才気
赤くなった目で、理沙はマリベルを見つめる。
「姫……私が本当に、寺山さんのお金を盗んだって、思ってる?」
「まさか。あなたが盗みを働くはずがない。そうでしょう?」
騒動を収めたマリベルは、理沙を連れて職員室に戻った。染谷と三郎もそうだが、目撃者として劉も同行を求められ、トラブルに至った経緯を聞きだしていた。
職員室と隣接している校長室にて、ひとつの革張りのソファにマリベルと理沙は腰を下ろし、その真向かいには染谷と劉が座った。部屋の隅には無表情な三郎が控えている。
「わたしがあなたに調理と給仕の仕事を頼んでいるのは、火の扱いと食中毒に細心の注意を払う慎重な性格だからよ。あなたほど慎重な人が二十万円もの大金を任されたのなら、絶対にミスはしない。それに『換金のために渡されたチップを横領する』なんていう計画性のない犯行をするはずがない。今回のあなたには過失も故意もないわ。……そのどちらかがあったとすれば寺山さんのほうね」
「だったら、どうしてあの人に謝ったりしたのよ。お詫びまで渡して帰して……」
「仕方ないわ。監視カメラの死角を突かれたし、寺山さんは認めないでしょう。ほかのお客様から証言が出てこなかった以上、立場が弱いのはわたしたちのほうよ」
話を聞いていた劉が、腕を組んで頷いている。
「ゲームチップの受け渡しがなかったことはちゃんと見ていただろうに、あそこにいた大人たちは気弱で腰抜けだ。本当に理沙ちゃんが気の毒だよ」
「劉さんはいかがです? しばらくゲームを観戦なさっていたようでしたが……」
「残念ながら理沙ちゃんとは入れ違いで、ふたりのやり取りは見ていない。もちろんあの男の言いがかりだとは思うが、情で不確かな証言はできない」
申し訳ないが、と劉は残念そうに眉根を寄せる。マリベルは、いいえ、と首を振った。
「リサ、あなたは悪くないわ。辛い思いをさせてしまってごめんなさい。わたしに免じて今日のところは我慢してくれる?」
「……姫が、そうしてほしいのなら……」
「ありがとう。保健室で休んできて。持ち場に戻るのはそれからでいいわ」
マリベルに見送られ、理沙は校長室を出た。
「さて、わたしも、もういいかな?」
「お手数をおかけしました」
ソファから立ち上がった劉に、マリベルは深く頭を下げる。
「劉さんに寺山さんを止めていただけなければ、リサが怪我をしていたかもしれません。是非ともお礼をさせてください」
「いやいや、結構だよ」
「ウィスキーはお好きですか? よろしければ父に頼んでご自宅にお送りしますが……」
「その言葉だけで、十分な礼として受け取らせてもらうよ」
それでは、と言って、劉は校長室から去っていった。
あとにはマリベルと、傍観していた染谷と三郎が残された。
「染谷先生、どう思いますか?」
「何のこと?」
「劉さんについて。案の定、自宅の住所は教えてもらえなかったわけですが……」
この子は恐ろしいな、と染谷は思った。
「勘だけど、大人物の雰囲気があるよ。少なくとも寺山という人よりも器量が大きい」
「同感です。比べるのが失礼なくらいです」
「揉め事にもまったく動じていなかった」
「中華料理店の経営者という、庶民に親近感のある生業に従事しているようには見えませんね」
きみに庶民の感覚がわかるのか、と染谷は笑いたくなった。
「やはり劉さんには調査が必要です」
すとんと、マリベルは染谷の隣に小さな腰を下ろした。
「さて、染谷先生。わたしのクレーム処理は、いかがでしたか?」
「……迅速で柔軟で、あらゆる方面へのフォローを忘れない、的確な対応だったと思うよ」
それをやってのけたのが十二歳の子供だということを、隣にいても忘れそうになる。
「ただし、『きみになら安心して任せられる。大いに励みたまえ』とは、ならない。そこは変わらない。きみは何らかの信念でこのカジノを運営しているのだろうけど、僕も自分の信念を曲げられない。いつか取り返しのつかないことになる前に、このカジノを畳むべきだ」
「であれば……警察に通報なさいますか?」
「それは最後の手段だ。できれば避けたい。……だけど、未来ある子供たちを守るためなら、僕は保身など考えずに、ここにあるすべてを台無しにしてぶち壊すと思っていてくれ」
「了解しました」
マリベルはにっこりと笑った。
きっとこの少女は、たった今線引きをしたに違いない。「よっぽどのことが起こらない限り、染谷は警察に通報しない」と。
そして、マリベルはこうも考えている違いない。「わたしがいる限り、そんなトラブルは起こさせない」と。
自信に満ちた輝きを放つ琥珀色の瞳が、それを物語っていた。
「それともうひとつ」
「なんでしょう」
「期待されているのかもしれないが、僕は賭け事を一切やらない主義だ。ここの客にはならない。だから、普段のように敬語は使わないでほしい」
「……染谷先生がそうしてほしいのなら、そうするわ」
―――その後、カジノクラブ〈セルバトス〉は大きなトラブルもなく、夜が明けると客は帰っていった。