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たくさん泣いたと思ったけど、時間にすればたいしたことはなかった。デリクに抱えられて家につくころには涙も止まり、残ったのは気だるさだけだ。
「ふたりとも、すみません。感情が爆発しちゃって……買ったものも水浸しに」
「いいんですよ。お嬢さんが泣けてよかった。部屋で休んできてはいかがですか?」
いろいろと丸投げしているような気がしたが、バイラムの優しさに甘えて頷いた。体が重い。
お手伝いさんがあたためたタオルを持って来てくれて、ありがたく目に乗せる。着替えた服はさっぱりして気持ちよかった。
タオルで適当にくるんだ髪にどんな癖がつくかが怖かったけど、疲れに勝てずそのまま眠りに落ちた。
昨日はあのまま寝入ってしまい、約束した料理も作れなかった。夕方から翌朝まで眠り続けたのには驚いたが、起きたときは気分爽快だったので、疲れが溜まっていたのだろう。
前世のわたしは、前世のわたし。記憶はあるけど、あるからこそ好きに生きよう。
夫と義母に文句が言えなかったのなら、今生で虐げられたときに言えばいい。なんなら結婚だってしなくていいし、好きに働ける。
「おはようございます。昨日はすみませんでした」
「おはようございます。気になさらないでください。お嬢さんは見知らぬ土地で疲れていたでしょうに、気遣いが足らずすみません。これからは我慢せず話してくださいね」
「……バイラム。俺の言いたいことを全部言うのはやめろ」
「これはこれは、申し訳ありません」
いつもの会話に、思わず笑ってしまう。
「なにも言えず、行動に移せなかった自分を重ねて、あの人たちに八つ当たりしてしまいました」
「いや、あの男たちは酷かった。嬢ちゃんが言わなかったら、俺が言っていた」
「この国は、あんな考えをする男の人ばかりじゃないってことですね? ……よかった」
「俺は決してそんなことを思わない」
知っている。デリクの瞳には、一度だって同情が浮かんだことはなかった。
「ありがとう、デリク。昨日は運んでもらってごめんなさい、重かったでしょう。今日は、昨日言っていたご飯を作るから」
「嬢ちゃんは重くなかったぞ。なんなら一晩中抱えててもいいくらいだ」
そんなわけがない。小学校に入るくらいのこどもだって、長く抱いておけないのに。
「デリクの腕はたくましいね。力仕事は任せちゃうね」
「いや……うん。そうじゃないんだが、力仕事は任せろ」
「遠回しでは伝わらないということですねえ。でもこれは直球では、なかなか」
「バイラムさん、なにか知ってるの?」
「私の口からは、とても」
「えっ、デリク、そんなこと言ったの……?」
バイラムが言うのをためらうことを?
「言ってない! バイラム、からかうのはやめろ!」
「はっはは、すみません。お嬢さん、昨日のことで人が訪ねてきています。お会いになりますか?」
「……会います」
「あと一時間ほどで来ますので、それまで朝食をどうぞ」
朝ごはんはとてもおいしかったけど、いろいろ考えてしまって、あまり食べられなかった。
もしかして、店に雷が落ちたから弁償しろとか言われるんだろうか。誰かが死んだとか?
……ううん、雷は誰にも直撃しなかった。店にだって当てなかった。それだけははっきりしている。
支度を終え、そわそわしながら待っていると、誰かが訪ねてきた。使用人の方が出迎え、わたしたちが待っている部屋へ通してくれる。
「は、はじめまして。トラシュと申します。こちらはカンガー」
「はじめてお目にかかります。カンガーです」
緊張しきった顔で最初に自己紹介してくれたのが、水色の目をもつトラシュ。長い髪をひとつにまとめて、眼鏡をかけている。
カンガーは物腰の柔らかい青年で、薄い茶色の髪と黒い目をしていた。薄いくちびるが、常に弧を描いている。
「はじめまして、わたしは名無しです。訳あって逃げてきた身で、名前はいま考え中なんです。お好きに呼んでください」
「……聖女様と呼んではいけないとお聞きしましたが」
「聖女じゃないので、そう呼ばないでいただけると……」
どうやら、話をすすめるのはカンガーらしい。トラシュはまだ緊張してかたまっているけど、瞳は輝いている。
ピザを知ったときのバイラムみたいに。
「昨日の出来事、私たちは近くにおりました。妊娠についてなにかご存知ならば、お教え願いたく」
「妊娠?」
「私共は妊娠出産について研究しておりますが、なにしろ腹の中のこと、あまり進まず難航しております。研究が進めば、母子が死なずにすむはずです。もしご存知ならば、どうかその知恵をお与えください!」
「いいですよ」
「もしお教えいただけるなら、……え?」
「いいですよ。わたしは一般的なことしか知りませんが、それでもよければ」
「……ありがたく」
ふたりが深く叩頭するのを、慌てて止める。
「望んで妊娠した人は、誰だって無事に産みたいはずです。教えることをまとめる時間をくれますか?」
「もちろんです!」
喜んだカンガーの横で、トラシュは渋い顔をしていた。眼鏡をくいっと上げて、わたしを真っ直ぐ見る。
「……本当によいのですか? 聖女に許されていない研究をするなど、厳罰に処されるでしょう」
「ええっ? 人の命に関する研究なのに、聖女の許しがいるの?」
この世界は不思議だ。聖女が新しいものをもたらすのに、それが発展する気配はない。
ちらっと外を見て、雷が発生するように願うと小さな雷雲が出来た。まあ、これなら大丈夫だろう。
「いざとなれば逃げましょう。そのときのために、森とかで教えるのはどうですか?」
「嬢ちゃんは森に行きたがるな」
デリクがおかしそうに笑って、髪を一房とった。親指の腹でなでながら、ゆっくり耳に髪をかける。
「え、えっと、デリク? あの、お話中だから」
「いざとなれば、俺の船で逃げよう。みんな匿ってやる」
「デリクまで追われることはないよ」
「惚れた女をひとりで危険にさらせだって? 冗談じゃない。俺の国の男は、みんな一途で情熱的なんだぜ」
「ひぇいっ……」
な、なんか口説きがレベルアップしてない? 昨日は夢で会えればいいって言ってたのに、今度は直接的っていうか、なんか……受け止めきれません!
「デリク、話が進まないからあっち行ってて!」
「ははっ、真っ赤で可愛いな」
「デリク! バイラムさんもなにか言ってやって!」
「本当に、熟れたりんごのようで可愛らしいですな」
「もー!!!」




