十二歳の〈人生最後〉
翌日―――七月の第一日曜日。
「……先生。染谷先生」
「ふぬっ」
誰かに揺り起こされてみると、染谷は、光の差し込む、旧校舎の校長室にいた。
いつの間に寝ていたのか、いつの間に毛布をかけられていたのか。
そして、いつの間にそこにいたのか、マリベルが、ソファに寝そべる染谷の頭の上から、逆さまに彼の顔を覗き込んでいた。
夜のように黒いマリベルの髪が染谷の顔に垂れてくる。
「おはよう、染谷先生」
「……ああ、おはよう、マリベル」
染谷は目を擦りながら、ゆっくりと起き上がった。
「おかえりなさい」
「ただいま。待っててくれてありがとう」
「うん」
乱れた髪をかきあげて腕時計に目を落とす染谷の隣に、ぽすんとマリベルは腰を下ろした。
「ありゃ、もう二時か」
「お寝坊さんね。もうミーティングも終わっちゃったわよ?」
「それなら、みんなには、もう会ってきたんだね?」
「いろいろと情報交換したわ。今後のことも少し話し合った」
「今後のこと……というと?」
校長室の隅には稲が立っていて、同じソファで会話をするふたりを見つめている。
「わたしは来週の土曜日に、もう一度あの刑事さんに事情聴取されるの。だから来週の営業日にはこうしましょう、みたいな」
「……そう。……ちょっと期待したよ。てっきり年貢の納め時を覚悟してくれたものかとね」
「それも考えなかったわけじゃないけれど、刑事さんの話を聞いているうちに、思っている以上に事態が複雑で、わたしたちにとって都合がいいことがわかったわ」
「どういうことだい?……昨晩はあの刑事さんと、どこでどんな話を?」
染谷の質問に、マリベルは顎に指を当てる。
「わたしが昨晩連れて行かれたのは、山の麓のビジネスホテルだったわ」
「ホテル? 警察署じゃなく?」
「あちらの都合上、どうしてもまだ非公式という立場を取るしかないみたい。……どうにもね、わたしや先生以上に、警察のほうが警察沙汰にしたくないみたいなの。きっと、事件にするとあらゆる意味でややこしいからだわ」
染谷にもわからないではない話だった。いかにドルミデーリャが小国とはいえ、マリベル・エスコバルは現大統領の直系の親族であり、駐日外交官の娘、それも未成年者だ。染谷には想像するしかないが、〈セルバトス〉を摘発した場合、マリベルを拘束しようとするだけで、日本人を逮捕するよりも煩雑な手続きを踏まなければならないのかもしれない。
そして問題はマリベルだけにとどまらない。
「事情聴取といっても、あらかたのことは昨晩の十時までに終わったわ。そのあと刑事さんはホテルを出て行って、わたしと稲はその部屋で休んだ。……で、明けて今日の午前九時にまた刑事さんがやってきて、今度はみっちりお説教の時間というわけ」
岩下という刑事は、法律やら道徳やら、様々な視点でマリベルの賭博開帳を咎めたという。
「そこまでして〈セルバトス〉の営業をやめさせたいということは、あちらから〈セルバトス〉を摘発できない、と言っているようなものね。すぐにぴんと来たわ」
カジノクラブ〈セルバトス〉の運営に関わっているのは全員が小学生である。これが発覚すれば未曾有の大事件、未曾有の少年犯罪だ。マスコミも大々的に取り上げる。警察が〈セルバトス〉を摘発したならば、運営に当たっていた数十人の児童のプライバシーを守りつつ、事情聴取などの捜査を進めなければならない―――が、そんな悠長なことをしている間に、カジノ支配人であり事件の中心人物であるマリベル・エスコバルは、本国に逃げ帰ってしまう。一族独裁の続く国の大統領の曾孫だ。日本からの引き渡しの要請にも応じないだろう。
「〈セルバトス〉で別の重犯罪……たとえば、麻薬取引、資金洗浄、人身売買、管理売春なんかが起こっていたら別でしょうけど、うちでは煙草やアルコールの提供さえやっていない。未成年者の深夜労働を除けば、ここで犯されている罪は賭博のみ。メリットのない摘発とその後の処理にかかる甚大な手間を考えたら、万に一つでも、『説得でやめてくれないかな』って期待をするのも当然ね」
「ひとつ気になるんだけど、警察は通報があったから〈セルバトス〉の内情を知っていたのかな? 昨晩の時点でかなり知っていたようだけど」
「通報はなかったはずよ。『違法カジノが開帳されている』なんて通報があったのなら、どんなに面倒でも警察は無視できない。内偵を経て礼状を持って家宅捜索(ガサ入れ)よ。……恐らく、前々から私の動きを怪しいと睨んでいたんでしょうね」
「きみは監視でもされているのかい?」
当然よ、と本当に当たり前のようにマリベルは答えた。
「わたしはいつクーデターが起こるかわからないような国の〈王女〉よ? この学園にいることがいくらお忍びでも、私を重要視している人は情報を掴んでいる。だったら監視や尾行くらいはされてるでしょう。……わたしの勘だけど、『私立のじか学園の違法カジノを水面下で沈静化しろ』というお達しは、県警なんかじゃなく、もっと上のほうからの命令だと思うわ」
「上……って、どこ? 政治家とか?」
「さぁ。興味ない。重要なのは、通報されない限り、警察は事件にしたくないというところね。……染谷先生、これで安心した?」
笑って顔を覗きこんでくるマリベルに、染谷は憂鬱な顔を見せる。
「安心という意味でなら、いっそすべてが終わってしまったほうが、僕はほっとしていただろう。子供たちの心配こそすれ、悩まなくて済んだのだから」
「あら。今日はずいぶんと辛辣なのね」
「〈辛辣〉ではなく〈親切〉と言ってもらいたいな」
顔を上げた染谷は、マリベルの肩を掴んで正面を向かせた。
正面から見たマリベルは、本当に、見た目だけは普通の少女だった。
「マリベル……確かにあの刑事さんは、何らかの事情で動いていたのかもしれない。しかし建前と本音が一致する場合だってある。きっと、きみと〈セルバトス〉の子供たちの犯罪を止めたいと本気で思っている。……あの刑事さんと僕の願いは同じだ。世界でも有数の安全な国で、健やかに成長できる環境で、わざわざ非行の道に逸れていってはダメだ」
マリベルが〈セルバトス〉を営業する目的は三つ。
娯楽の提供、賭博の啓蒙、唯一の価値、だ。
染谷にとっては、しかし、それらがどれほど大きな意味合いを持って天秤の片方の皿に乗ろうとも、もう片方の皿に乗った〈犯罪〉の重さが揺らぐことはない。
「きっときみは絶対に頷かないだろうが、僕は何度だって言う。……きみのやっていることは犯罪だ。子供の生活にあってはならないものだ。……だから、やめなさい」
今までに何度繰り返したかわからない説得だったが、染谷は何度でも言い聞かせるつもりだった。どれほど不毛な水掛け論になったとしても、自分の立場を譲るわけにはいかなかった。
たとえ万に一つの可能性でも、一万回試すまでは気が済まなかった。
しかし、染谷の目の前にいる少女は、少なくとも一万分の一がどの程度の確率なのかを、染谷よりも把握しているだろう。
マリベルは、自分の左肩に乗る染谷の右手に自分の両手を添えて、頬をすり寄せた。
「……わたし、染谷先生のこと、好きよ?」
染谷は表情を変えず、マリベルを見つめる。
「先生みたいに善良で純粋で優しくて、言葉を尽くしてくれる人は、わたしの国ではなかなか見つからない。染谷先生は天使のように貴重で素晴らしいわ」
マリベルは目を閉じ、自分の頬で染谷の指の節の感触を確かめている。
「どうして神様は、染谷先生を、先生としてわたしの前に導いたのかしらね。先生とは別の間柄が良かったわ。……先生の子供になりたい。先生の妹になりたい。……先生の恋人になりたいとも思えるわ。だってとびきり素敵だもの」
琥珀色の瞳を開けたマリベルは、すり寄せていた顔を上げると、両肩に乗っていた染谷の両手を下ろさせた。
「でもね、こうも思えるの。……いつか迎える〈セルバトス〉の終わりを見届けてくれるのなら、やっぱり染谷先生のような善良な人がいいって。先生が先生でいてくれてよかったって」
マリベルの小さな褐色の肌の手が、柔らかく、染谷の両手を包む。
「わたしは染谷先生が大好き。……だから、先生を裏切り続けなければならないことが、本当に心苦しい。いつか見放されてしまうんじゃないかって怖くなるときもあるわ」
「……それでも、やめられない? やめるわけにはいかない?」
マリベルは染谷の手を取ったまま、苦い表情で、こくりと頷く。
「やめることはいつだってできる。そして今はまだ、幕を引く時間ではないわ」
「劇団〈セルバトス〉の千秋楽は、予定どおり三月に来るのかい? それとも警察の乱入でお仕舞いにするつもり?」
「……窮極のところ……どちらでもいいと思ってるわ」
そのときのマリベルの表情に、染谷は、ある種の儚さを見た。
「わたしね、欲張りなの。……わたしがどうにかぎりぎり自由に過ごせる最後の時間を、この国で、表も裏も楽しみ尽くしたいの。普通の小学生としても、闇カジノの支配人としても」
儚いからこそ、少女の瞳の中の揺らめきに、燃え立つ炎が見えた。
「だからわたしも譲れない。……これはわたしの、人生最後のワガママなのだから」




