮なく入り、店主を呼ぶよう伝える。しばらくして出てきた店主は、柔和な顔立ちをしていた。おいしいものを作っていると思わせる体型と、パン屋という情報が相まって、どことなくあんぱんを思わせる人物だ。
「これはデリクさん、お久しぶりです」
「よう、バイラム。いまの時間ならこっちにいると思ったぜ。飯食おうぜ、いい話があるんだ」
「それは、こちらの女性と関係が?」
「はじめまして、バイラムさん。わたしは名無しです。好きな名前で呼んでください」
「名無し?」
「こいつはいま、とびっきりの名前を考えてる最中なんだ。俺は嬢ちゃんって呼んでる」
「では、私はお嬢さんとお呼びしますね。急なことで満足なもてなしも出来ませんが、うちに来てください」
バイラムさんのあとについていくと、店の後ろにある大きなお屋敷に招き入れられた。まごまごしながら、客間の沈み込むようなソファに座る。
ときおりこちらにも無難な話を振られながら、テーブルの上にところせましと料理が並べられると、給仕の人はみんな下がっていった。
しばらくお腹を満たすことに専念していると、不意に部屋の空気が変わった。
「バイラム、人払いはじゅうぶんだな? 俺はこの国でお前を一番信用している」
「ええ。承知しておりますとも。拷問にかけられても……いえ、拷問にかけられる前に自死してみせますよ」
陽気に見せかけて、なんて会話をするんだ。
ごくんと肉のかたまりを飲み込む。スパイスがきいていて、とてもおいしい。
「嬢ちゃん、布をとってくれ」
かぶっていた布をとると、バイラムさんが息を呑む音が、静かな部屋にごとんと落ちた。
「聖女……」
「人違いです」
どうやら、黒髪が聖女の証のひとつらしい。やめてくれ。
「失礼、聖女降臨の前触れを見たものですから」
「そんなものがあるんですか?」
バイラムさんの目が見開いた。目にでかでかと「そんなことも知らないのか」と書いてある。
ここまでデリクはなにも聞かず説明をしてくれたけど、このままだと怪しまれるだけじゃなく聖女と思われてしまう。
「その……わたし、閉じ込められて生活していたもので」
「なんだって?」
人好きのする顔立ちのデリクが真顔になると、なんだかこわい。先を促され、考えていた設定を話す。
「物心ついたときから、とても狭い範囲で生活してきました。嫁いでからは、義母と夫に家を出ることを禁じられていたので、わたしは常識をなにも知りません」
「既婚者なのか!?」
「逃げてきたので、元既婚者です」
「何歳なんだ?」
「……何歳でしょう?」
「……自分の年齢も知らないのか……」
途端に視線が同情や哀れみをふくんだものになり、首をすくめる。何歳に若返ったか知らないだけなんだけど、さすがに言えない。
デリクにしきりにご飯を食べるようすすめられ、お腹がいっぱいになるまで食べた。最後に高級な味がするマンゴーまでいただいて、思わずたくさん食べてしまったけど、デリクが笑顔で頷いていたからこれでよかったんだろう。
「じゃあ、話を始めようか」
デリクが意思を持って声を発すると、いつも空気がぴりりとする。上に立つ者の声だ。
「嬢ちゃん、海の呪いをとく方法を教えてくれ」