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東の国に夜明け告げて  作者: しちせい
6/7

湯けむり、おさわり、騒がしく

 脱衣所はコンクリートむき出しの上に入り口を除いてすのこが敷かれている。その入り口でバイク用のブーツを手際よく脱ぎ、下駄箱に並べる。

「ん?」

 見ればスリッパが一組。先客がいるようだ。貸し切りなんて贅沢を言うつもりはないので気にもしないで下駄箱の横に積まれていた脱衣かごとフェイスタオルを手に取る。

 奥に浴場があり、片側は洗面台が五つ並び、その向かいには大きな棚が隙間なく並べられている。その棚に脱衣かごを置き、

「しまった。先にチャップスとジャケットくらい脱いでくればよかった」

 今更気付く。お風呂に気が逸りすぎてそんなことは微塵も考えていなかった。

革製のジャケットとチャップスを脱いで、服を縫いで、できるだけ湿気に当たらないよう衣服にくるんでからかごに放り込む。

 黒曜石のネックレスは外すか悩んだがそのままつけて入ることにする。これくらいは許されるだろう。

 からから、と軽い音を立てて引き戸を開ければ湯気がふわりと脱衣所へ逃げ込んできた。

 浴場は奥に大きな湯船があり、左右は洗い場がそれぞれに仕切られて五つずつ。

 胸が高鳴る。名古屋までの道中、奈良から三重の北部を通過しての愛知入りだったのだが三重まではまだ奈良の影響が強く、意外と治安も環境もいい。

 ホテルや旅館、民宿もそれなりの数があり、寝泊まりに困ることはない。

 これがちょうど関ヶ原を超えた辺りで急激に悪化し始める。本当に関ヶ原から南北に線でも引いているのかと言わんばかりにがらりと様相が変わるのだ。

 四日市市街から名古屋市街までの間も入浴どころか野宿だったがそれでも二日。さすがに五日は堪えた。

 人は普段の生活から離れて初めて、そのありがたみを知るのだ。

 というわけで、ありがたみを知る少女はいそいそと洗い場に腰掛け、タオルを仕切りにかけて我慢できずに頭からシャワーを浴びる。

 背中を滑り落ちる水がベタつきを洗い流すようで、くすぐったいが心地良い。大衆浴場によくある押せば一定時間だけ水の出るプッシュ式でなく自分で調整のできるコック式なのが嬉しい。

 一度止めて洗い場に備え付けてあるシャンプーを手に取り、丁寧に泡立てる。あまり期待していなかったがふんわりと優しく香る、なかなかイイものを使っているらしい。

 ヘルメットに押し込んで傷めつけている自覚はある。ふわふわの黒髪は武器ですから。お手入れはしっかりと。

 頭皮を優しく揉んで洗い、次いで髪全体の汚れを泡で浮かせる。

 泡をゆっくりシャワーで流せば、一緒に雑念まで落ちるような気分だった。上機嫌に鼻歌混じりでトリートメントのノズルを押し込む。

 ゆっくりと手のひらを使って髪全体になじませていく。

「む?」

 視線を感じる。振り返ってみるが誰もいない。首をかしげながらも、再びシャワーで髪を流す。指通りのよくなった髪に満足げに手で梳きながら、もう一度振り返る。

 やはり誰もいない。

 ま、いいや。そんなことより早く湯船に浸かりたい。タオルを引っ張り落とすように手繰り寄せて、ボディーソープを染み込ませる。

 両手で泡立ててまず左腕から。そのあと左肩。白い肌が泡の下で輝く。

 華奢な肩に、首ときてネックレスに意識が向く。

「うーん。磨けば運がよくなったりするのかな、これ」

 ひとりごちながら泡の着いた指でこすってみる。どうにも七百万も出すほどのご利益があるように思えない。

 あの老婆は一体どんな理由であの価格をつけていたのか。蜜葉にとっては金額よりも大事なものだが、そうでない人には本当にただの石ころだろう。一応宝石ではあるが黒曜石自体は希少価値の高いものでもない。

 擦ってみたりはしても特になんの変化もない。それもそうか、と鼻で笑って切り替え、細くはあるが筋肉質とは程遠いぷにっとしたお腹から、お尻に太もも、足の先へ丁寧に手を動かしていく。

シャワーで流せば、それだけで晴れやかな気分が湧き上がってくる。

 では本番。タオルで髪を巻き上げ、浴槽を覗いて見ればお湯は白く濁っている。そういえば岐阜の温泉ってにごり湯もあったっけ。なんて思いつつつゆっくりと、爪先から湯船へ侵入する。

 声が出そうになるのを我慢しながら階段状になっている手前側から奥へ降りる。肩まで浸かって一息ついて、

「ん?」

 ふと違和感に気付く。誰もいない。

 なんで?スリッパ確認したじゃん。

 気付いてみれば芋づる式に浴槽の奥側の隅で、ぼこぼこと、こぽこぽと浮かんでは消えていく気泡が目につく。

「あのー。誰かいるんですか?」

 恐る恐る声をかけながら近寄ってみる。誰か溺れてたりしたらやだなあ。が、近付こうとすれば気泡も消えてしまった。

「あれ?っひぃぃぃぃっ!?」

「わっはっはー。見ない顔だなかわいこちゃん」

 突然悲鳴を上げて飛び上がる蜜葉と白いお湯をかき分けるようにシュノーケルをつけた頭部だけ浮かべ、棒読みで高笑いする女性。その手はしっかりと蜜葉の尻を撫でている。

「ええ尻しとるやんけー」

「離せ変態!沈めるぞ!」

「かまわんぞー。今まで潜って待ち続けてた肺活量をなめるなよー」

「こんのっ!」

 未だに尻を撫で続ける手を鷲掴みにし、その場で回転。遠心力を加えて更に回転し、湯船から放り投げる。いわゆるジャイアントスイングというやつだ。

「あーれー」

 わざとらしく空中でそう言いながら態勢を整え、あっさり着地する。

 グラビアに出てそうな人だ。尻を触られる前に普通に見ればそう思っていただろう。ショートボブの黒髪が水分を含んでぺったりと顔に張り付き、対象的な真っ赤な瞳がシュノーケルのグラス越しに蜜葉を見つめている。

「シュノーケルて……」

「ああ、これ?これはただの趣味。誰もいないときくらいお風呂で遊びたいわよね?」

「アホか」

「あら心外。これ以上ないくらいアホなファーストインパクトを演出してみせたつもりなんだけど」

 自信たっぷりに腰に手を当てて立つ。背高い。胸おっきい。お腹くびれてる。腰細い。脚長い。随分とわがままに過ぎる体つきをしている。

「訂正する。アホの変態。死んでほしい」

「普通の人はあんな投げられ方したら死んじゃうからやめときなさいね」

 悠々と湯船に戻ってくると、蜜葉の隣で座る。

「つからないの?」

「いや、あの、離れてもらえません?」

「あら。もうお尻まで触った仲なのに何を遠慮してるのかしら」

「いや、いきなり人のお尻触る人のそばでつかりたくないんですけど」

 全力で拒絶オーラを発しながら離れようとお湯の中を歩く彼女を泳ぐように追いかける。

「ついてくんな」

「目の前に揺れるお尻があるからつい」

「ぶっ殺すぞ」

「私が男だったら迷わずかぶりついてるのに」

「とか言いながら触るなぁ!」

 振り返り、頭を叩く。思いの外いい音が鳴った。

「うーん。太もものお肉もいい感じね」

 全く堪えた様子はないが。

「ちょっとは懲りてよ……」

「女同士で何を恥ずかしがってるのやら」

「恥ずかしいんじゃなくて気色悪い」

 ため息をついて、浴槽の縁に腰掛ける。ゆっくり入りたかったのにと顔に書いてある彼女をよそにその足元に浮かぶように湯船に浸かったままの女性。

「私のことは気にしないでいいわよ」

「もうほんと勘弁して。話しかけないで」

「そうはいかないわよ。弟の彼女なんだもの」

「は?」

 誰の彼女だって?と言わんばかりに顔をしかめる。

「あれ?違うの?あの子が女の子連れてくるなんて初めてなものだから」

「あの子って誰よ」

「陣。かわいいかわいい私の弟ちゃん」

「ああ……」

 腑に落ちる。この人を食った感じ、似てる。いや、彼よりこの姉を名乗る人物のほうがタチが悪いが。

「ただの行きずりなんで。この後ご飯たかったら出てく」

「あら、そうなの?」

「ていうかいつまでシュノーケルつけてるつもりなの」

「んー。そうね。はい」

「渡されても困る。いらないし」

「あら?」

「はい?」

 心底面倒臭そうにシュノーケルを突き返す蜜葉の胸元に赤い視線が止まる。

「ふむ?」

「ジロジロ見ないでよ」

「その石。どうしたの?」

「えっ!?知ってるの!?」

 飛沫を飛ばながら湯船に飛び込むように距離を詰める。器用に蜜葉の起こした波に乗るように浮かび続ける女性が軽く手を上げる。

「うーん。どうかしら?ちょっと見せてちょうだい?」

「……、胸触んない?」

 とっさに体を近づけかけてふと、蜜葉が尋ねる。学習したらしい。

「ばれた?」

「ちょっと沈めるね」

 悪びれる様子など微塵もない女性に、引きつるように笑顔を浮かべて両手でその頭を湯船に押し込む。

「ごぼごぼがばごぼごぼ」

「ったく。期待して損した」

 沈めている間にできる限り離れて肩まで浸かる。

「泳いで来たら蹴飛ばすから」

「ばれた?」

「流石に慣れた」

 ため息混じりに答えて、目を閉じてお湯を堪能することに集中する。

「ところでね」

「……」

 無視してみる。これで引き下がってくれる手合でないことはわかりきっているものの、少しは引き下がってくれないかな、と淡い期待を込めて。

「あなたのお名前は?」

「…………」

「私はね、風間っていうの」

「………………」

「あなたは……、多分佐藤さんじゃない?」

「違います」

 うるさいので答えることにした。忍耐力がないといえばそれまでだが。

「あら残念。ちなみに日本で一番多い名字だから言っただけよ」

「そーですか」

「下の名前はねー。蜜葉ちゃん」

「なんで知ってるの?」

「風間さんはなんでも知ってるの」

「あっそ」

「ホントのこと言うと陣の服に盗聴器仕掛けておいたから」

「もうやだこの人」

 もう諦めよう。お風呂は名残惜しいけど。そう決めて湯船から上がる。

「もう行っちゃうの?」

「ごゆっくりどうぞ」

「じゃあ私もあがろっと」

「なんでそうなるの」

 その後に続いて上がる女性に顔も向けずに早足で歩きながらどうにか引き離そうと口を動かしてみる。

「可愛い子が好きだから」

「そりゃ私は可愛いけど、そのうち鑑賞料取るからあんまり付きまとわないでよ」

「可愛いって自分で言うんだ」

「客観的に可愛いんだから可愛いでいいでしょ。変に卑下したって得しないし」

「まあそうね。私もほら、美人だから」

「自分で言うな」

「ずるい」

 髪を巻き上げていたタオルを取って体の水気を軽く拭き取る。

「律儀ねぇ。別にお金取ってる銭湯じゃないし髪つけたって気にしないのに」

「いいの。よそ者なんだからちゃんと気を使ってないと落ち着かないし。ていうか仮にも共同のお湯に潜るな」

「ふふーん、もうずっとこうしてるから最近誰も文句言わないわ」

「蹴飛ばしたい……」

 幸いなことに脱衣かごは離れたところに置いてあった。ようやく距離を取れると息をついた矢先、わざわざかごを持って近くに移動してくる。

「寄るなってば」

「ところで蜜葉ちゃん、好きな食べ物は?」

「……」

 体を拭きながら、二度目の無視を決め込む。

「今日の晩ごはんは何かしらー」

「あのねー。きょうはねー。ハンバーグとオムライスー」

「あら、そうなの。ありがとねアヤちゃん」

 唐突に割って入る幼い舌っ足らずな声。振り返った女性がしゃがみこんで小さな女の子の頭を撫でる。

 年の頃は五歳くらいだろうか。小さな体で抱えるように何かを持っている。

「あのねー。これ、おねえちゃんにわたしてーって」

「おつかい?偉いわね。はい、蜜葉ちゃん」

「はい?」

「着替えよ」

「ああ……」

 そういえば持ってこさせるという話だった。なぜこんな女の子に持たせたのかはわからないがとにかく受け取る。

「ありがとね。えらいね」

「うん!ごほーびにね、オムライスに絵描いてもらうの!」

「あら、何描いてもらうの?」

「あのねー」

 微笑みながら女の子の相手をする女性を尻目に着替えとやらに袖を通す。なんのことはない、普通のシャツとジャージだ。少し大きいが問題はないだろう。

「食べていくんでしょう?」

「え?ああ、まあ食べていく約束だけど。なんでハンバーグとオムライスなの?」

「好みなんて知らないし、これなら嫌いなやついないだろって言ってたわよ」

「……まじで盗聴してんの?」

 冗談かと思っていたが風呂に入っているだろう間の陣の発言を把握している様子に唖然としながら確認してみると、なんてことないようにシュノーケルを差し出してくる。

 耳を澄ませばかすかに漏れ聞こえる、ノイズと誰かの声。

「聞く?」

「ふんっ」

「あ、ちょっと!」

 とりあえず受け取って壊すことにした。両手で持って引きちぎる。

「あーあー、もう。予備出してこないと」

「やっぱり予備あるんだ」

「あるでしょ。そりゃあ」

「うん、そんな気はしてたけど」

「おねえちゃんきがえたー?」

 ため息混じりに肩を落とした蜜葉の手を女の子が引く。

「はい?ああ、うん、着替えたよ」

「じゃあいこー。おねえちゃんつれてきたらごはんだってー」

「え、あ、ちょっと」

「荷物は私が持っていくわ」

「だから不安なの!」

「おなかすいたよー、いこーよー」

 苦肉の策で、脱衣かごをそのまま抱えて女の子についていく。

「うさぎさーん」

「そっか。うさぎ楽しみだね」

 さすがの蜜葉も幼女相手には口の悪さも引っ込む。戸惑い気味ながら、優しい笑みを浮かべて浴場を出るとおいしそうな匂いが鼻腔をくすぐる。

 胃がきゅっと鳴いて空腹を主張し始める。なるほど、これは急かしたくもなる。

「おにいちゃんのおりょーりおいしいんだよー」

「え、おにいちゃんって?」

 脳裏に浮かぶ人を食った笑顔。

「じんー」

「わーお」

 さて、このまま期待だけ膨らませていいものか。そうは言っても内蔵は素直に空腹を訴え続けている。まあ、食って死ぬようなことはあるまい。

 そう思えば特に迷う必要も感じなかった。いざ食卓といきましょう。


 人間、一週間あれば慣れるとは言うけれど、賑やかで暖かな、人の営みをもう久しぶりに感じることになるとは思わなかったよ。

 これに慣れるとこの先辛いし、やっぱり早めに出ていかないとね。


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