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CERVATOS  作者: 春戸 稲郎
四月
7/66

唯一の価値


 マリベル・エスコバルには三人の護衛がいる。授業のある平日にはその内の誰かが彼女のそばに控え、付かず離れず警護している。マリベルの同級生にとっては顔なじみといったほどで、成人している染谷のほうが仕事中の彼らに対して緊張してしまう。

 彼ら三人の共通点は、全員がドルミデーリャ共和国の人間であるということと、雇い主以外に対しては寡黙にして無表情であることと―――日本風のあだ名が付けられていることだ。

 動物の毛並みを思わせる栗色の長い髪を持つ褐色の肌の女は、職員室に入ってくると、一枚の資料をマリベルに差し出しつつ、スペイン語で何事かを伝えていた。

 言葉はわからなかったが、少女が何かを命令したことが染谷にもわかった。栗色の髪の女は頷きを残して職員室を出て行った。

 彼女の豊満な尻に目が奪われそうになった染谷に、

「美人でしょう?」

 と、マリベルが話しかけてくる。

「え、あ、まぁ、そうだね」

 油断も隙もない―――というより、油断も隙も見せてはならない少女だと、染谷は羞恥を噛み殺しながら認識を改めた。

「名前は……」

(イネ)と呼んでいます」

「本名は?」

「イネスといいます。……お望みでしたら改めて紹介しましょうか?」

 手の中の資料から顔を上げ、意味ありげに笑うマリベルに、染谷は首を振った。

「本名で呼びたいだけだよ。子供たちとは立場が違うから」

「三郎の本名はパブロ。権左はゴンサロです」

「ありがとう。ところで、イネスさんと何を話していたの?」

 話題を逸らすために尋ねてみた。マリベルは年齢にそぐわない思案顔を作る。

「すっきりしない案件を抱えていまして……ルナ?」

 マリベルが室内に呼びかけると、「はーい。なにー?」と返事が。

「劉さんは来てる?」

「いるよー。二階の麻雀ルームで立ち見しはじめたところー」

「『立ち見はご遠慮できますか?』って、ちょっとお願いしてきてくれる?」

「んー? わかったー」

 指令を受けた女子が席を立ち、職員室を出ていった。

 染谷は少しだけ声量を抑えた。

「その人が、何か問題があるの?」

 マリベルの指示から推測すれば、そういうことになる。

「中村さんと比べたら問題というほどでも。むしろ紳士的で身なりも立派で、いつもきれいに遊ばれています。……ただ、素性がはっきりしないのです。だから様子を探らせに」

 そう言ってマリベルは、紙一枚の資料を染谷に見せた。恐らくはスペイン語であるらしい文面は判読できず、わかるのは端正な目鼻立ちの顔写真だけだった。

「本人は横浜で中華料理店を経営しているとおっしゃっていますが、雰囲気はカタギではありません。稲を通じて大使館で調べさせましたが、わかったのは劉という名前が偽名であるということだけでした。どうにも腑に落ちないので、また草の根から調べてもらっています」

 どのように調べているか、などは染谷の想像の範疇外にある。だがきっと、一般人では不可能な調査方法なのだろう。そしてそんな調査によっても身元を割り出せずにいるということが、マリベルを悩ませるくらいには異常であるということが染谷にも想像できた。

「危険な人かい?」

「まだなんとも」

「その疑いがある?」

「疑いだけなら」

「……マリベル。僕にはやっぱり、〈見守る〉という選択は受け容れられない」

 染谷は湯飲みを机に置く。第二ラウンドの始まりだった。

「きみたちを守るためには、見守るだけじゃ足りない」

「それでは、警察に通報なさいますか?」

「通報は……できることなら、したくない」

 冷静になってみると、自分の保身以外で警察沙汰を回避すべき理由に気付けた。

「このカジノに警察が踏み込んできたとしても、運営を担っているきみたちは少年法に守られて実刑を逃れられるだろう。しかし記録には残る。もしもこのカジノの中に、たとえば警察官になりたいと考えている子がいれば、その展望が閉ざされてしまうかもしれない」

「なるほど」

「そうでなくとも将来に悪い影響があるかも……いや、きっとある。就職に影響したり、賭博に溺れたり、きみの真似をして非合法のカジノの開帳に手を出したりするかもしれない」

 警察に頼るのは最終非常手段。染谷はなんとしてでも、マリベルの口から「やめます」と言わせなければならなかった。

「今このときに限ったって十分に危険だ。得体の知れない人間も紛れ込んでいる。いつか深刻な犯罪に巻き込まれて取り返しの付かないことになるかもしれない。……まだ間に合う。すぐにではなくてもいいから、この営みを平和的に畳んで、普通の子供の生活に帰りなさい」

 人は生きていくうちに、様々な可能性と展望を潰していく。選択の中で切り捨てていく。それが人生だと割り切れるほどに染谷は達観しているわけでもなかったが、少なくとも自分よりも多いはずの子供たちの可能性と展望を守りたかった。

 染谷の説得に、マリベルはしばらく黙った。きっと反論を考えているのだろうと、染谷は深い期待をしていない。いくらでも時間をかけて説き伏せるつもりだった。

「……すべての……」

 しかし、マリベルの口から零れ落ちてきた持論に、今度は染谷が考える番となる。

「世の中のすべての挑戦と実践には、リスクとリターン、メリットとデメリットが存在します。好きか嫌いか、できるかできないか、あるいは当為(ゾルレン)の有無も関わってくるでしょう。……そのすべてにおいて、わたしには『ある』と言えます」

 猛禽の雛のような琥珀色の瞳に、純粋な力強さと、矜持と自信が輝く。

「わたしは望み、それを成し得ます。すべきであるとも確信しています。……この国で安全に、善良に育ってこられた染谷先生にはわかっていただけないかもしれませんが、リスクとデメリットを考慮してもなお、時に犯罪が唯一の価値を持つことも、あるのです」


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