プロローグ2
巨体が踊る。膨れ上がった筋肉がたわみ、大きな体を早く動かす。目の前にいるのはただの小娘。捕まえてしまえば文字通り引き裂いてしまえるだろう華奢な体。
「ううおおあああああ!」
「うるさいなぁ」
矮躯が舞う。小さな体ながら長い脚が別の生き物のように艶かしく鋭く動き、的確に関節を抉るように蹴り抜ける。
確実にダメージを与えながら時折捕まりそうなフリは見せて、試合を長引かせる。
これは興行だということを、この場で最年少でありながら理解している。
「ごおおお!」
雄叫びが虚しく歓声のなかに消えていく。闇雲に振り回された大きな手が少女の目の前に迫る。
瞬間、その目に薄暗い気配がよぎる。
近づく手を前転の要領で躱し、ついた両腕をバネに跳ね上がり、揃えた踵が下顎を砕く。
それまでが嘘のような一瞬の決着。歓声と落胆の声が混じりあう。
この程度で負けることを期待されても困る。とでも言わんばかりに肩をすくめて普段は行うおひねりを催促するためのパフォーマンスを見せることもなく、リングから降りていった。
ああ、気分が悪い。そりゃあ自分が死にかけたところなんて思いだしたらご機嫌ナナメにもなる。
正直思い出すことは減ってるし、そんなに長く気になることもなくなってきてるけど。
でも、あの手だけは、いつまでたっても。
ああ、お金、結構貯まったよね。そろそろ目標額かな?
ファイトマネーはすぐに振り込まれる。紹介料だとかなんだとかいろいろ天引きされてるのが腹立たしいけれどそれでも一回数百万は手に入るんだからいい収入だよね。
ちなみに、もちろん非合法。って言っても国の法律なんてもうないんだけど。そうは言ってももともと日本の都道府県だったわけで。
このご時世に即したように自治体ごとに変更はされているけれど雛形は同じ。
ここはまぁ、治外法権みたいなものかな。場所が場所だけに、治安は悪いし娯楽は汚い。それでも私みたいなガキがまとまったお金を手にしようと思えば、とれる手段は限られてくる。
体売るのは流石に嫌だったし。パンツ見せてた? まぁ減るもんじゃないし、ていうか見せるために用意した新品だよ。
最近気付いたけど見せてあげるだけで金額が目に見えて増えるんだよね。コストパフォーマンスで考えればやらない手はない。
と、ちょっと自己嫌悪に陥りそうな自分にいろいろ言い聞かせながらコンビニに立ち寄ってATMにキャシュカードを突っ込む。
ほんと、ちょっと東にいけば文字通り地獄絵図な世の中だっていうのに微塵も感じさせないよね。ふらっとコンビニに立ち寄れちゃうような環境だとさ。関西サイコー。
残高確認。暗証番号入力。少々お待ちください。
画面に指を向けてしっかり数えましょう。いーち、じゅーう、ひゃーく、せーん、まーん、じゅうまーん、ひゃくまーん。
よっし、九百万。目標達成です。おつかれさまでしたー。
操作終了、カード受け取り、コンビニ出ながら、スマホ取り出し、ぴぽぱぽぱ。あー、文明って素敵。もちろん基地局なんてないからここから東には繋がりませんよ。でも私の家はここから西。
「あ、もしもし、お母さん? ちょっと、電話で怒鳴らないでよ。ちゃんと聞こえてるって。どこって心配しなくても県内だから。
え、いや、お説教は帰ったら聞くから、ちゃんと聞きますから。うん、今から帰るよ。それでさ、お父さんは? 帰ってる? 怒ってる? ああ、うん。ちょうどいいや、私も話したいことあるんだ。だからさ、ちょっと起きて待っててくれる? うん。ごめんね」
はい、通話終了。流石にこの一ヶ月、暇さえあれば夜中は闘技場通いだったからね、パパもママも堪忍袋の緒がぶちっといっちゃいそうですよ。
それでも、このケジメだけはつけないといけないから。大好きなパパとママなら許してくれるよね、きっと。
頭の上にぱっくり開いた大きなお口。
けれどそんなものはなんてことなかった。その更に上から落ちてきた鬼に比べたら。
生暖かい肉塊と体液を撒き散らして砕け散ったナニカなんてどうでもよくて。ただナニカだったものにまみれて斜め後ろのビルの壁にぶつかってめり込んだものに私の目は釘付けだった。
紺色の鬼だった。全身の血管を黒く浮かび上がらせた鬼。
それに気を取られていたら後ろに赤い鬼が立っていた。紺色の鬼の視線で気づく。
振り返る。全身に真っ赤な血管を浮かび上がらせた赤い鬼。目が合った。ぐつぐつ煮える真っ赤なお目々。
歩いてくる。手が伸びてくる。私の頭に伸びてくる。
それは大きなお口が私を食べようとしていたのとは全然違って、無感情なまま私の頭を潰そうとして。
怖かった。怖かった。怖かった。
自分が息を呑む音で目が覚める。ぎりぎり乗り込めた最終電車。
他に乗客なんていないのに隅っこの座席に陣取って気持ちよく居眠りしていたのに、嫌な夢を見てしまった。
それもこれもあのでっかいヤツが思い出させるからだ。というより手を上からかざされるとすぐにフラッシュバックしてしまうのをなんとかしたい。
おっと、嫌な夢だったわりにタイミングはよかったね。ちょうど降りる駅の一つ手前。ぐぐっと背筋を伸ばしてから席を立って扉のそばに立つ。
あ、やば、のんきにすやすやしてたけど今は大金を持ち歩いてるんでした。鞄の中に七百万。
預金額を確認してからわざわざ黒服さんに現金で持ってこさせたんだよね。なんでって? そりゃあ帰り道で使う予定があるからです。
お家の最寄り駅の二つ手前。そこそこ大きなその駅で降りて、改札を抜ける。
時刻は午前一時頃。しかも今制服姿ですよ。見つかったら一発で補導されそう。まぁ人目なんてないけどね。こんな時間に外を出歩く人なんているわけないし。
そう、本当に、こんな時間に。
ちょっと空を見上げれば月明かりを背に飛び回る妖怪なんだか悪魔なんだかわからない連中が目に入る。
彼ら? 彼女ら? まぁあいつらが襲いかかってこないのは私がおいしくなさそうだからではなく、対空迎撃が怖いからでしかない。
一定高度まで降りてくれば自動でいろいろ飛んでいく。火の玉とか氷の槍とか真空の刃とか。
ま、襲われないとはいえ、そんななかをうろつきたがる人なんてよっぽどの変人くらいだろう。
そして、そんな変人が営む怪しい古物店が私の目的地。路地に入って、そこから横の路地に入って、突き当りのビルの裏口に入って、廊下を突き当たって、地下へ降りて。
そんな商売する気があるのか疑いたくなるような場所に目当ての変人がいる。
カビ臭い地下階に、ぼろっぼろのカーテンで仕切られた一角。できるだけホコリをたてないように慎重に開いてくぐる。
「いらっしゃい……」
ちかちかと点滅する陰気な蛍光灯に照らされた血色の悪い唇が動く。一応商売するつもりはあるんだろうか。毎回来るたびにいらっしゃいとは言うし。
でも昼間は気分次第で夜がメイン営業らしいしやっぱりするつもりなさそう。
手当たり次第に集めた怪しいモノを手当たり次第に配置してるんじゃないかとしか思えない棚に囲まれて、棚に入り切らなかっただけなんじゃないかとしか思えない雑に敷かれた絨毯にまで敷き詰められたオカルトグッズ達。
けれどそんな怪しげアイテム達なんて目じゃないくらい怪しさ爆発してるしわっしわの背中の曲がったおばあちゃんが真ん中に座ってるからね。気にもならないよ。
サイケデリックな色彩のどこぞの民族衣装らしき服を着て、おっきなサングラスかけて、髪の毛は紫色のアフロだもん。最初は人間なのかすら疑ったよ。
「……また来たのかい小娘」
「きましたよ」
「冷やかしもいい加減にしてほしいね」
「なんと今日はお客様ですよ。苦節一年。貯金に勤しんでまいりましたとも」
「バカを言いなさんな。一月で小娘が稼げる額じゃなかろうに」
「それが本当に稼いできたんだ。はい」
「……」
まぁ信じられないよね。
「七百枚、ちゃんと数えてくださいな。新聞紙とか入れてないよ」
「確かに。待ってな」
「はいはい」
背筋の曲がりっぷりとは裏腹にきびきびと立って奥の壁に据え付けられたショーケースの鍵を開ける。
「きなさい」
「はいはい」
というか、脚の踏み場ないんだけど。このミイラの手とか踏んでも大丈夫かな? おばあちゃんのほうがよっぽどミイラに見えるし。
「踏むんじゃないよ」
お見通しだったらしい。そろそろとオカルトグッズ達の間をつま先立ちで歩いてショーケースの中身を覗ける位置まで移動する。
「これでいいんだね」
ショーケースの中につっこんだしわしわの手に掴まれたきらきら光る石ころ。
透明に輝く黒い石、大きな黒曜石のネックレス。
「七百万だ。持っていきな」
「お言葉に甘えて」
ああ、やっと手に入ったよ。これさえ手に入ればこんなかび臭いところに用はないのです。さっさとお暇いたしましょう。
「蜜葉、そこに座りなさい」
二駅分歩いてお家に帰ってきたのが二時頃。明日も仕事なのにお父さんは眠そうな様子もなく、落ち着いている。
「うん」
捻くれてる自覚はある私だけど、さすがに時と場合によりますよ。今は真面目なお話をする時間。普通の一軒家の普通のリビングの普通のテーブルにお父さんお母さんと向かい合って腰掛ける。
「母さんからも聞いているし、父さんも何も言わないけれど最近帰りが遅いことは知っている。何か言うことはあるかい」
「ごめんなさい。どうしてもやらないといけないことがあったから」
「やらないといけないこと? 母さんにも言えないようなことなのか?」
「お父さんにもお母さんにも、今日まで言えなかったことだよ。私が二人の子になる前の問題だったから」
とても心配かけたし、とても怒っているんだろう。けれどちゃんと私の話を聞いてくれるから、今まで甘えて黙っていたし、今こうして話すことができる。
「そうか。けどね蜜葉、月並みな言い方だけど、父さんも母さんもお前のことを本当の娘だと思っているし、誰にも負けないくらい大切にしているつもりだよ」
隣に座るもお母さんが泣きそうな顔で頷いている。
「ううん、違うの。二人のことをどう思ってるかって話じゃなくて、その前にあったことを片付けないといけなかったの」
「その前?」
「うん、だから、今からもっととんでもないことを言うけれど、怒らないで最後まで聞いてくれる?」
「わかったよ。聞いたあとで怒らないとは約束できないけどね」
「それで大丈夫だよ」
赤い鬼が手を伸ばす。せめて泣いて喚いてみたくても私の体は全然言うことを聞いてくれない。
それでも神様は私を見放していないらしい。死にそうだ死にそうだと思っても意外と死なないものだ。
壁にめり込んでいた紺色の鬼が破裂した。そう感じたときには目の前の赤い鬼を紺色の溶岩を掴んだ手のひらで殴り飛ばしていた。
今度は赤い鬼が反対の壁にめり込んで、紺色の鬼が目の前に立って私を見下ろす。
手首を交互に掴んでこきこきと鳴らしながら私を見下ろす。さて、今度こそ死んじゃうかな? なんだか少し慣れてきた。
「……いいもんやるから離れてな」
「えっ?」
「生きてたら返しに来い。ほれ」
そう言ってかけていたネックレスを私の首にかけてくる。ぶら下がっていたのは大きな黒い石。何かを言い返す前に肩を掴んで後ろを向かされ、背中を押される。
「あ……っ」
「運がよけりゃまた会えるだろ。お互いにな」
そう、だね。少なくとも私の運はここで尽きてはいないみたいだ。振り返ることもなく走り出す。胸の前で揺れる黒い石が行先を教えてくれる気がした。