第1話 お稲荷様とのせいかつ
「おかえりなさーい! ご飯できてるよ! 」
そう、返事が返ってくるようになったのは、ほんのつい最近だ。
この部屋の主……鷺村鷹音は、小さくため息をついて、「ただいま」と声をかける。
長い黒髪がさらりと肩から流れる。
玄関で靴を脱いで、洗面所に行き、手を洗う。
ルーティーンで顔も洗いそうになって、ふと、手を止めた。
どうせ、数時間後には風呂に入るのだ。顔を洗うのは止めておく。
鷹音は、自分の姿をまじまじと見つめた。
艶のある黒髪に、切れ長の瞳。整った顔立ち。どこか不機嫌そうにも、達観していそうにも見える。
鷹音は、自分の長い黒髪をそっと持ち上げて、毛束を顔の横に添えた。
「ショートにするのも良いわね……」
何気なしにそう言って、それから首を振ると、ぱさりと毛束を解放する。
一応、鷹音にも、女心というものがある。
ここまで苦労して伸ばした髪を、易々と切れるほどの度胸は、今はなかった。
「鷹音! おかえりおかえりー! 」
そう言って、リビングに入ってきた鷹音に、どーん! と抱きついてくる小柄なシルエットがあった。
「ちょっと……やめなさい、有葉」
「やめなーい! 二時間ぶりの鷹音の匂い-! 」
……朱色の袴に、白い装束。
鷹音と同じくらいの長さの金髪を、一部だけサイドテールにしている。
特筆すべきは、一部だけサイドテールにしている髪が、ぴょこんと跳ねていることだ。
それはまだ良い。
その少女の頭の上に、狐の耳が付いていることだけは、鷹音は今でも「冗談だって言ってくれないかしら」と思っていた。
「今日は奮発してお肉買っちゃったあ。鷹音、ハンバーグ好き? 」
「……まあ、嫌いな人はあまりいないんじゃない? 」
「よかったあ。あ、もちろん値切り品買ったから、お金は気にしないで! 資産運用はばっちりです! 」
「……良いけど」
鷹音は、ふんふんと上機嫌でダイニングへと歩いて行くその後ろ姿を見つめる。
……尻尾。
その、巫女装束に、金色の髪、狐耳、そしてふさふさと豊かな尻尾。
それが、有葉という少女だった。
いわゆる、狐が人間に化けている状態である。
「……耳と尻尾」
「うん? あ、これ? 他の人には見えないようにしてるし、別に良いかなって。実際、鷹音しか見えなかったでしょ? この耳も尻尾も、巫女装束も」
「……そうね」
鷹音は、そう言って、大きくため息をつく。
そう。
どうやらこの化け狐は、数日前に鷹音の日常に、ふらりと現れたのだった。
「きょおは~ハンバーグ~ハンバーグ~」
そういえば、テレビでそんな歌が流行っていたと、鷹音は気付いたが、声をかけることはしなかった。
それに、元の歌はもっと、語彙力があったはずだ。
それをうろ覚えで、サビの部分しか歌えないのは、まるっきり人間と変わらない。
「お皿を並べて盛りつけて~はい! 召し上がれ~! 」
「……ありがとう」
鷹音は、そう言って椅子に腰掛けた。
「安い肉を買ってきた」と言っておきながら、ハンバーグと一緒にプレートに乗っているのは、ルッコラのサラダである。確か、ルッコラというのは、なかなかマイナーで安くはしない野菜なのではないだろうか。
「……これも妖術でハンバーグだと見せかけてるってオチはないわよね? 」
「だって鷹音、あたしの妖術にはかかんないじゃん」
巫女衣装をたすき掛けにしていた帯を解きながら、有葉が言う。
ともあれ、鷹音の腹は、如実に食を欲していた。
「……いただきます」
「あ! あ~! 待ってよ! あたしまだ準備できてないんだからさ」
「それが何か? 」
「一緒に食べようって言ってるの! もう、箸下ろして! だって、鷹音とあたしは、夫婦なんだもん! 」
「……夫婦になった覚えが全くないのはなぜかしら」
鷹音は、仕方なく、箸を置く。
有葉は、ちょこちょこと鷹音の正面の席に座ると、にこっと微笑んだ。
「じゃあ、いただきます! 」
「いただきます」
午後7時。食事が始まった。
――
幼い頃、鷹音の家には、「屋敷稲荷」がいた。
屋敷稲荷とは、古くから農家の間で祀られている、簡易的な祠に祀られたお稲荷様である。
そんなお稲荷様が取り壊されると知ったのが、母からの電話であった。
「え、屋敷を取り壊す? 」
鷹音がそう聞くと、母は
「私とお父さんとだけじゃあ、今の家は広すぎるのよ。平屋建ての小さい家で十分だし」
と答えた。
「そう……あの家を取り壊すのね」
鷹音は、そのとき、妙な喪失感を味わった。
そして、自分があの家を取り壊して欲しくないと思っていることに気がつく。
……が、高校生の身分で一人暮らしを許されている負い目があるので、鷹音は何も言えなかった。
……しかし、それが後に、鷹音の堅実な高校生ライフをめっちゃくちゃにされるとは、思ってもいなかったのだ。
――
回想終わり。
鷹音は、自室で寝転がりながらノートパソコンでネットの世界へ飛び込んでいる。
大体のお気に入りサイトを回って、パソコンを終了させる。
「……さて」
寝ようかしら、と思った、その瞬間だった。
「よっす! 鷹音ちゃん! 来たわよ! 」
ばばん、と、二階の窓が開け放され、そこにはタオル一枚で体を隠した有葉がいた。