黒がしめる
人気のない田舎道を一台の車が走っていた。空は不気味に赤く燃え、墨のような色をした夜がその手を空の端にかけたところである。辺りは無人の畑が広がるばかりで民家はまばらだ。舗装が古くなった道路にタイヤが跳ねて車体が一度大きくぐらつくと、トランクの中に入った荷物ががたんと大きな音を立てる。運転手はその音に肩を震わせ、大きな舌打ちを一つした。その表情は怯えているようにも単に苛立っているようにも見え、しかしその表情を見る者は誰もいない。白い小型車のボディに沈みかけたまん丸な夕日が反射する。
車を運転しているのは一人の男であった。彼は異様に目を見開いた状態でハンドルを強く握りしめ、やや前傾姿勢で車を運転していた。歳のころは三十から四十代といったところだろうか、太りもせず痩せもせず、いたって健康的な男である。白地に薄水色の細かいストライプが入ったワイシャツと折り目のない鼠色のスーツのズボンを穿いている。助手席にはスーツのジャケットが畳まれもせず放置されており、男の乱暴な運転のせいで今にも座席の下に落ちそうになってた。履き古された黒い革靴がアクセルをぐいと踏めば車はまたエンジン音を上げて加速する。時速六十キロを優に超える速度でその車は山の方へと走っていくのであった。
車が止まったのは山の中腹に差し掛かったあたりだった。そこは丁度袋小路のようになっていて、そこから先は徒歩でないと進めない。鬱蒼と茂る樹木が車の上に覆いかぶさって、月から彼らの影を隠している。栄養の乏しい湿った地面に数センチ沈みこんだタイヤは闇に溶け、夜によって薄灰色に塗り替えられた車体だけが闇の中にぼんやりと浮かんでいた。男は車から降りるとトランクの方へ向かい、一つ深呼吸をしてからその扉を開く。トランクの中には手足と口をガムテープで拘束された小学校中学年程度の女児がこちらを向いて転がされていた。女児はぐったりとその身体を横たえ、小麦色に焼けた肌に貼られた一枚のばんそうこうが日常の名残としてひどく痛々しく感じられる。男は彼女が気を失っていることを確認するとその身体を抱え地面に下した。季節外れの虫の声が遠くから聞こえてくる。さあ、と生ぬるい風が二人の間をすり抜けていく。
男は一度車内に戻ると細く白いロープを手に戻ってきた。しみができ骨ばった手には繊細過ぎるようにも見える白いロープを、男は不器用に女児の首に巻いていく。一周、二周と巻き終わると、彼はロープの端と端を両手で持って思い切り引っ張った。急激にかけられた負荷に跳ね起き暴れる少女の腹に馬乗りになり、男は力の限りロープを引く。細い足は地面と男の背を交互に叩き、起伏の少ない身体は芋虫のように捩じられ、少女は男の支配から逃れようと必死になった。日焼けした首に食い込む白いロープに段々と呼吸を奪われながら彼女は枯れた喉で助けを乞う。ガムテープの口枷のせいでその言葉は咳となって地面に吸い込まれていくのみであった。男の額からぼたりと落ちた脂汗が土に染みて消えていく。やがて少女の動きは緩慢になり、完全に停止した。
口を閉じることも忘れて男は必死に息をしている。やがてはっと思い出したように車の後部座席の扉を開け上半身を突っ込むと、長さ一メートルほどのシャベルを取り出してきた。少女を殺害した場所から少し離れたあたりの地面を靴で二度三度確かめ、男は柔らかい土にシャベルを突き立てた。辺りはもうすっかり暗くなっていて、もはや生ぬるい風さえも吹いてはいなかった。木々の葉の隙間から見える夜空に星はまばらで、それを拾い集める者も誰もいない。今日の月は半月であり、雲が一瞬さっと晴れれば月の横顔が男の罪をありありと照らし出した。運動慣れしていない男の息は既にあがっており、背筋を這うようなねっとりとした呼吸音が夜の林を冒している。
穴が男の求めるものの半分程度の大きさに達した頃だ、男は背後から漂ってくる異臭に気が付いた。彼は汗をかいていたが、明らかにその臭いではない酸味のある臭いがしたのだ。穴を掘る手を止めて振り返った彼が見たのは闇のただなかに浮かぶ二つの目であった。その目は生気のない冷たい黒色をしており、男の震える瞳を見ているようで見ていない。焦点が合う場所はどこにもなく、そのせいで異様な雰囲気を醸し出していた。男はシャベルを投げ出してしりもちをついた。掘っていた穴に足を取られ彼は少々派手に転ぶ。それを見下ろす二つの目は土気色の肌に張り付いており、その肌も瞳と同じく正者の気配は感じられない。男の目の前に立っていたのはつい数十分前に殺害したはずの少女であった。
彼女は童特有の細い手をだらりと下げ、それを前後に不規則に揺らしながら男に近づいてきた。男が後ずさるとそれと同じだけ彼女も距離を詰めてくる。その首には男が巻いた白いロープがネックレスのように垂れ下がっていた。彼女は口からタールのごとき黒い粘質の物体を垂れ流しながら男に迫ってきて、その表情に人間らしい感情の動きは認められなかった。口の周りには剥がしきれていないガムテープが残っており、その端は酸で溶かされたようにいびつな形をしている。地面に落ちた粘液は黒いしみを残して土に吸収されており、その黒さは月明かりの弱いこの林においてもなぜかくっきりと見えた。男はシャベルを使って少女をけん制するが、彼女の歩みは止まる気配は感じられない。後ずさる男とゆっくり近づいてくる少女だったものの攻防は一瞬であったが、男には数十分の出来事のように感じられた。少女は男に怯むことはせず、しかも一歩男に近づくごとに大きくなっている。やがて彼女の死人の肌が指先から泡立つような音を立てて黒い粘液に変わってゆくのを男は目にした。
男はもつれる脚に鞭打って穴から這い出すと少女を突き飛ばして車の方へ駈け出さんとした。彼の計画はすっかり狂わされてしまったのである。この後彼女の両親に電話をかけ金を要求するつもりであったが、そんな気持ちはすっかり失せてしまっていた。しかし逃げようという一心で悲鳴とともに突き出された彼の腕は少女の肩に吸い込まれ、少女を押し出すことはできない。彼は絶望したような驚いたような間の抜けた表情で少女を巻き込み地に倒れこんだ。倒れた男の体中にあの黒い粘液がまとわりつき、彼が手を振って振り払おうとしても離れはしない。一方肩を大きくえぐられた少女はその形を保っていられなくなり、粘着質な耳に残る音を立ててその場に崩れ落ちる。泥沼で足搔くように男は手足を動かして彼女から逃れようとするが、粘液は意思を持っているかのように彼にまとわりついてその行動を阻害した。
黒い粘液は彼の口にを冒す。妙につるりとした、それでいてにちゃにちゃと粘つく感覚が彼の口内を蹂躙する。その粘液は歯の一本一本、舌の裏まで念入りに確かめるように舐め上げていった。内臓が鳥肌を立てるような嫌悪感が喉の奥から這い上がり、彼は思わずえずいた。歯茎の形をなぞるその粘液をはがそうと男は口内に自らの大きな手を突っ込んで掻き出そうとするが、それは爪により頬の肉を傷つけただけの結果に終わる。もはや逃げ出すことも忘れて男は粘液をはがすのに必死になっていた。そのせいだ、少女が立ち上がり彼の顔に手を伸ばしたのに気が付けなかったのは。
その手はすでに黒い粘液と区別がつかなかった。手は彼の顔に触れた瞬間溶け、重力に従って皮膚を伝い始める。鼓膜にぐじゅぐじゅと泥を詰め込まれ棒でかき回されたような音が響いて止まらず、鼻を通じて喉を焼く粘液に胃の中身を吐き出せば、吐しゃ物は粘液と混ざり合ってシャツと素肌の隙間に滴った。男は残された視界で助けを探し、手に取ったシャベルで自らの顔面をひっかき始める。哀れな抵抗は額をはじめとした顔中に傷を作り、そこから噴き出た血を粘液たちはうまそうに啜った。やがて粘液は男の眼球さえも冒し、彼の視界はただの闇と落ちる。暗鬱たる景色の中で彼は自らの気道がゆっくりと狭められていることに気が付いた。恐る恐る首に手を当てれば、そこには細いものが数周巻き付いている。それは苛立つほど緩慢な速度で彼の喉を締め上げ、そこに立てられる爪など何の意味もない。やがて男は息苦しさを感じ始め、口は酸素を求めて陸上の魚のようにぱくぱくと動かされる。するとそこにすかさず粘液が入り込み、外と中から呼吸を奪わんとする。頭は鈍くなってゆき、ある一点を過ぎると男は快楽さえ感じるようになった。声が出せるのであれば彼は奇声にも似た笑い声をあげていたに違いない。
あとに残されたのは黒い粘着質の物体が蠢く闇だけであった。